人の命と神の恵み

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。   ヘブル人への手紙9章27節~28節

今日は合同記念会礼拝です。皆さんとのこの時間を、本当に有り難く、感謝して受け止めています。この礼拝を準備するに当たり、私の父と家内の父のことを思い出し、祈りました。私の父は、牧師であり、私の父親としての人生を生き、私に信仰を与え、牧師としての模範を残してくれました。家内の父は、軍人として国に仕え、この世の地獄を見、最後まで自分の理性と闘い、頑固でしたが、亡くなる半年前、文女姉の、イエス様を信じて、洗礼を受けようという言葉を受け入れ、穏やかな魂を与えられ、天国へと旅立ったのです。人生の現実と、それを超える神の救いがあることを素直に認め、受け入れた時に、魂が変わったのです。御一緒に、すでに召されたお一人お一人の魂を偲び、その頂いた恵みを感謝し、命の真理を頂きたいと思います。今日開きました箇所には、2つの大きな真実が語られています。

1.人間の命に関する真実

人は生まれて命を受けた以上、必ず死ななければなりません。そして同時に、死後、神の前に立ち、裁きを受けることが定まっていると聖書は語ります。人の命は、単に心臓が動き、呼吸をする医学的命だけではなく、魂、霊の領域があって、死後、神の御前で、どのような人生を生きてきたか、裁かれなければならない、人間の命に関する真実があります。時々、神様って証明できますか、と言う人がいます。科学が証明せずとも、人間は幽霊だとか霊だとか、死後だとか考えますね。これは、人間の命の中に、神様と向き合う霊的な要素が、生まれた時から、ちゃんとあって、目に見えない神と向き合わなければならない世界があることを示唆しています。

2.救い主イエス・キリスト

聖書は、罪の汚れは自分の努力や頑張りでは清められない、救われない、全ての人に救いが必要だと語ります。血を流すことがなければ、罪の赦しはないと語ります。そのため、命を与えて下さった神は、救い主イエス・キリストを送り、キリストは1度、私たちの罪のため、ご自分の命をささげ、十字架で死んで下さいました。2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる、と28節にあるように、イエスが再び来たりたもう、再臨の時、私たちを甦らせ、永遠の生命を与え、天の神の下で永久に、永遠の喜びをもって生きることができるようにして下さると約束しています。
人として、精一杯、真剣に生きる糸と、救い主イエス・キリストをお迎えし、神と向き合う信仰の糸、2つの糸が重なると、自分の努力や知恵だけでは与えられなかった祝福が与えられます。喜怒哀楽、様々の事が起こる私たちの人生、1つ1つが神によって救われ、贖われ、素晴らしい人生となります。そして、いつか必ず訪れる、神の裁きの前に立つ時、キリストの愛と救いによって、天国へと導き入れられ、永遠の生命を頂くことができます。すでに天に召されたお一人お一人も、ちょうど十字架が象徴しているように、人としての命に、神の恵みが重なった人生を歩まれました。さあ、皆さんも、その信仰にならって、人として一生懸命生きる生き方と、神の恵み、神の愛の物語を重ねて生きる人生を見つけてまいりましょう。そうすれば、死に対する恐れはなくなり、平安と永遠の生命の希望が与えられます。

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主キリストによる永遠の命の恵み

イエスは答えて言われた。「…あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。…
…「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…その人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
          ヨハネの福音書6章26節~27節、35節~40節

暑い夏ですが、神は暑さ以上に力強く、私たちに元気や喜び、尽きることのない祝福を与えてくださいます。今年も教会の夏の行事で大いに恵まれましょう。クリスチャンはイエスを信じることによって、生き方そのものがすべて変えられます。クリスチャンと出会った人は必ず恵まれます。ですから、お互い出会ったときは神のすばらしさを証しし喜び合えるように準備しておきましょう。
この6章の始めには、「5つのパンと2匹の魚」の奇跡の話があります。そのあと集まっている群衆に向かって、あなたたちは、わたしを救い主と信じて、永遠のいのちを求めて集まったのではなく、ただお腹を満たしたかっただけだとイエスは皮肉を込めておっしゃいました。ヨハネの福音書の中でイエスは、「永遠に続くもの」をテーマに繰り返し語られています。この一週間で、これだけはいつまでも輝き残ると思うものがどのくらいあったでしょうか。今日は、ヨハネの福音書を通してイエスが語られた「永遠のいのち」について3つのことを確認しましょう。

1.最大で最上の祝福

クリスチャンと世の中では、幸せの質が違います。この世にはいろいろな幸せがあります。お金がどっさり儲かる、海外旅行に出かける、美味しいものをご馳走してもらう。どれもその時は楽しく幸せを感じるものでしょうが、賞味期限があったり期間限定であったり、いつか終わりが来ます。しかし、クリスチャンである私たちに与えられている幸せは、それとは比べものになりません。肉体のいのちがこの世で終わり、すべての人が神の前に立ち、裁きを受けます。その時、イエスによって罪がきよめられ、神の愛といのちを受けた者だけが天国に入り永遠のいのちをいただくのです。この世の幸せとは全く質の違う、永遠に続く最大で最上の幸せが与えられていることを喜びましょう。

2.イエスが源

イエスがいのちのパンなのですから、私たちに約束されている永遠のいのちの原因、源は、イエスであるということです。私たちの努力や知識、また良いことをしたからではなく、イエスご自身がクリスチャンの幸せ、救いの原因、種、源
です。今日の聖餐式で、イエスが私たちの罪の贖いとなってくださったことを喜び感謝しましょう。パンはイエスのからだであり、ぶどう酒はイエスの血潮です。儀式ではなく信仰によってイエスのいのちをいただく者になり、幸せの原因であるイエスが共にいることを感謝しましょう。

3.永遠のいのちが与えられている

人の心は変わりやすく、現世的な目に見える喜びや幸せ、豊かさを求める傾向にあります。しかし、変わりやすい世の中にいるからこそ、クリスチャンは、イエスを信じて、いつまでも変わらない永遠のいのちをいただいていることを感謝しましょう。これが人間にとっての最大の恵みであると心から喜んで歩みたいのです。クリスチャンには、この永遠のいのちがあることが分かります。ですから、すでに天に召された方々を懐かしむと共に、天の御国で再会できる喜びや希望があるのです。
この8月もイエスと共に、イエスが与えてくださる永遠のいのちによって歩ませていただきましょう。

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主により頼む信仰

…そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。…そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンは…三百人の者だけを引き止めた。                       士師記7章1章~8節

今日は旧約聖書のギデオンの物語から信仰の力を働かせる秘訣を学びましょう。このころイスラエルには、リーダーが定まらず、武器もなく、非常に弱い存在でした。刈り入れ時にはいつもミデヤン人の軍勢が来て収穫物を奪い、痛めつけられました。そのためギデオンは、隠れて小麦を打っていました。そのギデオンに、ある日主の使いが現れて、大勇士よ、と呼びかけますが、自信のない彼は、主が共におられるのなら、なぜこのような情けない状況にあるのかと嘆くばかりで、不信仰に陥りました。そんなギデオンに対して主は、あなたと共にいる、行って戦えと繰り返し語られ、いざ戦おうとした時に、世の中の理屈とは全然違うことが起こりました。

1.数や量にではなく、主により頼む

戦いでは、兵士の数や武器は多いほど有利になるものです。しかし神は、自分たちの力で勝利したと錯覚し高ぶらないためにと、腰の引けている者を帰すようにと言われました。そこで、32,000人いた兵士が、1万人になります。3分の2以上の兵士が帰ってしまい、ギデオンは心細くなったでしょう。しかし、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です(ヘブル10:39)」。恐れおののき、退くとき、悪の力を呼び込んでしまいます。数や量ばかりを当てにするのではなく、共におられる主に信頼しましょう。勝利は主なる神によって与えられるのです。この事実に勝る大切なことはありません。

2.数や量ではなく、質を主は選ばれる

残った1万人から、主はさらに兵士を減らされました。谷川で腰をかがめて手で水をすくって飲んだ兵士だけを残され、その数わずか300人。隙を見せることなく、戦う心備えの整っている兵士を主は選ばれたのです。神は、兵士たちの質を求められたのです。後になって彼らは、ギデオンが命じる通りに、冷静に戦い、勝利を収めますが、戦いの中で、一人でも身勝手に動く者がいたらどうなっていたでしょう。神が求められるのは、どんなときにも主に聞き従うという姿勢です。ダビデは、サウル王の兵にいつ殺されるかわからない時に、「私の口にはいつも主への賛美がある(詩34:1)」と歌いました。どんなときにも、せっかく積み上げた信仰を否定したり、神に文句を言ったり、恵みを無駄にするようなパニックに陥らないように気を付けましょう。私たちの信仰の質が神に向かって整えられるようにしましょう。

3.神が共に戦ってくださる

日々の生活での痛み、心配の中に主は働いてくださることを信じましょう。ギデオンが鬨(とき)の声を上げ、兵士が「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶと敵はパニックに陥り、その瞬間に勝敗が決まったと聖書は語っています。敵の大群に、わずか300人の兵で神が勝たせてくださいました。体力、精神力、お金やコネなど、いろんな力が人生の中で働きますが、神の力を忘れてはなりません。人生には、悩みもあります。しかし、あなたが神によって選ばれてクリスチャンにされた以上、神があなたを見捨てることはありません。だから、小さく見える信仰でも、信仰の質を研ぎ澄まし、問題や敵に、「主よ、あなたの力で戦います」と祈るならば、あなたも必ず神の助けと大勝利を体験できます。主の勝利を告白しましょう。

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いやしの御業を自ら求めよう

求めなさい。…捜しなさい。…たたきなさい。…だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがりましょう。
                   マタイの福音書7章7節~11節

先日、四国中の教会の先生方と共に、災害に備えて協力できるように四国キリスト災害支援会を立ち上げました。3年後には、グラハム伝道協会の四国全体の大集会を開催しようとしていますが、その準備の中で、災害でも協力できるようにしたいと願っています。この暑さの中でいつも元気でありましょう。創造主なるまことの神は、私たちを癒す、いのちの与え主なる神です。
今日開いたのは、イエスが、今いるその場所で働かせる信仰があると教える有名な箇所です。日本人は、信仰の姿勢を学ぶ前に、聖書の学びや悟りを求める方向ばかりを求め、自分で行動することを忘れがちです。イエスが語られる、求めることの大切さの三重の意味を受け止めていきたいと思います。

1.自ら癒しを求める行動を起こそう

病気になると、行動するのも大変になります。しかし、その時に、誰かから助けられることではなく、自ら癒されるための信仰の行動を起こして求めることです。信仰は行動を含みます。誰かからの助けを求めるのではなく、自分が癒しを求めて立ち上がり、行動することができるようになりましょう。
聖書に出てくる人々が、立ち上がり、床を取って歩けとイエスから命じられ、行動しようとする瞬間に癒されたように、私たちも行動する者でありたいのです。癒しが必要なあなたが、消極的にならないよう、積極的な行動で癒しを求める者となりましょう。

2.たたき続けていく信仰者になろう

求めること、探すこと、たたくことにおいても、単なる行動ではなくて、いつも求める者、探す者、たたき続ける者でありなさいと言われています。私たちはそういう信仰者になりたいのです。自分自身が神から期待されているような、前向きで、病の中にあっても、癒されると信じる信仰者となりましょう。今は弱くて落ち込んでいて疲れ果てていても、元気になる自分の姿を描いて、あなた自身が求める者であり、探す者であり、たたき続ける者となりますように。人には自分で祈ればいいと簡単に言えますが、自分のことになると途端に弱気になる人がたくさんいます。自分自身を、神を求める者とならせてくださいと祈りましょう。状況はどうであれ、主が探し続けなさいと言われているのですから、探し続け、閉ざされていると思われる扉をたたき続けて、諦めることのない者にならせてください、私をイエスの御心にかなう信仰者にならせてくださいと祈りましょう。

3.絶対に祝福を与えてくださる良い神

神が、求める私に良いものをくださらないわけがない、絶対に祝福を与えてくださる方であることを感謝したいと思います。天の父なる神は、良い神です。悪い者であっても自分の子には良い物を与えるならば、父なる神はなおさらです。恵みを求める私たちに良い物をくださらないことは、絶対にありません。神が私たちに良いものをくださろうとしているのですから、自分の信仰を働かせようではありませんか。今までどうでしたか? 愚痴や悪口や諦めばかりを口にし、否定的な行動があなたを支配していませんでしたか。神は、必ず祝福を持って私たちに答えてくださいます。その恵みの神を信じて、私を癒してくださいと信仰を働かせて求めてまいりましょう。

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信仰によって義と認められた私たち

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。…「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。              テモテへの手紙第一1章13節~16節

先週は豪雨でしたが、大洲キリスト教会は無傷でした。兄弟姉妹の関連の家や断水の被害のある場所もありますが、皆守られていました。一方、全く気にしていなかった教会のみかん山の倉庫の一部が道路に崩れ落ちて、今後どのようにするか考えていますが、皆さんのお祈りに心から感謝しています。
こういう災害が起こると、人間は本当に小さな存在だと痛感し、当然と思っていることが、全て神に守られていると実感します。人生は、良いことばかりでなく、試練もありますが、「時が良くても悪くても」常にイエスを信じ信仰を告白して前進しましょう。私たちは、イエスに出会う前の罪や悪の力、世の中の法則だけで生きていた古い生き方から救われ変えられ、神からの目的や意義を持って証しの立つ生活を与えられていることを、もう一度受けとめ直したいと思います。
今日の聖書箇所はパウロが弟子のテモテに送った信仰の導きの手紙であります。パウロの指導の基本を、彼自身がクリスチャンとして受けた恵みを、喜びを持ってテモテに対して証ししています。3つのことを今日の聖書箇所から見いだしたいと思います。

1.弱く足りない情けない罪人の自分

パウロは、主キリストの教会を迫害し、自分は正しいと信じながら、いつのまにか悪魔にもて遊ばれ神に背き、ステパノの殉教に荷担する、とんでもない罪人として生きていたことを認めています。

2.救い主イエスにより変えられた自分

ダマスコへの旅の途中で、彼はイエスと出会います。これにより、「救い主が私の罪を身に背負い十字架にかかって死んでくださった! キリストは罪人を救うために本当にこの世に来てくださったのだ!あの十字架にかかられたイエスは救い主キリストなのだ!」とパウロ自身が信じて救われたのでした。私たちが毎週喜んで教会に通い、クリスチャンとして神を喜び、永遠の命、天国に向かって歩ませて頂けるのも、私たちの努力や心の清さ、決意の固さによるのではなく、全てイエスが、あなたの罪を背負い、十字架で死んでくださったからに他なりません。このことをはっきりと告白しましょう。

3.主の証し人とて歩む自分

キリストと出会い信仰告白をしたパウロは、神によって大きく変えられました。キリストを迫害した中心人物であった彼が、なんと全世界を伝道して歩く初代教会を代表する伝道者とされ、新約聖書の多くの部分が彼によって書かれるようになりました。どうしてこのようなことが彼の身に起きたのでしょうか? 今後、彼の後に続く人々が、どんな罪人であっても救い主イエスと出会うとこんなにも変えられ、そして、神を信じると神からの計画、ビジョンにより、これほどまで用いられるようになる、という模範となるようにパウロは作り変えられたというのです。
これを聖書の中のパウロだけの物語に終わらせてはなりません。私たちの人生は、キリストを証しし、誰かの模範や見本になれるように、どんなに弱さや足りなさがある者でも用いられることを感謝しましょう。パウロが語っている彼の体験は、あなた自身も体験できることなのです! この神からの大きな恵みをしっかりと受けとめて今週も前進してまいりましょう。

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理由

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた(箴言16:4)。主は…忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(Ⅱペテロ3:9)。なぜなら神は愛だからです(Ⅰヨハネ4:8)。義人はいない。…すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、価なしに義と認められるのです (ロマ3:10,23-24)。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです(ヨハネ14:19)。                    箴言 16章4節 ほか

主はすべてのものを目的をもって造られました。すべてのことには理由があるのです。

1.神が愛だから

悪者さえもわざわいの日のために造られました。悪はやがて神が正しくさばかれる日のために一時的に存在しているにすぎないのです。悪による悩み苦しみはいつまでも続かず、やがて終わる時が来ます。これは大きな慰めです。しかし、なぜ主はもっと早くさばいて、この世界から悪をなくしてくださらないのでしょうか。理由があります。神が愛だからです。神は、罪人も悪人もひとりも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むのを忍耐深く愛をもって待っておられるのです。誰もが救われ、永遠のいのちを持つために、ひとり子イエス様を与えるほどに、この世界を愛しておられるからです。罪と不信仰の世界が滅ぼされないでいるのは、神が愛だからです。ヨナ書において、罪に満ちたニネベの町が滅ぼされなかったのは、神がニネベの12万もの人々を惜しまれ愛されたからです。そして、ニネベの人々は悔い改めたのです。神の命令に背いて嵐の海に投げ込まれたヨナが大きな魚に救われたのも、同じです。神がヨナを惜しみ愛されたからです。この世界のすべてのものが存在しているのには、理由があります。神が愛だからです。愛される理由も資格もない罪人の私たちを、神はなぜこんなにも愛してくださっているのでしょう。それは、神が愛だからです。

2.神の恵みがあるから

「義人はいない。ひとりもいない」のです。神の目から見て「正しい」と言える行ないも、信仰も、私たちにはありません。しかし、神の恵みがあるのです。だから、私たちは義と認められ、救われるのです。エズラは、「私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに」と祈りました(エズラ9:15)。主が私たちの不義に罪に目をとめられるなら、だれも神の御前に立つことなどできません。しかし、主の赦しがあるから、神の恵みがあるから、私たちは神の御前に立つことができるのです。こうして、私たちが神の御前に立って、祈ることができる、礼拝することができる、それは、奇跡です。ありえないことが起きているのです。神の御前に立てるはずのない者が、今、神の御前に立っている、明日も、御前に立つ、やがて、永遠に、天の神の御前に立つのです。神の恵みがあるからです。

3.すべてに理由がある

喜ぶのには、理由があります。私たちの名が天に書き記されているから(ルカ10:20)、信仰の結果である魂の救いを得ているからです(Ⅰペテロ1:9)。讃美するのには、理由があります。主の栄光が大きいからです(詩篇138:5)。私たちには乏しいことがありません。主が私たちの羊飼いだからです(詩篇23:1)。主の山には備えがあるからです(創世22:14)。 なぜ、生まれつき目が見えないような、そんな不幸や悲しみが、この世界にあるのでしょう。誰のせいでしょう。理由があります。神のわざが現われるためです(ヨハネ9:3)。私たちが生きるのには、理由があります。主が生きておられるからです。こんなに素晴らしい神様がおられるからです(ヨハネ14:19)。

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信仰によって義と認められた私たち

…信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…この恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。…
                   ローマ人への手紙5章1節~11節

今日の礼拝は、一年のちょうど折り返し地点。ここまで私たちを導いてくださった神に感謝しましょう。
「ローマ人への手紙」は、パウロが書いた手紙の中でも例外的な手紙です。彼は、少なくともこの手紙を書いた時点では、まだローマを訪れていませんでした。まだ見ぬ人々、まだ見ぬ地に向けてこの手紙を書き送ったのです。しかも、ローマでイエスがキリストであると信じる人々が起こされたのは、これよりも前、ペンテコステの時です。弟子たちに聖霊が降り、イエスは主であると証しし始めた人の中に、ローマ人もいました(使徒の働き2:9-11)。早い段階でキリストを信じたローマの人々の中に、ユダヤ教の影響が強く残っていて、律法の行いを全うすることで、人は義と認められると考えていました。パウロは言います。「律法によって人は義とされるのではなく、福音によって、キリストを信じる信仰によって、義と認められるのです」。では、信仰によって義と認められた私たちは、いったいどのような恵みをいただけるのか、聖書の今日の箇所から味わいたいと思います。

1.神との平和と和解にあずかる

神と私たちの間の平和は失われ、私たちは神の敵でした。しかし、信仰によって義と認められた私たちは、神の友となり、父と子の関係にまでなりました(ローマ書8:14-16)。確かに敵は、今も私たちの周りに存在しますが、神が私たちの味方なら、誰が私たちに敵対できるでしょう(ローマ書8:31)。神との平和を築いた人は、神を味方に得たのですから、必ず勝利させていただくのです。

2.神を喜ぶ者とされる

世の中の喜びは、おいしいものを食べる、応援していているチームが勝利する、素敵な人と出会う、仕事が成功する、お金を儲ける、病気が治る、問題が解決するなどですが、ここでは神からの喜びがあると語ります。それも「大いに」と付けられる喜びです。神の恵みの中に立っている私たちは、どんな状況の中にあっても、神を喜ぶ者とされています。私たちの信仰生活の中で、たとえ嫌なことがあっても、そのことに目を奪われるのではなく、神を見上げましょう。神を喜びましょう。きっとあなたの力となります。

3.神の愛が豊かに注がれる

義とされる以前の私たちは、神の敵であり弱く不敬虔で罪人でした。そんな、愛していただく何の理由もない私たちのために、神が定められた時に、イエスが死んでくださることによって愛を示されました。私たちが信じて義とされる時、私たちはその愛に気付くのです。信じてください。そうすれば、神の愛がわかります。

4.すでに聖霊が与えられている

イエス・キリストを信じたら、特別な人だけでなく、すべての人に聖霊が与えられます。この聖霊が、神と私たちの間に平和をもたらし、愛されている保証となります。神は無限大であるから、小さい私たちは、神を完全にとらえることはできません。しかし、聖霊が私たちに注がれているから、神の愛に気づかせていただけるのです。2018年の後半の日々に向かって、前半にも増して心から神を崇めながら、喜んで主の恵みに期待して歩んでいきたいと思います。

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私のために遣わされた救い主

神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」
                        使徒の働き3章26節

あなたの毎日に グッドニュース(良い知らせ)は届けられたでしょうか? 悪いことではなく、イエスを信じることがどれほど人生を劇的に変えるかを教える、福音(グッドニュース)を受け止めましょう。
今日開いたこの3章は、ペテロとヨハネが美しの門を通り過ぎようとした時に出会った、生まれた時から足が立たない物乞いの男の話で始まります。ペテロが、「お金はない。しかし私にあるものをあなたにあげよう。ナザレの救い主、イエス・キリストの名によって歩きなさい」と宣言して、彼の手を取って引き上げた瞬間、生まれて一度も立ち上がることができなかった彼が立ち上がり、歩いたという奇跡が行われたのです。周りにいた人々は騒然となり、どうしてそんなことが起こったのか、その理由を知りたいと思ったのです。その中でペテロが語り始めます。そしてそのメッセージの最後を締めくくる、一番大切なフレーズが今日開いた箇所です。
ここから主イエスがなしてくださる、素晴らしい祝福を具体的に体験する秘訣を学びましょう。。

1.救い主が遣わされたことを感謝

神は人間に命を与えて豊かに生きるようにされました。しかし人間は造られたものですから、当然不完全さがあり、弱い部分があります。その弱さを突かれると、幸せな人生を歩めるはずの私たちは悩みや心配、恐れや不安の中で生きるようになり、神から与えられた人生を、喜びを持って生きることができなくなります。神はその可能性を十分ご存じでしたから、私たちのために救い主を送ってくださり、救いの道を用意してくださっていました。私たちは罪や汚れ、歪み、悪の力の誘惑に翻弄されることもあります。でもそんな私たちが助けられるように、私たちの罪や呪いを全部身代わりに背負って罪のもたらす報酬である死を代わりに受け止めるために、私のために、神であり、神の御子であるキリスト、救い主であるお方が遣わされたのです。今日の礼拝の中で、イエスが私と共にいてくださることを受け止め直してほしいのです。救い主であり癒し主であるイエスが、あなたと共にいてくださることを感謝しましょう。私はイエスと共にあるという、この事実を信じて祈りましょう。

2.邪悪な生活から変えられ癒されよう

このイエスを自分の救い主と認めれば、救い主は、あなたのことを祝福してくださり、罪や悪の力から抜け出させ、神の恵み内にある、本来のあなたらしい人生をしっかりと歩ませてくださいます。今の世の中は罪の力があふれていますが、神は私たちが祈る時に必ず御業をなしてくださいます。現代人は賢くなり、便利な道具も揃っています。しかし、弱くて、心が疲れ果て、弱さを感じて、病んでいる人たちがいます。私たちはそうなる前に、ちゃんとイエスの癒しを頂きましょう。神を見上げて生きる時にあらゆる境遇に対処する秘訣を得ることができ、どんな場面でも喜びを持って生きることができます。そして、何よりも神は、祝福と恵みの神ですから、あなたの生活の有り様を変えてくださいと祈りましょう。イエス・キリストは、私のために遣わされました。そして、この方が私と共にいるならば、祝福され、罪の力や邪悪な生活から、神に喜ばれる人生へとやり直すことができます。この恵みをいただきましょう。

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あなたは祝福された者です

…モアブはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れた。…ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であった。…ペトルにいるベオルの子バラムを招こうとして使者たちを遣わして、言わせた。「…いま来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。…私は、あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを知っている。」…神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」
  民数記22章1節~12節、23章7節~12節、24章1節~13節

今日の聖書箇所から「あなたは祝福されている」、このことをしっかり確認したいと思います。

1.神は導き祝福してくださる

イスラエルの民が、エジプトから出て約束の地に向かう旅の中では、様々な困難がありました。この聖書箇所には、モアブの王がバラムを雇い、イスラエルの民を再三呪わせようとしましたが、神は決して彼らを呪わずに祝福してくださったことが記されています。

2.私たちは祝福される者である

神は「イスラエルの民を呪ってはいけない」とバラムに告げ、モアブの王の使いにバラムはそのことを告げます。しかしモアブの王は引き下がらず、何とか呪わせようと再びバラムのもとへ使いをやります。その時神はバラムに、「神が告げることだけを語るように」と釘を刺して言われました。そしてバラムはモアブの王のところへ出かけます。けれどその道中、バラムの心の中にモアブの王は、私に何の御礼をしてくれるかとの思いがよぎりました。するとろばが全く動かなくなり、そこに神の使いが現れ、「もしもろばがそのまま進んでいたらわたしはあなたを殺しただろう」と言われます。そして、神の言葉だけを告げるよう、再び釘を刺されました。バラムは神の言われることを忠実に守り、イスラエルを呪うことをしませんでした。神の祝福を、誰も覆すことはできないからです。

3.神に選ばれた者は祝福された者である

イスラエルの民は神に対して不満を言う民でしたが、神はこの民を祝福されていました。彼らは神が祝福されていることに気付きませんでした。私たちは祝福される者であることをはっきり自覚しましょう。私たちは人生に何があろうと間違いなく祝福されるのです! 祝福されることを信じることができさえすれば、あなたは、間違いなく祝福されるのです。神はあなたを祝福されるために全ての手筈を整えておられます。でもそれをあなたが信じ感謝して生きなければ、その恵みはあなたのもとへは来ないということを認めなければいけません。
モーセは80才の時、イスラエルの民を導き、エジプトから脱出しました。それは神が共におられ、祝福してくださることを自覚できたからです。ギデオンもマリヤも、聖書には神を信じたことで大いなる祝福を頂いた人々が登場します。神に選ばれた者は、祝福された者であるという自覚を持つことは、私たちが持たなければならない心構えであることを覚えなければなりません。イエスの十字架の贖いを通し、私は救われている者である! だから最高の人生を歩むことができるのです!
神がイスラエルの民を、彼らが知らないところで守り、支え、祝そうとされているのに、彼らはそれを信じることができずに恵みを失っていったのです。そんな人生を私たちは絶対に歩んではいけません。
神が私たちの知らないところでイエスの十字架によって罪を取り除いてくださった。だから私は、どのような困難な中にあっても、最高に幸せな人生を歩ませていただけると信じることです。私の人生の歩みに神の祝福と恵みは尽きることがないと信じて祈りましょう。

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神の栄光を見るために祈る

…あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、…神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを…知ることができますように。…教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。…また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、…その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。…
エペソ人への手紙 1章17~19節、23節、3章16~21節

私たちはこの祈りを忘れないで祈り続けたいと思います。心の目がはっきり見えるようになり、神様から与えられる望み、力、愛が、人知をはるかに超えて、どれほど偉大で栄光に富んだものかを知ることができますように。主の愛と力の大きさ、神の栄光を見ることができますように、と。

1.神を愛しているから

一番大切な教えは、神を愛することです(マタイ22:37)。そして、愛していれば、もっと相手を知りたくなるのです。だから、神を愛する私たちは、もっと神様を知りたい、神の栄光を見たいと祈るのです。

2.神に近づくため

「神に近づきなさい」(ヤコブ4:8)。近づけば、遠くて見えなかったものも段々はっきり見えてきます。神に近づくことは、神が見えるようになることです。だから、祈るのです。神に近づくために、神の栄光を見せてくださいと祈るのです。そして、神に近づけば、神は近づいてくださいます。光に近づくと明るくなるように、神に近づくと、その栄光の光を受けて、私たちも世の光として輝き、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていくのです(Ⅱコリント3:18)。

3.へりくだるため

主が私たちに求めておられるのは、へりくだることです。そして、私たちは、神の栄光に触れ、神の大きさを本当に知るとき、はじめて自分の小ささを知り、へりくだることができるのです。パウロも、第3の天に引き上げられ、神の栄光に触れたとき、自分の弱さ、小ささを知ったのです。そして、主の大いなる恵みと力におおわれたのです(Ⅱコリント12章)。神の栄光を見るために祈り、神の大きさを知って、自分の小ささがわかり、こんな小さな者に注がれている神の愛と力の大きさに感謝と喜びがあふれるのです。

4.苦しみを乗り越えるため

「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない…」(ローマ8:18)。数えきれないほどの大変な苦しみを受け続けたパウロですが、それを彼は「取るに足りない」と言うのです。神から受ける救いの栄光はもっと大きいからです。神の愛とゆるしの大きさを知るなら、ゆるせない痛みも憎しみも取るに足りないものとなります。神様の栄光、やがて与えられる永遠の喜びの大きさを知るなら、どんな苦しみも取るに足りないものとなって、乗り越えていけるのです。

5.すべての人が神の栄光を見るために

神の栄光が見えないのは、心におおいがかかっているからです(Ⅱコリント4:3-4)。見えるはずのものが見えず、聞こえるはずのものが聞こえない、罪のおおいです。5歳の女の子が両親から虐待を受け、「おねがい ゆるしてください」と必死で書いた願いも届かぬまま、命を落とす…。神の似姿に造られたはずの人が、似ても似つかぬ姿になりはてている罪がこの世界をおおっています。だから、私たちは、教会は、祈り続けるのです。私たち一人一人が、この世界が、すべての人が、心のおおいを取り除かれ、神の栄光を、その愛と力の大きさを見ることができますように、と。すべての暗闇が光に変わるために。

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