どう今を生きるか

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。…愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。…私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。…だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。
                     伝道者の書3章1節~22節

空の空、すべては空と始まるこの書は、非常に興味深く、文化人の13%が、聖書の中で一番好きだと答えています。著者はソロモンで、「コレヘト(説教者)の言葉」とも呼ばれる書物です。空(へベル)とは、意味、目的、答えが見つからないことを指していますが、時間的な短さという意味もあります。人の一生は儚く、やがて死という終わりの時がくる宿命だと語り、体験から得た知恵が語られています。人は過去の事は解りますが、未来の事は解りません。だから、未来よりも、今、この時を生きようではないかと、伝道者の書は語りかけます。充実した毎日を歩むために、今をどう生きるか、4つのことを学びましょう。

1.今、なすべき勤めを果たす

どんなに一生懸命働いても、益になるか分からない。だから、労苦することをやめようというのではありません。有名なマタイの6:26~34は、「空の鳥を見なさい」で始まり、「労苦はその日その日に、十分あります」で締めくくられています。神は私たちを、空の鳥、野のゆり以上に養い粧って下さるのです。だからこそ、1日1日の労苦を負わなければなりません。労苦することを厭わないことです。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって、むだでないことを知っているのですから」(第1コリ15:58)。私たちの主にある労苦は、決してむだになりません。今日も労苦を負って生きる者となりましょう。

2.今日を喜んで楽しんで生きよう

せっかく与えられた人生だから、労苦と共に喜び楽しむこともしたいのです。そのための工夫もしましょう。行楽の秋を楽しむのも良いでしょう。優しい言葉かけも良いでしょう。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118:24)。クリスチャンには毎日が縁日、神の恵みの日なのです。この素晴らしい恵みの1日を、喜び楽しみましょう。

3.過去を見つつ今を生き、未来へと向かう

私たちは過去の事を、神の時として振り返り、学ぶことができます。旧約聖書は、神の民イスラエルが神に背を向けても、約束の地カナンに導き入れられた過去の事を、何度も振り返らせています。私たちの過去で何より大切なことは、神が2千年前にイエスをこの世に遣わし、イエスがキリストとして十字架にかかり死んで下さったこと。3日目に甦り、永遠のいのちまで保証して下さっていること。この御方が、私たちと出会って下さった過去です。過去を見つつ、今を生き、未来へと向かっていくのです。

4.神を恐れ、委ねながら今日を生きる

すべての営みの背後には、神の御手があります。背後にある神を恐れて生きることが、本当に信頼し、委ねて生きていくことに繋がります。人を恐れると、神を恐れることができなくなり、主に委ねられない者になってしまいます。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29:25)とあります。主を恐れ、主に委ねていく者でありたいと思います。今日負うべき労苦を厭わず、今を楽しみながら、過去から学び、主を恐れ、主に委ねるなら、神の恵みに満ちあふれた歩みとなります。そんな日々を共に歩いて行きたいと思います。

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キリストにあって一つにされる

ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
             第一コリント人への手紙10章14節~17節

年末に向けて特別献金の封筒をお渡ししました。「クリスマス感謝献金」は、イエス・キリストが私たちの救いのためにお生まれくださったことへの感謝と、クリスマスの伝道のために用いられます。また「牧師感謝献金」は、一年の終わりに牧師たちや教会のスタッフの働きへの感謝と献身生活を支えるために用いられます。心を込めて祈りつつお献げください。
またビル・ウイルソン先生は、銃撃による負傷のため肺からの出血が続く中、世界で毎週メトロの教会学校に通う20万人の子供たち全員にクリスマスプレゼントを渡すための支援を募る講演活動をヨーロッパで続けています。ビル先生のいやしとクリスマスの働きが成功するようお祈りをお願いします。
今日は聖餐式の聖日です。聖餐式は、単なる儀式ではなく、救い主イエス・キリストと私たちの絆そのものです。言葉でのコミュニケーションだけでなく、命と命がつながる何よりも強い関わり合いがイエスとの間に与えられていることを感謝したいと思います。聖餐式がイエスの時代から2000年もの間、守り続けられている三つの大切な意味を確認しましょう。

1.まことの神を礼拝する

パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と言います。近年日本では、ハロウィンが商売がらみのブームとされて大仮装大会になっています。もともと北ヨーロッパの悪霊崇拝の儀式が起源で、キリスト教とは全く関係ありません。人の心を支配して、本当の神ではないものを礼拝させるような悪の力には注意しなければなりません。この世には様々な霊の働きがあります。ごまかされてはいけません。私たちを救うまことの神だけが、私たちが礼拝すべき御方であることを意識しましょう。クリスチャンでも、霊的な部分をうやむやにすると、いただけるはずの神の恵みさえうやむやになってしまいます。

2.神の救いの事実、イエスに結びつく

私たちを救うために十字架にかかって命を捨ててくださった救い主イエス・キリストのからだと血潮の事実を通して、私たちは神の愛と恵みと救いに導かれ、はっきりと神をとらえることができるのです。とらえどころのない中途半端なものではなく、空想や物語の世界でもなく、具体的に私たちを救うためにイエスご自身が十字架にかかって命を捨ててくださったのです。この事実と自分自身が結びつきましょう。

3.神の家族として一つにされる

キリストのからだは一つ。聖餐式でパンとぶとう酒をいただくとき、おひとりのイエスと結びつきます。そして聖餐式にあずかる私たちも神の家族として一つになるのです。キリストのからだなる教会で、様々な個性ある私たちは、体の部位と同じように、その部分だけでは存在できせんが、一つのからだとして結びついて、誰一人として不要な者はないのです。2000年間にわたって聖餐式を守るたびに、私たちは一つの神の家族であり、主にある兄弟姉妹であり、共に歩むという信仰告白を新たにしてきました。
私たちには神が共におられ、「主よ」と親しく呼べるイエスが共におられ、イエスに結びつくときに一つにされ、私たちの居場所が用意されています。この秋の終わりにも、神はとっておきの祝福を備えてくださっています。

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信仰の関係を整えて御霊の実を結ぶ

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
                ガラテヤ人への手紙5章22節~23節

ビル牧師は先日シリアでの教会学校と医療活動を終え、現在は北アイルランドで、火曜からはフランスでの講演が続きますので、続けてお祈りください。特に、クリスマスに今年も20万人の子どもたちへの支援ができ、争いや貧しい地域に住む子どもたちが、キリストの愛で守られるように。そして、負傷された先生が癒され、強められますように。
先日、教会に届けられた自然の秋の実りを味わっていながら、ふと思いました。私たちも実を結ばなくてはいけません。イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです(ヨハネ15:16)。」
私たちは2017年のここまでの歩みの中でどんな実を結んできたでしょうか。良い実を結ぶどころか、悪い実を結んではいませんか? 自らを省み、神の前に心の姿勢を正す者でありたいと思います。
今日の聖書の箇所でパウロは、御霊が働く私たちが必ず結ぶことができる実がある、これらを意識しようと語っています。クリスチャンであるなら、だれの心にもキリストの御霊は働いていて、主を見上げ続けるならばその実を結ぶことができます。どんな難しい律法を守るよりも、神の愛と聖霊の力が働いて私たちの人生の中で生み出されるこれらの実は、神に喜ばれる価値あるものなのです。
御霊の実を実らせるためには、3つの角度から自分の信仰生活を見つめ直す必要があります。

1.神との関わり

愛、喜び、平安、などの御霊の実を見ても、人間の理想や力だけでは生み出せないものであることを私たちは知っています。愛が良いことと知っていても、誓った愛が破られることもあり、愛したはずが憎しみに終わることもあります。ギリシア語で平安と平和は同じ単語です。平和が大切だと分かっていても人間は核兵器を手放せません。神と向き合い、しっかりとした関係を結ぶ時に、本当の愛、喜び、平和を頂くことができるのです。神に対する信仰が忠実に機能しているか、もう一度確認しましょう。

2.周りの人々との関わり

周りの人々に対する愛がおろそかになってはいませんか。寛容、親切、善意、誠実は自分の独り相撲では実現できません。家族や会社の仲間、友達、教会の兄弟姉妹との出会いの中に、寛容、忍耐のある本当の優しさがありますか。善意で事を行っているでしょうか。クリスチャンとして向き合うことを忘れてはいけません。憎んだままでいいですか? 人々との関係の中に、キリストの血が通いますように。

3.自分自身との関わり

自分に、クリスチャンであると信仰告白して、自制の実を結んでいるでしょうか。自分の素直な思いだからといって湧き上がる罪深い欲望やわがままに自分を委ねずに、イエスと共に歩むことです。
神との関係を整え、人々との関係を大切にし、自分自身を偽らずクリスチャンとして歩むことができ、御霊の実を結ぶ者とならせてくださいと祈りましょう。

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恵みの新しい次元へと招かれる主

…「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。…イエスは…彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。         マタイの福音書14章22節~33節

ビル・ウィルソン先生の新刊「無敵の鎧を身にまとえ」が出来上がった日に、ビル先生がシリアの難民キャンプでの働きの最中に、銃撃されたという連絡が入りました。防弾チョッキを着ていましたので、体そのものに銃弾が入ることなく、一命は取り留めました。それでも肋骨が折れ、肺には穴があき、衝撃で倒れた時に頭蓋骨にもヒビが入ったそうです。今はもう退院されて、先生らしく予定の集会を続けていますが、ビル先生の身体が速やかに癒され、これからの活動が守られますようにお祈りください。
今日は、ペテロの水上歩行と呼ばれる箇所から、クリスチャンは、イエスが共におられるからこそ、生身の人間では成すことのできない新しい次元、恵みの世界へと一歩踏み出していけることを学びます。

1.恵みの次元へと招く主に目を向けよう

イエスは、人間の力や限界、人間の理屈をはるかに超える素晴らしい神の恵みの世界へ来なさい、と新しい別の次元へと招いてくださるお方です。クリスチャンにされているのに、自分の理屈や人の言葉でがんじがらめにされた、つまらない世界に閉じこもっていませんか。イエスは、あなたをもっと可能性や夢、喜びのある別の世界へと招いてくださいます。神が働かれる時に、私たちの人生にも自分の理屈を超える恵みが与えられます。そしてイエスは、私たち一人ひとりにも、いつまでもつまらない世界に生きているのではなく、こっちに来なさいと語ってくださるお方であることを感謝しましょう。

2.周囲の状況に恐れる弱さを認める

ペテロは舟から出て水の上に足を踏み出しました。でも激しい風と波の様子を見た瞬間、恐ろしくなり、あっという間に沈んだのです。私たちも同じです。周囲の状況を目の当たりにすると、いつも恐れます。家族の人間関係が難しい時、仕事がうまくいかない、お金のやりくりで絶望する、そういう難しい状況を見るといつも不安になり恐れてしまいます。せっかく神が恵みの世界へ招いてくださったのに、そこに行き着く前に沈んでしまいそうになり、ダメになってしまうような私たちの弱さがあります。強そうに見えるが、実は弱い自分を認めたいと思います。「私を助けてください、あなたの助けなしには溺れてしまいます」、とペテロが思わず水の中に沈み込みながら叫んだように、弱さ足りなさ脆さを胸に抱え込んでいる私たちも、主なる神の助けをいただくべき者であることを素直に認めましょう。

3.弱さの中に信仰成長の伸びしろがある

イエスはペテロにあなたの信仰は弱い、と言いましたが、それは強くなる成長の可能性があったからです。主は私たちの中にも、どんなに弱くても失敗が多くても、可能性や将来の成長を見てくださっています。弱さの中に伸びしろがあるとイエスに教えられて前進していきましょう。ペテロもイエスの恵みに従って、神の祝福のある別次元へと足を踏み入れたのでした。周りの状況ばかりを見て、不安や心配事でいっぱいになるのではなく、イエスに目を向け続けましょう。私たちを招き導いてくださるイエスがそこにいます。弱さを抱えた私たちですが、イエスを見つめ続け、信仰が成長するように、この秋の日にも全力で取り組んでいきましょう。

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火を投げ込むために

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。…(主は言われた。…)「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」       ルカの福音書 3章16節、12章49~50節

全ての栄光をかなぐり捨てて、神が人となられたのは、主イエスがこの世界に来られたのは、何のためでしょう。それは、「地に火を投げ込むため」です。

1.霊的祭壇の火

「その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか」と主が言われた「火」とは、どんな火でしょう。レビ記6章に、ずっと燃やし続け、消してはならない、と命じられている火があります。それは、祭壇の火です。献身や罪のゆるしのために、いけにえをささげ、それを焼き尽くす祭壇の火です。それは元々主から出た火でした。主イエスは、全ての人の罪を身代わりに焼き尽くすために、真のいけにえ、なだめの供え物となって、十字架でいのちをささげ、罪のゆるしときよめの火をこの地に投げ込むために来られたのです。その火が、私たちの内に、教会に、この世界に燃えていますように! 握りしめている罪を手放してささげ、全て焼き尽くし、きよめられましょう!

2.聖霊の火、救いの火

主が十字架で死なれ、三日目によみがえられた後、主が語られていたとおり、この世界に火が投げ込まれました。聖霊の火です。使徒の働き2章、ペンテコステの祭りの日に、主の弟子たちの上に聖霊の火がくだり、心燃やされて神の言葉が語られたときに、人々は自らの罪を示され悔い改めて、1日で3千人が救われ、その救いの火、リバイバルの炎は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで燃え広がって、2千年たっても消えることなく、私たちも救われたのです。その火が私たちの内にさらに燃え上がり、燃え広がりますように! 私たちの家族に、周りの人々に! 全ての罪も不信仰も焼き尽くされて、この国に、全世界に救いの火が燃え広がりますように。

3.愛の火

神の言葉に逆らい続けるこの世界に、神の「ことば」そのものである主が来られたのは、私たち、全ての人の内に、神の御言葉の火を燃やすためです。また、罪と悪魔に負けて支配されている全ての人を、神のもとに取り戻すために、主は来られ、勝利の火をこの世界に投げ込まれたのです。
そして、もう一つ、主が来られたのは、愛の火を投げ込むためです。この世界がまだ知らなかった愛です。大水も消すことのできない、すさまじい愛の炎です。人々が主を憎み十字架にはりつけ殺そうとしても消せなかった愛の火です。主の愛は焼き尽くす火、ねたむほどの愛です。主から離れる者には、「そっちに行くな、わたしに帰れ」と必死で引き戻す、本気の愛です。愛といのちそのものである神から離れて、生きられるはずがないのに、自分で勝手に罪と滅びの中に飛び込んでいく人々を、どうして見捨てられようかと、この世界に飛び込み、私たちの代わりに滅びの火の中に飛び込んでくださった…主の愛、十字架の愛、それは、本気の愛です。その愛の火が、私たちの内にも注がれるとき、私たちも本気の愛で主を愛する、愛さないではおられなくなるのです。主に喜ばれることだけが喜びとなり、もう二度と主を悲しませたくないという愛の中で、全ての罪も不信仰も焼き尽くされていくのです。
主は、この地に火を投げ込むために来られました。その火が今も燃えていますように!

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主の御言葉を受け止めるための心の器

わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。       箴言4章20節~23節

今日読みました箴言の御言葉「私のことばをよく聞け。…あなたの心のうちに保て」と関連して、ヨハネ4章の王室の役人の息子の癒しを見ると、神の御言葉の権威がよくわかります。これを神からの真理、教訓として受け止め、癒しの恵みを体験しましょう。役人は息子が死にかかっていたので、切羽詰まっていました。早く来て癒やして下さいと願い出ます。それに対するイエスの答えは「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」というものでした。イエスは役人の信仰をしるし(奇蹟)に頼る信仰から、「ことば」だけで信じる段階へと導かれます。イエスは彼に「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」と声をかけます。役人はイエスの「ことば」を信じて帰途につきます。その途中、しもべたちと出会い、息子が直ったことを知らされます。直った時刻を聞くと、イエスから「ことば」を受けたのと同じ時刻でした。彼は神のお言葉による癒しを体験したのです。そして、彼だけでなく、家族全員が信じたのです。

1.神の御言葉に着目しよう

キリスト信仰の1番の特徴は、雰囲気や感覚ではなく、神の御言葉を信じる信仰です。天地宇宙が創造された時、神が、「光よ。あれ」と仰せられ、光ができました。神が働かれる時、神は必ず語られるのです。アダムとエバの時代から、アブラハムにもモーセにも、預言者にも、新約のイエスの時代まで、常に、御言葉を下さる神です。「わたしは主、あなたをいやす者である」「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます」「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」。旧約時代から、神の癒しの言葉は変わりません。もう一度、主が私たちを癒して下さる御言葉を胸に刻もうではありませんか。神の御言葉には、力があり、いのちと癒しがあります。神が語られたことは、そのまま実現します。

2.御言葉を受け止める心の器を整える

神の御言葉を受け止める器として、信仰の心を整えましょう。「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」とあります。心で信じることが大切です。主が求めるのは、預言者サムエルがサウルに語ったように、神の前にへりくだり、悔い改めた純粋な心です。私は罪人で、あなたに愛される資格のない者ですが、神の恵みを内側にいただきます、と神の御言葉を受け止めようではありませんか。

3.御言葉は癒し、全身を健やかにする

イエスを信じる信仰の醍醐味は、神の御言葉が語られ、私たちが信仰の器で受け止めるならば、語られた御言葉の通りに、現実の世界に神の恵みの御業が現されることです。病気の症状が癒されるばかりか、あなたのいのちも、あなたに関わる人々も含めて、いのち全体が祝福され、喜びと健康と平安が溢れ出てきます。
信仰のからくりはシンプルです。語りかけられる神の御言葉があり、受け止める信仰の器をちゃんと準備する。そうするならば、あなたが恵みを受け、あなたの人生全体が救われ、祝福され、あなたの周りの人々まで、神の恵みが及びます。この基本に立ち返り、癒されてまいりましょう。

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キリストによる救いの事実

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
                  ヨハネの手紙第一4章9節~10節

10月の初日に礼拝が与えられることを心から感謝します。主キリストを信じて期待してまいりましょう。
市民チャリティークリスマスの協賛の受付が始まりました。協賛していただくことによって地域の方々にも一緒にクリスマスに関わっていただいて、イエスがこの世に来てくださったことを精一杯お祝いしたいと思います。皆さんのご協力をお願いします。私たちがどんなに賢く長生きで安定した平和な日本で生きていても、誰の心にも救い主イエスが必要です。建設中の大洲キリスト教会が、南予の伝道の拠点となるようにもお祈りください。2000年前の初代教会の人々の心の中にあったのは、救い主であるイエス・キリストを伝えたいというその一心です。私たちもそこに立ち帰る時、強められます。今日の聖餐式で、自分自身の魂の器に確かにイエスがいて下さるか、それとも、自分の理屈や人生哲学や宗教で心を満たし、イエスを押しのけてしまってはいないか確認し、もう一度イエスこそが私の救い主だという原点に立ち返りましょう。単なる儀式としてではなく、イエスが今日も心の中に宿っていることをしっかり確認しながら聖餐式にあずかってほしいと思います。

1.イエスが来られたのは歴史上の事実

神の御子、救い主なるイエスが私たちの救いのためにこの世に下って来られたことは、誰かの想像や理論ではありません。空想か事実かの間には、決して乗り越えられない大きな差があるのです。これを区別しなくてはなりません。ここに集う一人ひとりも神を知らない者でしたが、イエスがこの世に来て下さったことで、救い主に出会うことができました。聖餐式でパンと葡萄酒をいただき、イエスの存在に触れ、十字架の血に満たされて、この世に下って来られた救い主がいることを事実として感謝しましょう。

2.イエスによって神からの命をいただいた

私たちは、心臓が動き呼吸する肉体の命だけでなく、神からの命を与えられました。罪深い私たちは、このままでは決して神との関係を修復することはできません。例えば、難しい場所に脳腫瘍ができて手術すれば命を失う場合があるように、罪が私たちの命にまで入り組んでいて、罪だけを取り除くことができないのです。イエスが身代わりとなって死んで下さったことで、罪は取り除かれ、私たちは解放され、神の子とされました。そして、永遠の命にまで繋がる者とされたことを感謝しましょう。

3.神の愛を実体験することができる

イエスが私たちのために命まで捨てて下さったことを知ることにより、神によって愛されているということを体験することができます。私たちは神に愛され、永遠の命まで与えられているのです。「愛」はすばらしいと皆が口にする割には、「愛」に満たされない人が増え、愛されたいと願う人が世の中に溢れています。聖書には、「ここに愛がある」と書かれています。こことは、あなたの心のど真ん中です。クリスチャンにとっての愛とは、もはや想像の産物ではなく、体験することができるものです。人々がうらやむ愛を持った私たちは、恵まれ祝福された人生を歩むのは、当たり前ではありませんか。この聖餐式で、共におられるイエスを確認し、10月も、クリスチャンとしてイエスの恵みを証ししてまいりましょう。

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主の恵みに近づく秘訣

…ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」…彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「…ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、…きよくなった。
                     列王記第二5章1節~14節

今日はナアマンの癒しの物語を通して、私たちの信仰生活を神に喜ばれるものへと軌道修正し、自分の信仰を成長させるための秘訣を学びたいと思います。3つの目の付け所を確認しておきましょう。
ナアマンは、イスラエルの敵国アラムの王の将軍であることを覚えておきましょう。一歩間違えば戦争になるという緊張状態での物語です。

1.神ご自身が働かれる御業を求めよう

神は私たちの想像をはるかに超えて力強く働かれ、無から有を、全てのものを生み出す御方です。あなたの信じている神は、奇跡まで起こすことのできる全能の神でしょうか。ナアマンは様々な手続きを経てやっと預言者エリシャのところまで来ました。丁重にもてなされると思ったにもかかわらず、エリシャは顔も見せず、ヨルダン川で7回体を洗いなさい、と電報のような言葉を伝言しただけでした。その無礼さにナアマンは激しく怒りますが、賢い家来たちになだめられ、エリシャの言葉に従い、7度目に川から出てきた瞬間、彼の肌は完全に癒されていたのです。私たちに必要なのは当てにならない人の慰めの言葉や手続き、理屈ではなく、神の御力です。私は神の御業を求める、とはっきりと意識し、主よ、私はこの一週間も神が直接働いて下さることを求めます、と積極的な信仰を働かせてまいりましょう。

2.自分の思いではなく、神の御言葉に従う

ナアマンは激怒し、危うく癒されることなくアラムに帰ってしまうところでした。何が問題だったのでしょう。彼の感情のもつれです。彼は一生懸命頑張り、複雑な手続きをしてきたのだから、手厚くもてなされたいと思っていたのですが、彼のために本当に必要なのは、彼の気持ちを満たすことではなく、彼を癒すための神の言葉が与えられることだったのです。それが際立つように、エリシャは顔も見せません。ナアマンに必要なのは、明瞭な神の言葉だけだったからです。私たちはしばしば自分の感情や欲求に従い、自分が愛され、大切にされ、持ち上げられることを求める傾向があります。しかし自分の身勝手な感情よりも、神を第一とし、御言葉に従えばいい、と自分に言い聞かせようではありませんか。まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものは神の国に添えて与えられます。生活の中に必要なもの、欲しいものもあるでしょう。しかし、何よりも私たちに命を与えて下さった神の御言葉を受け止め、身勝手な思いではなく神の御言葉に従えるよう自分を成長させて下さいと祈りましょう。

3.神による清めと癒しをいただく

ナアマンの心の中には人間的な手続きや方法、自分の感情、勝手な自己判断しかありませんでした。しかし彼に求められていたのは、神の清めの力癒しの力を体験することであり、そのために、御言葉に従うことでした。神への求めを、人間的な薬や手術の延長上にしてはなりません。表面的な病気の癒しではなく、自分の魂が、イエス・キリストに結びつき、癒され、解放されるという神の恵みを求めましょう。神との交わりを求め、神の御業を直接いただくことです。神が共におられることを体験するために、この礼拝を単なる習慣や惰性で終わらせず、神に期待して祈り、神の御業を全身でいただきましょう。

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良いものを与えていただける人

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。…求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。…なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
                   マタイの福音書7章6節~12節

今日の聖書箇所は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの教えの中心部分にあたります。特に12節は黄金律と言われる所であり、「山上の垂訓」の頂点であると共に、この教えの全てを集約している箇所であると言っても過言ではありません。この聖書箇所から、「良いものを与えていただける人」と題してメッセージをしたいと思います。

1.求める人

神に求める人が神からの良いものに与(あずか)ることができるのです!7~8節にあるように、何かを与えてほしいと思うならば、まず「求める」ことから始めましょう。神から良いものを与えられた経験、良いことをして頂いた実感や記憶がないという方がおられるとするなら、それは 、求めたことがないか、あったとしても、求め方が中途半端だったのではないでしょうか。イエスはヨハネの福音書の中でも「あなたがたはわたしの名で求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」と言われています。神は私たちに惜しげなく咎めることなく与えて下さるのです。聖書は私たちにその神に願うこと、祈ること、求めることを繰り返し教えているのです。11節には、「天の父が求める者に良いものを下さらないことがありましょう」と記されていますから、神に自分の必要を祈ろうではありませんか! 神に愛されていることを体験させて頂けるよう、賜物を頂けるよう、信仰が深くなるよう、与えられると信じてもっと祈りましょう!

2.与えられる値打ちのわかる人

神は与えがいのある人に与えて下さるお方です。与えがいのある人とはどのような人のことでしょうか? 聖書の時代、カナン人は「犬、豚」と呼ばれ、ひどい扱いを受けていました。それにもかかわらず、
カナン人の女が娘の癒しを求めて、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と大胆にイエスに求めたのです。それはイエスが驚くほどのすばらしい信仰でした。彼女は、天からの「パンくず」の恵みがどれほど大きいかを知っていたのです! この「犬、豚」扱いされている人を自分のこととして捉えたいと思います。この私に、与えられる価値があるだろうか? たとえ私たちが「犬や豚」のような存在であったとしても、与えられる値打ちと有り難みのわかる人になりたいのです。もし私たちがそうなるなら、神は私たちに良いものを与えて下さいます。

3.与えることのできる人

神は、与えることのできる人に与えて下さるのです。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と記されています。見返りを期待するのではなく、私たちはただ与えることのできる人になりたいと思います。神は与える人を愛して下さり、喜んで与える人に与えて下さるのです。与えることのできる人が、神から何かを与えられた時、それは決して無駄にはなりません。与えられたものがもっと意味や価値のあるものになるのです。
与えることは、必ず何かの犠牲が伴います。与える側になって、初めてそれがわかるのです。それがわかれば、神が与えて下さった、ひとり子イエスの犠牲、福音の価値がわかるようになるのです。「与えられる人」になれるよう求めて祈り、神の恵みに与(あずか)り、さらに信仰の歩みをしてまいりましょう。

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主と共にあるいやしを受け止める信仰

…群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。…なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」                ルカの福音書9章37節~41節

実りの秋を迎えました。恵み豊かな神は、神を礼拝し、歩み始める1週間を本当に祝福して下さいます。今日も癒しの恵みをいただいてまいりましょう。悪霊につかれたひとり息子を持つ父親が、助けを求めて群衆の中から叫びました。お弟子たちに、この霊を追い出して下さるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。イエスは嘆いて、そこに集まった群衆と弟子たちに、こう言われます。「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまであなたがたと一緒にいて、あなたがたに、がまんしていなければならないのでしょう」、今日は、この41節の御言葉をしっかりと受け止め、もう一度、信仰の姿勢をはっきりとしたいと思います。

1.癒しの御業は主イエスと共にある

この父親は、子どものことを心配し、偶像、占い、人の力、真の神…一生懸命でした。弟子たちに祈ってもらっても、癒されませんでした。本物の癒しの御業は、主イエスと共にあります。聖書は、イエスは父なる神の完全な啓示、神の現われだと語ります。だから、どんな癒しも、悪の力の解放も、すべての祝福は、主イエスと共にあるのです。私たちは、人の顔色を伺ったり、人に頼ったり、人のせいにしたりする弱い者ですが、人ではなく、イエスに集中し、私の癒しは、主と共にあると、信仰の姿勢をはっきりとさせましょう。

2.イエスに喜ばれる信仰を持とう

「ああ、不信仰な今の世だ」。イエスは、祈って癒されなかった弟子たちの信仰、人々の心、信仰のありかたを嘆かれました。2千年経った今を生きる私たちは、愛と救いの力、癒しの恵みをもって、イエスがこの世に来て下さっているのに、神を信じる以外に、
人間的に当てにできるものが多く、不信仰がもっと深刻になっているのかもしれません。では、私たちがイエスの前に立つ時、あなたの信仰は立派だと言われるには、どうしたら良いのでしょうか? 大きな3つの鍵があります。
 1.御言葉に立つ―イエスの御言葉をそのまま下さいと頼んだ百人隊長は、すぐにしもべの癒しをいただきました。「あなたの御言葉は、わが足のともしび、わが道の光です」と聖書が語るように、御言葉に立ち、御言葉をいつも告白する信仰を持ちたいと思います。御言葉は神の御約束です。信頼しましょう。
 2.神はどんなことでもできると信じる―信仰は、神にはどんなことでもできると信じることです。祈る時、心の中で、できないだろうと決めつけると、悪魔の思うつぼです。神にはできると信じましょう。
 3.常に神への感謝、栄光をお返しする―どんな素晴らしい祝福に与ろうと、すべての栄光は神のもの、主を崇め、礼拝し、栄光をお返ししましょう。10人のらい病人が癒された話では、神に栄光をお返しし、感謝するために戻って来たのは、わずか1人でした。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけません。この3つのことを胸に刻み、信仰を持って、神の前に立つ者でありたいと思います。
イエスに受け入れられる、シンプルで素朴で、純粋な素直な信仰を働かせましょう。恵みを与えようとする神、それを素直に受け止めようとする「私」がいるところに、神の素晴らしい御業が起こります。

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