神のあわれみにすがれ

…ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。…イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」…ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。「…どうか思い出してください。私が、…あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」…ヒゼキヤは大声で泣いた。イザヤがまだ中庭を出ないうちに、…主のことばが彼にあった。「…ヒゼキヤに告げよ。…『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。…あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から…この町を守る。』」…  第二列王記20章1節~7節

ヒゼキヤ王は、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」と、神様から預言者イザヤを通して言われます。病気になって死にかかっていた状況ですから、ある程度覚悟をしてはいたものの、ヒゼキヤ王には残酷な通告であったことは間違いありません。ヒゼキヤ王の周りには、彼の家族や大勢の側近たちが集まっていたでしょう。そのような状況の中でヒゼキヤ王は、家族に遺言を語ったのではなく、側近に対して今後について指示をしたわけでもなく、壁に向かって神に祈ったのです。
もし、ヒゼキヤ王のように余命を伝えられたら、あなたならどうしますか。うろたえてしまい、どうしてよいか分からなくなることが普通ではないかと思います。そして、家族に伝えておくべきこと、しておかなければならいことを考えるけれどパニックに陥ってしまうのではないでしょうか。

1.神に向かって祈る

 「あなたはもうすぐ死ぬ。」と神様から言われたヒゼキヤ王は、神様に向かって祈りました。私たちは、神様からの御言葉は変わることがないと考えてしまうものです。しかし、ヒゼキヤ王はそのように捉えることはなく、壁に向いて、神に向かって祈りました。「私は誠を尽くしてあなたに全き心を持ってあなたの御前を歩んできました。あなたが良いと思われることを、私は全部行なってきました。」と告白し、大声で泣きました。主にあわれみを求めて祈ったのです。
神様は、そんなヒゼキヤ王の祈りに答えてくださいます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。わたしはあなたをいやす。あなたの寿命にもう15年を加えよう。あなたとこの街をアッシリヤの王の手から救い出し、守る」と。

2.神はあわれみ深い方である

ヒゼキヤ王が特別に大きな祝福を頂くことができたのは、ヒゼキヤ王が素晴らしい祈りをしたからでしょうか。そうではありません。神様があわれみ深い御方であるからです。聖書には、「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。(詩篇103:8)」と書かれています。ヒゼキヤ王は余命を宣告されながら、主にあわれみを求めて祈りました。そんな彼に、神様は15年の命の猶予という大きな恵みを与え、彼の祈りによって、神様は御心を変えてくださったのです。私たちは、神様に向かってあわれみを求めて祈り、あわれみ深い神様に助けを求めていきましょう。
また聖書には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌3:22)」ともあります。これは、神様からの私たちに対する約束です。尽きることのない神様の恵みの中に今、私たちは間違いなく生かされていることを感謝しましょう。
私たちは神様のあわれみにすがって歩み、今年の教会テーマ「A Season of Blessings! A Day of Salvation! 主キリストによる恵みと救いを実体験しよう!」のもと、恵みを実体験していきましょう。私たちをあわれみ、恵みを与えてくださる方は神様しかおられません。今年も神様のあわれみを求めていく者でありましょう。

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キリストの御名によるいやしを体験しよう

…生まれつき足のきかない男が…ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは…その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、…まっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。           使徒の働き3章1節~8節

2020年のテーマは、「A Season of Blessings!A Day of Salvation! 主キリストによる恵みと救いを実体験しよう!」です。信仰生活は、過去を振り返っていつまでもくよくよしたり、不安や心配を明日に引きずったりする生き方とは違います。私たちは、今という瞬間に、主キリストの恵みを体験していきたいと思います。
イエス・キリストは、神が人となられたお方です。神の御姿の現れであるお方なのに、その栄光を捨てることができないとは考えないで、すべてを捨てて人となり奴隷の姿にまでなってくださいました。そればかりか、私たちの罪をすべて背負って十字架の上で私たちの身代わりとなって死んでくださいました。救い主キリストの愛がどれほど素晴らしいものであるか、もう一度確認し、インマヌエルの主としていつも私たちと共にいてくださり導いてくださるお方であることを、感謝しましょう。
今日は、いやしの礼拝です。イエス様が天に昇られる前の最後の説教であるマルコ16章15~18節には、信じる者にはしるしが伴い、病人に手を置けば病人はいやされる、とあります。私たちがイエス様を信じ、キリストの証人として、主が共におられる人生のすばらしさを実体験して歩むならば、いやしの御業もまた、私たちに現されるのです。
今日読んだ聖書箇所の直前の使徒2章を開くと、聖霊降臨、教会の誕生という出来事を通して、使徒たちにクリスチャンとしての信仰がはっきりと与えられたことが記されています。そして3章は、ペテロとヨハネが生まれつき足の悪い物乞いの男に出会い、イエス・キリストの御名によるいやしを与えて、その男に劇的な変化をもたらすという記事です。主は確かに、信じる者に素晴らしい信仰のしるしをお与えになりました。この箇所で強調されていることは、ペテロやヨハネには何もなかったことです。金銀はなく(6節)、無学で無教養(使徒4章13節)でした。しかし、そんな彼らでも持っていたものが3つあります。

1.イエス・キリストの名

彼らは、お金や肩書、影響力などは何もありませんでした。ですが、イエス・キリストが救い主であり、十字架の贖い主であり、よみがえりの主であることを知っていました。

2.イエス・キリストの名を信じる信仰

彼らは、イエス様の名が、神の恵みをもたらす御名であると受け入れ、信じていました。

3.イエス・キリストと共にいた事実

その彼らがイエス・キリストの御名よって祈れば、聖霊の力によって、生まれつき歩いたことのない男が飛び上がるほどに力強いいやしのしるしが起こりました。今日の礼拝にも、聖霊を通してイエス様は私たちと共にいてくださいます。
救い主が共におられることの恵みや救いの力、いやしの祝福を感謝しましょう。2020年のあなたの歩みの上にも、主イエス・キリストの御名による祝福を願い求めてまいりましょう。恵みが与えられ、救い主であるお方からまさに「救い」と呼ぶのにふさわしく私たちの人生を劇的に変えていただいて、罪の力や悪の呪いからの解放、永遠の命が与えられる喜びを実体験したいと思います。

 

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けじめの時に感謝をささげよう

…「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。…主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。…「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。…大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」                      イザヤ書12章1節~6節

日本では、12月25日が終わると一晩で一挙に年末年始のモードになります。しかし、クリスチャンである私たちは、神が人となって生まれてくださったことをお祝いするクリスマスが、神の救いの御業の始まりであるということを忘れてはいけません。クリスマスから、新たな一年が始まるのです。
今日は2019年の締めくくりの礼拝です。日本人は、心の持ち方として「けじめ」を大切にします。私たちも、いつ始まっていつ終わったか分からないような中途半端な姿勢ではなく、タイミングや場面をわきまえて、けじめある姿勢を持ちたいものです。しかし最近は、正月の過ごし方や普段の生活習慣も、けじめの時の感覚が弱くなっているような気がします。私たちの命の歩みは、神様から与えられた大きな恵みです。一年を締めくくり、また新しい一年を迎えるために、神様に向かって感謝したいと思います。
イザヤ書12章は、紀元前8世紀ごろに、預言者イザヤによって語られた神様の御言葉が記されています。当時の時代背景はというと、周辺の大国との戦争が絶えず、自然災害や病気や事故によって亡くなる人が、今とは比べものにならないほど多く、貧しさや飢えによる苦しみと悲しみは、計り知れないものがありました。しかし、イスラエルの人々は、声をあげて神様に向かって歌いました。歌を通して神様に祈ったのです。詩篇の中でも、預言者は「苦しい時、辛い時、戦わなくてはいけない時、死の恐怖にさいなまれた時、声をあげて歌いなさい」と言っています。一年を締めくくるにあたって、2つのことを確認しましょう。

1.私は神様に向かって感謝します

人生に起こる出来事は、楽しいことばかりではありません。神様からの怒りや裁きや警告なのか、厳しい事態を体験することもあります。しかし、イザヤはその中で神様こそが私の力であり、ほめ歌だと人々に宣言しています。一年を振り返り、楽しいことは、その恵みを数え、苦しいことは、そこから神様からの教訓を学び、いつも共にいて助けられ守られていることがわかりましたと、心から感謝する者でありたいと思います。

2.周りのみんなと一緒に感謝します

クリスチャンである私たちは、不平不満を持ったり、非難によって人を攻撃したりするのではなく、家族や友人や教会の兄弟姉妹を巻き込んで、神様に向かって一緒に感謝し、いつも喜び合う者でありたいと思います。
イザヤの時代は、人々は不信仰で物分かりが悪く、戦争は続き、国の代表者である王の信仰は、不安定なものでした。そんな悲しみが溢れる厳しい時代でしたが、イザヤは、けじめの時には感謝することが基本だと強く人々に語りました。ここで注目して欲しいのは、「あなたがたは喜びながら 救いの泉から水を汲む」という3節のお言葉です。感謝する信仰者の歩みとは、たとえどんなことがあっても、神様の恵みから離れない者となることです。いつも神の救いの泉から流れる恵みをいただく者でありましょう。
一年の締めくくりのけじめの時に、私たち自身も、また周りのみんなとも一緒に感謝して、喜びを分かち合う者となりましょう。

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神の賜物による恵みと信仰

…羊飼いたちが…羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、…言った。「…きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。…」
イエスが…お生まれになったとき、見よ、東方の博士たちが…出かけた。…星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。…その家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。…
          ルカの福音書2章8節~14節、マタイの福音書2章1節~12節
                            エペソ人への手紙2章8節

クリスマス、おめでとうございます。この礼拝をご一緒に守ることができることを感謝します。
皆さん、クリスマスとは、何の日のことですか?「Christ(キリスト)」「mas(礼拝・祭り)」。そう、イエス・キリストの誕生をお祝いし、礼拝するのが、クリスマス。神の御子であるイエス様が、人となってこの地上に現れてくださったことは、人類の歴史の中で起こった最大の奇跡と言っていいほど、素晴らしい出来事でした。そして、2000年の間、クリスマスの喜びは廃れることなく、全世界に広がって祝われています。
聖書には、初めてイエス・キリストと出会った人々として、2つのグループの人々が描かれています。羊飼いと、博士です。彼らはキリストと出会い、喜びに満たされました。しかしこの2つのグループ、それぞれイエス様と出会い、喜び、礼拝しているのですが、その出会いの方法がずいぶん異なっています。

1.一方的に選ばれた羊飼いたち

その当時、羊飼いとは、いわば、貧しさの極み、身分の最も低い人々でした。まともに住むところもない、文字の読み書きもできないような彼らが、突然、天からの光に照らされました。「今日、あなたがたの救い主がお生まれになった」と。聖書には、彼らがどれほどの信仰を持っていたのかを記していません。貧しく、無価値とも言えるような人々を、神様は一方的に選んでくださり、世界で最初の救い主の誕生の知らせを届けてくださいました。神様は、弱くて足りない、欠陥だらけの私たちを選んでくださり、愛してくださり、関わってくださるお方であることを感謝します。

2.救い主に近づいた博士たち

東方の博士たちは、救い主を探して旅に出ました。その当時、違う民族の土地に入るとき、命の保証はありませんでした。それでも彼らは、救い主に近づこうと、命がけの旅に出たのです。そして、不思議なことが折り重なり、とうとう彼らは救い主と出会います。それはいわば、私たちの信仰の歩みと似ています。
神様を求めて私たちが神様に近づこうとするとき、神様の方から私たちを引き寄せてくださり、私たちは救い主と出会い、救われるのです。私たちは心の中で神様と出会いたい、神様に救って欲しいと求める思いがありながらも、何日も何年も時間を費やしてしまうことがあるかもしれません。しかし、神様を信じて求めるとき、必ず救い主と出会うことができます。神様の導きが豊かに働いて引き寄せてくださったとき、神様に救われるのです。
最後に、エペソ人への手紙のお言葉を読みましょう。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペソ2:8)。このお言葉はまさに、イエス様の誕生の物語のことが語られています。救いを生み出したのは、私たちではありません。救いは神様からの一方的な恵みであり、神様からの偉大な贈り物であるキリストの命が、この地に与えられました。私たちが信仰を働かせてキリストへと近づいていくとき、義と認められ、私たちは救われるのです。この救いの恵みを、自分のものとして受け止めていきましょう。

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神には不可能はないという信仰

…御使いガブリエルが、神から遣わされて…ひとりの処女のところに来た。…名をマリヤといった。御使いは…マリヤに言った。「…あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。…」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。…」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。…神にとって不可能なことは一つもありません。」マリヤは言った。「…おことばどおりこの身になりますように。」…          ルカの福音書1章26~38節

昨日の市民チャリティークリスマスでは、多くの兄弟姉妹が賜物を活かし、喜びを持って奉仕に携わってくださったことを感謝します。このチャリティークリスマスのように、無から有を生み出す可能性が私たちに与えられていることを感謝します。
今日の箇所では、いきなり御使いのガブリエルがマリヤの所に現れて、「妊娠している」という信じ難い内容を告げました。マリヤは動揺して、「そのようなことはあり得ません」と答えましたが、ガブリエルは「聖霊によって、救い主の命が宿っている」と伝え、最後には「神にとって不可能なことは一つもありません」と語りました。この締めくくりの御言葉を、私たちに対する御言葉として受け止めたいと思います。弱さを抱えている私たちですが、その弱さに負けず、「私の信じる神には、どんなことでもできます!」と、信仰を持って告白し、心を強めてまいりましょう。弱さや欠点を抱えている私たちだからこそ、神の約束がいつも与えられていることを思い起こしたいのです。
この物語の中では、「できるか、できないか」、「あり得るか、あり得ないか」、「可能か、不可能か」の対比が続いています。ガブリエルは本当に天使なのか? マリヤが見たのは白昼夢か? 神はいるのか? 妊娠があり得るのか? と。「あり得ない」と返答したマリヤにガブリエルは、「聖霊の力によって」と言い通しました。私たちは、分かれ道に立つことがあります。その時にいつも、闇ではなく光を選び取りましょう。この物語には、3つの柱があります。

1.神が訪れてくださる

神は私たちから遠く離れた存在ではなく、神を愛する私たちのところに、神自らが来てくださることを感謝しましょう。救い主であるイエス様は、常に私たちと共にいてくださるお方です。

2.神はご計画をお持ちである

神は、私たちそれぞれに、人間の想像を超える素晴らしい恵みのご計画をお持ちです。思わず「そんなことは起こり得ない」と言ってしまう私たちを、ご自身のご計画のために豊かに用いてくださいます。

3.神の約束は実現する

恵みのご計画の原動力は、聖霊にあります。神の霊である聖霊の力によって、必ず素晴らしい御業を成させてくださるのです。イエス様を信じる信仰を働かせれば、弱い私たちであっても神の約束が実現することを体験できるのです。
最近、エチオピアのアビー・アハメド首相がノーベル平和賞を受賞しました。彼は43歳と若く、就任から2年も経たない短期間で、素晴らしい成果を生み出しました。何年も続いて、8万人もの命が犠牲となった国境紛争を解決し、政治の腐敗を正し、女性の社会進出を後押しする法案を次々と成立させています。彼は、私たちと同じ聖霊の働きを信じる熱心なクリスチャンです。様々な彼への評価の中で、有名なカトリックの新聞が、「聖霊の働きを信じる人として、不可能は一つもないという信念を持っている」と表現しているのを見て、大変うれしくなりました。
「神にとって不可能なことは一つもありません」という御言葉を信仰を持って受け止めましょう。この恵みの御言葉を信じて行動し、年末年始のどのような状況の中でも、前向きに歩んでまいりましょう。

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生きることはキリスト・死ぬこともまた益!

…私が…恥じることなく…大胆に語って…私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
…キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。…キリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。…自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
       ピリピ人への手紙1章20~21節、ローマ人への手紙6章5節~11節

昨日の広島での集会から、私たちの教会のクリスマス集会「メリエストクリスマス」が始まりました。私たちは、クリスマスのチャンスをとらえて、救い主であるイエス様をお伝えしていきましょう。
先週、アフガニスタンで人道支援に取り組んでおられたクリスチャンである中村哲さんの訃報のニュースが伝えられました。その時、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とパウロが語った言葉が思い出されました。私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じて救いを得たときに、生きることと死ぬことという死生観が、イエス・キリストによって大きく変えられていることを受け止めてほしいと思います。2つのことを確認しておきましょう。

1.クリスチャンとして死ぬこと

生きている私たちの命は、何に繋がれていますか? イエス・キリストに繋がっています。そしてキリストも、死と一つに繋がっているのです。イエス様を信じている者は、イエス・キリストの死に繋がれていて、私たちは罪に対しては死んだ者になるのです。イエス・キリストによって罪に死んだ私たちは、神に対してはキリスト・イエスと共に生きるようになるのです。私たちは、死ぬことへの新しい感覚が与えられていることを感謝しましょう。
イエス様の愛やよみがえりの力、救いを知らない人々は、死ぬことに恐れを抱きます。ですが、クリスチャンとして死ぬことを理解している私たちは、幸いです。このクリスマスに、神のひとり子であるイエス様が天から下って人となられました。そして私たちの罪を背負われて十字架で身代わりの死を遂げられました。イエス様が、私たちの命と繋がってくださることによって私たちの罪が赦され、イエス様の死と繋がれていることによって、死の向こう側に新な永遠の命があることを私たちは知っています。
クリスチャンにとって、死は忌み嫌うものではありません。裁きの座に立ったとしても、イエス様を信じている者は神の子どもとされ、罪が赦され、永遠の命をいただくことができる約束を与えられていることを感謝しましょう。

2.クリスチャンとして生きること

クリスチャンにとって生きるということは、神様から命を与えられた者として生きるということです。自らの人生を通してイエス様を証しし、いつも喜んで生きようではありませんか。神が生きよと言うならば、生きることに大胆であり、恥じたり悔いたりすることなく、精一杯生きて、私たちの存在を通してイエス様の素晴らしさを証ししていく者でありましょう。
そう願うなら、今日の癒しの礼拝の祈り方も、変わってくるでしょう。単に痛みや病から癒されることを求めるレベルではなく、大胆に生きるために元気にしてください!私が毎週教会に通い、賛美し、教会の兄弟姉妹たちと祈り合い、励まし合うことができるように癒してください、と祈ってまいりましょう。
クリスチャンとして大胆に生きるために、癒しを祈っていきましょう。兄弟姉妹、あなたがアフガニスタンに行く必要はないのですよ。私たちに与えられている神様のご計画は、人それぞれ異なるからです。ですが、私たちはキリストのしもべとして力強く生きていくためにも、完全に癒やされ、大胆に証しできる者とされるように祈ってまいりましょう。

 

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神の子キリストが与えてくれるもの

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。…この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
                     ヨハネの福音書1章1~5節、9~13節

いよいよ12月。しかし、一年の終わりを語るにはまだ早すぎます。クリスマスのこの月、愛する方々の癒しや救いの事柄に関わるとき、私たちの幸せの度合いはぐっと引き上げられます。私たちはイエスの証人となり、各地での集会にたくさんの人が集い、愛と恵みが溢れるようにと祈り、行動しましょう。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書はイエスのご生涯を伝えます。ヨハネの福音書が他の福音書と違うのは、イエス・キリストの物語を天地創造の時点から語っていることです。イエスとは、神のことばであり、御子であり、三位一体なる神として天地宇宙を創造した時にその場にまさにおられたお方なのです。神の御子であるキリストがこの世に下り、人となられたことによって、私たちに特別な恵みと祝福がもたらされました。イエスでなければ与えることができないものが与えられていることを感謝し、その特別な恵みに焦点を合わせ、イエスがどのようなお方なのか、学びたいと思います。

1.イエスは命の与え主

私たちは、どんなに努力をしても命を与えたり創り出したりすることはできません。人は、その命を長くすることもできません。人は弱くて儚いものです。そんな私たちにとってなぜ救い主であるイエスとの出会いが大切なのか。それは、このお方が命の与え主であり、このお方に命があるからです。
天地を創造された、すさまじいエネルギーと命に溢れる神を私たちに示すために、イエスはわざわざ人となって現れ、私たちと語り合い、私たちが御業を体験できるようにしてくださいました。イエスには命の根源があり、そこから涸れることのない命の水が溢れています。だからこそ、イエスが行かれる所どこにおいても、そのお言葉によって人々は救われ、どんな病も癒され、どんなに強い悪霊の力からも解放されたのです。イエスと共に歩むと、私たちの存在そのものが豊かにされるのです。

2.イエスは光の与え主

私たちの人生は放っておくと闇に覆われてしまいます。病、失業、破産、満たされない人間関係…。生身の私たちの人生は、光より闇の方が圧倒的に多くなってしまいます。救い主イエスがなぜそれほど素晴らしいのか。それは、このお方こそ闇の中に輝く光となってくださるからです。御言葉通り、闇の力がどうしても勝つことができないのがイエスなのです。小さな豆電球でも、真っ暗闇の中では道しるべになります。イエスは私たちの人生において光となってくださいました。光は最後に必ず勝つのです。光であるイエスを体験できることを感謝しましょう。

3.イエスは神の子どもとなる特権の与え主

イエスはご自分の命を通して、神と私たちを特別な関係で結び付け、永遠の命を約束してくださいました。神とのこの新しい関係に入らせていただけたことを喜びましょう。最近の社会においては、資格や免許を取りたい人が増えています。しかし、最高のものは神の子どもとしての特権です。これを忘れてどうしますか。この特権を与えることができるのは、救い主イエスだけです。
ご一緒にイエスの与えてくださる光、命、神の子どもとしての特権を頂き、その恵みを感謝しましょう。

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新しい生ける道を与えてくださった大祭司

…私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して…新しい生ける道を設けてくださったのです。また…私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、…しっかりと希望を告白し…互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。…かえって励まし合い…ますますそうしようではありませんか。             ヘブル人への手紙10章19節~25節

私たちは、職場であろうと家庭であろうと、そこで感謝を持って過ごすのと、不機嫌でイライラしながら過ごすのとでは、全然結果が違ってきます。私たちが信仰を働かせて生活の場に立つことができるならば、必ず大きな祝福が与えられるのです。
先週も、ヘブル人への手紙7章からメッセージを語りましたが、そこには、イエス様が永遠の大祭司であると表現されています。イエス様の贖いの死によって、私たちは神様に結びつけていただきました。このことを私たちは感謝したいと思います。そしてこの11月の終わり、私たちは感謝ということを常に意識して歩みましょう。今日はこの箇所から2つのことを確認していきたいと思います。

1.主が隔ての垂れ幕を取り除かれた

20節を読んでみましょう。旧約の時代には、幕屋の中の神の臨在がある聖所と至聖所の間には垂れ幕があり、その垂れ幕の向こうには、年に1度大祭司だけが入ることを許されていました。単なる1枚の垂れ幕でありながら、誰も入ってはいけない隔ての垂れ幕であったのでした。十字架の上でイエス様の命が捧げられたとき、清い神様と罪に汚れた私たちを隔てていた神殿の幕が破られたのでした(マルコ15:38ほか参照)。イエス様が私たちの救い主であられるので、神の恵みと私たちの現実を隔てていた幕が破り去られ、私たちは神の恵みの座に大胆に入っていくことができるようになったのです。
隔ての幕を破ることができたのは、罪のない神のひとり子イエス様だけなのです。人間の心にある罪を取り除くために命を捧げられた方は、神が人となられたイエス様以外にはないのです。

2.主が開かれた新しい生きる道を歩む

イエス様が十字架の上で私たちの罪を贖われ、3日目によみがえられたことで、神の命を私たちに示してくださいました。聖書の語る「新しい生ける道」は、人間が用意する地図やナビゲーションには現れない、神様だけが開くことのできる道です。
さあ、クリスチャンとして、信仰の原点に立ち返ろうではありませんか。大祭司なるキリストに導かれて新しい生ける道を歩むために、私たちは信仰を告白し、洗礼を受けました。あなたの毎日の生活を見て、神様にちゃんと近づいていると言えますか? もちろん、神様は私たちがいつも弱さを抱えていることはご存知です。でも、私たちはキリストに似た者でありたいと思うのです。クリスチャンである私たちは、イエス様から約束をいただいています。イエス様は絶対に嘘は言われません。だから私たちは、イエス様から与えられた希望を見失いません。そして、私たちは互いに祈り、励まし合おうではありませんか。
クリスチャンである私たちは、自分のことだけでは終わりません。イエス様が私たちのために命を捧げられたように、私たちの人生も、誰かと命を分かち合っていきましょう。愛を持って家族や友だち、職場の仲間と向き合っていこうではありませんか。
私たちは教会に集まり、生きた礼拝を捧げることを共に励んでまいりたいと思います。それは、イエス様が与えてくださった新しい生ける道を歩んで行く人生です。今週も、私たちは喜び感謝して前進してまいりましょう。

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大祭司キリストの恵み

しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。                     ヘブル人への手紙7章24節~25節

この一週間、感謝すべき事柄について神に感謝しましたか? 素敵な神からの恵みがあったはずなのに、それを感謝しないまま終わってしまうことがありませんように。私もこの一週間を振り返ると、大きな恵みがありました。11月11日~13日に、アンデレ宣教神学院の同窓会、ホームカミングが行われました。出席者全員で分かち合いをしたのですが、全員がとても恵まれ、祝福されたのです。アンデレ宣教神学校は1987年に発足しました。卒業された方々の伝道を通して人々が救われ、永遠の命に導かれる人々が30年にわたり生み出されていることを心から感謝して、神に祈りました。
もし一週間を振り返ってさほど大きな出来事がなかったという方がいらしたとしても、今日この礼拝に集っている私たちは、クリスチャンとして忘れてはいけない、大きな恵みを頂いていることを一緒に感謝したいと思います。それは、主イエスによって与えられる恵みです。イエス様は、十字架で私たちの罪を背負って身代わりに死んでくださったことで、私たちに永遠の命を与えてくださいました。このイエス様が、永遠の大祭司として私たちの罪を贖い、神様の恵みの世界へと私たちを招き入れてくださっていることを、心から感謝しましょう! 救い主であるイエス様が、あなたと共におられます。今日の聖書箇所から、特に2つのことを確認しておきたいと思います。

1.永遠の大祭司主キリストがおられる

旧約聖書の律法によれば、大祭司はたった一人です。大祭司だけが神の臨在に触れることができ、神の御前に立って生け贄を献げ、民の罪の執りなしをしたのでした。しかしイエス様は単なる大祭司ではなく、神の御子としてご自分の命を私たちの罪の贖いのために捧げることにより、私たちを救ってくださいました。人の業では、毎年生け贄が必要でしたが、律法の時代が終わって福音が宣言される御言葉の時代になると、神は御子キリストを大祭司として立ててくださり、御子キリストがご自分の命を捧げることによって十字架の死が決定的なものになり、全ての者の罪が永遠に赦されるという、この永遠の大祭司としての御業が成し遂げられたのです。今日も、大祭司であるイエス様が私たちの執りなし手となって神の恵みへと結びつけてくださっていることを心から感謝しましょう!

2.私たちは完全に救われる

イエス様は、私たち全員を完全に救うことがおできになり、いつも生きて働いておられるのです。永遠の大祭司であるイエス様は、今日、今、ここでも私たちを救い、恵みを与えることのできるお方です。このイエス様の救いの恵みを、今日私たちは確かに頂こうではありませんか! イエス様は、全ての人にとっての救い主です。このお方の救いが、今、人々に与えられることを信じてまいりましょう。ましょう。

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癒し主キリストの御心

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。           マルコの福音書1章40節~42節

イエス様は日々、会堂へ出かけては福音を語り、多くの人々の病を癒し、悪霊から解放していました。その癒しの御業は、イエス様にとって日常でした。このらい病人も、イエス様のお心を求めてやってきました。当時らい病は汚れた病として社会から疎外されており、人と会話をすることさえ許されていませんでした。「お心一つで」の言葉には、イエス様は私を受け入れてくれますか、という意味が含まれていたのでしょう。イエス様は、そんな彼をちゃんと迎え入れてくださいました。らい病人に行なった癒しの場面から、イエス様がされた3つの行動に注目したいと思います。

1.深くあわれんでくださった

イエス様は、いつも私たちに神の愛を向けてくださり、私たちの痛みや苦しみを分かち合い、共に背負ってくださる御方です。イエス様は、らい病からくる痛み、家族と共に暮らすこともかなわず、社会から疎外されていく苦しみや悲しみを持つ彼を深くあわれんでくださいました。イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と語り、すべての痛みを背負ってくださいました。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を身代わりに背負うためです。このことにより、私たちの罪は赦されたのです。イエス様はご自分の命をかけて私たちを愛してくださいました。そこまでしてくださる救い主の愛とあわれみに感謝します。

2.手を伸ばされた

イエス様の御手は、常に私たちに向かって伸ばされ、近づいてくださっているのです。当時誰もが、らい病人とは距離をとって、遠ざけるようにしていました。しかし、イエス様は愛をもって癒しの御手をらい病人に向けて伸ばしてくださったのです。救い主であるイエス様はなんと素晴らしい御方でしょうか。この教会は、一切のものを一切のもので満たすイエス・キリストの満ちている所であって、そのキリストの側から、私たちに近づいてくださるのです。主は遠くに離れてはおられません。イエス・キリストがこの世に来られたのは私たちの内に宿るためであり、私たちとの距離を縮め、近づいてきてくださる方であることを感謝します。

3.触れてくださった

イエス様は、触れることによって私たちと具体的な命の接点を持ってくださる御方であることを心から感謝しましょう。接している、触れていると、その人の命の温かさが伝わるのです。イエス様は触れてくださることによって、私たちに救いと癒しを100%下さいます。そんな愛の交わりをもって、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言って、私たちを癒してくだるのです。らい病人は、近づいてくるイエス様に「いいんですか? 誰も私に触れようとしないのに…」と、躊躇したのではないかと思われます。それでも、イエス様は、らい病人に触れてくださったのです。
私たちの信じる主は、私たちを深くあわれみ、愛し、永遠の命を与えてくださる救い主であり、また癒し主であり、霊的な解放者であるのです。主の御心は、私たちが癒されることです。癒しの御業を求めて祈り、感謝してまいりましょう。ません。この11月、もう一度信仰告白をして、クリスチャンとしての命をいただいて前進してまいりましょう。

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