神の恵みによって導き出された私たち

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。…パウロは彼に目を留め、…「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言った。…ゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。…バルナバとパウロは、…言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。…          使徒の働き14章8節~18節

「Brush Up! 与えられた信仰を整え働かせよう!」を今年のテーマに歩んできましたが、残りの2か月もイエスと共に充実した歩みをしましょう。
今、自国の貧困や政情不安から逃れるために中米各地から大勢の人たちが、歩いて米国を目指すという、出エジプトを思い起こさせる事態がニュースになっています。いかに世の中が豊かになっても、身勝手な人の知恵では、一部の人しか幸せになれないということです。幸い、出エジプトでは、神ご自身のご計画と導きがあり、祝福がありました。どんな人生にも神の知恵、導き、守り、救いがなくてはなりません。神と共に歩むとき、本当の幸せが与えられるのです。一方、安心安全な日本では、心を病み、喜びや平安、希望を見いだせない人が少なからずいます。昨日の教会の運動会では、神の家族としての交わりの楽しさ幸せ素晴らしさを感じ、現代を生きるには、救い主イエスと共に歩む教会生活が必要だと改めて確信しました。神を信じる人の幸せには、人の知恵や世の流行ではなく、イエス・キリストの救いと罪の赦し、神の子とされる恵み、永遠の命の約束をいただいているという、根拠があります。
今日の箇所は、パウロの3回の大伝道旅行のうち1回目の、ギリシャからそう遠くない異邦人の町ルステラでのエピソードです。そこでパウロが行った素晴らしい奇蹟に大興奮した人々が、パウロとバルナバをギリシャ神話の神々の名で呼び、生け贄までも献げようとしました。そこでパウロは、人々の誤解を正そうと神の愛の姿勢を明確に語りました。

1.神なしでは迷う

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分勝手な道に向かって行った。」(イザヤ53:6)。大昔も今も、天地創造のまことの神、命の与え主を知らない人間は、愚かで罪深く、いつも迷い悩み苦しむ弱い者です。失敗や挫折のほとんどは、自信過剰で何でもできると思い込んでいることによるものです。自分の罪深さ弱さを認めましょう。教会に導かれてクリスチャンになる前、どれだけ迷い悩み、不安で悲しんでいたかを思い出してください。

2.救い主イエスを通して立ち返る

自分だけの力に頼っていたのでは、虚しく迷い続けるだけです。神を知らない罪深い生き方から、救い主イエスを通して現された神の救いへ立ち返るようにと、神の恵みの知らせ(福音)が届けられたことを感謝しましょう。救い主イエスが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、私たちは罪から解放されたのです。

3.救われるずっと前から祝福の神

神は、私たちが罪の中にあって救われる前から、既にありとあらゆる恵みと祝福を用意してくださっていました。以前は美しい景色を見ても、不平不満は消えませんでした。しかし、クリスチャンになってから、心に変化を感じていませんか。自然界の美しさがわかるようになり、外の世界が輝いて見えます。
今日の聖餐式でパンとぶどう酒をいただき、イエス・キリストとひとつであることを確認し、主と共に歩む人生を感謝しましょう。虚しい偶像礼拝や弱い人間を神とするような愚かな生き方から解放されて、まことの神とつながって11月も歩んでまいりましょう。

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主に向かって働かせる信仰

…ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。…ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。…イエスは立ち止まって、…「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。        ルカの福音書18章35節~43節

今日は、一人の盲人が、イエスによって癒された箇所です。これに続く19章では、取税人ザアカイが救われた物語が出てきますが、この盲人とザアカイは、共に、主に出会ったその時に救われています。信仰者としての経験は1日にも満たなかった彼らに、主はその信仰に答えて偉大な御業をなしてくださいました。どんなに弱い者の祈りであっても、信仰を持ってイエスに近づく時には、主が答えてくださることを信じましょう。この盲人が語った三つの言葉から信仰の基本中の基本を学びたいと思います。

1.信仰のスイッチを入れよう

イエスが近づいてくると聞いた彼は、叫び始めました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。彼が心のスイッチを入れ、救い主であるイエスに向けて自分の心を表明したのです。私たちは毎日、仕事や、お金や、人間関係や家族のことに対して、いろんなスイッチを入れて対処します。しかし、主イエスに対する信仰のスイッチを入れ忘れていないか注意しましょう。この盲人は、盲人として生きていくためのいろんなスイッチを持っていたでしょう。でも彼は本当の幸せを手にするために、イエスに会いたいという信仰のスイッチを入れたのです。私たちは病気になった時に、どんな心のスイッチを入れますか? 薬や医者や医療のことに関するスイッチを入れる前に、いやし主イエスに向けて信仰のスイッチを入れる者になりたいと思います。

2.イエスに焦点を合わせ集中しよう

うるさく叫びたてるこの男を、人々は黙らせようとしましたが、彼はますます叫びたてたのです。イエスにこの声を聞いていただき、イエスから憐れみを、癒しを受けたい、と彼はますますイエスに集中し、イエスだけに信仰を絞り込んでいったのでした。私たちも、どうしても手にしたいものがあるとき、周囲からは、反対や、諦めさせようとする力が働くかもしれませんが、それで諦めたら終わりです。それでもどうしてもという思いを持ち続ける人だけがそれを手にします。理屈や自分が立派になるという前に、イエスを求めるということにおいては、一心不乱にイエスに集中し、絞り込み、焦点を合わせていくことが大切です。人々に関係なく、彼はますますイエスに集中し、信仰を絞り込んでいきました。私たちにも、イエスだけという真剣な集中が与えられますように。

3.本当に必要なものを描いて求めよう

イエスの近くに連れて来られ、「わたしに何をしてほしいのか」とイエスに尋ねられた彼は、何の躊躇もなくはっきりと言いました。「主よ。目が見えるようになることです」。イエスに集中した後、主は必ず求めているものを聞かれますから、自分の一番必要としているものを明確に把握していることが必要です。この盲人は、目が見えるようになることが、人生を根本から変えると知っていて、一番求めるべきものをはっきりとイエスに求めました。本当に必要なものを何の躊躇もなくイエスに求めましょう。あなたの病が癒される時、後の人生がどう変えられ、主の喜びで満たされた、どのような人生が始まるかを心に描きながら求めていきましょう。そんな恵みを引き出す信仰をあなたも働かせることができますように、主を求めて祈ってまいりましょう。

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スミルナの教会へ

また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――…あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。…悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。…死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。…勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』     ヨハネの黙示録2章8節~11節

今日の聖書箇所からスミルナの教会の御使いたちに書き送られた手紙の内容をご一緒に学んでまいりましょう。当時の人々は殆どの人が文字を読むことができませんでした。黙示録の教会宛の手紙は、教会の御使いたちに書き送られていますが、御使いとは、文字通り捉えることもできますし、あるいは教会の指導者のことであるとも考えられます。指導者たちがまず正しく手紙を読んで、信徒にその言葉を語ったのであります。
スミルナ(現在のイズミールはトルコ第三の都市で人口は400万)の教会には、ポリュカルポス(AD69~155)という指導者がいました。彼はヨハネの弟子であり、「死に至るまで忠実である」ことを実践した指導者だと言われています。スミルナの教会は、貧しさ、苦しみの中にあり、更に苦しみが襲ってくる状況にありました。この箇所から3つのポイントに集約して神の恵みをいただきましょう。

1.苦しみに勝利する教会、信仰生活

苦しみを通ることのない教会、信仰生活は、実はないと言っても過言でありません。そこには、ある種の闘いがあるのです。教会も信仰生活も様々な状況、状態に置かれます。もちろんよい時もあるでしょう。しかし、苦しみや貧しさを経験することもあり得るのです。スミルナの教会が苦しみと貧しさの中にあったのは決して人ごとではありません。
イエス様を信じたら全て薔薇色、私たちの歩みはそんなものではないのです。私たちは苦しさ、貧しさの中を通ることがあっても、それを恐れず、勝利する者となり、神からの素晴らしい恵みをしっかり頂く私たちでありたいと思います。

2.苦しみの中に富が隠されている

主は、彼らが苦しみと貧しさの中にあっても、実際は富んでいるのだと語っています。私たちはたとえ苦しみの中にあったとしても、宝のような恵みを頂いて生かされている、このことに気づく者でありたいと思います。
苦しみの中にも、素晴らしい神のご計画がある、神のお考えがある、神が宝を隠しておいてくださいます。だから、私たちはどんな辛い状況にあったとしても、その中にある神の恵み、憐れみ、ご計画、お考え、すなわち隠れている宝を見つけることができますようにと祈ろうではありませんか!

3.信仰を保ち、いのちの冠に与(あずか)ろう

死に至るまで忠実であれば、私たちは「第ニの死」を迎えることはありません。「第ニの死」とは、私たちが肉体だけの私たちではないという事を意味しています。私たちが死ぬのは肉体において死ぬのです。「第一の死」は、肉体の死であります。「第ニの死」は、私たちから神の霊が取り去られることであります。神と共にある私たちの魂が損なわれること、失われること、霊的な死であります。
でも私たちが本当に信仰を持ち続けて生きるならば、私たちは決して霊的な死を迎えることがないという約束が確かなこととして成し遂げられます。私たちは永遠に神の霊を頂いて、主と共に生きるという恵みに与ることができるのです! 聖書の時代に生きた指導者たちからもこのことが真実だと学ぶことができる、この恵みにも感謝しましょう。

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共におられる主への信仰を働かせよう

…イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。そこで弟子たちは、…イエスをお連れした。…激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、…枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「…信仰がないのは、どうしたことです。」…                  マルコ4章35節~41節

今朝、高知西福音教会の久保内政春先生が天に召されたと連絡をいただきました。神がこの説教者の魂を、天国で玉の冠で迎え入れてくださっています。長らく共に歩ませていただきました。心から感謝をもってお送りしたいと思います。また、マレーシアの働きは、私のパスポートの残存期間が、半年より1週間足りないというミスで、出発が2日遅れ、皆さんにご迷惑をお掛けしました。しかし、諦めず、神を信じ、祈り行動すれば、神が最善を成してくださり、大きな恵みに変えられたことを感謝します。マレーシアは、東南アジアで急発展中の、日本を国造りの手本とする親日国ですが、非常に熱心なイスラム教国です。政府による締め付けに反対し、クリスチャンたちは、教会を力強く守りクリスチャンを増やそうと願っています。日本人が尊敬されるお国柄もあり、私たちの支援を期待し、感謝してくれています。
聖餐式に当たり、今日の御言葉から、あなたの信仰が働いているか、確認してほしいと思います。
ガリラヤ湖の岸辺で人々を教えておられたイエスは、日暮れになり、弟子たちと向こう岸へ渡って行かれました。すると、激しい突風が起こり、舟は波を被って沈みそうになりました。弟子の中には漁師がいましたから、彼らの経験や知恵で、その危険をやり過ごそうとしましたが、万策尽き、イエスを起こしました。すると、イエスは湖に向かって「黙れ、静まれ」と命じて、これを静めました。そして、弟子たちに言われました。「どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです」。今日もイエスは、私たちに同じように問いかけておられます。イエスの言われる信仰とは何か、理解しましょう。

1.救い主イエスが共におられる

信仰とは、救い主、イエス・キリストと一緒にいるという関係性です。イエスが共におられるから、どんなことが起ころうと、安心、平安があるという事実です。嵐は、私たちが信仰を働かせるために、神からの特別な訓練です。イエスが、向こう岸へ渡ろうと言われたのですから、主の御言葉を信じ、進めばよいのです。イエスは、私たちと共におり、平安があることを証明するために、十字架の血潮で贖ってくださいました。どんなピンチがあろうとも、イエスは共にいてくださるという事実を忘れてはいけません。これが信仰で最も大切なことです。

2.ピンチの時にも平安が与えられる

私たちの人生も、風や波に苦しみ、不安、恐れ、恐怖で一杯になることもあります。しかし、どんなに絶望していても、なぜか平安が与えられる事実があります。それは、2千年経った今も、イエスがあなたの人生という舟の中に共にいてくださるからです。イエス・キリストの十字架の血潮によって、罪、悪の力から守られているので、平安なのです。今日の聖餐式で、イエスの御からだと血潮をいただく私たちの人生にも、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と言われる主が、究極の近さで私たちと共におられ、平安の源となってくださいます。イエスが共におられること、そこには、究極の平安があることを信じましょう。
主が言われる通りの信仰を働かせるなら、神の救いや恵みは、十分に与えられます。聖餐の恵みに与(あずか)り、信仰を働かせ、前進してまいりましょう。

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恐れないで、ただ信じていなさい

…会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、…こう言った。「私の小さい娘が死にかけています。…娘が直って、助かるようにしてください。」そこで、イエスは彼といっしょに出かけられた…
会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。…」イエスは、…会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」…イエスは…子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。…
          マルコの福音書5章21節~24節、35節~43節

今日は、会堂管理者ヤイロの娘のいやしを通して、御言葉をしっかりいただきましょう。ヤイロはイエスのところに来て、死にかけている娘に手を置いていやしてくださるよう一生懸命お願いしました。イエスがヤイロの家に来てくださることになり、ヤイロはこれで娘は助かると信じていました。ところが、すぐにはたどり着けず家に向かう途中で、娘は死んだと連絡がありました。ヤイロの落胆はいかばかりだったでしょう。イエスはすぐにヤイロの気持ちを察して、「恐れないで、ただ信じていなさい」と励まし、「ただ信じる」という信仰をヤイロに求められました。ヤイロはそれに応えてイエスを家に案内し、死んでいた娘は、もう一度イエスによって命を与えられました。ヤイロはこのことを通して、たとえ状況は変わっても神を信じ続けるなら、神はどんなことでもおできになることを体験したのでした。では私たちが神からのすばらしい恵みをいただくために必要なものは何でしょう。

1.神の約束を信じ通す

聖書の中には、神の約束を信じ通して、神の恵みを体験した人が数多く出てきます。2人の盲人は、イエスに「信仰の通りになるように」と言われ目が見えるようになりました。息子のてんかんのいやしを求めた父親に、イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」とおっしゃって、いやされました。らい病におかされた将軍ナアマンは、エリシャが使いを送って告げたように、ヨルダン川で7たび身を洗うという不思議な方法できよめられました。理屈や条件を付けずに、ただ信じましょう。信じない者に、イエスは御業を現すことはできません。私たちは、恵みをいただきたいと祈りながらも、信じ続けているか点検しましょう。

2.神の約束は変わらない

年老いたアブラハムとサラに、神は約束通りイサクを与えられました。神は聖書の中で、私たちを恵み、守り、助け、いやし、祝福し、祈りに答えると約束しておられます。約束のものをいただくために必要なものは忍耐です。しかし、ただ待つのではなく、期待して待つことが大切です。神の力に限界はないと信じていながら、私たちの方で限界を作って、神の恵みを押しとどめてはいませんか。
私にも癒しのお証しがあります。母の体が突然動かなくなり、言葉がしゃべれなくなりました。とにかく神にいやしを祈り続けると、また話せるようになりました。念のため病院で診(み)てもらいました。医者は「何かの拍子で詰まっていた血管が通ったのでしょう」と言いましたが、神の奇跡です。また、あと一週間もつかどうかという高齢の女性を毎日見舞って祈り続けるうちに、どんどん元気になり、病院を退院して施設で天に召されるまで2年間生きることができました。私自身は、20年間アレルギー性鼻炎に苦しみ薬を飲み続けていましたが、今年の3月にムーイ先生のいやしの集会で信仰が与えられ、少しずつ薬が減って今では解放されました。人に命を与えてくださった真実な神は、どんなことでもおできになることを、私自身ひしひしと体験させていただきました。神があなたを選び信仰を与え、幸せにするという約束は変わりません。それをいただくためには、神の恵みを信じ続ける、ただそれだけです。信じ続けて私たちも神の恵みと祝福を体験させていただきましょう。

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悲しみと慰めと幸せ

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
                      マタイの福音書 5章4節

多くの人々の心の中にある、神様に関する疑問の一つとして、愛である神様が存在するというなら、なぜ、この世界に、こんなにも多くの悲しみや苦しみが存在するのか、というものがあります。クリスチャンであっても、時に、そんなふうに思ってしまうことがあるかもしれません。
私たち人間の小さな頭では、この果てしない宇宙のすべてを造られ、宇宙よりも大きな神様のすべてを知ることはできません。しかし、今日のこのイエス様の御言葉から見えてくるものがあります。

1.悲しみは幸せに変わる

それは、悲しみは悲しみで終わらない、苦しみは苦しみで終わらない、「幸いなるかな」、「なんて幸いなんだ」という幸せに変わる、ということです。この主の御言葉を信じるなら、世界は違って見えてきます。今ある「悲しみ苦しみ」も、「幸せ」に見えてきます。それは、やがて幸せに変わるからです。今だけ悲しみ苦しみのように見えているだけの「幸せ」なんだと見えてきます。

2.慰められるから

しかし、どうして、悲しみが、幸せに変わるのでしょう。それは、「慰められるから」です。「慰める」というギリシヤ語には、「励ます」、また「懇願する」という意味があります。慰めることと、懇願することは、同じなのです。私たちが心から神様にすがりついて願うなら、必ず、慰められる、幸せになれるのです。
Ⅱコリント1:4に「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」とあります。そして、パウロ自身も、死を覚悟するような苦しみの中で慰められ、救い出された実体験を証ししています(Ⅱコリント1:8-10参照)。苦しみ悲しみがあったから、必死に願った、神様にすがりついた。そして、助かった、救われた、苦しみ悲しみを乗り越えられた。だからもう、悲しみ苦しみを恐れない。そこに慰めを見るからです。救いを、望みを、神様を見るからです。

3.幸せとは?

幸せとは、何でしょう。どこにあるのでしょう。最も幸せな所とは、どこでしょう。それは、天国です。神様を知らない人でも、幸せを感じると、「まるで天国みたい」と言うのです。そして、天国とは、どんな所でしょう。それは、神様が、イエス様がおられる所です。どんな悲しみ苦しみも、そこに主がおられると知るなら、慰められます。幸せに変わります。主はどんな悲しみの涙の中にも共におられます。そして、私たちのすべての涙を、やがてすっかりぬぐい取ってくださるのです(黙示録21:3-4参照)。悲しみが慰められるのは、慰めてくださる方と出会うからです。神様と出会うからです。だから、幸せなのです。神様といっしょにいるなら、天国のように幸せなのです。
私たちは悲しみ苦しみの中で、その悲しみと苦しみを、すべての罪を十字架で身代わりに背負われた主の愛を見るのです。十字架という苦しみを、私たちの赦しと救いという幸せに変えられた主を見るのです。その主が語っておられるのです、保証してくださっているのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と。
だから、信じて祈りましょう、悲しみ苦しみに満ちたこの世界が慰められ、救われ、幸せになるように。

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心の平和

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。 コロサイ人への手紙3章15節~17節

私たちは相対的な平和、失われてしまう平和ではなく絶対に揺るぐことのない平和を持つ者とされたいのであります。今日の聖書箇所から「本物の平和」を再確認したいと思います。

1.キリストの平和で心を支配する

「本物の平和」それは「キリストの平和」であります。私たちは平和を考えた時に心の内側よりも外側の事を考えがちです。良い条件が揃っていて悪い事が無いと平和、反対に悪い条件ばかりで良い事が無いと平和でない、そのように考えがちです。そして、悪い条件ばかりで良い事が無いと、私たちの平和は揺らぎ、その平和を無くしてしまうのです。けれど「本物の平和」は、外側の条件に左右されるものではなく心の問題で、イエスは、世の与える平安と違い、誰も奪うことのできない平安を私たちに与えて下さっているのです! でもその平安、平和に私たちが支配されてないとするなら、私たちの心から「キリストの平和」が失われてしまっているからです。「キリストの平和」とは、「キリストの血によって、神と和解させ」(エペソ2:13-16)、「十字架の血によって平和をつくり、…和解させてくださった」(コロサイ1:19.20)、この御言葉に保証されています。「もっと神に仕えないと神のとの和解と平和は得られない」と考えているなら、これは自分の側から神と和解しようとしているのであって、御言葉からすると間違っているのであります。間違った事をしているから、私たちは平和を無くしてしまうのです! 「私たちは神と和解したのだ! 平和は造られたのだ!」この思いで心を支配しましょう!

2.御言葉を心の土台に据える

私たちの信仰は、御言葉に始まり御言葉に終わると言っても過言ではありません。御言葉の乳を慕い求めることにより私たちは成長し、その救いがもっと確かになり、私たちの心は平和で支配されていくようになるのであります(1ペテロ2:2)。また、神の御言葉を愛する者には、豊かな平和が与えられるのです(詩篇119:165)。御言葉を人生の土台として築かなければいけません。御言葉の土台の上に立っていれば私たちは何があっても平和なのです(マタイ7:24-27)。御言葉を握りしめて信仰の歩みを成し、キリストの御言葉の内に住む私たちになりましょう!

3.神との交わりをしっかり築く

神と和解して平和が与えられているにもかかわらず、私たちの心に平和が無いのは、神との関係が微妙にずれているからにほかなりません。だからそれを修正しなければなりません。正しい神との交わりを築き、失われている交わりを回復しなければなりません。神との正しい関係を捉え、それを実践していこうとする時、まず神に感謝し、神を賛美することが全てに先立ちます。感謝に溢れるならば、私たちは平和で満たして頂くことができるのです。パウロは 色々な困難な状況にあっても諸教会への手紙の冒頭で、「神に感謝します。神に感謝しなければならない」と必ず記しています。「感謝」があれば、私たちの平和は揺るぐことがありません。今週も神に感謝する私たちでありましょう!

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秋の恵みをいただく秘訣

わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。     詩篇103篇1節~5節

生活の状況を一変させたり、人の生死にも関わる大規模自然災害が連発し、今や日本は災害列島となっています。詩篇の作者は「われらは恐れない。たとい地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも…」(詩46)まさに天変地異、大災害が起こっても、天地宇宙を造られ、命を与えて下さった神は、すぐそこにおられ、助けてくれる御方だから恐れないと歌っています。社会が発展し、豊かで快適な生活が当たり前で、毎日を楽しく過ごせば良いのか、人生に対する心構えや信仰の持ち方まで問い直されているように思います。今日一日を当たり前のように過ごせることに感謝し、たとえ今日、地上での生涯を終えることがあっても、悔いなく天国に行けるよう、良い意味での覚悟を持って生きることが大切です。今日は癒やしの礼拝。詩篇103篇の御言葉から、神にあって祝福される生き方の基本を学んでまいりましょう。

1.今、恵みを数える者となろう

神から恵みを頂く秘訣は、2節に「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあるように、神が与えて下さった祝福を忘れず、心に刻みつけておくことです。私たちは、良いことはすぐに忘れ、むしろ苦難や試練ばかりを覚え、語る傾向があります。しかし、クリスチャンは、主の良くして下さったことを何一つ忘れないという生き方を選び取りましょう。ぜひ、その日あなたが受けた恵みを、日記帳やメモ帳に書き記しましょう。そして、毎日寝る前に祈りの時間を持ち、「神様こんな恵みがありました。感謝します」と、小さな恵みにも感謝することです。神の恵みを頂く秘訣は、恵みを忘れないことです。そうすれば必ず、神の恵みのある日々へと変えられていきます。

2.過去の人生を振り返り神の恵みを数える

ダビデが「主は、あなたのすべての咎を赦し、すべての病をいやし…あなたの一生を良いもので満たされる」(3~5節)と語るように、私たちの人生は、神と出会ったことにより、素晴らしい恵みが現されました。救いがあり、そのきっかけの中で、病が癒され、悩みから解放され、あなたの祈りに、神は答えてくださいました。恵みと憐れみが、そこかしこにあったはずです。救い主、助け主、導き手として、私たちに関わり、良いもので満たして下さいました。これら1つ1つを振り返り、感謝したいと思います。

3.将来にも神の恵みを確信する

5節に「あなたの一生を良いもので満たし、あなたの若さはわしのように新しくなる」とあり、「主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40)とあるように、旧約では、鷲(わし)は、力強さや若々しさの象徴として登場します。私たちも、鷲のように新しい力と可能性が与えられ、若々しく、喜びと希望のある人生を、過去、現在、未来、私の全存在に対して、神の恵みの人生を歩むことができます。現代人の持つ万能感は、誤解にすぎません。自分の弱さを認め、実は神の恵みによって生かされているという謙虚な気持ちで生きることが大切です。そうすれば、一瞬一瞬が恵みであると気づきます。主の前に謙(へりくだ)り、神がなしてくださった良い事を何一つ忘れず、この秋の日々、神にあって祝福され、癒され、元気に歩みをなしてまいりましょう。

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心の畑を耕そう

…種蒔く人は、みことばを蒔くのです。みことばが道ばたに蒔かれるとは、…みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。…岩地に蒔かれるとは、…みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。…いばらの中に種を蒔かれるとは、…みことばを聞いてはいるが、…いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」              マルコの福音書4章13節~20節

実りの秋、神から最善の恵みが与えられることを期待しましょう。神は生活の中の小さな一歩のチャレンジから、恵みを拡大してくださる御方です。神を信じることは大きな喜びで素晴らしい可能性があることを忘れないでください。恵み豊かな神の基準に合わせて私たちの信仰の器を思い切り広げるとき、神は恵みを増し加えてくださいます。「5つのパンと2匹の魚」の奇跡では、少年の弁当ぐらいの量で5,000人を超える人々がお腹を満たされるほどでした。
今日の聖書の箇所でイエスは、この前に語られた「種蒔きのたとえ」と呼ばれるたとえ話の解説をされました。実りの善し悪しの違いは、蒔かれた種の品質が問題なのではなく、種が蒔かれた畑の問題だと言われます。種は神の御言葉で、神の御言葉には力、命があり、それを受け止める人の心、魂の状態によって結果に大きな差が出ます。御言葉である種が蒔かれ、畑である人の心の状態が大きな結果の差をもたらすのです。蒔かれた種がたくさんの実を結ぶために3つのことを確認しましょう。

1.心の状態を整えよう

仕事、結婚、子育て、あるいは信仰生活においても、自分の思うようにいかなかったり、自分に不都合なことがあると、他人のせいにするものです。私たちに恵みをもたらす神の御言葉は確かに蒔かれるのですが、蒔かれた畑の状態ですべては決まります。悪魔に種を持っていかれたり、ちょっとした困難がくると躓いたり、社会の波に翻弄され、神の御言葉の力を発揮できず、クリスチャンで教会に来ていながら花も咲かず実も残らないようでは困ります。
聖餐式を前に、自分の心がイエスに受け入れられるようへりくだり、弱さや欠点、わがまま、罪に汚れやすい自分の心を耕しましょう。耕された畑に神の御言葉が蒔かれてこそ、30倍、60倍、100倍の実りがあるのです。

2.良い実を結ぶための努力をしよう

最近の社会は、個人の自由を尊重しつつ、結果までもが「みんなに平等に」出ることを社会が保証すべきだという風潮があります。しかし、聖書が語る人生の歩みは、結果まで平等ではありません。確かに神は、すべての人を平等に愛し、チャンスをくださいますが、良い結果を出すためには、私たちが自ら努力し忍耐し、まごころを注ぐかどうかが問われます。畑に何度も通って汗を流し、水をやり、耕して、良い土地にしなければなりません。

3.神の御言葉を受け入れよう

私たちの人生にどれだけ潤いと実りがあるかは、神の御言葉をどれだけ受け入れられるかによって決まります。世の中は、自分らしく生きることがいいと言います。しかし、自分がそう思うのだからという自己満足ではなく、神の御言葉を大切にしましょう。さもなければ、神との関係から離れて孤独で悪魔の惑わしの中で生きる人生になります。
パウロはⅠテモテ1:15の中で、「イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という御言葉をそのまま受け入れ、「私がその罪人のかしらです」と告白しました。聖餐式を前に、私たちも御言葉を受け入れ、イエスの十字架の死と罪のきよめ、永遠の命の希望を告白しましょう。

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主キリストのおられる信仰生活

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
                  マルコの福音書16章15~18節

昨日の朝は、月に1度続けている、日本福音宣教会の働きのために祈る朝祷会が500回を迎える節目となる記念の会を持ちました。夕方には納涼大会を催し、兄弟姉妹と恵まれた時を持つことができ、また来月の9月には福音放送「まことの救い」が、放送開始から50年を迎えます。イエスが今も私たちの信仰を受け止めて御手を動かし、救いの御業をなしてくださることを心から感謝します。
このマルコの福音書の最初に、著者マルコがタイトルをつけました 。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。イエス・キリストによって人々が救われ、本当に幸せになる福音が届けられる時代が始まったということです。そして、今日の箇所では、イエスの地上での最後の御言葉が記され、その言葉の通りに、弟子たちが至る所でイエスの福音を語り始めると、人々は救われて、聖霊の働きによる神の力が現れるようになったと締めくくったのです。イエス・キリストに
従い、弟子になると本当に素晴らしい恵みが起こることを3つのことで確認したいと思います。

1.主のしもべとして生かされている事実

自分の願いや求めばかりを伝えて、神を道具のように使うわがままな考え方は、クリスチャンの考え方ではありません。しもべとしてイエスを信じて従っていく者であることを思い起こしましょう。イエスを信じるとこんな素晴らしいことが起きますよ、と適切に人々に伝える証し人になりたいと思います。思いっきりイエスのことをのべ伝えて証しし、それを通して人々がイエスを体験すると、それ以上の恵みがあるから感謝です。このしもべ、証し人としての生き方が与えられていることを感謝しましょう。

2.救いを体験し魂が救われている事実

イエスは単なる立派な人、キリスト教の教祖ではありません。神の御子であり、私たちの救い主です。そして誰でもこのイエスの御名を呼び求めれば、その人の罪が取り除かれ、神の子どもとされ、この地上での人生を終えて肉体は死んでも、永遠の命、天国に行くところまで変えられ救われます。イエスの愛を知りながら心を遠ざけ、自分の力だけで頑張っていると誤解している人は、罪に定められて悪魔の奴隷のままですから気をつけましょう。イエスが共におられることによって救われ、心の内側から清められた新しい自分になることができます。この新しい神の力によって生かされる命は、永遠の命につながることを感謝しましょう。

3.信じる者に約束されている聖霊の力

私たちは生身の人間のままでも、イエスを信じることで、驚くことが起こります。イエスの内に働いていた神の聖霊が、そのまま私たちの人生に働き、神でしか起こすことのできないような御業が起こるようになるのです。キリストの聖霊が、今は私たちの内側に住まわれ、イエスを信じる者には特別な恵み祝福が現されます。だから私たちは癒しのために祈ります。私たちに超能力があるわけではありませんが、イエスの御約束の通りに、今も神の霊が私たちの内に働いておられるからです。自分の能力、熱心さだけで祈っても何も起こりません。神に愛されて救われた者、聖霊をいただいた者として、祈りの実現を信じて求めていきましょう。

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