癒し主キリストの御心

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。           マルコの福音書1章40節~42節

イエス様は日々、会堂へ出かけては福音を語り、多くの人々の病を癒し、悪霊から解放していました。その癒しの御業は、イエス様にとって日常でした。このらい病人も、イエス様のお心を求めてやってきました。当時らい病は汚れた病として社会から疎外されており、人と会話をすることさえ許されていませんでした。「お心一つで」の言葉には、イエス様は私を受け入れてくれますか、という意味が含まれていたのでしょう。イエス様は、そんな彼をちゃんと迎え入れてくださいました。らい病人に行なった癒しの場面から、イエス様がされた3つの行動に注目したいと思います。

1.深くあわれんでくださった

イエス様は、いつも私たちに神の愛を向けてくださり、私たちの痛みや苦しみを分かち合い、共に背負ってくださる御方です。イエス様は、らい病からくる痛み、家族と共に暮らすこともかなわず、社会から疎外されていく苦しみや悲しみを持つ彼を深くあわれんでくださいました。イエス様は「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と語り、すべての痛みを背負ってくださいました。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちの罪を身代わりに背負うためです。このことにより、私たちの罪は赦されたのです。イエス様はご自分の命をかけて私たちを愛してくださいました。そこまでしてくださる救い主の愛とあわれみに感謝します。

2.手を伸ばされた

イエス様の御手は、常に私たちに向かって伸ばされ、近づいてくださっているのです。当時誰もが、らい病人とは距離をとって、遠ざけるようにしていました。しかし、イエス様は愛をもって癒しの御手をらい病人に向けて伸ばしてくださったのです。救い主であるイエス様はなんと素晴らしい御方でしょうか。この教会は、一切のものを一切のもので満たすイエス・キリストの満ちている所であって、そのキリストの側から、私たちに近づいてくださるのです。主は遠くに離れてはおられません。イエス・キリストがこの世に来られたのは私たちの内に宿るためであり、私たちとの距離を縮め、近づいてきてくださる方であることを感謝します。

3.触れてくださった

イエス様は、触れることによって私たちと具体的な命の接点を持ってくださる御方であることを心から感謝しましょう。接している、触れていると、その人の命の温かさが伝わるのです。イエス様は触れてくださることによって、私たちに救いと癒しを100%下さいます。そんな愛の交わりをもって、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言って、私たちを癒してくだるのです。らい病人は、近づいてくるイエス様に「いいんですか? 誰も私に触れようとしないのに…」と、躊躇したのではないかと思われます。それでも、イエス様は、らい病人に触れてくださったのです。
私たちの信じる主は、私たちを深くあわれみ、愛し、永遠の命を与えてくださる救い主であり、また癒し主であり、霊的な解放者であるのです。主の御心は、私たちが癒されることです。癒しの御業を求めて祈り、感謝してまいりましょう。ません。この11月、もう一度信仰告白をして、クリスチャンとしての命をいただいて前進してまいりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 癒し主キリストの御心 はコメントを受け付けていません。

私たちのすべてをご存知の主

さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。          ヘブル人への手紙4章14節~16節

先週の夕拝では、洗礼式がありました。信仰を告白して洗礼を受け、神の家族としてキリストの体である教会に招き入れられるとは、素晴らしいことです。社会では、コミュニケーション不足や無理解が問題になる昨今ですが、信仰のことを思う時、イエス様は私たちのすべてをご存知であるという事実は、本当に感謝なことです。ダビデは、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。(詩篇139:1)」と、告白しています。今日の聖餐式を通して、イエス様は私たちの弱さ、汚さ、醜さをすべて分かったうえで、私たちを救うために十字架にかかって死なれ、私たちと結びついてくださったことを心から感謝したいと思います。4つのポイントを確認しておきましょう。

1.主は私たちのすべてをご存知である

大祭司という立場の人は、神の掟やみことばを人々に伝え、人々の罪のとりなしの祈りをささげる、神とイスラエルの民を仲介する役割を持つ人のことでした。私たちを救う、本物の大祭司であるイエス様が共におられることを感謝します。
私たちは、家族や親しい友人にさえ心を打ち明けられないことがあります。しかし、イエス様は今あなたの心の中にある思いをすべてご存知で、罪深い私に寄り添ってくださるお方です。ですから、イエス様に自分の弱さを思い切り告白して、頼ることが必要です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と、主はおっしゃいました。主が私たちのすべてを知り、愛してくださるから感謝です。

2.主は私たちの代わりに死なれた

キリストは、僕(しもべ)の姿をとり、私たちの代わりに苦しめられ、私たちの罪を背負って罪人となられ、死ぬことまでしてくださいました。私たちの人生に、キリスト・イエスは、ご自分の命を重ねてくださったのです。身代わりとなることで、私たちを生かしてくださった主に感謝します。

3.大胆に恵みの中に飛びこもう

キリストは、死ぬことまでして私たちを救う道を開いてくださったのです。私たちは、イエス様のもとで重荷をおろして、大胆にイエス様の臨在の中に飛び込もうではありませんか。パウロは言います。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」。イエス様によって罪をきよめられ神の子とせられ、あなたの力による世界ではなく、イエス様によって新しい命を着せていただいて、新しい人生を歩みましょう。

4.信仰を告白しよう

「イエス様こそ、私の主です。イエス様が、私の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。イエス様によって、永遠の命に繋がる救いをいただきました。私はあなたを信じるクリスチャンです。」と、信仰の告白を固く保って、イエス様と共に歩むクリスチャンでありたいと思います。
イエス様が私たちと共におられるので、私たちと神様のコミュニケーション不足はありえません。この11月、もう一度信仰告白をして、クリスチャンとしての命をいただいて前進してまいりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 私たちのすべてをご存知の主 はコメントを受け付けていません。

“恵み”をテーマとして歩もう

私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
                       ピリピ人への手紙4章18節~19節

昨日の午前に、マレーシアより戻って参りました。マレーシア伝道のために祈っていただいたことを感謝します。今回は、ボルネオ島にあるタンパルーリでの癒しの特別集会、コタキナバルでの礼拝、そして神学校スクールオブアクツでの集中授業を行ってきました。
今回初めて行ったタンパルーリの集会は、現地の一番大きな教会の中で合計4回の特別集会を行いました。癒しの祈りの中では、膝の痛みによって階段の上り下りがまともにできなかった姉妹が癒され、ステージの上で証しをしてくださいました。その後も、彼女はステージの階段を何度も上り下りしているのです。癒されたことが嬉しくてたまらない様子でした。このような大きな集会が開かれることが初めてに近いようなその町で、集会に集まった人々が喜んでいる姿を見て、神様がこの地の人々を満たすために集会を開いてくださったことを感謝しました。
今日の聖書箇所は、パウロがピリピの教会の人々に宛てて書いた手紙の締めくくりの部分にあたります。パウロはピリピの地で、神からの恵みと、人々が喜んでいる信仰の姿を見ました。それによって満たされた彼の魂は喜びました。そして彼は、ピリピの教会の人々のために祈りました。彼が信じている神は恵みの神で、今も働いている祝福の神であり、天の豊かな倉から必ず祝福を注いでくださるお方です。この神により、あなたの必要は満たされるのだから、あなたの祝福を祈りますと、パウロは語ったのです。
この秋の日々が動いていく中で、この聖書の語っている言葉を、自分の心の中に大きな柱として受け止めて歩んでまいりましょう。

1.恵みを数えて感謝する

1つ目の柱として、私たちは神から与えられた恵み、感謝を数える信仰を持って歩みましょう。私ごとですが、先週は私の誕生日で、還暦を迎えました。多くの方からお祝いのお言葉をいただき、本当に感謝しました。私たちは、これまでの人生を振り返ると、いいことばかりが起こる、楽しくて仕方ない毎日の連続だったと思える人は、1人もいないと思います。ですが、34年になる私の牧師としての働きの中で神様から強く教えられたことは、この18節のお言葉「私は、満ちあふれています」ということです。単なる品物やお金があるということではなく、共に神を信じて歩む兄弟姉妹から受ける恵みによって、私は満ちあふれています。そのように恵みを数え、感謝して生きていく者でありたいと思わされます。

2.人々のために恵みを信じて祈る

2つ目の柱として、家族や職場の人、教会の兄弟姉妹などの周りの人々のために、祝福や恵みを宣言して祈っていく者でありましょう。あなたの周りの人々の抱える問題がどのようなものであれ、神にあって必ず前進できる、神の恵みが周りの人々に豊かに溢れることを先取りして、「あなたの経済の必要が、人間関係の解決が、病の癒しが、そして祝福が与えられることを祈ります」と、周りの人々の祝福を祈り求める者として生きていきたいと願います。
神の祝福が現されることをいつも祈り、神の恵みの震源地になろうではありませんか。この一週間、自分に与えられた恵みを感謝し、周りの人々のために祝福と恵みを祈ってまいりましょう!

カテゴリー: 未分類 | “恵み”をテーマとして歩もう はコメントを受け付けていません。

主は待っておられる

…主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
…またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。…ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。…そして彼らは祝宴を始めた。
         イザヤ書30章18節~19節、ルカの福音書15章11節~24節

1.主は待っておられる

主はあなたを待っておられます。私たちを恵もうと待っておられます。あの放蕩息子の帰りをずっと待ち続けていた父親のように、私たちの父なる神様は、私たちを待っておられます。放蕩息子が、もうほかにどこにも帰る場所がなくて、自分の帰るべき所は、お父さんの待つあの故郷の家、そこしかない、そこが自分の帰る場所だといって、父のもとに帰って行ったように、私たちも帰って行くのです。ここしかない、私の帰る所は、まことの神様のもと、イエス様のもと、そこしかないと帰って行くのです。
放蕩息子が帰ることができたのは、そこに待っている父がいたからです。私たちが今日も、神様のもとに、教会に帰って来ることができているのは、ここに私たちを待っておられる父なる神様がいらっしゃるからです。そして、まだ遠くにいる息子を、父親が走り寄って、抱きしめたように、私たちを待っておられる父なる神様は、私たちを抱きしめてくださるのです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、…その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」(イザヤ63:9)。主は私たちを待っておられ、私たちを抱きしめてくださるのです。それを知るとき、もう泣くことはないのです。恐れ、悲しむ必要は、もうないのです。

2.主は待ち望んでおられる

イザヤ書30章18節にある「待っておられ」という言葉と、「待ち望む」という言葉は、実は原文のヘブル語では同じ言葉が使われているのです。ですから、私たちが主を待ち望むように、主も私たちを待ち望んでおられるのです。息子の帰りを待ち望んでいた父親のように、私たちが主のもとに帰って来るのを、主は待ち望んでおられるのです。主のもとに帰るとは、悔い改めることです。神のかたち、神に似る者として造られた、本来の、あるべき姿に立ち返ることです。本来の神様との関係を取り戻すことです。神の子として主を愛することです。「父なる神様、私はあなたを愛します」、この一言を主は待ち望んでおられるのです。祈りの中で、日々告白しましょう。
主が待ち望んでおられることに気づいて、それに私たちが答えることができたとき、新しい扉が開かれるのです。それは、恵みの扉です。恵もうと待っておられる主が「わたしはそれを待っていた、その信仰を、その悔い改めを待っていた」といって恵みを注いでくださるのです。本当に主に信頼するとき、主は「その信仰を待っていた」と喜ばれ、神のわざが現わされるのです。私たちが本当に悔い改めるのを、主は待ち望んでおられて、天の多くの御使いと共に喜ばれるのです。こんな小さな私たちの信仰を、悔い改めを、主は、喜んで待ち望んでくださっているのです。こんなにも素晴らしい主を、だから私たちも待ち望むのです。「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は!」。
主のもとに、教会に来られるすべての人々が、「あなたを待っていたよ」という主の恵みと愛で抱きしめられて、「世にあっては患難がある」というすべての苦しみ悲しみが消えていくのです。もう泣くことはないのです。あの放蕩息子のように、主のふところに飛び込み、主にだきしめられて、私たちは生きていくのです。

カテゴリー: 未分類 | 主は待っておられる はコメントを受け付けていません。

主のもとには癒しがある

日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。…朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、…イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」               ルカの福音書4章40節~43節

私たちは、自分たちのことばかりを考えていると、権利のみを主張して、都合のよいものに変えてしまおうとするものです。神様の御前に出ても、わがままなままでありませんように。聖書は私たちになんと語っているのか、神様のご計画や御心はどこにあるのか、私たちは神様の真理を祈り求めていく者でありたいと思います。
今日は、癒しの礼拝です。単に癒しを祈り求めるだけでなく、イエス様は私たちの救い主であり、また癒し主であり、私たちの命そのものに関わってくださる御方でありますから、イエス様がどのようなお方であるのか、本質を理解して、祈って癒されていきたいと思います。2つのポイントを確認してまいりましょう。

1.イエスは救い主としてこの世に来られた

主イエス様が到来された目的は、「救い主(キリスト)として人々を救うこと」です。イエス様は、この福音を一人でも多くの人に伝えるために、私たちのところへ来られました。福音とは何ですか。神が私たちを救ってくださる約束であり、私たちを救う神の恵みの業が、事実として人々に届けられることです。福音は、Good News。良い知らせを聞いて自分のものにすれば、それが私たちの人生を変え、私たちは本当の幸せを手にするのです。
人々は、イエス様に出会って興奮していたことが分かります。人々が聞いたイエス様の言葉には、権威がありました。イエス様が祈ることによって病が癒されて、悪霊の力からも解放されたからです。人々はそんなイエス様が去ることを引きとめました。しかしイエス様は、自らの御言葉、御業を通して、神ご自身の啓示の現れとしての救い主そのものがそこにいることを、一人でも多くの人々に伝えなければならないと語られています。
今朝、私たちはイエス様を礼拝し、癒しを祈りますが、その前に、今も生きて働かれるイエス様を救い主として信じ、受け入れてまいりましょう。

2.癒しと解放が常に存在していた

イエス様は、癒しや解放のために特別な機会を設け、また特別な祈りをされていたわけではありません。イエス様がおられるところには、当たり前のように、ごく自然に癒しと解放があふれていたのです。イエス様が行かれるところ、また、出会う人々は皆、ありとあらゆる病、患いがことごとく癒されたのです。イエス様は一人一人に手を置いて、おびただしい数の人々を癒しておられたことが当たり前の毎日だったのです。また、イエス様の前では悪霊の方から叫び声をあげて逃げ去っていき、悪霊の支配から人々は解放されていきました。イエス様は神の子ですから、悪霊に対する霊的な権威が初めから備えられていました。イエス様がおられるところには、当たり前のように癒しが現れていたことを知りたいと思います。これが聖書の語るイエス様の御姿です。
私たちは、イエス様の御名前によって祈りますが、聖書の語るイエス様に結びついて祈る者でありましょう。私たちの目の前に真の救い主である主キリストご自身がおられ、この御方に近づいていく人々がごく自然に癒され、解放され、神の業が如実に現されることを信じて、祈っていきましょう。

カテゴリー: 未分類 | 主のもとには癒しがある はコメントを受け付けていません。

忘れてはならない福音の神髄

…私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。…この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。…
                     コリント人への手紙第一15章1節~6節

松山は秋祭りの真っ最中です。日本には伝統としての祭りがありますが、救い主イエスの愛と十字架の恵みを知った私たちは、まことの神を信じて生きることと、人間が石や木や紙で作った神を拝むこととは全く違うことがわかります。私たちの人生になくてはならないのは、イエスを信じる恵みです。イエスがおられなければ、命、魂の救いはありません。
先週もお話ししましたが、先日訪問したケニアのメトロが支援する日曜学校は、公立の小学校で授業として行われています。子どもたちは、それを大変楽しみにしていて、日曜学校がある日は出席率がいいそうです。楽しいゲームや紙芝居、讃美、聖書のメッセージ、真剣な祈りなど45分のプログラムの中で、スタッフは熱く御言葉を語っています。
そこで毎回、①神は私たちを愛してくださっている、②私たちは罪を犯した、③イエスが私たちの罪のために十字架で死んでくださった、④私たちはイエスを信じる信仰の決心をしようと、「4つの最も大切なこと」をラップのリズムに乗って告白するのです。6~8年間、小学校卒業まで毎回繰り返されるのです。これはすごい! 教会に来ているわけでもないのに、聖書が教える福音の一番柱の部分を、子どもたちは一生忘れず心に刻みつけるのです。
パウロは今日の聖書の個所で、あなたを幸せに導く、一番大切な神からの福音を伝えると語っています。今日、しっかり福音の中身を受け止めてまいりましょう。

1.私たちを救えるのはイエスだけ

3節に「キリストは」と、福音の主語をはっきり示しています。イエスご自身がなされたことが重要で、このお方による以外に救いはないのです。私の人生の救い主はイエス様であると、はっきりと信仰の告白をしましょう。

2.イエスは私たちのために死なれた

単にイエスの教えが素晴らしかったから、弟子たちはイエスのことを記録したのではなく、聖書は、イエスが私たちの罪の身代わりになって本当に十字架で死なれた事実を語っています。イエスの死によって、私たちの罪も事実として取り除かれたのです。

3.3日目によみがえられた

イエスは死んで終わったのではなく、3日目にお約束通り、死の力を打ち破って復活されたことを感謝しましょう。キリストの救いと恵みは、人間では決して打ち勝つことのできない死の力さえも、乗り越えさせるものなのです。

4.出会ってくださるキリスト

よみがえりのキリストは、信じる人々と出会ってくださり、ご自分をあきらかにされました。救い主イエス・キリストは今も生きて働いておられ、私たち一人一人と直接出会い、恵みを与えてくださいます。
私たちは、福音の中心点を知らないまま生きていくことがないように。私たちにとっての救い主は、イエスです。私たちと共に歩んでくださるイエスが、私たちの力ではどうしようもない弱さや罪深さを取り除いてくださいます。死の力をも打ち破るイエスが、私を選んで神の子としてくださいました。心から感謝して聖餐の恵みにあずかりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 忘れてはならない福音の神髄 はコメントを受け付けていません。

小さき者たちよ、恐れてはならない!

何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。…あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。持ち物を売って、施しをしなさい。…、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。…あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。         ルカの福音書12章29節~34節

ビル・ウィルソン先生と協力しながら、私たちはメトロ・ワールド・チャイルド・ジャパンとして、ニューヨーク・フィリピン・ケニアの子どもたちに支援をしています。今回私が行ったケニアは、日本からの支援を受ける子どもが200人を超えました。
道端や街の遊び場でメトロの教会学校を開く他の国に比べて、ケニアの活動には違いがあります。それは、100近くの公立小学校の授業の一コマとして、教会学校が行われていることです。ケニアはクリスチャンの割合が一番多い国です。子どもたちの人口が増える中で、神様の御心に従って正しい人生を歩むことを子どもたちに伝えるには、メトロの教会学校が一番いいのだと、気づいた方がいたのです。
毎日学校に出向いて子どもたちに伝道するメトロのスタッフたちの熱心な姿を見たときに、子どもの時からイエス様の福音に触れることが大事であり、神の国を求めていくことが最善なのだと知らされました。

1.恐れることで人生を終えない

ケニアでメトロの活動が始まったのは8年前ですが、メトロが来る前から、既に4人のケニア人の青年が一生懸命に学校を巡って伝道を行っていたのです。今はこの青年たちがメトロのリーダーになっています。一人は路上生活で生きてきた青年でした。もう一人の青年は町のゴミ捨て場で育ち、大きくなってからはそのゴミ捨て場の学校の先生になりました。彼らは小さい時に教会の伝道によって救われイエス様を信じました。そして、お金もサポートもありませんでしたが、信仰によって伝道の働きをスタートさせました。私たちは確かに小さな存在かもしれませんが、不安や恐れ、迷いの中に閉じこもっていてはなりません。小さな者でも、主は必ず良きものを私たちに与えてくださいます。

2.与える者としての生き方を貫こう

私たちは、お金持ちになったら、仕事がうまくいって儲かったら、献金しますという思いを持つことがあります。でも、イエス様は施しなさいとおっしゃっています(33節)。お金があるなしの問題ではなく、生きる姿勢の問題です。
8年前のメトロはどのように始まったのでしょうか。一人のイギリス人の女性がビル先生のメッセージを聞いて、自分でも何かできることがあるはずだと、自分の財産を全部売り払ってお金に換え、単身でケニアに渡りました。そして事務所を構え、メトロの働きを始めたのです。受けたものを自分の内にため込んで終わりにするのではなく、捧げものや愛情、労力を人々と分かち合い、神様のいる天国に宝を積み上げ、与える人生を歩んでいきましょう。

3.神様のところにある宝に目を向けよう

イエス様は、あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあると言われました(34節)。目に見える物やお金に、人生の重心を置いてしまうことがないように。私たちはイエス様を土台とし、いつまでも色あせることのない恵みを持ち続けていきたいと思います。私たちは小さな者ではありますが、豊かに種を蒔いて施し、捧げる者でありたいと思います。小さな者を通しても神様は良いものを与えてくださいます。自分の心がどこにあるのかを見失わず、イエス様に喜んでいただける歩みを進めていきましょう。

カテゴリー: 未分類 | 小さき者たちよ、恐れてはならない! はコメントを受け付けていません。

イエスを振り向かせる信仰

…ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、…娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」イエスが立って彼について行かれると…十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。…イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「…あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。イエスはその管理者の家に来られて、…少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
                        マタイの福音書9章18節~26節

マタイ、マルコ、ルカの福音書は共観福音書と呼ばれ、共通の物語が多く記されています。ですが、著者達は同じイエスの事を見聞きしながらも、受け止めた事にも、伝えたい事にも違いがありました。神はその違いを通し、私達に様々な事を教えようとされています。
今日の箇所には、会堂司ヤイロの娘が生き返った話と、長血を患っていた女が癒された話、2つの物語が記されています。これらには、マルコ、ルカの記事と明確な3つの違いがあります。今日は、この違いがある事を踏まえてお話しします。

1.大胆にイエスに近づく

私達は遠慮なく主に近づこうではありませんか。長血を患っていた女は、イエスの後ろに来て衣のふさに触ったのです。マルコでは、「彼女が群衆にまぎれこんで触った」と記されています。それは、彼女がこっそりと触ったという事を意味しているかもしれません。しかし、マタイは、群衆に紛れ込んだ事を記していません。彼女はもっと直接的に、勇気を持って大胆にイエスに近づいたのです。22節に、イエスは振り向いて…、とありますが、これは振り向かされたのであって、つまり彼女の能動的な行動がイエスを振り向かせたのです。ヤイロは、死んだ娘の生き返りを求めてイエスの御元にひれ伏しました。なんと大胆なイエスへの近づき方でしょう。私達も大胆に恵みの御座に近づく者になりましょう!

2.イエスが関わろうとしてくださる

マタイは、他の福音書よりも登場人物を少なくして、物語の焦点を、イエスとヤイロ、そして長血を患っていた女に合わせています。またマルコ、ルカでは、女は衣のふさに触った瞬間、癒されたのですが、マタイでは、イエスが彼女を見て、声をかけた時に彼女は癒されたのです(22節)。イエスが言葉を持って関わってくださった時、彼女は癒されました。
この後、イエスはヤイロの家へ向かいます。そこに集まっていた群衆をイエス様は見ましたがが、それは、ただ認識した程度の事にすぎません。一方、長血を患っている女には、深い眼差しを向けて関わられたのです。このように、イエスは、近づこうとするあなたを見て、あなたに関わろうとしてくださいます。イエスが私達一人一人と深く関わってくださる恵みに感謝しましょう。

3.イエスの可能性を信じる

私達の願いは、いつも思い通りに叶うわけではありませんが、でもそれは、御心に適っているか否か、神の時なのか、まだ時でないのか、神がそれを成さるのか、成さらないのかであって、できるか、できないかではありません。神には不可能な事はないのです。けれど、私達は期待した事が叶わないと諦めてしまいがちです。でも、ヤイロも、長血を患っている女も、イエスの可能性を信じました。イエスは、私達にもっとイエスの可能性を信じる事を求めておられます。
私達は死を打ち破られた御方の手の中にある可能性を信じて歩む時、神の御業に与かる事ができ、何があっても全てを神にお任せして歩んでいく事ができる、大きな喜びと平安に包まれていく事ができる事に感謝しましょう。

カテゴリー: 未分類 | イエスを振り向かせる信仰 はコメントを受け付けていません。

私たちのために一歩踏み込まれる主

イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。      マルコの福音書1章29節~31節

10日ほど前にインド伝道から日本に戻り、先週は、日光での断食祈祷聖会に講師として出かけました。そして今週の後半からは、メトロワールドチャイルド(子ども支援)の視察のため、ケニアへ向かいます。確かに日々忙しく動き回ってはいますが、どこに行こうとも、何をしていようとも、私はイエス様が共におられるということを体験したいと願っています。クリスチャンである私たちは、イエス様が共におられて御業が現れるということを、もう一度思い起こしましょう。この朝は、イエス様がどのようなお方なのか、聖書を通して学んでいきましょう。

1.主は自ら近づいてくださるお方

今日読んだ箇所は、救い主イエスとしての働きを始められた直後の出来事です。イエス様は、ペテロの義理の母が熱病で苦しんでいると聞き、彼女に近寄ってくださいました。これって、素晴らしいことだと思いませんか? 天地宇宙の創造主である偉大な神の現れであるイエス様が、私たちのところへ、ぐいっと近づいてくださるのです。苦しむ私たちを見捨てず、近づいてくださるイエス様に感謝します。

2.主は触れてくださるお方

そして、イエス様は彼女に単に近づかれただけでなく、実際に触れて、引き起こしてくださったのです。イエス様の力で、ペテロの義理の母は引き起こされたのでした。単に近づくことと、実際に触れることは違います。触れるときに、そのものの体温、命の力が伝わってきます。主は、私たちを助けるために働いてくださることを感謝します。

3.主は生き様を変えてくださるお方

イエス様に触れられてペテロの義理の母は熱がひき、イエス様を喜んでもてなしました。具体的な癒しの業が起こることで、単に私たちの病気の症状が消えるだけでなく、その人の生活や人生まで変えられるのです。私たちも、イエス様に触れていただくときに、病気の症状が取り去られ、更にイエス様を証しする人生へと変えられることを喜びましょう。
今回インドで孤児院の子どもたちを集めての集会をした際、子どもたちを預かって世話をしてくれている教会の先生と、少しの間お話をしました。その人は、らい病であったのに、私たちの伝道集会時に癒され、クリスチャンとなって今は牧師をされている方です。笑顔で手を差し出してくださり、握手をしたその指先は溶けていて、短くなっています。
私たちからの献品である衣服を孤児院の子どもたちに分けた後、その先生に「教会の貧しい人たちにもプレゼントしてください」と、衣服をお渡ししました。「村のみんなも喜ぶと思います!」と、にこにこ笑いながら帰っていかれました。貧しい村で、村人や子どもたちを守る牧師として喜びながら仕えているその姿を見て、イエス様と出会うことの素晴らしさを感じました。
イエス様によって癒されると、人生は変わります。同じイエス様が、私たちのためにも働いてくださいます。私たちも今日ここで、イエス様を求めて祈ってまいりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 私たちのために一歩踏み込まれる主 はコメントを受け付けていません。

救いを成し遂げてくださった主

・・・今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。・・・
       コリント人への手紙第二8章11節、ピリピ人への手紙2章6節~11節

皆さんのお祈りを心から感謝します。インド伝道から守られて帰国することができました。自らの主催で、伝道の働きをインドで展開しているわけですが、今回も兄弟姉妹がお捧げくださった献金を用いて「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)」と言われたイエス様の大宣教命令、すべてのクリスチャンに与えられた信仰のチャレンジのご命令に従い、伝道の働きをすることができたことを心から感謝します。
サナガパドゥでの特別集会の初日、激しい雨のため、2時間遅れで野外集会が始まりましたが、天候は悪くなる一方で、集会場所変更か中止の決断を迫られました。これまで、どんな天候であっても野外集会が中止となることはありませんでしたので、「とにかく集会をさせてください」と祈り、建設中の教会に移動して続行しました。賛美やメッセージを語っている間に神様は「自らが行う準備、人の手配、集会にこだわり過ぎているのではないか、集会の主導権は私にある、主にゆだねなさい」と霊的に何度も語られたように感じました。「どのような条件であっても、集会の中心はイエス様、あなたにあります。すべてをゆだねます」と感謝して祈りました。
自分の願望、思いだけで終わるのではなく、私たちの信仰によってやり遂げるためのポイントを確認してまいりましょう。

1.私の思いを信仰によって形にする

今回は雨に遭遇したことにより、計画し、願っていたような姿でのインド伝道ではなかったかもしれません。でもその与えられた条件の中で、今回のインド伝道をイエス様の栄光のために、主に喜ばれるように、イエス様の福音が語られ、人々が救われ癒さるようにと、最大限のチャレンジをもってやり遂げることができたことを感謝しています。
神から与えられた夢や目標を、単なる思いや考え、願望だけで終わらせるのではなく、それを本当に実行し、やり遂げて形にするのです。
今年のテーマは「Make It Happen!さあ、信仰を働かせよう。事を成し遂げよう」でしたね。私たちが信じたことは、成し遂げられやり遂げることができるのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル11:1)」とあります。心から感謝して「今年も私たちはインド伝道をやり遂げることができました」と、宣言します。私たちの信仰にはイエス様が共にいてくださって、イエス様が御業を成してくださいます。主が私の祈りに応えてやり遂げてくださることを感謝します。

2.信仰のモデルはイエス様

単なる願望ではなく、事を成し遂げていく信仰のモデルはイエス様です。イエス様は信仰の土台であり、私たちの信仰生活の軸です。キリストは神の御姿の現れであるのに、神の栄光を捨てることができないとは考えないで、人間と同じ姿になり、いや、それよりも卑しいもの、奴隷の姿となってこの世に下ってきてくださいました。できないとは考えないで、本当に罪の贖いをやり遂げてくださったのです。私たちの罪を身代わりとなり背負ってくださり、救いの道を成就してくださいました。イエス様によって私たちが救われたことを感謝します。

カテゴリー: 未分類 | 救いを成し遂げてくださった主 はコメントを受け付けていません。