キリスト信仰を貫く癒しの御業

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。      ヨハネの福音書14章12節

「主の恵みは朝ごとに新たである」と聖書は語っています。今日の礼拝でも神からの新鮮な恵みが与えられることを期待し信仰の器で受けとめましょう!
今日は癒しの礼拝ですが、クリスチャンとして生きていくときに癒しを頂くのは当たり前のことであると知って欲しいと思います。今日の聖書箇所の中でイエスは重要なことを語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます」とイエスが言われる時は、特にイエスが注意を喚起している所ですので、その真理を見逃してはなりません。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりも大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」と弟子たちに語られました。イエスを信じるクリスチャンは、イエスより力強いわざを行なうようになるだろう、それはイエスが十字架と甦りの後、天に昇られて天から聖霊を下し、私たちを聖霊で満たしてくださるから、イエスがなさっていた御業以上のわざさえ行なうようになると言われたのです。イエスの御業とは、神の御言葉を語り人々を救いに導き、病んでいる人々を癒すことに他なりません。イエスの働きに、癒しは当たり前のように含まれ、聖霊が働く時代には、私たちもそのような働きができると約束されたのです! 聖書箇所を見ながらそれを確認しましょう。

1.イエスの癒しの御業

イエスが救い主キリストとしての公生涯を始められようとした最初の時に、旧約聖書を開いてご自分の働きを預言的に語られました。救いの到来を人々に宣言するために来たのであり、その中には、当然、癒しのわざが組み込まれている、と(ルカ4:16-19参照)。主イエスの働きとは、具体的にどのようなものか。ルカ4:40では、救い主イエスが、単に癒しを期待されただけでなく、常に癒しの御業を具体的に現されていることを感謝しましょう。

2.弟子たちにも与えられた癒しの御業

癒しの御業は、イエスだけでなく、十二弟子にも与えられていました。ルカ9:1-2を見ると、十二弟子には、福音を宣べ伝え、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を授けられ、そしてルカ9:6には、十二弟子が、福音を伝え病気を直したと記されています。さらに、十二弟子だけではなく、イエスが70人の弟子を、福音を伝え病気を直すために遣わされたと記されています(ルカ10:8-9)。そして17節で彼らが、主の御名の権威によって祈ると、悪霊さえ服従したとイエスに報告しています。

3.クリスチャンに与えられる癒しの御業

この癒しの恵みは、それ以外のイエスを信じ従う者にも与えられるとイエスは約束しています(マルコ16:17-18参照)。使徒5:12、15-16を見ると、初代教会に癒しのわざが溢れていたことがわかります。
このように確認してみると、癒しは特殊なことではないことがわかると思います。だから、私たちの教会でも癒しは体験できるのです! なぜなら、イエスの福音を宣べ伝えるキリストの体である教会、クリスチャンの集まりの中にはいつも癒しが当たり前のように伴ってくるからです。ヤコブ5:14-15には具体的に教会での癒しの働きが記されています。
今日もイエスが共におられる礼拝で、イエスの癒しの御業にあずかりましょう!

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神様からの言葉に従う決心をする

…あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。…ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。…モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。           ルツ記1章1節~22節,2章1節~4節

今日は、神様の御言葉に従う決心をするということを、ルツの決心を通して学びたいと思います。

1.信仰による決心

飢饉を逃れ、モアブの地に移住したナオミは、10年の間に、夫と、妻を迎えた2人の息子を亡くしてしまいます。ベツレヘムの飢饉が止んだことを聞き、ナオミはベツレヘムに帰り、若い2人の嫁、ルツとオルパは、モアブの実家に戻して、幸福な再婚をしてもらおうと願います。ナオミの優しい語りかけに、オルパはモアブの地に帰って行きます。しかし、ルツは16節にあるように、「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と告白します。ルツは異邦人の女でしたが(異邦人はユダヤ人にとっては人間扱いもされない存在であった)、ナオミとの生活を通して、神様のことをしっかり聞いていたのです。モーセの十戒も、神に喜ばれる生き方、神の教えを守って生きる生き方も、ナオミから教えられていたのです。ナオミを敬って生きる、ルツの決意の堅さを見て、ナオミはもう何も言いません。ルツは異邦人の女でありながら、信仰に生きたのです。

2.信仰による行動

ナオミと共にベツレヘムに行ったルツは、モーセの律法と姑の助言に従って行動します。ナオミに落穂拾いに行かせてくださいというルツは、前向きで謙遜、自分の手で働いて生きようとしています。こんなルツに、神の御手が働きます。2章に「はからずも…ボアズの畑であった」とあります。これは神様がはからってくださったのです。ボアズと出会ったルツは、彼と結婚しオベデという子どもが与えられます。マタイ1章のイエス・キリストの系図に記されているように、ダビデの先祖、主イエスの先祖となるのです。ルツは信仰に生き、贖いという祝福を得、メシヤの家系に名を連ねるという、大きな祝福を頂いたのです。ルツの決断が、歴史の中に、このルツ記を残し、世界中の人々が恵みを頂くことができるのです。
私たちもルツの信仰と決断を学ばなければなりません。神の教えに従うという決心、教えを知っているだけではなく、その教えに従って生きる道を選んでいこうではありませんか。そして、信仰の決心を堅く持ち続けようではありませんか。そして、神の恵み、祝福を頂いてまいりましょう。
聖書にはルツの他にも、イエスの母マリアの決心(ルカ1章)、バビロン捕囚で捕囚の民となりながらも、ネブカデネザル王の金の像を拝まなかった、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの決心(ダニエル3章)、それぞれに神の豊かな祝福が注がれました。私たちも信仰者に習い、神に従う決心をし、行動してまいりましょう。私たちは、多忙な日々ですが、神を愛し、人を愛することの筆頭は、父と母を敬うことです。イザヤ書に、神の望む生き方は「あなたの肉親の世話をすることではないか」とあります。直訳すると、あなたの肉親から身を隠さないことではないかということです。ルツとナオミの美しい嫁姑の関係から学びましょう。神の御言葉に従ったルツは、姑ナオミを心から愛し、ナオミのそばから離れませんでした。そんなルツに対して、神は祝福を与えてくださいました。日々、自分の思いではなく神の御言葉を選び取り、従ってまいりましょう。

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主の復活のある豊かな人生

…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
             コリント人への手紙第一15章12節~22節

今日4月1日は、イースターの聖日です。新しい週の始めであり、新しい月の始め、また、新年度の始めでもあります。素晴らしいタイミングで、甦りの主によって、力、元気、命を与えられ、新しい一年の日々に向けて歩み始めましょう。クリスマスは、毎年12月25日で日付が固定されていますが、イースターの日付は毎年変わります。聖書によると、イエスが甦られたのは、週の初め(日曜日)の早朝でしたから、日曜日を主の日、聖日として礼拝するようになりました。イエスの十字架と復活からすでに二千年の年月が流れましたが、罪の赦し、永遠の命の約束は全く変わりません。だから今でも世界中で福音が宣べ伝えられ、信じた者は救われ永遠の命の希望を与えられます。主の復活のある豊かな人生を歩むために大切な3つのことを確認しましょう。

1.神にある高くて大きいスケールの目標

幸せを手にする秘訣は、どんな世界でも、ゴールをどこに置くかによります。自分の理屈、感じ方、ひらめき、悟り、道徳心、宗教心のレベルではなく、よりスケールを大きく保つことにより、人生の豊かさは色あせません。私たちクリスチャンの人生のゴールは、永遠の命、神と共に住まう天国です。それを実現するのは、私たちの頑張りではなく、イエスの復活にあります。主の復活により、クリスチャンとしての信仰は、道徳や宗教観の枠の中で終わらず、神に受け入れられ、とこしえに神を賛美し喜ぶことができる希望、夢、目的があることを感謝しましょう。だからクリスチャンは、何歳になっても夢を失いません。死ぬ直前まで喜びがあり平安があります。

2.究極のハッピーエンドの約束

今の日本は、豊かで平和です。しかし、歴史を振り返ると、神を愛し、人を愛し、命を懸けて試練に挑戦したたくさんのクリスチャンがいました(ヘブル11章参照)。彼らは不幸だったのでしょうか。いいえ。神の愛が実現されるために、たとえこの世で望んだものが手に入らなくても、神から与えられるもっと大きな約束である永遠の命や祝福を信じて信仰の生涯を貫いたのでした。イエスの愛をいただくことによって、甦りの命をいただき、万が一この世では満たされなくても、神が共におられれば必ず祝福され、勝利し、大成功します。必ず幸せになります。この喜びを私たちの魂の深みにまで与えられていることを感謝しましょう。

3.甦りの命を実体験する

私たちは物心ついた頃から、教えられないのに嘘をつき、人に隠れて悪いことをするようになります。どんなに立派に見えても神の前に立つ時、罪がないと言える人は一人もいません。一人のお方が十字架上で私たちの罪を全部背負って死に、復活によって私たちに新しい命が与えられました。イエスに、私の心の中に宿ってください、と祈り求めて告白すれば、イエスの命と恵みをいただくことができるのです。それを今日、あなたも実体験すべきです。イエスの十字架からの復活は、私たちのためのものです。イエスが甦られたから、永遠の命へとつながるのです。どんなに厳しい事態でも、必ず力を与えられ、死を超える命が約束されています。喜びはなくならず、感謝は消えず、平安は揺るがされません。

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慰めよ。慰めよ。わたしの民を

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。
その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
                      イザヤ書 40章1~2節

主は「慰めよ」と語られます。この世界には、私たちには、神の慰めが必要なのです。慰めなんていらない、と強がってはいけません。神は慰めの神です(Ⅱコリント1:3)。イエス様は慰め主(助け主)であり、聖霊様は、もうひとりの慰め主(助け主)です。慰めはいらないと言うなら、神様なんていらない、ということになります。へりくだりましょう。私たちは、神様の慰めなしには生きられない者なのです。
そして、今日の聖書箇所、イザヤ書40章では、やがてユダの国が、神に逆らい、罪と不信仰を重ねて滅びに至り、全てを失って、奴隷として、遠い異国バビロンに奴隷として連れて行かれると預言され、さらに、そこから救い出される約束が語られています。
まさに慰めを必要としていた時代に、当時の人々を慰めた神の言葉は、時代を超えて、今も私たちの心に慰めを与え続ける、いのちの言葉です。

1.主がそばで名を呼び、語りかける慰め

「慰める」という言葉は、旧約聖書のヘブル語では、心や思いを変えるという意味があり、新約聖書のギリシヤ語では「そばで(名を)呼ぶ」という意味があります。全能なる愛の神様がすぐそばで私たちの名前を呼んで語りかけてくださるとき、どんなに痛み傷ついた心も慰められ、心も思いも変えられます。
自分の罪のための苦しみ、それがいつまで続くか分からない中でも、「あなたの労苦は終わった」という主の言葉を聞くなら、私たちの心は慰められます。全ての罪に引き替えて、二倍のものを受ける、どんなに罪の苦しみが大きくても、それをはるかに上回る二倍の喜びが待っているのです。主がすぐそばで、そう語られるのです。私たちの名前を呼んで、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださるのです(43:4)。自分なんか何の値打ちもないと落ち込んでいた心も慰めを受けます。私たちが年を取っても、白髪になっても、「わたしは背負う。…背負って、救い出そう」と主は語られるのです(46:4)。重荷を背負って疲れていた心も慰められます。主が私自身を、その重荷ごと背負って支えておられる、だから、今日も生かされていると気づくとき、慰めを受け、立ち上がることができます。たとえ母親が自分のお腹を痛めた子どもを見捨てることがあったとしても、「このわたしはあなたを忘れない」(49:15)と主は語られるのです。神にも見捨てられたと思い込んでい
た心の暗闇の中にも、慰めの光が射し込んできます。

2.十字架の慰め

さらに、主が私たちを慰めるために与えてくださったのは、イザヤ書53章、主の十字架の預言です。私たちの全ての罪も病もわずらいも、全て主が身代わりに十字架で背負い、取り去り、贖われる、主が苦しまれたのは、私たちがもう苦しまないためです。十字架から聞こえてくるのは「もう泣くことはない、苦しむことはない」という主の慰めの言葉です。主を十字架で殺した人々さえ見捨てることなく、そんな人々のために命をかけて赦しを祈られた主です。この方が私たちを見捨てるなんて、ありえません。それは私たちが主の民、神の子どもだからです。「主よ、あなたの十字架が、私の慰めです」。この慰めがあるから、私たちは立ち上がり、進み続けるのです。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです(40:31)。

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神の恵みと希望の流れに生きる

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。              ローマ人への手紙5章3節~5節

まだ肌寒い日がありますが、桜が開花しました。春にふさわしい神からの勢いある恵みを頂こうという期待感を持ち、神に生かされている者として信仰を働かせましょう。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(Ⅰコリント13:13)と聖霊は語っています。神を信じて「信仰」を持って歩むこと、神にあって常に「希望」を抱くこと、神にあって「愛」すること、これらは無くなることがありませんので、私たちはそれらを本当に大切にしていかなければならないと思います。人生は悲喜こもごも、色々な出来事が起こる人生の中でも「私の信じる神は恵みの神である」という信仰をしっかり確認しておきましょう。
今日の聖書箇所は、ローマ人の手紙の中でも特に有名な箇所と言っても過言ではありません。ここから3つのことを確認しましょう。

1.この希望は失望に終わることがない

いつまでも変わらない「希望」を与えて下さる神がおられることを感謝しましょう。聖書の神は常に私たちに「希望」を与えて下さるお方です。私たちの人生は、しばしば「川の流れ」に例えられます。人生の中での悲喜こもごも、激流もあれば、緩やかな流れもあります。そのどんな流れの一場面を切り取ったとしても、神はそれぞれの場所で必ず私たちに希望を与えて下さる神なのです。神は必ず私たちに良き物を与えて下さる、恵みを備えて下さるお方であることを感謝しましょう! 「この希望は失望に終わることがありません」(5節)。この御言葉を私たちの胸に刻みつけましょう。

2.忍耐が練られた品性を生み出す

「患難さえも喜んでいます」(3節)とありますが、「患難」とは人生で体験する「試練」のことです。ため息や涙でしか表現できないような厳しい状況の毎日のことです。人生の中には辛いと言わざるを得ないことが起こります。けれど「神の恵みの流れ」の中で必ず次に来るものに期待しましょう! 「患難」が「患難」のまま固定されることはありません。詩篇の作者が「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)と語っているように、実は「試練」「困難」「苦しい」と思われる状態こそ人として最高の心構え、人間として持つべき最高の資質を与えられるための準備の時なのです。「忍耐」を前向きに乗り越えた人しか身につけることのできない、その人らしい人生の味わい、深い人格、品性を生み出すのです。それは楽な体験からは、決して得られません。

3.保証は神の愛

この流れは、神の御手の中にあります。人生のこの流れが必ず次の恵みの流れへと導かれるのです。そしてその保証は、神の愛です。神の愛は、きれい事の概念ではなく、今も生きて働く聖霊によって神の恵みが愛という形で具体的に与えられていることを感謝しましょう。目に見えなくても、今この瞬間も働く神の聖霊によって神の愛が私たちの人生の中に豊かに注がれていることを受け止めましょう。
だから私たちは、どのように弱くてもつまずいてもあきらめません。神によって与えられる希望は失望に終わることがありません。聖霊によって神の愛があなたの心に注がれているのですから、「神の恵みの流れ」を更に体験してまいりましょう!

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神の力の現れ

…私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、…イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
               コリント人への手紙第一 2章1節~5節

今朝、皆さんとご一緒できることは私にとっても大きな祝福です。神の恵みによる偉大な出来事を期待すれば、私たちの信仰が引き上げられ、この日本にも素晴らしいことが起きます。神からの知らせ、神が語っておられることを聞きましょう。神に祈るとき、神の御心がどのようなことかを知りましょう。神は真実な方ですから、聖書で語られたことをひとつ違わず実現されます。

1.福音を伝える

パウロはこの箇所で、コリントの人々に対して、知識に富み、物事に分別があるかどうかが重要なのではなく、ただイエスとその十字架が持つ恵みを知ってほしいと語っています。人々は知識や情報を求めて生きていますし、賢く知的でありたいと願っています。イエスの十字架が愚かなことに思え、信仰を持てない人がたくさんいます。しかし、私たちは周りの人々にイエスを信じることの素晴らしさを伝えることを忘れてはいけません。イエス・キリストただお一人が、私たちの罪を清めることがおできになるのです。私たちの内に救い主が宿ってくださるとき、全能なる神が私たちの人生を内側から変えてくださいます。本物の救い主、私たちの命を本当に助けてくださる方が、日本の人々に必要なのです。

2.神の御力の現れを示そう

パウロは人々の前に立って語りました。「私は人間の知恵を語るためでも、完璧な生き様を示すためでも、また私の宗教性を証明しようとして来たのでもない。あなたがたより信仰熱心だと述べるつもりもない。私が皆さんの前に立っているのは、ただ神の力、御霊の現れによるのです」。これこそが、今日の教会に神が与えてくださった素晴らしい恵みです。あなたが人生でどこに行こうと、聖霊はいつもあなたがたと共にいます。神があなたの前を歩んでくださいます。イエスは、あなたの中にも偉大な御業を行ってくださいます。パウロがコリントに来たのは御霊、御力の現れをコリントの人々に見せるためでした。だからあなたも、どこででも人々にイエスの素晴らしさを語ってください。人々に笑われ拒否されるかも知れません。だからこそパウロは語ります。「私が語る言葉ではなく、神の現れを示しましょう」。神がイエスを死者の中から甦らせたことを、神が全能の神であることを、神の御力の現れを人々に伝えましょう。

3.私自身が信仰を持つこと

日本人の多くが教会に来ないのは、信じる心を持たないからです。しかし、すべての人がイエス・キリストを信じる必要があるのです。あなた自身が信仰を持ってください。神はあなたの信仰に応じて働かれます。イエスが病を癒されるとき、人々の信仰に応じて癒されました。信仰があれば、神のお言葉を受け止めることができます。信仰は人間の知識によるのでなく、神の力に基づくものです。この世には私たちに影響を与えるさまざまな力、権力があります。しかしそれらはあなたを天国に連れて行くことはできません。どんなに医学が進歩しても、すべての病気を治すことはできません。あなたの人生の中にも様々な力が働いているでしょう。しかし、この世で一番強い力、全能の神の力が働いていることを信じましょう。全能の神は、あなたの病を癒してくださいます。

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天から下った命のパンをいただこう

…イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。…わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」               ヨハネの福音書6章32節~40節

インド伝道のために、兄弟姉妹が昼夜を問わずお祈りしてくださったことを心から感謝します。皆様のお祈りによって、神は現地において素晴らしい御業を現してくださいました。現在インドでは、ヒンズー教至上主義の政権によって、外国人の説教者の入国や活動が大変制限され、危険と紙一重の難しい中でしたが、すべて守られて、現地の先生方やクリスチャン、偶像崇拝から悔い改めていやされた方々に喜ばれ、素晴らしい主の働きを思い切りさせていただくことができました。3日間の野外集会にも多くの人々が集まり、最終日には3000名ほどの集会となり、今回も多くの病のいやしや霊的解放の御業が現されました。政府からの厳しい迫害の中で、キリスト教会や孤児院が閉鎖に追い込まれる中、タンカチャン先生はティルベロール周辺で200の教会を守っています。そういう状況下で日本からの伝道が、現地のクリスチャンたちにとってカンフル剤になり大いに励まされていると先生方に感謝されました。
インドと日本で言葉は違っても、人間として命を与えられた者ならば必ず、救い主イエスの恵みがあることを感謝しましょう。聖餐式にあずかるにあたって、3つのことを確認しておきます。

1.イエスはいのちのパン

イエスは、2000年前の歴史の中の偉大な方で、単にキリスト教の教祖で話が素晴らしかったとか、いやしの御業をなさったというのではありません。イエスは「天から下って来たいのちのパン」であり、生きるすべての人に命を与えるお方です。現在、地球上には70億の人々がいて、その中には素晴らしい能力や才能を持った人がいたとしても、「救い主」と呼ばれるお方はただイエスお一人です。私たちはこの真理を知らなければなりません。聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲んで、私たちの内側にイエスをお迎えして、深いお交わりを手にしたいと思います。

2.決して渇くことのない魂の恵み

私たちを喜ばせるものは、世の中にもたくさんありますが、永遠に続くものはありません。しかし、イエスが与えてくださる救いは魂にまで及び、渇くことのない恵みで満たしてくださいます。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)。イエスによって魂が満たされ、私たちの存在の根本からの喜びが与えられるのです。

3.永遠の命をいただく

ヨハネの福音書はほかの福音書に比べて、救われることによって目に見えない霊の世界、永遠の世界へと道が開かれることが繰り返し語られています。今の世の中は、すべてのことにおいて刹那的で、今さえ良ければという、その場しのぎのことを追求します。しかし、聖餐式で、十字架上で裂かれたイエスの体と流された血をあらわすパンとぶどう酒をいただくことによって、たとえ地上の命は終わっても、神のもとで住まう永遠に続く命をいただいている恵みを感謝しましょう。単なる儀式としてではなく、この聖餐式でイエスに結びつく永遠の命をいただき、3月が生き生きとした春の日々となりますようにお祈りしましょう。

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主のみことばにとどまる恵み

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。   ヨハネの福音書15章7節~13節

讃美歌の「山路こえて」という曲の作者は、松山城南高校の初代校長となられた、西村清雄先生です。宇和島伝道の帰り、大洲までは、まだ5里(20㎞)もある峠で日が暮れ、心細くなり、讃美歌の1節1節の歌詞を作る中で、先生の心の中から心細さが消え、その旅路が神の恵みに満ちたものになったという話が残っています。後に松山名誉市民の称号も受け、キリストにある生涯の実を結ばれました。私たちの人生の旅路も、心細く辛い事があっても、神と結び付いていれば、豊かな恵みに満ちた、楽しい旅路に変えて頂けます。私たちも主にある人生の実を結んでいく者でありたいと思います。今日の箇所には「とどまる」「実を結ぶ」という2つのキーワードがあります。ここから3つの事を共に学びましょう。

1.福音の言葉にとどまろう

神の言葉にとどまるとは、福音の言葉にとどまるということです。ヨハネ福音書は唯一、福音を「ことば」と表現しています。福音とは、パウロが語っているように、キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださり、葬られ、3日目に甦り、使徒たちに現れ、私たちに永遠の生命を与えてくださったことです。パウロは、月足らずで生まれた私にも現れてくださったと語ります。そして、罪深く、醜くて弱い私たちにも現れてくださいました。これが福音です。福音は信じる者に、救いを得させる神の力です。だから、福音の言葉にとどまることを意識しましょう。

2.主の愛にとどまろう

9、11、13節にあるように、主の言葉は、福音の言葉と同様に愛の言葉です。預言者イザヤを通して「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と語り、エレミヤ31章でも「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と語ります。私はあなたを愛していると一番に語ってくださる神です。ヨハネ3章に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、無限の愛の結晶として、御子キリストを遣わし、値打ちのない私たちのために、命まで捨てて、その愛を示してくださったのです。イエスは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい、と語ります。私たちもそうしたいと願いますが、口で言うほど、易しくはありません。だから、愛そうとする前に、大きな主の愛を、心にしっかりととどめたいと思います。イエスの愛の中にとどまると、互いに愛し合える者とされていきます。意識して、愛の言葉をしっかりと心の中にとどめましょう。

3.多くの実が結ばれる

コロサイ3章に「愛はすべてを結ぶ帯なのです」とあります。では、愛は何と何を結び付けるのでしょうか? それは、神の御国とこの地上です。愛が、天国を私たちのただ中にもたらすのです。神の御心は、罪人の私たちを赦すことです。私たちを縛っている、否定的な思いや感情、困難、不幸、苦しみから解放することです。病から癒やされることです。神の御心と愛の言葉、福音の言葉にとどまると、自分の努力ではなく、赦し、解放、癒しが現され始め、互いに愛し合うようになります。伝える業、仕える業に熱心な者にされていきます。愛の言葉、福音の言葉の中にとどまると、多くの実が結ばれていくのです。まず、イエスとの愛の関係から始めましょう。

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志を受けよう! 事を行なおう!

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。         ピリピ人への手紙2章13節

ハレルヤ、今日は、信仰歴の表彰式の日。20周年の方から、今年は初めて60周年を迎える姉妹のお祝いを共にできたことを心から感謝します。クリスチャンの信仰の素晴らしさは、天地宇宙を創られた命の与え主である神と一緒に歩むことができることです。罪人で何の価値もない私たちを神が選び、救いへと導くために、神のひとり子なる、イエス・キリストがこの世に現れてくださり、十字架の上でご自分の尊い命を捨て、私たちの身代りとなって死んでくださった。このイエスを信じ受け入れるならば、私たちの罪深い命が死んだのであり、イエスの命を頂き本当の自分が生き返るという奇跡を救いの出来事の中で与えられるのです。私たちは自分の力だけでがんばるのではなく、この聖書の信仰を通して神の愛を頂き神と交わり、神に聴き神に励まされて新しい命、人生の価値が与えられますから感謝します。
今日の聖書箇所には大きな祝福の証しがあります。クリスチャンとして聖書の教えを信じて生きる私たちには、神が働きかけ、繋がってくださるのです。神が働いてくださるので、神の偉大なみこころが私たちに伝えられ、自分のがんばりや悟りなど、私たちの小さな枠で終わる生き方ではなく、弱い私たちが神に喜ばれる素晴らしい御業を行なわせて頂ける者となるのです。神から与えられるものの大きな特徴が2つ、この聖書の箇所からわかります。

1.神が志を立ててくださる

神から与えられた志を持っていますか? 本来、私たちは自己中心で罪深く、自分の心の中にあるものばかりを祈り求め、自らの力で自分を超える大きな志を立てられるような存在ではありません。
けれど、神の恵みを頂き、その軸をぶらさずに長年歩んでいると神から働きかけてくださり、志が与えられるのです! イエスのために生きようとするなら、誰に対しても与えられるのです。神からの豊かなビジョン、計画、志を頂いて大きく人のためにも神のためにも用いられる人生を歩むことができる、この大きな恵みに感謝します。

2.神は事を行なわせてくださる

力の無い弱い私たちですが、クリスチャンとして、しっかり御言葉を土台として生きていくならば、自分の力ではとてもできないような素晴らしい働きを神によって成し遂げさせていただけるのです! これを感謝して受け止めたいと思います。萎縮し、小さくなろうとする私たちの心を今、信仰によってしっかりと押し広げようではありませんか! 20日からはインド伝道です。神から志を与えられ神が事を行なわせてくださったこの働きも35年を超えました。今年は、私が野外の大集会を始めてから20年目の節目の年です。その間に、おびただしい数の人々が福音を聞き、主イエスにより多くの人々が癒され、6千人近くの人が救われ、数十の教会ができたと伝えられ、驚くべき恵みに感謝しました。この海外伝道のビジョンも神の御心によって私たちの教会に与えられた志です。それを弱い私たちが行なおうとする時、神の力で行なわせて頂けることを忘れずに、ここまで歩んできました。皆で、神の御心のままに志を与えられ、神の力によって事を行なわせて頂ける、クリスチャンらしい力強い大きな人生を歩ませて頂きましょう。共に信仰の枠を拡大しようではありませんか!

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いやされる信仰への成長

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。        使徒の働き14章8節~10節

今日の物語は、パウロとバルナバが伝道旅行の途中、ルステラという町に行った時の話でした。パウロたちがその町で話をしていると、この教えを聞こうと集まっている人の中に足の不自由な人がいました。この人物が、イエス・キリストによる癒しの力をいただき、人々の目の前で癒されて、生まれて初めて歩くことができるようになったのです。イエス・キリストの御名による祈りがどれほどすごいものであるかを体験したのでした。この物語から、イエスが、私たちのためにも働いてくださること、本当のクリスチャンだからこそ、イエス・キリストの恵みをいただくことができること、これを実体験させていただきたいと思います。そのために3つのポイントを確認しましょう。

1.神の言葉に耳を傾ける

足が不自由なこの人が、集会の場所で何をしたのでしょうか。彼は、パウロの語る、主キリストの福音に耳を傾けていたのです。この事実は重要です。私たちは、自分が不幸で困難な状況にある時、周りのみんなを責める方向に流れがちです。でも信仰とは、自分と人との比較や関わり方の問題ではなく、神に目を向け、語られる神の言葉に耳を傾けることです。神は今日も病んでいる私たちに癒しを語られるでしょう。その言葉に耳を傾け、しっかりと自分のものとして受け止めたいと思います。彼は生まれてから一度も歩いたことがなかったにもかかわらず、ひねくれて落ち込んで誰かを裁くのではなく、語られる
主イエス・キリストの言葉に耳を傾けていたのです。

2.癒しを引き寄せる信仰を働かせる

彼に「いやされる信仰があるのを見て」と書かれていることに注目したいと思います。私たちはいつも、神に学び、教えられ、神の中にある恵みを求める姿勢を持とうではありませんか。その中に、癒されて当然だと言われる信仰を与えられたいのです。私たちの信仰もまだまだ成長できます。Brush Up!をテーマとするこの一年、癒しを引き寄せる信仰、癒されて当然だと言われるような、イエスに喜ばれる信仰の持ち主へと私たちは成長していきたいと思います。「どうか、イエスから、あなたには癒される信仰がありますと言ってもらえる者となりますように」と、祈っていこうではありませんか。

3.想像を超える奇跡の御業を体験しよう

パウロの言葉ですぐに飛び上がって歩き始めたこの男ですが、彼は生まれながら足が不自由だったのです。神から与えられる恵みは、私たちがかつて一度も体験したことのないようなことさえ起こすことを感謝して期待したいと思います。誰も体験したことがない、全く考えたことも想像することもできなかった、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい事柄を神は与えてくださる、というところまで、あなたの意識の中で癒しの御業の可能性を押し広げてください。癒しを求めて祈る時、この男が体験したように、生まれてから一度も歩いたことがない男が、まっすぐに躍り上がって立ち上がり、歩き始めるというような神の恵みを頂きたいと思いませんか? 神の御力にはどんなことでもできると、あなたの癒しの器を押し広げましょう。神をありきたりな小さな範囲に限定せず、本当に奇跡と呼べるような、私たち人間の説明をはるかに超える恵みを体験できるようにと今、祈りましょう。

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