救いを成し遂げてくださった主

・・・今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。・・・
       コリント人への手紙第二8章11節、ピリピ人への手紙2章6節~11節

皆さんのお祈りを心から感謝します。インド伝道から守られて帰国することができました。自らの主催で、伝道の働きをインドで展開しているわけですが、今回も兄弟姉妹がお捧げくださった献金を用いて「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)」と言われたイエス様の大宣教命令、すべてのクリスチャンに与えられた信仰のチャレンジのご命令に従い、伝道の働きをすることができたことを心から感謝します。
サナガパドゥでの特別集会の初日、激しい雨のため、2時間遅れで野外集会が始まりましたが、天候は悪くなる一方で、集会場所変更か中止の決断を迫られました。これまで、どんな天候であっても野外集会が中止となることはありませんでしたので、「とにかく集会をさせてください」と祈り、建設中の教会に移動して続行しました。賛美やメッセージを語っている間に神様は「自らが行う準備、人の手配、集会にこだわり過ぎているのではないか、集会の主導権は私にある、主にゆだねなさい」と霊的に何度も語られたように感じました。「どのような条件であっても、集会の中心はイエス様、あなたにあります。すべてをゆだねます」と感謝して祈りました。
自分の願望、思いだけで終わるのではなく、私たちの信仰によってやり遂げるためのポイントを確認してまいりましょう。

1.私の思いを信仰によって形にする

今回は雨に遭遇したことにより、計画し、願っていたような姿でのインド伝道ではなかったかもしれません。でもその与えられた条件の中で、今回のインド伝道をイエス様の栄光のために、主に喜ばれるように、イエス様の福音が語られ、人々が救われ癒さるようにと、最大限のチャレンジをもってやり遂げることができたことを感謝しています。
神から与えられた夢や目標を、単なる思いや考え、願望だけで終わらせるのではなく、それを本当に実行し、やり遂げて形にするのです。
今年のテーマは「Make It Happen!さあ、信仰を働かせよう。事を成し遂げよう」でしたね。私たちが信じたことは、成し遂げられやり遂げることができるのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」とあります。心から感謝して「今年も私たちはインド伝道をやり遂げることができました」と、宣言します。私たちの信仰にはイエス様が共にいてくださって、イエス様が御業を成してくださいます。主が私の祈りに応えてやり遂げてくださることを感謝します。

2.信仰のモデルはイエス様

単なる願望ではなく、事を成し遂げていく信仰のモデルはイエス様です。イエス様は信仰の土台であり、私たちの信仰生活の軸です。キリストは神の御姿の現れであるのに、神の栄光を捨てることができないとは考えないで、人間と同じ姿になり、いや、それよりも卑しいもの、奴隷の姿となってこの世に下ってきてくださいました。できないとは考えないで、本当に罪の贖いをやり遂げてくださったのです。私たちの罪を身代わりとなり背負ってくださり、救いの道を成就してくださいました。イエス様によって私たちが救われたことを感謝します。

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無名の働き人

アラムの王の将軍ナアマンは、…勇士ではあったが、らい病にかかっていた。アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」…アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。…                  列王記第二5章1節~14節

万代師は、インド伝道の真最中です。主は常に私たちの思いや願いにまさることをしてくださるお方です。今日は最終日ですが、回を重ねるに従って、人は増えていきますので、天候が守られ、たくさんの方が集められ、主の救いといやしが現されるよう続いてお祈りください。
今日は、アラムの将軍ナアマンがいやしの恵みをいただくきっかけとなった一人の少女の働きにスポットライトを当てて恵みをいただきましょう。少女は、イスラエルから略奪され、ナアマンの妻に奴隷として仕えていました。敵国であるアラムとその将軍のナアマンを恐れ、恨んでいたことでしょう。しかし、らい病に冒されているナアマンを見て、滅んでしまえばいいとは思わず、様々な葛藤を捨てて「サマリヤにいるエリシャのところに行かれたら、きっとらい病が治る」と証ししたのでした。今日は、神を証しすることがどれほどの祝福をもたらすかを考えてみましょう。

1.「証しの力」を信じよう

無名の少女が意を決して、らい病のナアマンに神のいやしを証ししたことによって、ナアマンはいやされ、アラムにとっても大きな恵みとなりました。「全世界に出て行き、全ての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とイエスは言われました。神から恵みをいただいた者として、常に恵みを誰かに証しするという使命があります。あなたの小さな信仰の行為が、まわりに大きな恵みを起こします。

2.働き人として用いていただこう

カナの結婚式で宴会の途中、ぶどう酒がなくなり、イエスはしもべたちに水がめに水を満たしなさいと言われました。イエスが言われるように一生懸命に働いて水を汲んだしもべたちだけが、水がぶどう酒に変えられるという神の御業を目の当たりにしたのでした(ヨハネ2:11)。このしもべたちもナアマンに証しした少女も、無名の働き人でしたが、神を信じて大きな働きをして用いられました。

3.働き人から受ける恵み

少女の小さな証しが、ナアマンはもちろんアラムの国にも、そして少女自身にも大きな恵みをもたらしました。私たちも多くの無名の働き人によって恵みをいただいていることを忘れてはなりません。私は救われる前に、高知で昼間は働き、夜は定時制の高校に通っていました。ある日、友だちから彼の机の中に入っていたという一枚の教会のトラクトを渡されました。そこには「あなたも教会に行ってみませんか」と書かれていました。それから何カ月も自分の引き出しにしまったままでした。楽しく過ごしていましたが、このままでいいのかと人生に疑問を持つようになった時、そのトラクトにあった教会に導かれ、クリスマスに洗礼を受けたのです。だれが配ったかわからない一枚の教会の案内チラシがきっかけで、私は信仰を持ちました。そして今の私がいます。感謝しかありません。また、母が病気になった時、母に手を置いて祈ると、目の前で母がいやされました。この恵みによって、病で苦しんでいる方のために手を置いて祈らなければならないことを教えられました。私たちも受けた神の恵みを証しするならば、神の栄光が現されます。名もない私でも、働き人として用いてくださいと願おうではありませんか。

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聖霊なる神の働きの中で祈る

ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。…ピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、…安息日に、…集まった女たちに話した。…神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。            使徒の働き16章9節~15節

8月の締めくくりの一週間の始まりです。主によって強められ、励まされ、元気よく歩みましょう!今週の金曜〜日曜はインドでの大集会が予定されています。このために、皆さんぜひ祈ってください! 私たちは、小さな存在ですが、偉大な神の御業のスケールで祈ることをやめてはなりません。クリスチャンの心の中には、神の御心が流れ込み、自分の小さな人生が満たされることだけでなく、全世界でイエスの御業が前進するように祈ることができるのです。
この聖書箇所は、パウロとシラスによる伝道旅行のことです。パウロにとっては第2回目の伝道旅行ですが、その中で、歴史の転換点ともなる大きな出来事が起こります。パウロは幻を見ます。それにより、聖霊の導きが分かったのです。トルコ(アジア)の地から遂に海を渡り、マケドニア、ギリシャ、(ヨーロッパ)へ、そして世界全体へとイエスの福音が広がっていく大きな転換点、パウロたちが初めて福音を携えてヨーロッパへ渡った箇所です。
癒しを祈る私たちの信仰が、どんなスケール感、どんな世界感を意識しながら祈るのかを3つの点から確認したいと思います。

1.神の偉大な御旨に従う

聖霊は確かにパウロたちを西へ西へと導き、アジアからヨーロッパへと渡るようにされたのです。これは単に彼らの伝道旅行ではなく、聖霊に導かれ、全世界を視野に入れた神の大きなご計画の中にあったのです。明後日からのインド伝道も、私たちの教会の小さな一つの伝道旅行です。しかし、主の御旨の中で大きく用いられることを疑いません。今も聖霊の働き、導きがあることをはっきりと知ってください。

2.聖霊による語りかけを受け止める

神からの幻が与えられた時、パウロはそれに従いました。神は御旨を伝えるために私たちと関わってくださるのです。主は聖霊によって語りかけてくださるのです。感謝しましょう! 兄弟姉妹、私たち一人一人、小さな者に見えても、神の語りかけを受け止める信仰があるなら、聖霊により、神の御旨の受信機と変えられるのです。ですから神の御旨を求めて祈りましょう! そうすれば、小さく弱いあなたであっても必ず神の御業を体験することができるのです。

3.神は小さな者一人一人を用いてくださる

伝道の大きな転換点でありながら、パウロがピリピの町で出会ったのは、一人の女性でした。神は偉大なご計画を持ちながらも、普通の人々との出会いを通し、魂の救いの業を成し、その人々を用いてくださるのです! これを忘れてはなりません。神は紫布の商人のルデヤを用いられました。彼女は、聖書のことはよく知りませんでしたが、天地宇宙を創られた神を礼拝する心を持っていたのです。そしてパウロと出会い、イエスの十字架と復活を聞き、イエスが救い主であることを知り、イエスを信じバプテスマを受けます。そして彼女は、信者になったばかりでしたが、自分が用いられることを願ったのでした。
神の偉大な業は、必ず一人の信仰者を用いて動き始めるのです。神は私たち一人一人にビジョンを与え、大きな御業のきっかけとして用いてくださいます。このことを知って、私たちも神に用いられるように祈ってまいりましょう。

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天が地よりも高いように

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。…主は、あなたのすべての咎を赦し、…あなたの一生を良いもので満たされる。…天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。…私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。…天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
               詩篇103篇1節~17節、イザヤ書55章6節~9節

詩篇103篇とイザヤ書55章に共通する表現があります。「天が地よりも高いように」です。天が地よりも高いように、主の恵みは大きいのです。

1.天が地よりも高いように大きい主の恵み

天が地よりも高いように、私たちよりもはるかに大きな神様がいらっしゃると知って、主をほめたたえることができる、それは、ほんとうに幸いなことです。
世にあっては患難があります。「どうして、こんなことが起きてしまったのか」、「これからどうすればよいのか」、私たちには分からない、理解できないことに直面するこがあります。天が地よりも高いように大いなる神様を知らなかったとしたら、自分の力だけでは、どうにもならないことがあります。そんなときに、ただ泣き言を言ったり、神様に文句を言ったりするのではなく、讃美するのです。私たちの道、思いよりも、はるかに高い神様の道、思いがあるのです。私たちには分からなくても、すべてを知っておられる神様には答えがあるのです。天を、神様を見上げましょう。ギリシャ語で、人間は「顔を上に向ける者」という意味です。人間を超えた上なる存在、天のように高い神様に心を向けましょう。祈りましょう。そのとき、天が地よりも高いように、私たち人間の考えをはるかに超えた神様からの答えが与えられます。全知全能の神様の恵みの大きさを知ります。そして、主を讃美しないではおられなくなります。天が地よりも高いように、あなたの恵みは、なんて大きいのでしょう、と! それが、讃美する、あがめる、ということなのです。「あがめる」とは、ギリシャ語で「大きくする」という意味です。私たち心の中で、神様が、もっともっと大きくなりますように! 天が地よりも高いように!

2.天が地よりも高いように大きな赦し

詩篇103篇とイザヤ書55章、どちらも、天が地よりも高いように大きな恵みとして語られているのは、「赦し」です。天が地よりも高いように、私に与えられている神様の赦しの恵みは、なんて大きいのでしょうと、感謝できる人は幸いです。その人は、自分の罪の大きさに気づいて、高ぶることなく、へりくだって生きられるから、幸いです。主の愛と赦しの大きさに気づけて、感謝し、讃美できるから、幸いです。赦しの恵みの大きさを知り、それが自分だけのものではなく、もっと大きく、すべての人のための赦しであると知ると、あの人も、この人も、赦されて救われるべき尊い人々に見えてきます。赦せなくて、さばき合うことは、もうありません。主が十字架で死なれたのは、この私のため、すべての人々のため、だから、みんなの赦しと救いを祈るのです。そして、赦され救われる私たちを喜んでくださる主と共に私たちも喜ぶのです。天が地よりも高いように、あなたの赦しの恵みは、なんて大きいのでしょう、と!

3.天と地がつながる恵みに生きる

天が地よりも高いように、神様は私たちよりもはるかに高く、かけ離れた御方です。しかし。罪という仕切りが取りのけられるとき、天と地がつながるように、私たちは神様とつながって生きることがゆるされるのです。天から地に雨が豊かに降り注ぐように、主の恵みが私たちに注がれて、私たちの一生は良いもので満たされるのです。人にはできない神様の奇跡の恵みで満たされるのです。ハレルヤ!

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召された人々の語ることば

しかし、あなたは、…アンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。…あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。…聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
                テモテへの手紙第二3章10節~17節

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。(Ⅱテモテ3:15)天に召された主にある兄弟姉妹、一人一人から、愛してやまないイエス・キリストに対する信仰をしっかりと受け止め、思い起こして学ぶ者でありたいと思います。私たちに与えられている命には使命があります。私たちに与えられたその使命が何なのかを問いかけながら日々歩んでいけることは幸いなことです。与えられた命の恵みを感謝していまいりましょう。パウロは死を目前にし、死にゆく者の言葉としてこの手紙を書いたのでした。私たちも天に召された兄弟姉妹方の残してくださった信仰の姿を受け取り、信仰者として恵みにとどまり続けるための4つのポイントを確認してまいりましょう。

1.本物の絆を感謝して受け取る

パウロはいつ死刑になるかわからない状況で、自らの伝道者としての生涯に、危険を顧みず同行してくれた弟子のテモテに、どうしても伝えておかなければならなかった感謝を伝えています。本物のつながりのある者でしか伝えることのできない感謝や思い出があるのです。迫害や苦難も一緒に耐えてくれたテモテに対する心からの感謝です。信仰の先輩たちが私たちに何を伝えようとしていたのか、その肉声が届いていますか。信仰の先輩方との愛による深い絆と関わりがあったからこそ、伝えられている人生の感動を、愛を、感謝を忘れてはなりません。

2.人生の価値観を分かち合う

私たちは大切な人たちとの関わりの中で、人生の生き様や価値観というものを分かち合ってきました。信仰の先輩から人生の多くを学んだはずではありませんか。パウロは、道は少々厳しくとも、神の正義、正しさ、愛のある人生を選択するように語っています。私たちは、クリスチャンである兄弟姉妹たちから神を信じて神の前に正しく生きることを教わったのではありませんか。天に召された兄弟姉妹方の信仰の姿勢を忘れることのないようにしましょう。

3.伝えられたことを思い起こす

パウロは、聖書の教えが、あなたが人生を生きていくための神からの教えであると語っています。私たちは信仰の先輩方から具体的に伝えてられてきた教え、毎週教会に行くこと、毎日の生活の中で祈ること、聖書を読むこと、献げることなど、単なる価値観ではなく、教え、戒めとして語られていたことを受けとめ直して生きる者でありたいと思います。

4.神の恵みの中にとどまり続ける

人生を豊かに生きていくための教え、戒め、さらに人とし成長していくための霊的訓練として聖書は有益なもので、その教えの中にとどまっているようにとパウロは語っています。神を信じて生きることが現在進行形で、神の恵みの中にとどまり続けましょう。信仰の先輩が教えていた信仰、救いとは、いつも神の恵みにとどまり続け、成長し、変えられ、整えられていくことだったはずです。永遠の命につながる継続した信仰生活を自分のものとしようではありませんか。信仰の先輩たちがあなたに伝えようとしたことをしっかり受け止め、その信仰に倣って、受け継ぎ、伝えていきたいと思います。

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味方である神様と共に歩む

…神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、…私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。               ローマ人への手紙8章31節~39節

クリスチャンとして、信仰を持って神を信じて生きることはすばらしいことです。世の中ではちょっとしたイライラや怒りが高じて、とんでもない犯罪につながり、悲劇が起こります。しかし、ちゃんと教会に通ってクリスチャンとして歩んでいると、たとえストレスがあってもイエスに委ねて問題を解決していただき、圧倒的な勝利者になることができるのです。
神が私たちを愛して恵みを備えてくださっているから、神に近づきさえすれば、どんなことがあってもすべては転じて益となり、祝福と恵みへ変えられていくことをぜひ体験しましょう。礼拝出席や奉仕、献金、教会行事への参加が、単なる習慣や決まり事というレベルではなく、あなたの信仰をリフレッシュしていただいて、神のいやしと喜びを取り戻し、本当のクリスチャンの信仰に目覚めてほしいと願っています。
ぜひ、今日の礼拝の中で、基本のあるべき姿にもう一度立ち帰りたいと思います。31節にあるように「神が私たちの味方である」ことを思い起こしてください。もし最近、あなたの信仰生活に疑問や不安を覚えているなら、いつも共におられるイエスに目を向けることを忘れているのです。イエスがいつも支え、励まし、どんな時も私たちから離れず、導いてくださる味方であるという真理に立ち帰ってほしいと思います。私たちの味方である神が与えてくださっている大きな3つの恵みを確認しましょう。

1.御子イエスの命が与えられている

神は私たちを愛して、御子イエスの命さえ惜しまず、私たちの罪をあがなうために十字架に架けられました。御子イエスを信じるならば、罪きよめられ、あなたの人生を幸せへと導いてくださいます。イエスの命までくださった神が、私たちが祈るなら、出し惜しみすることは絶対にありません。病をいやし、長寿を与え、家族の平和や複雑な人間関係や仕事の問題も解決してくださいます。

2.勝利が与えられている

世の中に偽物の愛がはびこっているということはすなわち、とてつもない価値ある本物が存在するということです。それは、私たちの罪の身代わりとなって死なれたイエスの愛であり、その愛は本物で力があります。夫婦や親子のかけがえのない愛もありますが、キリストの愛は必ず私たちを恵みへと、勝利へと導きます。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:5)どのような状況に置かれようとも圧倒的な勝利者となることができます。それは、あなたを愛してくださった神の御子イエスが共におられるからです。

3.神との絆が与えられている

命さえ脅かす様々な困難があった2000年前でさえ、パウロは告白しています。どんなものも神の愛から私たちを引き離すものはない。あなたが、味方である神を信じた時に、何があろうと切れない神との絆が与えられています。神の愛に終わりはありません。私たちはずっと神の子どもであり、神の家族の一員です。その平安の中にいることを感謝しましょう。
神の愛は変わりません。今日の聖餐式で、イエスがあなたを愛して十字架に架かられた恵みをいただいて、夏の日々が喜びに満たされ、2019年の歩みが躍動感に溢れるものになりますように。

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信仰により良い実を結ぼう

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。  ルカの福音書6章43節~45節

この夏、私たちが本当に幸せな歩みをするために 今日の礼拝の中で、「主よ、私が悪い物を引き寄せないよう私を整えてください、私が本当に良い恵みを生み出す者となれますように」と祈り、イエスにきよめて頂きましょう。
兄弟姉妹、私たちが気をつけたいのは、自分の人生に「悪い実」、良くない結果や悪い人間関係、不幸な物語ばかりが、もし沢山起こっているなら、人を責める前に、自分の人生の生き方や心、魂の状態を正しく見つめて、整え直す必要があります。日本にも「類は友を呼ぶ」ということわざがあります。そういうことを念頭に置いて、今日の聖書箇所から4つのことを確認したいと思います。

1.神の鏡に自分を映し出す

よい木でありたいと思いながら、悪い実ばかりがなっているなら、木そのものを疑ってみなくてはなりません。自分の生み出している「実」、私たちの周囲に生み出されている様々な結果がどのようなものであるか、また、どんな人と自然と関係を持っているのか、何を引き寄せているのか、今、神の鏡に自分を映し出して自分の人生の有り様を確認しましょう。自分のことはよく分からないものです。ですから自分が、どんな「実」を実らせているか、どんな人を引き寄せて「人間関係」ができているかについて、注意深く見ることが大切です。

2.良い物を選ぶ

あなたの人生の中に祝福を求めるのであれば、「主よ、私が頂く命は、本当に豊かに実を結ぶぶどうで在らせてください。大きな祝福、大きな恵みを生み出すために、私そのものが命に溢れた、良い木になることができますように!」とあなたが、はっきりと求めている物を祈り願うことです。決っして悪い物を選ぶことのないように、祈り吟味して良い物を選んでいきましょう。神の求められる「愛の実」「励ましの実」「分け与える実」「希望の実」、そのような良き物を生み出す「良い木」になることができますように、そういう「命」を選び取りたいです!と神の前に祈ってまいりましょう。

3.生活を整える

私たちの「心の倉」から「良い物」を取り出す生き方を心掛けましょう。特に私たちの持っている「実」が顕著に現れるのは、私たちの「口の言葉」です。私たちの「口の言葉」を通して人を励まし、愛し、喜びを伝え、安心させる、そんな「恵みの言葉」を語ろうではありませんか!

4.良い習慣を人生にする

「良い物」を取り出し、「良い実」を結ぶ命の流れ、習慣が、私たちの人生となりますように。習慣化され継続することができるように生き方を整えていきたいと思います。自分がどんな種類のどんな質の「命」を持っているかを、問い直す者でありたいと思います。私たちは神の御力によって取り扱いを受けなければならない弱い存在ではあります。けれど信仰を持って歩ませて頂く中で、私たちはクリスチャンとしての決断も意識してまいりましょう。神の御心に適う良い物を意識して選び取ってまいりましょう!

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人生の病い・痛みと向き合ってくださる主

エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。エリシャは中にはいり、…主に祈った。それから、寝台の上に上がり、…子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。…彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。
                    列王記第二4章32節~37節

最近京都で起こった放火のニュースに、心を痛めています。人への恨みから火をつけて、34名の方が犠牲になるって、あまりにも理不尽です。でも今の時代、ストレスや行き詰まりの中で自分の気持ちだけで頑張ろうとしても、自分を助けることはできません。私たちは神によって命を与えられていますから、神と共に歩むときに守られ祝福されるのです。
今日は、癒しの礼拝です。聖書は、神は今も生きて働かれる神であることを教えています。この教えを受け止め、癒しの恵みをいただきましょう。

1.人生と向き合ってくださる神がいる

預言者エリシャが癒やしを求めて祈ったとき、神は、この子どもを癒やしてくださいました。この子どもとエリシャの関係は、4章の8節から始まります。世話になった女に何かしたいと思ったエリシャが、女に男の子が与えられると宣言します。1年後、本当に男の子が生まれ、めでたしめでたし。しかし、成長した男の子はいきなり死んでしまいます。私たちが受け止めなければならないのは、人生は、良いことばかりではなく、時には思わぬ災難がふりかかることもあるということです。それが、人生の現実です。しかし、いろいろなことが起こる人生の中で、私の人生と向き合ってくださる神がいることを感謝しましょう。

2.否定的感情に気を付ける

エリシャの取り計らいによって与えられた我が子が、いきなり病によって失われる悲劇から、女は思わずこう言います。「いったい誰が、子どもが欲しいと言ったのですか。苦しめるために子どもを与えたのですか」と。彼女は、与えられた恵みを忘れて神に対する攻撃を口にしたのでした。私たちは苦しい現実の中で、思わず否定的な言葉を口にしたり、人を攻撃したりしないよう、気を付けましょう。

3.祈っている神の家族がいる

それでも、神の人エリシャは女を突き放すのではなく、すぐに子どものために特別な祈りを始めました。私たちも、困難の中で弱音を吐いたり、偉そうに神に文句を口走ったりしてしまうことがあります。そんな中でも、神は決してあなたを見捨てず、あなたのために祈ってくれる誰かが存在します。神を信じる者は、あなたのために必ず祈りますし、主の教会はここに確かに存在しています。私たちは、常に教会において祈りに囲まれていることを感謝します。

4.神の方法で現される恵み

ありとあらゆる方法でエリシャが祈ると、男の子は7回くしゃみをします。この7という数字は、完全数と呼ばれる、神の事が起こる時の神の数字、神のタイミングです。そう、神の力によって、この子は息を吹き返しました。神は今も働き、人間の方法論を超えて、神ご自身の方法で、神の時に最善のことをなしてくださることを、感謝して受け止めようではありませんか。私たちが100点満点の清さだから、神が祈りに答えられるのではありません。自分でも情けなくなるような愚かな人生に、神は向き合ってくださいます。単に自分の祈りの力によってではなく、主に祈ったときに、主がご自分の御業で、神の霊により祈りに応えてくださいます。このことを感謝して、主に祈り求めてまいりましょう。

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本物の神の家

私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。
                テモテへの手紙第一3章14節~15節

この3回の日曜日、皆さんのお祈りによって守られ、福岡・大阪・東京へ出かけることができました。それぞれの集会で、大きな恵みに満たされたことを感謝します。
しかしこの夏、単に特別集会やイベントで盛り上がるだけではなく、まことのキリストのからだとしての諸集会が行われますように。生ける神の教会として命のある交わりがあり、命溢れる礼拝が献げられ、神の栄光が現れるまことの教会でありたいと願っています。私たちは、今日もイエス様の恵みの溢れる本物の礼拝として受け止めていきましょう。
今日の聖書箇所はパウロがテモテに対し、教会においてどのように行動すべきかを示し、励ましの手紙を書いています。聖餐式にあたって、本物の神の家とはなにか、2つのポイントをおさえておきたいと思います。

1.生ける神のおられるところ

生きて働かれる神がおられるところが教会です。そこで私たちは神を仰ぎ見、神の命と臨在に触れます。イエスの愛に触れるのです。神の恵みの中に置かれる、それこそが生きた教会であって、私たちはそういう教会でありたいのです。今日、あなたは礼拝に出かける際に、イエスに恵みを求めましたか。それともなんとなく、出かけて来ましたか。もう一度、イエスを仰ぎ見、イエスに祈って恵みを頂きましょう。
最近の世の中の考え方、多様性の時代に、神様を排除し自分の欲求が満たされれば良いと思うことが多くなっています。一人一人の個性や今の価値観を大切にしようとする生き方を聖書に当てはめようとすると、聖書すら間違った書物としてとらえられてしまいます。そうではなく、聖書は神と私たちとの関係を書いているのです。神に真実があり、神が土台です。義なる神の物差し、正しさに当てはめて、私たちの罪を悔い改め、わがままをごり押しする考えを主によって変えられて生きていくことなのです。
私たちの教会は生きて働かれる神がおられる教会ですから、神を見上げ、神の言葉に聞き従いましょう。生きた神がおられるからこそ、人にはできない奇跡、魂の救い、病の癒し、しるし、不思議が私たちの祈りの答えとして与えられることを感謝します。

2.真理の柱、土台としての性質

今の時代は複雑で、私たちはどれほど多くの心配や苦しみ、悲しみを抱えて生きているでしょうか。教会には私たちの命を貫く、真理の柱、人生の土台があります。私たちに命を与えてくださった神の土台や、神が共にいてくださるから大丈夫という真理の軸、柱です。教会には救いの道があり、私たちの幸せの鍵があることを感謝しましょう。
この2つのポイントの明確な答えは神の御子である救い主、イエス・キリストが私たちのためにこの地上に下り、私たちの罪の身代わりとなって十字架に死んでくださったことにあります。私たちと神との関係がイエスの十字架によって回復され、私たちを神の子どもとしてくださったこと、さらに、聖霊の恵みまで与えられていることを感謝したいと思います。
神がおられる人生の恵みと、私たちがどんなに弱くても恵まれ、守られ、祝福される幸せの土台が与えられているのです。

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絶望の中にある神様の恵み

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。…わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。…しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります…しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。…生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。      詩篇22篇1節~10節

一年の折り返しです。年の始めにどんな計画を立て、どんな願いを神に祈りましたか。その計画や祈りは、実現しましたか。今年のテーマは「事を成し遂げる」です。もう一度、一年の始めにいただいた願い、祈り、計画が実現することを祈っていきましょう。
私たちには本当に神に願い期待しなければならないことがあります。今日の詩篇22篇では、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と激しい苦悩と絶望的な言葉で始まっています。詩篇22篇は「メシアの詩篇」と言われていますが、それは単に詩篇が書かれた何百年か後のイエスのことを預言した言葉ではなく、詩篇の作者の時代のイスラエルの人々が抱えていた苦悩であり、うめき、叫びでした。そして今日私たちは、この叫びをイエスの苦悩、旧約時代の信仰者のうめきに終わらせるのではなく、私たち自身を重ね、自分の叫びとして受け止めたいと思います。今日は、「絶望」を通して私たちと神との関係が一層深くなり、心から神を賛美する者となることを具体的に学びましょう。

1.絶望が神への祈りを生む

絶望することにより私たちは本気で神に叫び、祈り始めるのです。人生には、問題を抱えたり、欲しいものを我慢し、うまくいかないことがいっぱいあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケⅠ5:16-18)なぜ御言葉通りできないのでしょう。私たちは、苦しんでいるけれど本当に「絶望」していないのです。他人や自分自身に望みを抱いているのです。教会はお互いのために祈るところですが、人ばかりを頼りにするのではなく本気で神に祈る者になりたいのです。ただ苦しむのではなく、一度「絶望」してみることが必要なのでしょう。

2.絶望によってへりくだることができる

「虫けらです。人間ではありません。」(6節)と作者は自分自身のことを表現しています。私たちは置かれた状況に絶望しても、簡単には自分自身の無力さに絶望しません。「あなたがたは苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(ヤコブ4:9,10)絶望しなければならないことをヤコブは語りかけています。絶望することによって、主のみ前にへりくだり、私たちは主によって高く上げていただくのです。パウロは「したいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7:19)と告白し、ヨブは全財産や子供たちをなくし、自分のからだはらい病に侵され、初めて自分の力の限界に絶望し、彼の眼は開かれました。(ヨブ42:2,3)

3.絶望が神にゆだねる人生をもたらす

22篇ではしばらく苦しみの告白が続きますが、9、10節がターニングポイントになります。虫けらのような者ですが、私の命はあなたから与えられたものであり、主の御手の中にあります。だから主に委ねるしかないと告白しています。たとえ賛美できない状況でも、主は今ここにおられ、すべてを委ねるときに、私たちは心の奥底からの賛美に溢れます。

2019年の後半が、「絶望」することから与えられる神の恵みを体験する日々であることを祈ります。

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