私たちが信じるべき救い主

イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。すると、…湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
                        マタイの福音書8章23節~27節

今朝も、共に礼拝を捧げることができることを感謝します。私たちはクリスチャンですから、どんな時も主が共いてくださることを忘れずに、この非常時だからこそ、穏やかに平安に過ごしていきましょう。クリスチャンとしての信仰の中身は、私たちには救い主イエス・キリストという特別なお方がいるということ、そのキリストと共に生きていくということです。その主とは、どういうお方なのでしょうか? そのことを確認してまいりましょう。

1.平安の主

今日、イエス様が弟子たちと舟でガリラヤ湖を渡られた記事を読みました。当時の船は今の船と違い、少しの風で転覆することがよく起こっていたのでしょう。弟子たちは大波を被り、風に揺られてパニックになりました。しかし、イエス様は眠っていました。
イエス様は、睡眠不足で眠っておられたとは書いていません。イエス様は、ご自身の周りにいつも平安をまとっておられたのです。天地宇宙の創造に関わられた主です。この方を超える存在は、他にありません。イエス様が平安の主であることを感謝します。
イエス様は、弟子たちに語られました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。…平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います(ヨハネ14:27)」と。ですから、どんな状況にあったとしても、私たちには共にいてくださるイエス様からの平安を頂くことができるのです。

2.私たちを救う主

イエス様は寝ておられましたが、弟子たちが起こしに行くと、すぐに反応してくださいました。イエス様は、弱い私たちの叫ぶ声を、しっかりと受け止めてくだるのです。詩篇には、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と、主が語られたお言葉があります。私たちには弱さがつきまといますが、それでも大丈夫なのは、どんなときにもイエス様が共にいてくださるからです。
今、コロナウイルスのことで不安があるかと思いますが、恐れているのに祈らないという、愚かな事態に陥らないようしましょう。私たちは、神様による平安が与えられていくと、成長していきます。それは決して、自分自身が完璧になるということではありません。弱さが常にある私であっても、素直にイエス様に祈り、助けを求めてまいりましょう。

3.力に満ちた主

風や波に対して「静まれ」とイエス様が語られると、湖は大なぎになりました。イエス様は、自然界にも影響を及ぼされる力を持っています。聖書は、「神にとって不可能なことは一つもありません」「人にはできないことが、神にはできるのです」と、宣言しています。このことを忘れずに、イエス様が私たちの人生の船にも一緒に乗り込んでいてくださることを感謝し、惜しみなく私たちに与えてくださる主の平安によって、支えられてまいりましょう。湖の暴風雨が収まったように、主が働かれるときには、主の力がその場面で具体的に現されるのです。
あなたの変な力みを捨てて、平安を与えてくださる主に信頼して近づこうではありませんか。クリスチャンとして神様に助けを祈り求めながら、主の恵みを信じて前進してまいりましょう。

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私たちが喜び感謝すべき理由

人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。…もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。                  マタイの福音書18章11節~14節

新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、特にヨーロッパでは医療崩壊、社会混乱が起きている国もあります。我が国は守られ、踏ん張っている状態ですが、過度に自粛し、恐れ、不安の中で生きていると、私たちの命、元気のレベルが低下します。衛生管理に十分配慮しながら、心の中に感謝と喜びを頂いて前進してまいりましょう。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と語りました。私たちもクリスチャンとして、イエス様が私のうちに溢れますように、霊的な成長を求めてまいりましょう。今、世の中で愛が冷えています。先日も、小学生の我が子を虐待し、死なせた父親の裁判がありました。何日も御飯をあげず、冬の寒い日に水をかけて死なせてしまう・・・。信じられません! 親としての喜びはなかったのか、母親、祖父母、周りの人たちも何か体を張って守ってあげられなかったのでしょうか。今日開いた箇所から、だれ一人として滅びず、その救いを喜んでくださる神の愛が注がれていることが分かります。

1.人の子は滅んでいる者を救うために

主は100匹の羊がいて、そのうちの1匹が戻って来なかったら、迷った1匹を探しに出掛けないでしょうかと問われ、そして言われました。「人の子は滅んでいる者を救うために来たのです」と。99匹がいるから、もういいとか、明日捜しに行くではなく、絶対、放ったらかしにしない、必ず捜しに行く。イエスは迷った1匹の羊を、一生懸命、探し出す羊飼いのように、私たちを見い出し、救ってくださいました。ここに喜ぶべき大切な事実があります。私たちを救うために、どんな労をも厭わない、強い強い愛で、愛してくださっています。このことを本当に喜び、感謝したいと思います。

2.私たちを捜し出し、喜ぶ主

迷わなかった99匹の羊以上に、この1匹を喜ぶと言われる主は、私たちの救いを喜び、神の愛を注いでくださいます。「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」(14節)と言われる主は、だれ一人として滅びたり、悪魔の力によって地獄に落ちることを願ってはおられません。一人でも多くの人が救われることこそ、神のみこころです。毎日の生活の中で、辛いことがあって、落胆し、私なんかいなくてもいい…、なんて思う時があっても、落ち込まないで、たとえ自分は小さくても、そんな私のために、どんな労をも厭わず、命まで捨ててくださったお方に、選ばれ、救われ、喜ばれている一人一人であることを思い起こしましょう。この小さな私を神は愛し、それを事実とするため、イエスがこの世に来てくださり、救いの道を実現し、十字架とよみがえりを成就してくださいました。そして、それを良しとされる神様がいます。
イースターを前に、この恵みや愛を、もう一度、思い起こしましょう。こんな小さな私を愛し、どんな犠牲を払っても捜し出し、救われたことを本当に喜んでくださる救い主、御自分の命まで捨ててくださった救い主が与えられていることを心から感謝したいと思います。今、世の中の不安や恐れの中にあっても、実は、飛び上がって喜ばなくてはいられないほどの神の愛、恵みを頂いていることを思い起こし、祈りつつ感謝しつつ、春の日々を歩んでまいりましょう。

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患難を希望に変える神の愛

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、…この恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。                  ローマ人への手紙5章1節~5節

世界的に広がる新型コロナウィルスによる不安、恐れ…、「世にあっては患難があります」と主イエスは言われました(ヨハネ16:33)。しかし、患難は患難で終わらないのです。そこから「約束のものを手に入れるために必要な忍耐」(ヘブル10:36)が生まれます。さらに練られた品性が生まれます。それは「精錬」を意味します。金や銀の鉱石が火で精錬されて純粋な金や銀となって輝くように、患難を通して、余計なものが取り除かれて、どうしても必要なものだけが残るのです。信仰が精錬されて、ただ主にのみより頼む人に希望が生まれます。主は望みの神だからです。患難は希望に変わるのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

1.神の愛

神は私たちを「宝の民」として愛し(申命記7:6他)、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われるのです(イザヤ43:4)。この神の愛を本気で信じるとき、私たちの内に、生きる価値、生きる希望が生まれます。私たちは、いてもいなくもいいような存在ではありません。「自分なんて要らない…」、そんなことはありません。神様の愛の中で、「あってよかった」、「いてくれてうれしい」という存在なのです。この神の愛を心のど真ん中に受け入れるとき、私たちの人生に起きる全ての出来事、患難も苦しみも悲しみも「あってよかった」と言えるのです。「あの患難があったから、今の私がある」と言える日が来るという希望があるのです。
神様の愛は不思議です。私たち人間の理解を超えています。たとえば、もしも私たちが1円しか持っていなくて、その1円をなくしたら、必死で探すでしょう。しかし、800円持っていたら、いえ、8万円、800万円、80億円も持っていたら、なくした1円を探すでしょうか? さらに、その1円を取り戻すために、残りの79億9999万9999円を差し出すとしたら…、そんなことはありえないでしょう。しかし、主は、80億人近いこの世界の中で、たったひとりのあなたを見つけ、宝物のように愛してくださっているのです。そして、80億円どころではない、この地球、いえ全宇宙よりも尊いご自身のいのちを十字架で惜しげなく与えてくださったのです。私たちの、あなたのいのちを救うためです。そんなあなたを主が患難の中で見捨てられるはずはありません。必ず救われる希望があるのです。もはや悲しみ、叫び、苦しみもない、もう泣くことはない、主が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる希望があるのです(黙示21:21参照)。神様の愛の中で、私たちには、生きる価値があり、生きる希望があるのです。

2.私たちの愛

そして、神の愛を心に注がれて、私たちも愛するのです。患難の中で、私たちを苦しめるもの、悩ませる人々をも、「愛します」と言うのです。神様に文句や不平不満を言うのではなく、「主よ、あなたを愛します」と言うのです。そのとき、希望の光が射し込んで、全てが変わり始めるのです。患難や迫害をもたらす人々さえも愛し、そのためにとりなして祈った、ステパノやパウロ、多くの信仰者たちの祈りがあったのです。だから、この世界は変えられ、救われてきたのです。この希望を、愛を、私たちも受け継いでいくのです。患難は、希望に変えられるのです!

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悪・罪の力に勝るイエス・キリストの御名

ペテロは…こう言った。「イスラエル人たち。…なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。…神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは…いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。…このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、…この人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。   使徒の働き3章12節~16節

世の中が不安と自粛の中にあっても、私たちはこのようにして教会に集まり、共に神様を礼拝することができる恵みに心から感謝します。教会の対応も様々ですが、教会は、神様からこの世に遣わされた、社会的責任を果たす場です。同じように社会的責任を担っている病院や警察、役所などができるずっと前から、教会は社会の中で人々に平安を与え続け、祈りをもって人々に寄り添い、励ましてきました。教会が2000年に渡って機能してきたことを思うと、私たちの教会も、このように世間が不安の中にあっても、機能する場でありたいと願います。予防など、なすべきことをきちんとして過ごし、必要以上に恐れることがありませんように。悪魔は人の心に忍び寄って不安を煽りたてますが、私たちは、イエス様を信じて堂々と歩んでまいりましょう。
私たちはクリスチャンらしく、私たちをさらに幸せにする喜びや恵みに導く名前、「イエス・キリスト」を呼び求める者でありたいと思います。聖書には、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました(ローマ5:20)」とあります。悪や罪の力が増し加わるならば、それ以上の確かさをもって、神の恵みは増し加えられます。私たちが弱さを覚えるときに、神様は恵みをもって関わってくださるのです。今日の聖書箇所から、2つのことを学びましょう。

1.イエス様の御名には力がある

ペテロとヨハネは、自分たちが行った奇跡について、その力の出所は自らにあるのではなく、イエス・キリストの御名によるものだと、素直に告白したのです。ペテロは、神様がイエス様に神の栄光をお与えになられ、救い主として現れてくださったことを語りました。
私たちを解放し、癒し、祝福し、恵みを与えてくださるのは、イエス様の御名なのです。私たちは困難に出会うと、自分の力で物事を解決しようとして行き詰まってしまいがちですから、救い主イエス様に注目したいと思います。イエス様はどんな方だったかというと、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、3日目に死の力を打ち破り、よみがえられたお方です。そこには命があり、癒しの力があります。十字架とよみがえりの主イエス・キリストの御名が持つ恵みの大きさを受け止め直しましょう。

2.イエス様の御名によって祈る

神の栄光を帯びた偉大なイエス様は、あまりにも大きすぎる存在です。しかし、私たちは救い主イエス様に直接出会いたいと思います。イエス様に出会うためのきっかけは、どこにありますか。神様は、私たちが愚かで、足りなくて、どんなに弱い者であっても、イエス様の御名を唱えることをゆるしてくださいました。私たちには、イエス様の御名をもって祈るとき、偉大な恵みを働かせていただけることを感謝します。
私たちの祈りの中に、イエス様との明確な接点があることを忘れないようにしましょう。御名による祈りは、霊的なクリスチャンに与えられた、大きな賜物の祈りです。今日も私たちは、イエス様の御名によって祈り、癒され、解放され、勝利を得たいと思います。私たちは弱い者です。本当に強いイエス様の御名によって、癒しを祈ってまいりましょう。

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信仰によって背負うべきもの

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ――私は真実を言っており、うそは言いません。――信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。                  テモテへの手紙第一2章4節~7節

世の中は新型コロナウイルスの話題で大変です。健康には十分気を付けなければなりませんが、私たちは、礼拝を守り続けたいと願っています。2000年のキリスト教会の歴史は、戦争や迫害、飢え、飢饉がありながらも、クリスチャンたちは集まってイエス様の御名をほめたたえ続けてきました。自分が病気にかかったと思ったら、拡げないようにすることは大事ですが、恐れながら生きていると、悪いものを引き寄せてしまいます。最高の免疫力は、イエス様のいやしの力によって元気が与えられることです。
最近は世の中がドライになり、他人の思いを気にしない個人主義的な生き方が広がっています。一見、楽で都合がよさそうですが、いき過ぎると人とのつながりが希薄になり、家族もどんどん小さくなって、親子や夫婦の絆さえ断ち切られてしまいます。そんな中で、最近テレビで見たオリンピックの選手選考の記者会見が印象に残りました。監督は、紙一重で選ばれなかった選手たちの思いを受け止め、選ばれた選手と共に国民の期待を背負って戦う覚悟を示しました。クリスチャンである私たちも、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣く神の家族です。主にある兄弟姉妹との関係性の中に生きることで、命の感動や生きがいがあることを忘れないようにしましょう。
自分の思いや感情ばかりの狭い世界が、聖書の語る信仰ではありません。今日の聖書個所でパウロは、本物の信仰とは、神様と私たちの間にある関係性の中で生まれることをテモテに語っています。

1.神様との関係

神様は、私たちが心の中で自分勝手に作る存在ではありません。天地宇宙を造られた創造主なる唯一の神様がおられ、私たちに語り、働きかけてくださいます。私たちの命は、神様が与えてくださる御言葉の真理をいただくことによって、救いを受けることができるのです。

2.救い主イエス・キリストとの関係

勉強をして、神様を分かったつもりになることが信仰ではありません。私たちを救う信仰とは、神様と人を結びつける唯一の仲介者であるイエス・キリストによってなされた業をいただくことです。イエス様が、ご自分の命を全ての人を救う贖いの代価として捧げてくださったことで、私たちは救われたのです。

3.信仰の先輩たちとの関係

2000年にわたって、どんな迫害や困難があっても御言葉を証しすることをやめなかった初代教会の使徒たちや、伝道者、牧師、先輩であるクリスチャンたちがいました。彼らによって語られた御言葉によって、私たちは救われたのです。
私たちが罪人で、まだ救い主が来られた意味すら分からなかったときに、まずイエス様は、十字架でご自分の命を捧げてくださり、その死を通して、神様は私たちへの愛を示してくださいました(ピリピ2:6~8、ローマ5:8参照)。主が、私たちの罪を背負ってくださったことを感謝します。天地宇宙を造られた偉大な神様の愛、御子であるイエス・キリストの愛、御言葉を伝えてきたクリスチャンたちの愛、私たちは、たくさんの愛と恵みを背負っています。その愛を無駄にせず、歩んでまいりましょう。

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信仰を成長させる2つの軸

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
                   テサロニケ人への手紙第一3章12節~13節

今日は、信仰歴の表彰式、バザーに向けての婦人会のお交わり会、そして夜には洗礼式が行われることを心から感謝します。イエス・キリストと共に生きるクリスチャンには、永遠の命に結びつけられた変わらない幸せの土台があることを喜びましょう。
福音書の中で、イエスはたくさんの人と出会いました。その中で、イエスを罠に陥れようとする律法学者たちが、イエスに旧約聖書の中で1番大切な教えが何かを聞くと、イエスは「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」と答え、この2つより大事な命令は他にないと語ります。縦糸と横糸とが1枚の布を織り成すように、私たちの信仰生活も、主なる神様との縦の関係、周りの人々との横の関係をしっかり作り上げ、神様に喜ばれる信仰を培っていきましょう。テサロニケ人への手紙第一3章12節~13節
今日読んだ箇所の著者であるパウロも、同じように語りました。人々を惑わすような間違った教えによって、テサロニケの教会が揺れ動いているという知らせを受けたパウロは、テサロニケの教会を心配しました。今と違って移動が不便な時代には、なかなかテサロニケに戻ることはできません。そこで、イエス様を信じる福音を土台として、生きたキリストのからだである教会が建て上げられるように手紙を記し、弟子のテモテをテサロニケへ遣わしました。今日皆さんと分かち合いたいポイントは、2つです。

1.愛をもって築く周りの人との横の関係

私たちは、愛をもって教会の主にある兄弟姉妹たちとの交わりを深めたいと思います。パウロは12節で、教会に集まる信者同士の間に愛が増し加わるように、すべての人への愛が増し加わりますようにと、祈っています。周りの兄弟姉妹とのつながりである横軸を深めるには、イエス様がご自分の命まで捨てて私たちを愛してくださった愛を持って、互いに愛し合うことです。人はひとりでは生きていけません。親子、夫婦、友人、会社の同僚、信仰の仲間、誰かとの関係の中に、私たちは生きています。自分だけが幸せであればいいという今風の考えではなく、愛をもって祈り合い、互いに与え合う者でありたいと思います。周りの人々、教会の兄弟姉妹たちと共に、神の家族として祝福をいただきましょう。

2.主なる神様と向き合う縦の関係

クリスチャンの信仰は、自分がやりたいことだけをする自己満足の世界とは違います。信仰生活の縦軸は、神様と向き合うことです。パウロは13節で、この世の終わりの時には、主イエス・キリストがもう一度この世に来てくださると語りました。その時まで、私たちは信仰が清められ、神の御前で責められる所のないように、成長していく者でありましょう。イエスの再臨がいつ起こるのかは、私たちには分かりません。ですが、私たちはいつか必ず死を迎えます。肉体の衰えもあるでしょう。ですが、私たちの内なる魂は、天国に帰るその時まで、イエスの御心に適う者となるように成長を続けていきましょう。
この世に、完璧な人間などいません。弱さを抱えながらもクリスチャンとして歩む私たちは、縦軸と横軸の関係を大切に、神の教会に属する者として、共に前進してまいりましょう。

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御言葉と癒しに立つ信仰

釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。…いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、…イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
                          使徒の働き4章23節~31節

今朝は、癒しの礼拝です。イエス様によって元気にされ、癒されることを体験してまいりましょう。
この二年余り、私が牧師として神様に祈っていた事柄への答えが、今週の水曜日に与えられました。それは、アメリカにあるグラハム伝道協会のウィル・グラハム先生が、2022年10月の日程で来日を承諾されたという事柄でした。以前お話ししたように、私たちは、四国の教会全体のための大きな伝道集会を企画しています。四国中にあるプロテスタントの教会を励ましていこうという計画のもと、日本の教会が教派を超えて一致することのできる牧師を招くために、ウィル・グラハム先生に交渉をしていました。それが、二年越しでようやく実現に向けて動き出したのです! 私たちは、主から大きな期待をかけられています。新しい霊的な時代が開かれたことを共に喜び、皆様にも祈っていただきたいと思います。
この最近、大阪より心が痛くなるニュースが届けられました。去年1年間で、自宅で1ヶ月以上放置された状態で発見された死体の数が、382体あったと言うのです。この孤独死のニュースに、衝撃を受けました。SNSを通して誰とでも繋がることができるこの時代に、1ヶ月も誰とも繋がらず、家族も連絡をしたり訪れたりしない状況であった人が、これほど多くいたのです。今の時代、神の家族である教会が成長しなければ本当の家族が存在しないという、大変な時代になっています。私たちが福音を語ることは、今まで以上に深い意味を担っているのです。
今日開いた聖書の箇所は、ペテロとヨハネが登場します。使徒の3章では、聖霊に満たされたペテロたちが、美しの門で「イエスの名によって歩け」と宣言した時に、生まれつき歩くことができなかった男が、その場で癒され、解放されたのでした。そのことで大きな騒ぎが起こり、彼らは投獄されて取り調べを受けました。今日の箇所は、「福音を宣べ伝えてはいけない」と脅されて出獄した、その直後の出来事にあたります。良い事をしたのに逮捕されたら、どんな気持ちになるでしょう。意気消沈して、臆病になってしまうことも、現実的にはあるでしょう。ですが、初代教会の人たちは、そのようにはなりませんでした。むしろ、彼らは投獄されたことも乗り越えて、ますます大胆に福音を宣べ伝えるようになります。この箇所から、2つのことを確認しておきましょう。

1.主の御言葉へのこだわり

29節で弟子たちは、「みことばを大胆に語らせてください」と祈りました。私たちは、どんな時も主の御言葉を告白し、主からのお約束である御言葉を忘れないようにしましょう。

2.癒しと恵みの体験を求める

30節では、ペテロとヨハネが出獄し、脅かされた今、どこからもう一度立て直そうかという時、使徒たちは「いやしを行わせ、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈りました。イエス様の御名による癒しや、恵みの御業は、クリスチャンたちが信仰を語る時、真っ先に思い起こし、体験すべき事柄です。これを、今日も真っ先に体験しようではありませんか。
31節にあるように、私たちがどんな困難の中にあっても、聖霊の力ある御業をもって、イエス様は私たちを祝福してくださいます。その恵みを体験し、前進してまいりましょう。

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御心を分かち合う神様

…主はこう考えられた。「…わたしが彼を選び出したのは、…アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」…主は仰せられた。「ソドムとゴモラの…罪はきわめて重い。…」…アブラハムは近づいて申し上げた。「…その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。…五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。…」主は答えられた。「もし…五十人の正しい者を町の中に見つけたら、…その町全部を赦そう。」…「…もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」…   創世記18章16節~33節

今日が何の日かご存じですか。「フグの日」、「服の日」、「漫画の日」と様々ですが、私たちは、今日がどのような日であっても「今は恵みの時、今は救いの日(Ⅱコリント6:2)」として、過ごしていきましょう。
聖書の言葉を様々な角度から読んでみると、実に味わい深く、神様の恵みが私たちの中にあふれてきます。今日の箇所から、4つのことを学びましょう。

1.神様は御心を分かち合おうとされる

アブラハムのとりなしの祈り(27節)に目を向けてしまいがちですが、この祈り以上に、神様がどのような御心を分かち合おうとしておられるかを知らなければなりません。神様の御使いがアブラハムにあらわれ、アブラハムに子どもが生まれ、大いに祝福し、そしてソドムを裁くつもりであると伝えます。神様の計画をアブラハムに分かち、働きを担わせるためでもあったのです。神様はアブラハムを共同作業者とされ、「神の友と呼ばれた(ヤコブ2:23)」のです。神様は、今日この礼拝の中で、神様の御心を私たちと分かち合い、御心を共有しようとしておられます。神様は私たちを共同作業者とし、神様の友としておられることを心にとめておきたいと思います。

2.神様と共に歩み、神様の前に立ち続ける

神様の御心を理解することは、とても難しいものです。神様の御心が具体的に語られていたならば、私たちの人生は楽なものだったでしょう。聖書には、「霊的な知恵と理解力によって神のみこころに関する真の知識に満たされ(コロサイ1:9)」、「神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださいますように(エペソ1:17)」とあります。私たちは、成すべきことを成していく中で、神様の御心を悟っていくのです。神様の御心がすぐには理解できないかもしれませんが、御心を知るために神様と共に歩み、神様の前に立ち続けたいと思うのです。その場所が教会であり、神様を礼拝するところなのです。

3.神様の御心は全てを赦す

アブラハムは、ソドムに対する裁きに「正しい者がいても、そうでない者と一緒に裁かれるのでしょうか」と祈りをささげました。神様は、正しい者がおれば、その町を滅ぼすことなく、全て赦そうとおっしゃってくださいましたが、ソドムは滅ぼされたのです。ロトは神様によって救われたのですが、正しい者ではありませんでした。私たちは、一人の正しい方を知っています。イエス・キリストです。神様は、たった一人の正しい者によって滅ぼすまい、全てを赦すと言われました。御子キリスト・イエスによって私たちの全てが赦されていることを知りましょう。このことが、私たちに明らかにされている神様の御心なのです。

4.神様と人の間に立つ者となる

アブラハムは、神様とソドムの町の人との間に立ちました。彼が、罪によって滅びゆくソドムの人々のために神様に向かった姿こそ、イエス様と同じ姿だったのです。人の姿となってこの世に来られたイエス様は、罪人の友となってくださいました。イエス様は、神様と私たちの間に立って和解の道を切り開いてくださったのです。私たちも、神様の御心を全世界の人々が知るために、神様と人の間に立つ者となることができますように。

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信仰による“一事が万事”

…ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」…ヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」…こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。             創世記25章27節~34節

今も生きて働いておられるイエス様の素晴らしい恵みの御業と救いを体験するために、私たちの信仰を働かせてまいりましょう。深刻な病気が見つかったり、何か困難な問題が起こったりしてから、慌てて神様にお願いする「泥縄式」ではいけません。今日の礼拝で、私たちの信仰のエンジンをきちんと動かしてまいりましょう。2月の歩みの中では、恵みと救いを体験するために、信仰の7原則①礼拝の姿勢②聖書を読む習慣③祈りの信仰④献金の習慣⑤奉仕のわざ⑥伝道・証し⑦互いに愛し合う交わりを確認しましょう。
今日の聖書の個所は、イサクの双子の息子ヤコブとエサウの物語です。エサウは長男で、狩猟をする野の人でした。イサクは穏やかな人で、天幕に住んでいました。この対照的な双子に、重大かつ決定的な出来事が起こります。この時から、エサウの長男としてのすべての恵みが弟ヤコブへと流れていくことになるのでした。このエピソードから、私たちが気を付けなければならないことを学びましょう。

1.生き方を現す「小さな出来事」

兄のエサウは、お腹がすいて飢え死にしそうだからと、簡単にヤコブに長子の権利を豆の煮物と引き換えてしまいました。たかが一言ですが、エサウの人生を狂わせる一言になります。ことわざにもあるように、「一事が万事」です。単に一杯の豆の煮物の話ではなく、エサウは、神様から与えられた長子の特別な恵みを軽んじたのでした。
たった一言の言葉や小さな行動が、私たちの生き様を示すものになります。気を付けましょう。愚痴や文句を言うのではなく、小さなことでも神様に感謝し、喜ぶ者になりましょう。

2.「今だけ」では済まされない

32節でエサウは「今の私に何になろう」と言いました。しかし、今だけでは済まされないのです。エサウはこの後、長子の恵みを失い続けることになり、マラキ書、ローマ書、ヘブル書では、エサウは長子の権利を豆の煮物の代わりに売ったと、不名誉な記事が残っています。今だけのことだからといい加減なことをしていると、あなたの全部をダメにしかねません。
私たちはこの一年、主イエス・キリストによって恵まれ、救いを体験する歩みをしたいならば、小さな毎日の出来事の中に信仰を具体化してまいりましょう。今できることをしましょう。献金しない今で終わるのではなく、今持っているものをささげましょう。まわりの人に温かい言葉で接し、愛し励まし合いましょう。私たちの信仰生活も「一事が万事」です。教会に来ている時だけでなく、プライベートな生活の中でも、イエス様に感謝し、聖書のお言葉に触れて祈り、愛し、真心こめてささげ、神様に祝福される「一事が万事」でありたいと思います。
ヤコブはずる賢く、エサウは、あっさりとした性格で付き合いやすかったかもしれません。しかし不思議ですが、神様はヤコブを愛されたと聖書にあります。なぜでしょう。神様を熱心に求め、愛することにおいては、ヤコブは常に「一事が万事」で、その姿勢は変わりませんでした。私たちも、人生のどんな小さな部分を切り取った時でも、そこに生き生きとした信仰が働いていますように。

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求めるべきものを主に求めよう

…ヤコブとヨハネが…来て言った。「先生。…頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「…ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」…
…バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。…イエスは…言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」…盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」…イエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」…すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
               マルコの福音書10章35節~40節、46節~52節

今年は、「今は恵みの時、今は救いの日です」という、第2コリント6章2節のお言葉を土台として、イエス様からの恵みと救いを実体験していきたいと思います。イエス様は生きて働いておられる方ですから、御業は今も力強く現されるのです。この2020年、私たちは、イエス様に何を求めていくのか、どんな願いをもってイエス様の前に立つ者になるのかを意識してまいりましょう。
今日読んだ聖書の2カ所の場面で、共通する点があることに気付かれましたか? それは、イエス様のおっしゃった「わたしに何をしてほしいのか」というお言葉です。同じお言葉でイエス様が問いかけられたのですが、それぞれの結末は違っています。これらの箇所から、主からのお答えをいただける求め方について、考えたいと思います。

1.みこころにかなうものを求める

イエス様の右と左にすわることを願ったヤコブとヨハネをイエス様は喜ばれず、「わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」と言って、答えも与えられませんでした。一方で、盲人のバルテマイが「見えるようになる」ことを求めると、イエス様は癒やしの恵みを与えられました。
イエス様は、ご自身に近づこうとする者に「何をしてほしいのか」と問われます。人を出し抜き、自分のわがままな思いを求めたヤコブとヨハネに対して、バルテマイは、躊躇なく癒やしを求めました。自分の人生が良い方向へと向かうことを求めたバルテマイの求めはみこころにかなうものであり、神に喜ばれる求めでした。

2.本当に必要なものを求める

「何をしてほしいのか」と問われたバルテマイは、イエス様に癒やしを求めました。もしその時、彼が「もう物乞いをしなくていいように、お金が欲しい」、「私を助けてくれる召使いが欲しい」などと願っていたなら、彼の求めは答えられなかったでしょう。バルテマイは、自分の人生が良い方向へと向かうために必要なものを求めたのです。

3.受けた恵みを証しする

バルテマイは目が見えるようになり、イエス様の後についていきました(52節)。物乞いであった彼の人生は、単に癒やされたことで終わらず、イエス様のしもべとして歩む人生へと変えられたのです。
ここで、バルテマイの名前が聖書に記されていることには、意味があります。筆者は、初代教会の人々がこの箇所を読んだときに「あぁ、あの信仰あるバルテマイ兄弟は、このようにして癒やされて、人生を変えられたのか」と、クリスチャンとしての具体的な証しとして認識できるよう、バルテマイの名前を記した可能性が高いのです。癒やしの出来事から何年、何十年経ってもバルテマイはイエス様に従い、初代教会の重要なメンバーとして数えられるほどに、人生が変えられたのでした。
さあ、私たちの求め方を確認しましょう。イエス様の「何をしてほしいのか」という問いかけに、信仰をもって求めていこうではありませんか。私たちの救い主は、恵みの与え主です。であるならば、神様に喜ばれる者として成長していくために祈り、求めてまいりましょう。

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