どうしても必要なことはみことばに聞き入る事です

…イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。…私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「…あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは…一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」          ルカの福音書10章38節~42節

私たちには心配事は山ほどあって、なかなか落ち着いて過ごすことができない現実があります。しかし、そのような中にあっても私たちが本当にしなければならないことはただひとつ、「神のみことばに耳を傾けて生きる」ということであって、これ以外にはないということを改めて学びたいと思います。

1.神の御言葉にとことん従う

ダビデは、「私は私の前に主を置いた」と告白しています。彼は神に聞くということをとことん大切にしました。とにかく自分を神の前に置いて、神の言われることに従うことを選び続けていくのです。神の声はいつもあなたに響いていますが、それをなかなか聞くことができない、聞こうとしないという現実があります。しかし、神に聞いて生きていく以外に、私たちが祝福される道はない、ということを知らなければなりません。イザヤ書では、「救い主が不思議な助言者としてこの世に来てくださる」と預言されています。確かにイエスがこの地上で人々に語られた言葉は、不思議な言葉でした。でもその言葉に耳を傾け、聞く者は救われ、恵みをいただいたのです。私たちは、自分が理解できるから、自分が納得できるから、という自分本位で御言葉を取捨選択するのではなく、たとえ自分の思いや願いとは異なるものであったとしても、イエスが語られた言葉であるから耳を傾け、聞き、どこまでも従っていく者でありたいと思います。

2.神のみことばを聞くことを選び続ける

マリヤはイエスの前にひざまずいて、イエスの話を聞いていました。周囲になんと言われようと、とにかくイエスの語られることばを聞くという姿勢を彼女は持ち続け、そのように行動したのです。マリヤのように神のお言葉をしっかり聞くということが、私たちが
恵みをいただける秘訣であることを知りましょう。
私たちは、ひとりで悶々とし、どうすることもできなくて、苦しむことがしばしばあります。そのような時でも、神の言葉を聞き続けていく者でありたいのです。聖書を読み、神に聞く。神の御言葉に耳を傾けさえすれば、神はあなたを導いてくださるのです。
マリヤの姉のマルタは、イエスのお世話をすることに一生懸命でした。人間的にはそれも大事なことでしょう。しかしそのマルタに対して、神の言葉を聞くこと以上に大事なことはない、とイエスは言われました。それこそが私たちがどうしてもしなければならないことなのです。自分はどう生きたらいいのか、神は何と言われているのか、私たちは本当に聞き続けなければならないのです。
人間ですから、弱さもあり、失敗もたくさんするでしょう。しかし神に聞こうとする者を、神は必ず導いてくださいます。この一年、神の言われる言葉に耳をしっかり傾けていただきたいと心から願います。心配事や悩みは、マルタのように山ほどあります。でもとにかく聞く、とにかく礼拝を守る、とにかく聖書を読む、とにかく耳を傾けてみようとする、その姿勢さえ持つなら、神の恵みは必ずあなたに注がれます。
絶対に、神はあなたを見放したり見捨てることはありません。神に聞きさえすれば、あなたの上に神の祝福は絶対に尽きることがありません。人の言うことではなく、また自分の思いではなく、神が言われることに耳を傾ける、ただ神が言われること、聖書が語る御言葉に耳を傾けていきたいと心から願います。

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聖書が語る約束のいやし

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。     ヤコブの手紙5章13節~16節

何事も後々に影響を与える最初の一歩が大切ですので、一年の最初の日曜日に、礼拝を守り信仰を高め主の恵みを信じて、力強く歩み出せることを感謝します。今年のテーマは、「Brush Up! 与えられた信仰を整え直し、働かせよう!」です。“…この福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです”(Ⅰコリント15:2)。イエスは、十字架の上で私たちの罪を負って死なれ、死の力をうち破って蘇ってくださり、私たちと出会い、私たちの救い主となり、聖霊まで注いでくださいました。その聖書の約束通り、私たちがどのような状況にあっても、家族との関係、仕事、人生設計、健康のことであろうと、生きていく上でこの福音の言葉を用いれば、必ず祝福されます。だから私たちは、何かもっと良いものを待ち望んだり、修行して頑張るのではなく、イエスからすでに与えられているはずの信仰を働かせましょう。信仰を形作る部品が錆びたり、曇ったり、ずれていたりしているなら、整え直してBrush Up、磨きをかけてちゃんと動くようにしましょう。「信仰の7原則」で言えば、「礼拝」に出て神に従う生き方をしていますか。時間があればではなく「聖書」を開いていますか。時間を見つけて神の前にひざまづいて「祈って」いますか。神から与えられた初穂を喜んで「献金」として神にお返ししていますか。周りの人々に助けられているのならば、自分も惜しみなく与え「奉仕」しましょう。あなたが持っている信仰のすばらしさを周りの人々に伝えるために「伝道」しましょう。主にある兄弟姉妹との「交わり」を大切にして「霊的引きこもり状態」にならないよう励まし合いましょう。信仰をブラッシュアップする方法は山ほどあります。小さなことからでもいいからやり始めることです。

今日はいやしの礼拝。私たちの教会は、今も神は生きて働かれ、聖書のお約束通り、イエスの御名によって祈れば、聖霊の豊かな働きにより、いやされることを信じています。そして今日のヤコブの手紙は、教会の兄弟姉妹たちに信仰の手引きとして書かれ、「信仰」とは具体的で現実的で、生きて働くものであることを教え、信じて行動しようと励ましています。私たちの信仰も生きて働くものにしましょう。

1.病のいやしは聖書の約束

聖書の中には、イエスが病をいやされる場面が何回も出てきます。私たちが魂の救いを得ると同時に病がいやされることによって神の恵みが現実的に現されるのです。イエスも、ご自分が救い主であることを証明するために、病気の人をいやされたのです。

2.自分自身で信じて祈ってみよう

形式的に誰かの言葉をなぞって祈るのではなく、たとえ心の中に戦いや迷いや疑いや不安があったとしてもいいし、どんな小さな祈りでもいいので、あなたが信仰を込めて祈れば、いやされます。

3.いやしの祈りが罪の赦しに結びつく

救い主きよめ主である神に向かって、イエスの御名によっていやしを祈るとき、私たちの心は自然に神と向き合い、罪の影響を受けて悪魔にそそのかされる悪い思いからきよめられ、罪の赦しへと結びつくのです。主は今も生きて働いておられます。今日ここでいやしを体験しましょう。2018年の日々の生活の中にも神からの勝利をいただきましょう。

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共におられ、導かれる主

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。                    詩篇23篇1節~6節

この一年、神様の命に繋がり続ける一年であるようにと願って、「Connective」をテーマに歩んできました。2017年のテーマの御言葉は、イザヤ書41章10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」でした。私たちと常に共にいて導いてくださる神様とつながっていることによって大きな祝福を頂くことができます。
今日は、詩篇23篇をそれぞれテーマに区切って、神様に感謝し賛美する信仰をもって今年を締めくくりたいと思います。

1.主が常に共にいてくださる安心感

1~2節「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。…」
人は、神の創造の初めから、一人で生きていくようには造られていません。人々との交わりの間に生きています。一人では生きていけない弱い私たちに、神様は最も大切な恵みを与えてくださいました。それは命の与え主である神ご自身が常に私たちと共にいて導いてくださっているということです。このことがどれほどの平安と確かさを私たちに与えていることでしょう。羊飼いが羊の世話をし、危険から守るためにいつも目を配るように、主がいつも私たちを導いてくださることを感謝しましょう。

2.困難や試練も必ず導き通してくださる

3、4節「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰を歩くことがあっても…」。
人生の歩みの中では、不安や恐れ、心配、時には争いの道を歩まなくてはならないこともあるでしょう。私たちは苦痛やため息のない人生を期待しますが、実際の私たちの人生には痛みが伴います。それは、私たちには弱さや不完全さがあることの証明でもあります。しかし、主は私たちをこのような状況から助け出してくださいます。問題があるときでも大丈夫。人生のどん底とも思えるような状況からも助け出してくださるということを覚えましょう。

3.恵みと祝福の尽きることのない人生

5、6節「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。…」
私たちの人生に溢れるばかりの祝福を備え与えてくださる恵みの神が共にいてくださいます。敵が目の前にいる状況であっても、主は祝宴を用意してくださっているのです。聖書の神は、愛と恵みの神です。日本人の宗教観にある、罰を与える神ではありません。私たちの人生には、神の恵みが常に追いかけてくるのです。祝福され、恵まれるという「予感」を持ちましょう。私たちクリスチャンは楽観主義です。弱くても神が助け出してくださり、罪人であっても救い出してくださる。たとえ死んでも永遠の命で生かしてくださる神が共にいてくださるのです。
イエスの別名はインマヌエル。それは、「神が私たちと共にいてくださる」という意味です。救い主であるイエスを信じているということは、イエスの導きが常に私たちにあるということです。来年に向けて、主の導きを本当に求め、感謝してさらに前進する者でありましょう。

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もしもクリスマスがなかったら…!

…御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」…その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」               ルカの福音書2章8節~14節

クリスマスおめでとうございます! 今年もメリエスト・クリスマス2017」と題して、全国各地を回らせていただいています。牧師と共に祈り、行動して下さることを心から御礼申し上げます。
ちょっと想像してみましょう。もしも世界にクリスマスがなかったなら?と。…クリスマスプレゼントもなく、家族や愛する人々との温かみのある日々はなく、年の瀬を、ただ忙しく終っていたかもしれません。クリスマスの訪れと共に、戦場が、平和と一致の場所に変わった、あの戦場の奇跡もなかったかもしれません。私たちの社会は、歴史は、もっと暗いものになっていたと思います。

1.クリスマスの意味を知ろう

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)ここでの5W1Hを考えると、When今日。神の言われる永遠の中での今は、常に今この時を意味します。Whereダビデの町で。神の救いや喜びを待ち望む今の私たちの人生の戦場に。Whoイエス・キリストと言われる救い主が、Whatあなたがたのため、いえ私のために、Why人々を救うために。Howお生まれになった。ここが重要です。聖書は、難しい宗教の教えではなく、事実が記されているのです。2千年前の大昔ではなく、将来のいつかでもなく、今日という、神の救いを求める、私のいる所に、救い主御子イエスが、キリストとして明確に現れて下さったのです。「今日、イエス様、私の救い主となってください」と呼び求める時、あなたの心の中の飼葉おけの中に、キリストはお生まれ下さるのです。キリストの恵みは、今を生きる私たちの人生の現場に具体化される事実としての恵みです。

2.価値ある命

私たちは、しばしば失敗を繰り返したり、辛い経験があると、自分は何の価値もない虚しい人間だと、悲しい思いにさいなまれることがあります。しかし、キリストが人として現れて下さり、私たちの罪を背負って十字架で死んで下さったことにより、私たちの罪が取り除かれ、神の命が与えられました。どんなに小さく見える私たちであっても、天地宇宙を造られた偉大な神の命に繋がり、神の偉大な愛に結び付けられているのです。取るに足りない私たちを、神がイエス・キリストを通じて、価値ある命として下さったことを感謝しようではありませんか。

3.神にとって不可能なことは1つもない

クリスチャンとして救い主イエス・キリストを見上げて歩む時、「神にとって、不可能なことは一つもない」(ルカ1:37)、全知全能の神が共におられることを感謝しましょう。その神が、私たちの祈りに答え、弱い者に力を、争いや敵意に襲われている者には平和を、苦しんでいる者には、聖霊の導きによる、勝利を与えて下さいます。人の力では実現できなかった平和、神の栄光、恵みと力、不可能を可能にする恵みが、私たちの人生に現されます。共に、「イエス様、今日私の心に、あなたが救い主としてお生まれ下さいました。私の汚い心の飼葉おけの中に休んで下さり、私と共にいて、素晴らしい命の物語を始めて下さるイエス様、感謝します。心からイエス様をほめたたえます」と、感謝の祈りを捧げましょう。

 

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光として来られた主キリスト

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
                 ヨハネの福音書12章46節~47節

いよいよクリスマスの盛り上がりの時期を迎えますが、イエスの誕生を祝うクリスマスのお祭りが実に2000年にも亘り、世界中で祝われている、その価値の大きさを忘れないようにしたいと思います。それが今日まで続いているのは、イエス・キリストが今生きる私たちにもたらしてくれる恵みが聖書の約束通りであるからです。イエスが私たちに与えてくださる恵みが全く色褪せない、今も私たちの内にイエスの命、救い、恵みが与えられることを心から感謝しましょう! 神を信じ信仰を持って生きていくということは、私たちの命、存在そのものの根本、一番大切な所に関わる神からの恵みであることを知りたいと思います。イエスを信じることにより私たちの生き方が変えられ、罪の中から救われ癒され喜びの溢れる毎日を歩むようにされるのだということを感謝したいと思います。今日の聖書箇所、特に46節に記されている二つの基本的な事実を認めておきましょう。

1.イエスは「光」として世に来た

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザヤ書9:2)、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)、救い主である主の到来を聖書では、このように「光」として描いています。そしてこの箇所では、イエスがその「光」であるということが記されています。これはクリスマスで語られる大切なメッセージなのです。神の御子である御方がこの世に下ってきてくださった。それは、「光」として、すなわち御子キリストが、救い主イエスとして、この世に来られたという事実です。私たちもそのイエス、「やみの中に輝く光」を直接頂く恵みに与(あずか)りましょう。
けれど、この箇所にはもう一つ見過ごしてはならない大切な事実があります。

2.やみの中にとどまることのないため

この言葉が指し示す事実とはすなわち、イエスと出会うことなしには、私たちは「やみの中にとどまり続けている者だ」ということです。これが決して見過ごしてはならないもう一つの事実なのです。クリスマス、イエスが「光」として下ってくださったと語りますが、なぜそのことに大きな意味があるかと言えば、もう一つの事実があるからです。それは、イエスと出会わないままでは、全ての人は、「やみの中にとどまり続ける」ことになるという、実に重要な事実です。「神を信じなくても生きていける」と言われる方がおられますが、その考えの前提となるのは、自分の生き方は自分で選べる、自分の力で幸せを手に入れることができるということになります。でも、聖書の語る事実は違うのです。イエスと出会い、イエスを信じることなしには、全ての人は事実として「やみの中にとどまり続けている」ということに気づいていないだけなのです。この事実があることを見抜いておきましょう。イエスと出会わないと暗い破壊的な人生を歩むことになるということを肝に銘じておきましょう。
イエスは私たちをさばくためではなく、光として私たちを救うためにこの世に来られた、まことの救い主であることを喜びましょう。私たちはそのイエスを信じてイエスと共に歩んでいきます!と信仰告白を明確に持ち、クリスマスの日々なのですから、私たちはクリスチャンとして、いつもにこやかに過ごしましょう。

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低きに下られたいやし主!

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
                     ルカの福音書2章1節~7節

    
クリスチャンである私たちは、イエスの誕生をお祝いするクリスマスの12月ですので、誰よりも心の中に喜びや平安を頂いて前進したいと思います。
今日の聖書箇所は、しばしば生誕劇で描かれている場面ですが、時はローマ帝国の時代、全世界の人口調査をせよという命令が下ります。皆それぞれの出身地、本籍地に戻って登録をしなければならず、ヨセフとマリヤもベツレヘムを目指したのでした。しかしマリヤは、御使いガブリエルが告げた通り、聖霊によって身ごもっていました。ベツレヘムに到着した時、宿屋はどこもいっぱいで、仕方なく家畜小屋に泊まっている間にマリヤは男の子を生み、その赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かせたと、記されています。その当時の飼い葉桶は、汚いえさ箱でゴミ箱同然でした。その中にイエスは寝かされたというのです。またヨセフも、ローマの支配下にあるため、身に危険が及ばないよう、自分がダビデ直系の子孫であることが知られないように生きていたでしょう。それでも、あの偉大な王の血筋であるという誇りが当然あったと思います。他国に侵略され、支配されている一員として人口登録に赴き、家畜小屋で休むことを選び、そこで子どもが誕生するのを見届けなければならない。大きな葛藤があったはずです。しかしここにイエス誕生の3つの大きなポイントがあります。

1.一番低いものとして生まれたイエス

イエスがお生まれになった時、家畜が住む場所でそのえさ箱に自らの命を横たえられました。王宮でも高貴な血筋の家でも、庶民でもなく、この世で最も低いところにイエスはご自分の命を生み落とされるようにして下さいました。これはイエスのへりくだりを表すものです。イエス・キリストは、支配するお方ではなく、へりくだって下さる御方です。

2.底辺で共に結びついて下さるイエス

へりくだられるだけではなく、一番低い底辺のところで私たちとの繋がりを作り、私と共にいて下さる御方です。イエスの誕生を目撃した最初の人たちは羊飼いでした。当時の人々からすれば、最も貧しい世の中からも捨てられたも同然の人々でした。そんな人々の友となり、そんな人々の祝辞を受け、そんな人々の希望にもなって下さる。主は低き私たち、弱く取るに足りない、大したところが全くない私たちと結びつき、一つになり、同化して下さるのです。

3.一番低いところから偉大な御業が始まる

最も低いところから救い主イエス・キリストの地上での物語を始めて下さり、全人類の贖いを成し遂げられました。イエスは、私たちがどんなに弱くとも、一番低いところまで敢えて自ら下ってきて下さり、私たちと結びついて一つとなり、私たちの内に宿って下さる御方です。そしてこのイエスが、救い主としての偉大な御業を成し遂げて下さり、人々を救い、いやしてして下さることを感謝したいと思います。
この主の御業は、旧約聖書のイザヤ書53章にあるように、イエスが生まれる何百年も前から預言されていました。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。イエスが、弱く足らない、病んでいる私たちの世界まで下ってきて下さり、私たちと結びつき、内に宿って下さる。そしてその一番低い、弱り果てているところから、偉大な救い主の御業を行って下さる。このいやしの御業をいただきましょう。

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クリスマスの事実!

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
                  ヨハネの手紙第一4章9節~10節

主のご誕生をお祝いするアドベントの季節の始まりに、私たちの信仰も高めていただいて、各地で行われるメリエスト・クリスマスの集会に来られそうな方だけでなく、来られるかどうかわからない方にもぜひご案内をしてください。また、大洲キリスト教会の会堂は12月5日に完成し、12月24日にはクリスマス集会をもちます。南予の福音宣教の拠点にしたいと思っています。形のあるものだけでなく、その向こうにある、目には見えないけれど完璧なプレゼントである、イエスの命、愛、救いをプレゼントしましょう。
一年の終わりに、忙しいからと言って不機嫌にならず、心の喜びのボリュームを少しアップしませんか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)争いが絶えない世の中を見るとき、人の本質は罪であることがよくわかります。その中で、クリスチャンとされた私たちは、救われた喜び、平安、愛をいっぱいいただきました。今度は、それを家族や職場の仲間、友人に伝えていきましょう。Christmas(クリスマス)は本来、Christ(キリスト)と、Mas(祝いの時・儀式=お祭り)の合わさった言葉です。クリスマスは、イエスの誕生をお祝いする心を込めた礼拝です。ここでクリスマスの意味を確認しておきましょう。

1.神がひとり子イエスを遣わされた事実

世の人々は、ファンタジーや空想話が好きですが、しかしそれらは、私たちを本当に救うことはできません。神は、ひとり子イエスを、私たちの罪の身代わり(なだめの供え物)として死なせるために遣わされました。クリスマスは、この事実から始まり、この事実に基づいています。この事実なしには、クリスマスの意味はありません。

2.命を与えてくださった事実

なぜクリスマスが2000年以上も祝われ続けているのでしょうか。日本では、商業主義によってクリスマスが盛大に祝われていることは否定できません。しかし、クリスチャンである私たちは、イエスによって命を与えられたことを決して忘れてはなりません。人の力で罪は消せません。私たちの罪を取り除くには、御子イエスの血を流すことなしにはできないのです。神は、イエスの命を私たちにくださいました。それにより私たちは命を得たのです。あなたの命を根本から変える新しい命を得たことを感謝しましょう。

3.神の愛が示された事実

神の愛は、御子を遣わされ、私たちが命を受けることによって、明確に示されたのです。まことの神の愛を知らない多くの日本人の神概念は、「触らぬ神に祟りなし」とか「溺れる者は藁をもつかむ」というように、甚だあやふやなものです。しかし、聖書の神は、愛です。「愛」は美しい言葉で好んで使われますが、人生を長く生きれば、私たちの「愛」には限りがあって自己中心的で弱いものであることがわかります。私たちが立派だから、神が私たちを愛してくださったのではなく、神がまず私たちを愛してくださいました。神は、何があっても揺らいだりせず、尽きることがない愛で私たちを愛し続け、常に弱い私たちと共にいてくださいます。
今日は聖餐式の聖日です。この3つの事実を素直に受け止める信仰告白の儀式が聖餐式です。イエスの命をいただきましょう。

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やみに光をもたらす救い主

…やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。…あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。…ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。…今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。         イザヤ書9章1~7節

いよいよクリスマス!一人でも多くの方が、救い主イエスに出会うことができ、日本各地の集会が祝福されるように共にこの働きを前進させましょう。
このイザヤ書は、イエスが誕生する700年も前に書かれた預言書でありながら、後に現れるであろう、救い主イエス・キリストのことが記されています。預言者イザヤの生きた時代は、数多くの敵が存在し、イスラエル王国は危機状況にありました。また、国を率いるべき王たちが不信仰に陥り、時には偶像礼拝に走る、信仰がボロボロの状態でした。ですから預言者は、悔い改めて神に信頼するならば救われるが、そうしなければ、神の民でもいつか裁かれ滅びる時も来ると、厳しい預言の言葉を語っていたのです。ここから3つのことを確認しておきたいと思います。

1.悪や闇の力は現実に存在する

イザヤが預言を語った時、死や闇の力、罪深い悪の力の働きが現実に存在していたことがわかります。その時代の苦しみとは、敵国の侵略です。それは、せっかく育てて収穫した穀物を奪い取られ、女や子どもたちはさらわれ、男は殺され、全財産を奪い取られることです。そして家は焼き払われ、残酷で厳しい不幸な血と闇の力が溢れた時代です。それは、この二千数百年前の時代だけではなく、現代の私たちの生活の中にもあります。今も悪魔は、幸せを奪おうと様々な闇、死の力を私たちに投げかけて、希望を失い、人間関係がこじれて、生きているよりも死んだ方が楽だと思わされるような闇と苦しみの現実が私たちにもあります。でもだからこそ、神の言葉としての聖書のメッセージを忘れないで下さい。

2.神の救いの到来の約束

闇や死、悪の力、罪の力が働く現実にあっても、闇が闇で終わらず、神からの救いが光となって到来し、必ず救われる時が来ることを神は私たちに対して約束して下さいます。私たちの現実の生活で、闇の中にあっても、病や苦しみだけが人生の全てではありません。歪んでもつれて心を暗くさせる人間関係だけが人生の全てではないのです。恨みや憎しみで人生が終わってはなりません。喜びや愛や楽しみで締めくくるのです。経済の必要や仕事上の行き詰まり、人間関係のトラブルがあっても、必ずそこから助け出され、喜びと平安、救いと光のある生活が与えられるようになるのです。この約束が、神からあなたに対して与えられていることを知って下さい。

3.平安、喜びをもたらす救い主誕生の約束

「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」という有名な御言葉が出てきます。この御言葉が、二千年前、救い主、神の御子イエス・キリストの誕生において本当に実現しました。このイザヤ書9章の言葉は、来たるべき救い主キリストの到来の預言として受け止められます。その預言の成就として、イエスが救いの道を開き、私たち全てを神の子とし、聖霊の恵みを与えるためにこの世に現れて下さったのです。イエス・キリストによって救いは与えられます。単なる空想や期待感や願望ではなく、救い主として、神であられる御方が人の姿をとってこの地上に来て下さったこと。私たちの人生、心にまで生まれて下さったこの恵みを体験しようではありませんか。今年のクリスマス、イエスと出会って歩みましょう。

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あなたを変えるキリストとの出会い

…イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。…ピリポは、…ナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」              ヨハネの福音書1章40節~46節

外は寒くなってきましたが、クリスマスに向けて私たちの心が喜びに満たされ、イエスのことを一人でも多くの人々にお伝えできるよう、証しの力が与えられ、聖霊に満たされることを共に願いましょう。
今日開いたヨハネの福音書の中で考えてみたいのは、「イエス・キリストとの出会い」についてです。まもなくクリスマスがやって来ます。クリスマスには、聖書が語っているように、私たちの心を愛で満たし、希望を与えてくださり、弱い体を癒してくださり、更には私たちが地上での人生を終えても、天国にまで繋がる命があるのだということを示してくださる、救い主イエスを多くの方々にお伝えしていきたいのです! 今日は3つのことを確認したいと思います。

1.救い主との直接的な出会い

これから私たちの社会の中で、より大切になるのは、何か必要があれば、その当事者と直接出会うことです。特に、救い主イエス・キリスと実際に出会うこと、これが本当に大切なのです。アンデレとピリポは、救い主に実際に出会い、そのことを、「旧約聖書で約束された、あの救い主と私は出会った。」と人々に直接伝えたのです。今の世の中は、噂話や、インターネット上での匿名発信などの無責任な悪い言葉が溢れていますが、そんな言葉に左右されていては、私たちの人生は、誰も愛することも信じることもできなくなります。これからの人間関係の基本で一番大切なことは、その人と直接出会うということです。なぜ、救い主イエスが2000年もの間、多くの人々の人生を闇の世界から光の世界へと導いてきたのかと言えば、目には見えないキリストとの出会いが、ひとりひとりにとって本物になっていったからです。今日の癒しの礼拝でも、あなたが救い主イエスと、直接出会うことができますように。

2.出会いがもたらす大きな恵み

出会いがもたらす意味を軽んじてはなりません。現在全世界には、70億の人が生きています。しかし、私たちが人生の中で出会える人の数は限られています。そして、どのような人と出会うかで、不幸にも幸せにもなり、私たちの人生の質や意味を大きく変えるではありませんか。私たちの人生に、最も大きな影響を与える出会いがあるとすれば、それは救い主であるイエスとの出会いにほかなりません。イエスとの出会いにより、シモン・ペテロは、教会の最初の指導者になり、ピリポも平凡な田舎での暮らしから歴史を変えるイエスの弟子となっていったのでした。私たちも、救い主イエス、神と出会う時、人生が大きく意味ある方向へと動き始めることを感謝しましょう。

3.一歩踏み出す

ナタナエルは立派な人物でしたが、自分の知識や今までの常識から、田舎のナザレから救い主は出ないと思い込んでいました。けれど、ピリポはナタナエルに「つべこべ言わず、来て直接見て、出会いなさい」と勧めたのです。私たちもそんな出会いを共に体験する者でありたいと思います。分厚い聖書をただ学ぶことが信仰ではありません。神の前に自分で立つことが重要です。神は、今も生きて働いてくださるお方です。そしてあなたを愛してくださるお方です。ですからあなたの方から一歩踏み出し、神と出会い、祈りましょう。あなたの人生に大きな恵みが溢れくることを感謝しましょう。

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どう今を生きるか

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。…愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。…私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。…だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。
                     伝道者の書3章1節~22節

空の空、すべては空と始まるこの書は、非常に興味深く、文化人の13%が、聖書の中で一番好きだと答えています。著者はソロモンで、「コレヘト(説教者)の言葉」とも呼ばれる書物です。空(へベル)とは、意味、目的、答えが見つからないことを指していますが、時間的な短さという意味もあります。人の一生は儚く、やがて死という終わりの時がくる宿命だと語り、体験から得た知恵が語られています。人は過去の事は解りますが、未来の事は解りません。だから、未来よりも、今、この時を生きようではないかと、伝道者の書は語りかけます。充実した毎日を歩むために、今をどう生きるか、4つのことを学びましょう。

1.今、なすべき勤めを果たす

どんなに一生懸命働いても、益になるか分からない。だから、労苦することをやめようというのではありません。有名なマタイの6:26~34は、「空の鳥を見なさい」で始まり、「労苦はその日その日に、十分あります」で締めくくられています。神は私たちを、空の鳥、野のゆり以上に養い粧って下さるのです。だからこそ、1日1日の労苦を負わなければなりません。労苦することを厭わないことです。「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって、むだでないことを知っているのですから」(第1コリ15:58)。私たちの主にある労苦は、決してむだになりません。今日も労苦を負って生きる者となりましょう。

2.今日を喜んで楽しんで生きよう

せっかく与えられた人生だから、労苦と共に喜び楽しむこともしたいのです。そのための工夫もしましょう。行楽の秋を楽しむのも良いでしょう。優しい言葉かけも良いでしょう。「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(詩篇118:24)。クリスチャンには毎日が縁日、神の恵みの日なのです。この素晴らしい恵みの1日を、喜び楽しみましょう。

3.過去を見つつ今を生き、未来へと向かう

私たちは過去の事を、神の時として振り返り、学ぶことができます。旧約聖書は、神の民イスラエルが神に背を向けても、約束の地カナンに導き入れられた過去の事を、何度も振り返らせています。私たちの過去で何より大切なことは、神が2千年前にイエスをこの世に遣わし、イエスがキリストとして十字架にかかり死んで下さったこと。3日目に甦り、永遠のいのちまで保証して下さっていること。この御方が、私たちと出会って下さった過去です。過去を見つつ、今を生き、未来へと向かっていくのです。

4.神を恐れ、委ねながら今日を生きる

すべての営みの背後には、神の御手があります。背後にある神を恐れて生きることが、本当に信頼し、委ねて生きていくことに繋がります。人を恐れると、神を恐れることができなくなり、主に委ねられない者になってしまいます。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29:25)とあります。主を恐れ、主に委ねていく者でありたいと思います。今日負うべき労苦を厭わず、今を楽しみながら、過去から学び、主を恐れ、主に委ねるなら、神の恵みに満ちあふれた歩みとなります。そんな日々を共に歩いて行きたいと思います。

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