信じたとおりになる信仰の秘訣

…ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」…「…ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。…」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。…」…「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。            マタイの福音書8章5節~13節

今年のテーマは「Make It Happen! さあ!信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」(マルコ11:23)です。信仰を持つと、私たちの人生観や死生観、物の考え方が当然変わります。しかし、聖書が語る信仰は、単なる道徳ではなく神と私たちの関係です。神と共に歩み、神との関係性の中で私たちクリスチャンは生かされるのです。聖書には、単に心の感じ方や、精神的な事柄ではなく、そこで何が起こったか、病がいやされ、悩みから解放され、経済が祝福され、恵みと喜びが30倍60倍100倍になったという「事」が必ず起こったと書かれています。この一年、精神的な恵みだけではなく、聖書にある神の御業としか言いようのない「事」を日々体験しようではありませんか。今日の聖書の箇所に出てくる百人隊長は、異邦人で、しかも当時のイスラエルを支配していた軍隊の隊長でしたが、「イスラエルのだれにも、このような信仰を見たことがありません」とイエスからほめられました。そして、「あなたの信じたとおりになるように」と言われた時、彼のしもべはいやされました。注目したいのは、信じることが神の御業を引き出していることです。百人隊長の言動を通して、信じたとおりになる信仰の秘訣を確認しましょう。

1.力の源は主なる神にあると認める

私たちの人生に大きな影響を与え、恵みをもたらす力の出どころがどこか、しっかり知る必要があります。百人隊長は、支配している属国の民の一人であるイエスが、救い主であり、神の御子であり、イエスの中から神の力がほとばしり出ていることを信じ、助けを求めにやって来ました。神の御業をしばしば押しとどめているものは、プライド、知識、高ぶり、経験などです。興味深い現象ですが、アジアやアフリカでは、病のいやしや奇跡が起きやすいのです。同じ牧師がメッセージを取り次ぎ、祈るのですから、神の働き方や聖霊の臨在に違いがあるのではなく、受け止める側が、ブレーキをかけるかどうかです。先進国に住む私たちは、当然病院に行き、薬を飲み、医者の話も聞きますが、私たちに命を与えてくださった神のいやしの力を受け入れましょう。

2.イエスの御言葉の権威を認める

百人隊長はイエスとの会話の中で、「権威」についてぴったり当てはまる軍隊での例話を話しました。百人隊長はだれよりも正しく、イエスの持っておられる権威を認め、神の栄光をほめたたえたのです。病のいやしを求めるとき、薬や手術の代わりにイエスに祈り、神の栄光を崇め、神の権威に従い、神ご自身に働いていただく人生でありましょう。

3.愛と恵みの救いの神であることを認める

イエスは、しもべをいやしに行こうとすぐに応答しました。百人隊長は、権威を認めたイエスの驚くべき愛による応答に感謝し、素直に受け止めたうえで、わざわざ来ていただく資格は私にはありませんと謙(へりくだ)って辞退したのでした。「その代わりにお言葉をください。お言葉の中にはすべてに勝る権威、力がありますから」とイエスの深い愛を認めて言ったのです。その彼にイエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と言われました。弱い自分の力や変わりやすいこの世の方法に頼らず、あなたも信じてみませんか! 必ず神は働かれ事を起こされます!

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さあ、信仰を働かせよう! 事を成し遂げよう!

イエスは答えて言われた。…心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
…主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」…手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、…主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
マルコの福音書11章22節~24節、出エジプト記4章1節~5節

明けましておめでとうございます! 今年のテーマについて祈ってきましたが、神から「Make It Happen! さあ、信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」というお答えをいただきました。信じたら神の御業が起こるということを体験していきたいと思います。去年のテーマは、与えられた信仰を磨き上げようということでしたが、さらに肝心なことは、その信仰を実際に働かせて神の御業を体験することです。このことに今年はこだわっていこうではありませんか。

1.信仰を働かせて神の御業を体験しよう

このマルコの箇所は有名なお言葉です。ここでイエスは、単に心を落ち着かせるために神を信じなさいと語られたのではありません。だれであっても、この山に向かって心の中で疑わずに信じたのなら、その通りになるとおっしゃったのです。そこに描かれている信仰は実に力強いものです。私たちの実生活の中で素晴らしい御業が起こるということを神は約束しておられるのです。ですから、みんなで共に祈っていきたいと思います。一歩踏み込んで、神に与えられるビジョンや夢を成し遂げていきましょう。

2.運や人任せにしない

次に知っておきたいことは、周りに流される生き方では幸せのきっかけをつかみ損ねるということ。人任せにしてはいけません。自分のいる所から神の恵みが与えられるということを確信しましょう。私たちの命は偶然与えられたのではなく、神から愛をもって与えられたものであることを受け止め、神と向き合って、神との関係の中を歩みましょう。私たちの力だけでは幸せにはなりきれません。だから神は、イエス・キリストを送り、私たちの抱えている不幸、災い、心の歪みや罪の性質までイエスの血によって取り除く方法を生み出してくださいました。神と私たちの命をしっかり重ね合わせ、恵みの流れに触れることができるように私たちの命を整えてまいりましょう。

3.自分の手にあるものを用いてくださる

ここに登場するモーセは、およそ3,500年前、エジプトからの、民族を挙げての大脱出を指導したリーダーでした。当時エジプトは世界最強と言われており、そのエジプトにイスラエルは400年もの間、奴隷として仕えていました。モーセは、何と80歳の時に神により指導者として召されましたが、それまでの40年間、荒野で世捨て人のような生活を送っていた無名の老人でしたので、彼はしり込みしたのです。しかし神は、モーセが持っていた何の変哲もない杖を蛇に変え、これを用いる時、イスラエルの同胞は、彼が主と出会ったことを認め、エジプトのパロの前に立つ時、この杖が神の力を発揮すると励ましてくださったのです。
主は、あなたの手にあるものは何か、と聞かれます。たとえ小さな者でも、持っている信仰を用いることです。祈り、使い、試して、信仰を働かせて行動してみることです。そして、自分のためだけではなく、神の力を必要とする所で信仰を用いましょう。たとえ自信が無くても、新年の最初の日、神の御前に立ちました。ここでの祈りによって神の御業が現されると信じましょう。あなたの手の中にあるものが武器となることを知りましょう。運任せ、成り行き任せにせず、信仰を働かせて事を成し遂げましょう!

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へりくだりの救い主

…全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。                ルカの福音書2章1節~7節

今日の聖書の箇所は、クリスマスの聖誕劇でお馴染みの場面です。ベツレヘム滞在中に、月が満ちてマリヤはイエスを産み落としました。そこは何と、家畜の飼葉おけでした。劇では、馬小屋らしい演出をします。しかし、本当の家畜小屋や飼葉おけがどれほど粗末で汚いものかご存じでしょうか?まして、人でさえまともに食べることもできなかった当時の飼葉おけはどれほど粗末だったことでしょう。聖書の語る紛れもない救い主、王の王、神の御子であるイエスが飼葉桶の中に自らの命を置かれたというわずか数節のこの物語にどれほど大きなへりくだりが現され深い価値あるものかを忘れてはなりません。

1.ご自身の神の栄光をかなぐり捨てられた

神の輝き、神の御姿、神の御子を人間に対して啓示する存在である、輝かしいお方でありながら、神の栄光を捨てることができないとは考えないで、本当に捨ててくださった。私たちは貧しい人に対して施しもしようとしますが、自分の衣服を全部貧しい人にあげ、家やマンションを売り渡して、その人々に住まわせ、自分が馬小屋のような場所で住む覚悟がありますか。人は、自分の持っている輝きや栄光を全部捨てることはできない。しかしキリストはそれを全て捨ててくださいました。

2.キリストは人となってくださった

キリストは「栄光を捨てたよ」、とかっこよく誇らしげに語られたのではなく、本当に人となってくださった。最近はペットが家族のように愛されて、かわいい犬や猫の家族と同じように暮らしている動画を見るとほっこりします。でも、考えてください。いくら好きだからと言ってあなたは犬や猫になれますか。単なる詩的な文学的表現ではなく、本当になれますか。神であられた方が、みじめで弱く力のない愚かな人間になってくださった。このものすごい出来事は、私たちと同じ人となって私たちを救うためでした。

3.キリストは仕える者になってくださった

聖書の時代の「仕える」という言葉は奴隷になることです。格好の良い執事ではありません。自分の命の自由や権利を持たず、売買され、どんな辛い仕事も汚れた仕事もする。家畜のように使われるのが奴隷です。キリストは、その仕える者になられ、自ら弟子たちの足を洗い、私たちの罪が重くのしかかった十字架を背負い、いばらの冠を被せられ、その両手に釘を打たれ、足を釘で打ち抜かれ、脇腹を槍で刺されて私たちのために死んでくださった。キリストは仕える者の姿を取ってくださいました。

4.私たちのために死んでくださった

イエスは私たちが生きることができるようにと、私たちの背負うべき罪を背負い、身代わりに死んでくださいました。命を捨てるまで私たちを愛し支えてくださったのが救い主イエスです。だからこそ飼葉おけの中の救い主なのです。飼葉おけの底、その一番深く汚い所は、私たちの心に繋がっています。適当に嘘つきで、いい加減な、こんなに汚い罪人のために下ってきてくださったことを喜び、本物のクリスマスとしましょう。救い主はへりくだりの救い主。この方だけが人の成し得ない奇跡を成し遂げ、救いを実現してくださったことを感謝し、喜びましょう。

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救い主のこの世に来られた目的

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。                 マルコの福音書10章45節

何か新しい物事を始める時には、二つのパターンがあります。一つは、とりあえず始めてみて、一つ一つの事柄を積み重ねていくうちに、方向性を見つけていく。もう一つは、最初に目標、目的を定めて、その実現のために始める。どちらが良いかという事ではなく、二つの違うパターンがあるという事を頭に入れておきましょう。そして、クリスマスは、明らかに二つ目のパターンです。この聖書箇所でイエスは、この世にお生まれになったその瞬間から、はっきりとした目的があったと明確に語っています。生涯を通して実現すべき大きな目的が最初から備えられていたのです。イエスの御生涯についてここに書かれている明確な二つの目的について見てみましょう。

1.人々に仕えるための御生涯

イエスが私たちに仕えてくださる、これはイエスの御生涯の特徴です。イエスは、神の御子、王の王としてこの世にお生まれになりました。王家の子ならば、人々がお仕えするのが当たりまえです。しかしイエスは、私たちのために仕える御生涯をお過ごしになりました。聖書の物語には、イエスが身を粉にして多くの人々を癒してくださり、人々に与え尽くす人生が記されています。イエスは、その御生涯を通して私たちに徹底的に仕え惜しみなく神の愛を与え尽くし、愛されるより愛すること、与えられるより与えること、仕えられるより仕えることを実践されました。
全知全能の神の力を身にまとう神の御子ご自身が、私たちに仕えてくださり、手本を示してくださったのです。その恵みに感謝します。

2.ご自身の命を与えるための御生涯

イエスは死ぬためにこの世に来られた。そのような使命を帯びておられた事を忘れてはいけません。
それは全ての人の罪を取り除き罪からのきよめ、贖い、救いを成就されるためでした。イエスがお生まれになった時、十字架と復活を最初からイエスは見ておられたのでした。それは十字架での罪の贖い、神の救いを実現するためでした。血を流す事なしに人が贖われる事はない、これが神のお約束でした。私たちの身代わりとなって十字架で死ぬためにお生まれになった、これがイエスのご誕生の目的でした。
2000年前、イエスが人としてお生まれになったことを喜ぶだけが、本当のクリスマスの目的ではありません。イエスが、神の愛を徹底的に現し、人に仕え愛するため、神の愛を自ら実践するため、そして、十字架で罪の身代わりとして死ぬためにこの世に生まれたことを心から感謝しましょう。今から分かち合う聖餐式は、そのイエスのいのちの目的であるイエスの愛と十字架の死の意味を本当に知っている者だけが与(あずか)ることができるものです。
主はザアカイの箇所で、「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」と語られました。そして、パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と語り、ヨハネは、「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と語りました。「この方以外には、だれによっても救いはありません」と聖書記者たちは皆、語ったのです。
世の中がクリスマスの楽しい雰囲気にある中で、私たちクリスチャンは、イエスの来られた目的を絶対に忘れず、罪から私を贖い救ってくださったことを感謝して、クリスマスを喜びましょう。

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あなたのような神が、ほかにあるでしょうか!

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。…あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
                      ミカ書5章2節、7章~18節

   
東方の博士の話で有名な、救い主聖誕の地ベツレヘムの預言です。ミカの預言から数百年後、東方の博士たちがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と言います。ヘロデ王は恐れ惑い、祭司長や学者たちに、キリストはどこで生まれるのかと問いただしたとき、彼らはミカ書の預言にあるとおり「ユダヤのベツレヘムです」と答えたのです。
当時、北イスラエル王国の都サマリヤも、南ユダ王国の都エルサレムも「廃墟となる」、「ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ」と預言されていたのです。しかし、どこにも救いも希望もないという時代に、やがて救い主が生まれるという希望の預言が与えられたのです。だから、ミカは叫ぶのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」。

1.あなたのような神はほかにない

この言葉には驚きと感動があります。生きた信仰には驚きが伴います。神の恵みは驚くばかりの恵みです。救われた私たちは、闇の中から驚くべき光の中に招かれているのです(Ⅰペテロ2:9)。なまぬるい信仰ではなく、生きた信仰、それが、当時のイスラエルにも私たちにも必要なのです。最近、神様の恵みに驚かされた、ということがありますか? もう神様の恵みに驚かされっぱなしです、というワクワクするような感動があふれる日々を歩むことができるとしたら、なんと幸いなことでしょう。私たちの人生には、主によって驚くばかりの特別な素晴らしいことが起きると信じましょう。そして、私たちは主を賛美して言うのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と。
また、たとえ特別なことが起きなくても、です。こうして生きることをゆるされていること、三日坊主の私たちが主を信じ続けられていること、それは特別な奇跡です。それは、主が、私たちの信仰がなくならないように、私たちのために祈ってくださっているからです。こんな素晴らしい神様がほかにあるでしょうか。私たちがへりくだって、いっしょに歩むことを求めてくださる神、こんな神様がほかにあるでしょうか。「人の間には、正しい者はひとりもいない」(7:2)。みんな罪人です。しかし、主は「咎を赦し、そむきの罪を見過ごされ、いつくしみを喜ばれる」のです。だから、ミカと共に私たちも叫ぶのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と。たったひとりの罪人の私たちが救われる時、天で大いに喜んでくださる神、こんな神様はほかにはありません。

2.こんな素晴らしい人生はほかにはない

こんな素晴らしい神様に出会えた私たちは、「こんな素晴らしい人生はほかにはない。私は誰よりも幸せです」と、みんなでそう言い合えるのです。

3.ほかにない神の恵みを伝える

こんな素晴らしい神様、救い主はほかにないと知ったから、キリストの弟子たちは、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と伝えたのです(使徒4:12)。ほかにはない素晴らしい神様に出会えた私たちは、この道しかないと確信し、神の恵みの福音を語り伝えていくのです。そして、新しく救われる人々と共に、主を讃美するのです、「あなたのような神様は、ほかにはありません!」と。

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信仰による感謝の心

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」
                  コロサイ人への手紙3章15節~17節

先週、メトロの働きの後、10名の里親の皆様と世界的に有名な教会の礼拝に、4カ所出席しました。その中で共通して語られたテーマは“感謝しよう”でした。アメリカはこの時期、収穫感謝祭なのです。収穫感謝祭は、1620年、イギリスからアメリカに渡ったピューリタン(聖教徒)から始まりました。彼らは神の栄光のために生きることを一番の目的とし、神に喜ばれる生き方ができるようにと、まず礼拝をもって新大陸の生活を始めました。厳しい最初の冬、何人もの人が命を落としましたが、春になり、生き延びた人々は大地を耕し、種を蒔きました。そして秋になり、初めて収穫できた作物を前に、神に心からの感謝と祈りを捧げたのです。この祈りがずっと受け継がれ、今も収穫感謝祭として根付いています。私たちも、生かされていることを感謝できているでしょうか? 口先だけの「ありがとう」「ごめんなさい」ではなく、自分の弱さを認め、悔い改め、へりくだりって人と接しているでしょうか。本当の喜びを込めて感謝しているでしょうか。このことも踏まえ、聖書が語る感謝を学びたいと思います。今日の箇所は、パウロがコロサイの町の教会に送った手紙です。パウロは、豊かな人生を歩むために必要なことは何かを教えています。

1.キリストの平和で心を支配しよう

15節にキリストの平和があなたがたの心を支配するようにとあります。キリストの平和とは、十字架の贖いにより、私たちは既に神と和解させていただいていることです。ですから、パウロは、感謝の心を忘れないでいるようにと教えています。詩篇92篇には「主に感謝することは良いことです」と語られています。キーワードは、感謝です。あなたの心が不平不満・愚痴・怒りではなく、主の前にへりくだり、喜び・感謝で溢れますように。感謝する心を忘れない、このことを自分に言い聞かせ、心に刻みつけましょう。

2.感謝を土台とした信仰生活

あなたの信仰生活が、困ったときの神頼み、薄っぺらな信じ方になっていないでしょうか。16節の御言葉「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ…心から神に向かって歌いなさい」これが、信仰生活の基本です。神の言葉を心の中に豊かに住まわせ、御言葉を土台として生きるとき、感謝に溢れ、そこに本物の平和があります。「私の人生は不思議です。神によって選ばれ、愛され、イエスを信じ、救われ導かれました。心から、あなたに賛美を捧げます」と歌うのです。神の愛を喜び、神への感謝が土台にある信仰生活を大切にしましょう。

3.言葉・行動を感謝で味付けしよう

17節にあるように、私たちの言葉・行動にも、心からの感謝を込めて、言葉を語りかけ、行動を起こしてまいりましょう。神様との関係においても、人間関係においても、常に感謝の心で歩むことから、平和は実現していきます。平和を生み出す土台は、感謝する心です。1年のこの時期、クリスマスを前にして感謝することを忘れてはいけません。主の前にへりくだり、心の中に感謝をいただきましょう。私の信仰生活が、神に向かって感謝を土台とし、語る言葉も行動も、感謝をもってなすことができますようにと、祈ってまいりましょう。そして、主に感謝し、クリスマスの主役であるイエス様をみんなでお伝えしましょう。

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救いの衣、義の衣

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。     イザヤ書61章10節

現在の日本のキリスト教会では、まだリバイバルが起きているとは言えません。しかし私は、日本で大きな宣教の業、リバイバルが起こされると確信しています。ですから皆さんも喜んで主の前に仕えていただきたいと思います。

1.神の用意した救いの衣を受け入れる

イザヤ61:10には、神は私たちに「救いの衣、正義の外套をまとわせ」と記されています。マタイ22章でイエスは、「王の結婚」を譬(たと)えとして「天の御国」がどのようなものかを語られました。「最初に招かれたにもかかわらず来なかった人」とは「イスラエルの人々」のことで、「王子」はイエス、「大通りの人々」は「異邦人」をさしています。王は大通りにいる良い人も悪い人も全ての人を招き、準備のないその人たちに王は礼服を準備したと考えられます。しかし、礼服を拒絶した人は、つまみ出されたというのです。神が私たちのために「救いの衣」を準備して招いてくださり、その衣を受け入れた者が御国に入ることができるということは「神の国の法則」に合致しています。私たちが良いことをしたから、お金を払ったから、救いの衣を受ける資格があるのではないのです。神が準備したものを受け取った者だけが、資格を持つのです。

2.救いを受け入れた者の性質を理解する

イエスは十字架に架けられる前に、弟子たちの足を洗われ、「水浴した者は足以外洗う必要はない」と語られました。私たちは、100%義であるという「義の衣」を頂いていますが、この世界に生きる限りは足が汚れます。礼拝に集う皆様は神に愛される存在ですが、この世で私たちは傷を負ったり罪を犯してしまったりします。だから私たちは、罪を告白して清められなければならない、「足を洗う必要がある」のです。私は罪を犯したので礼拝に来る資格がない者だ、という間違った考えを持つと、どんどん神から遠ざかってしまいます。そうではない、私たちはこの世にあっては罪を犯すけれども、それを告白することで清められるという性質を持っているのです。神から頂いた義の衣を着ているあなたは、神に愛されているのだという事を今一度確認しましょう!

3.旧約から変わらない神の御性質

旧約において、神はアダムとエバに裸を覆うための皮の衣を着せてくださいました。この衣が、義の衣の原型だと考えられます。皮の衣を得るためには、獣が殺され、血が流れる必要があります。この獣が、おそらく小羊であったのではないでしょうか。もし神がアダムとエバに血を流して罪の赦しを与えたとするなら、もう既に恵みの福音が示されていたのです。創世記4章で、カインとアベルの話があります。なぜ彼らは、同時に捧げ物をしたのでしょうか。おそらく彼らは、神との交わりがあったアダムとエバによって「血を流すことなしに罪の赦しはない」という、血が流された皮の衣、すなわち義の衣の意味を教わっていたのではないでしょうか。そして、正しい礼拝のための捧げ物とは何かということも息子たちに伝えていたのでしょう。永遠の昔から今日に至るまで、神は変わっておられません。そして、これからも変わりません。一方的な恵みによって私たちを救い、導いてくださるのです。この恵みに感謝します。

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いやし主キリストにシンクロしよう

それからイエスは、…安息日ごとに、人々を教えられた。人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。…イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。…日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。…    ルカの福音書4章31節~41節

自然界は神の定められた通りに従って季節が進んでいます。この秋の日々も神が定められた通り、本当の命を与えられたクリスチャンらしく基本に立ち返り、聖書通りの信仰を持っていきたいと思います。
今日の聖書箇所は、イエスの日常が描かれています。イエスの御業は聖書には記録されていないものも数多くありますが、イエスが毎日どのように過ごされていたのかが分かるように描かれているのが今日読んだ箇所です。あるカペナウムでの一日、イエスの日常にはどんな特徴があったのでしょう。

1.イエスの教えに権威と力がある

イエスは事あるたびに神の言葉、福音を語って人々に教えておられました。イエスの語られる言葉と教えには、上手さや話の深さ、幅広さではなく、権威があり力があったのです。これはイエスの典型的な毎日で、いつものように人々を教えていましたが、イエスのお言葉には凄まじい権威と力があったのです。これを注意して受け止めなければいけない理由があります。今は情報化の時代であると共に、情報が溢れかえって、情報が軽く安っぽくなっています。百科事典以上の最新の世界中の情報が簡単に手に入るだけでなく、私たちの言葉が軽くなり、言葉に価値のある人が減っています。この社会の言葉は軽くて信用なりません。でもだからこそ、イエスのお言葉にある権威と力を頂こうではありませ
んか。

2.人々を悪霊から解放する

救い主イエスのお言葉には力があり、それが用いられると、人々は悪の霊の働きから解放されました。悪霊に取りつかれた人に、イエスが「黙れ、出ていけ」とお言葉を発せられた瞬間、不安、悲しみ、怒りや暴力で満ちていた悪霊が出て行き解放されました。悪の力に左右されて、神から与えられた人生をつまらないものにしてはなりません。今現在の日本において、典型的な悪霊の働きの現れは、鬱です。人生の中に喜びや楽しいことがないわけではないのに、仕事のストレスや家族の心配事やお金の不安、あるいは愛する人に裏切られたなど、様々な経験を悪霊は利用して鬱をもたらし、人生が絶望であるかのような錯覚を与えます。神から与えられた素晴らしい価値ある人生を、何の価値もないように思わせるのです。イエスのお言葉が権威、力として働くならば、そういう否定的な悪霊の力から解放されるのです。イエスは解放者なのです。人々を悪の力から自由にしてくださる方です。

3.人々を癒してくださるイエスの日常

イエスは誰であっても病人を癒されました。ありのままのイエスは癒し主です。権威と力があるだけではなくて、人々を癒してくださるのです。私たちの人生の中に飛び込んでくださり、一番近い所で病から癒してくださる、それがイエスのありのままの姿であり、典型的なイエスの一日。当たり前のようにイエスは、連れて来られる病人や悪霊に苦しむ人々を次々と癒されました。今日のこの礼拝の中で、私たちはこのイエスの御業を体験したいのです。だから、イエスを自分の理屈や願望に引きずり下ろすのではなく、イエスの基本に自分を重ね合わせ、シンクロ(同調)させましょう。救い主に自分を当てはめ、癒しの御業をなしてくださいと祈りましょう。

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神の恵みによって導き出された私たち

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。…パウロは彼に目を留め、…「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。…ゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。…バルナバとパウロは、…言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。…          使徒の働き14章8節~18節

「Brush Up! 与えられた信仰を整え働かせよう!」を今年のテーマに歩んできましたが、残りの2か月もイエスと共に充実した歩みをしましょう。
今、自国の貧困や政情不安から逃れるために中米各地から大勢の人たちが、歩いて米国を目指すという、出エジプトを思い起こさせる事態がニュースになっています。いかに世の中が豊かになっても、身勝手な人の知恵では、一部の人しか幸せになれないということです。幸い、出エジプトでは、神ご自身のご計画と導きがあり、祝福がありました。どんな人生にも神の知恵、導き、守り、救いがなくてはなりません。神と共に歩むとき、本当の幸せが与えられるのです。一方、安心安全な日本では、心を病み、喜びや平安、希望を見いだせない人が少なからずいます。昨日の教会の運動会では、神の家族としての交わりの楽しさ幸せ素晴らしさを感じ、現代を生きるには、救い主イエスと共に歩む教会生活が必要だと改めて確信しました。神を信じる人の幸せには、人の知恵や世の流行ではなく、イエス・キリストの救いと罪の赦し、神の子とされる恵み、永遠の命の約束をいただいているという、根拠があります。
今日の箇所は、パウロの3回の大伝道旅行のうち1回目の、ギリシャからそう遠くない異邦人の町ルステラでのエピソードです。そこでパウロが行った素晴らしい奇蹟に大興奮した人々が、パウロとバルナバをギリシャ神話の神々の名で呼び、生け贄までも献げようとしました。そこでパウロは、人々の誤解を正そうと神の愛の姿勢を明確に語りました。

1.神なしでは迷う

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)。大昔も今も、天地創造のまことの神、命の与え主を知らない人間は、愚かで罪深く、いつも迷い悩み苦しむ弱い者です。失敗や挫折のほとんどは、自信過剰で何でもできると思い込んでいることによるものです。自分の罪深さ弱さを認めましょう。教会に導かれてクリスチャンになる前、どれだけ迷い悩み、不安で悲しんでいたかを思い出してください。

2.救い主イエスを通して立ち返る

自分だけの力に頼っていたのでは、虚しく迷い続けるだけです。神を知らない罪深い生き方から、救い主イエスを通して現された神の救いへ立ち返るようにと、神の恵みの知らせ(福音)が届けられたことを感謝しましょう。救い主イエスが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、私たちは罪から解放されたのです。

3.救われるずっと前から祝福の神

神は、私たちが罪の中にあって救われる前から、既にありとあらゆる恵みと祝福を用意してくださっていました。以前は美しい景色を見ても、不平不満は消えませんでした。しかし、クリスチャンになってから、心に変化を感じていませんか。自然界の美しさがわかるようになり、外の世界が輝いて見えます。
今日の聖餐式でパンとぶどう酒をいただき、イエス・キリストとひとつであることを確認し、主と共に歩む人生を感謝しましょう。虚しい偶像礼拝や弱い人間を神とするような愚かな生き方から解放されて、まことの神とつながって11月も歩んでまいりましょう。

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主に向かって働かせる信仰

…ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。…ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。…イエスは立ち止まって、…「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。        ルカの福音書18章35節~43節

今日は、一人の盲人が、イエスによって癒された箇所です。これに続く19章では、取税人ザアカイが救われた物語が出てきますが、この盲人とザアカイは、共に、主に出会ったその時に救われています。信仰者としての経験は1日にも満たなかった彼らに、主はその信仰に答えて偉大な御業をなしてくださいました。どんなに弱い者の祈りであっても、信仰を持ってイエスに近づく時には、主が答えてくださることを信じましょう。この盲人が語った三つの言葉から信仰の基本中の基本を学びたいと思います。

1.信仰のスイッチを入れよう

イエスが近づいてくると聞いた彼は、叫び始めました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。彼が心のスイッチを入れ、救い主であるイエスに向けて自分の心を表明したのです。私たちは毎日、仕事や、お金や、人間関係や家族のことに対して、いろんなスイッチを入れて対処します。しかし、主イエスに対する信仰のスイッチを入れ忘れていないか注意しましょう。この盲人は、盲人として生きていくためのいろんなスイッチを持っていたでしょう。でも彼は本当の幸せを手にするために、イエスに会いたいという信仰のスイッチを入れたのです。私たちは病気になった時に、どんな心のスイッチを入れますか? 薬や医者や医療のことに関するスイッチを入れる前に、いやし主イエスに向けて信仰のスイッチを入れる者になりたいと思います。

2.イエスに焦点を合わせ集中しよう

うるさく叫びたてるこの男を、人々は黙らせようとしましたが、彼はますます叫びたてたのです。イエスにこの声を聞いていただき、イエスから憐れみを、癒しを受けたい、と彼はますますイエスに集中し、イエスだけに信仰を絞り込んでいったのでした。私たちも、どうしても手にしたいものがあるとき、周囲からは、反対や、諦めさせようとする力が働くかもしれませんが、それで諦めたら終わりです。それでもどうしてもという思いを持ち続ける人だけがそれを手にします。理屈や自分が立派になるという前に、イエスを求めるということにおいては、一心不乱にイエスに集中し、絞り込み、焦点を合わせていくことが大切です。人々に関係なく、彼はますますイエスに集中し、信仰を絞り込んでいきました。私たちにも、イエスだけという真剣な集中が与えられますように。

3.本当に必要なものを描いて求めよう

イエスの近くに連れて来られ、「わたしに何をしてほしいのか」とイエスに尋ねられた彼は、何の躊躇もなくはっきりと言いました。「主よ。目が見えるようになることです」。イエスに集中した後、主は必ず求めているものを聞かれますから、自分の一番必要としているものを明確に把握していることが必要です。この盲人は、目が見えるようになることが、人生を根本から変えると知っていて、一番求めるべきものをはっきりとイエスに求めました。本当に必要なものを何の躊躇もなくイエスに求めましょう。あなたの病が癒される時、後の人生がどう変えられ、主の喜びで満たされた、どのような人生が始まるかを心に描きながら求めていきましょう。そんな恵みを引き出す信仰をあなたも働かせることができますように、主を求めて祈ってまいりましょう。

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