絶望の中にある神様の恵み

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。…わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。…しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。私を見る者はみな、私をあざけります…しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。…生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。      詩篇22篇1節~10節

一年の折り返しです。年の始めにどんな計画を立て、どんな願いを神に祈りましたか。その計画や祈りは、実現しましたか。今年のテーマは「事を成し遂げる」です。もう一度、一年の始めにいただいた願い、祈り、計画が実現することを祈っていきましょう。
私たちには本当に神に願い期待しなければならないことがあります。今日の詩篇22篇では、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と激しい苦悩と絶望的な言葉で始まっています。詩篇22篇は「メシアの詩篇」と言われていますが、それは単に詩篇が書かれた何百年か後のイエスのことを預言した言葉ではなく、詩篇の作者の時代のイスラエルの人々が抱えていた苦悩であり、うめき、叫びでした。そして今日私たちは、この叫びをイエスの苦悩、旧約時代の信仰者のうめきに終わらせるのではなく、私たち自身を重ね、自分の叫びとして受け止めたいと思います。今日は、「絶望」を通して私たちと神との関係が一層深くなり、心から神を賛美する者となることを具体的に学びましょう。

1.絶望が神への祈りを生む

絶望することにより私たちは本気で神に叫び、祈り始めるのです。人生には、問題を抱えたり、欲しいものを我慢し、うまくいかないことがいっぱいあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケⅠ5:16-18)なぜ御言葉通りできないのでしょう。私たちは、苦しんでいるけれど本当に「絶望」していないのです。他人や自分自身に望みを抱いているのです。教会はお互いのために祈るところですが、人ばかりを頼りにするのではなく本気で神に祈る者になりたいのです。ただ苦しむのではなく、一度「絶望」してみることが必要なのでしょう。

2.絶望によってへりくだることができる

「虫けらです。人間ではありません。」(6節)と作者は自分自身のことを表現しています。私たちは置かれた状況に絶望しても、簡単には自分自身の無力さに絶望しません。「あなたがたは苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(ヤコブ4:9,10)絶望しなければならないことをヤコブは語りかけています。絶望することによって、主のみ前にへりくだり、私たちは主によって高く上げていただくのです。パウロは「したいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7:19)と告白し、ヨブは全財産や子供たちをなくし、自分のからだはらい病に侵され、初めて自分の力の限界に絶望し、彼の眼は開かれました。(ヨブ42:2,3)

3.絶望が神にゆだねる人生をもたらす

22篇ではしばらく苦しみの告白が続きますが、9、10節がターニングポイントになります。虫けらのような者ですが、私の命はあなたから与えられたものであり、主の御手の中にあります。だから主に委ねるしかないと告白しています。たとえ賛美できない状況でも、主は今ここにおられ、すべてを委ねるときに、私たちは心の奥底からの賛美に溢れます。

2019年の後半が、「絶望」することから与えられる神の恵みを体験する日々であることを祈ります。

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神様が絶えず目を留めてくださる人生

あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。…渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。         申命記11章8節~12節

2019年前半も神に守られたことを感謝し、明日からの後半の日々の祝福を求めて祈っていきましょう。
今日の御言葉を通して、絶えず私たちの人生の上に目を留めていてくださるという神のお約束をしっかりと私たちのものにしましょう。神はアブラハムに、神が示す地に行きなさい、そうすればあなたを大いなる国民とし、祝福しようとおっしゃいました。アブラハム→イサク→ヤコブ→ヨセフ→モーセの出エジプト→約束の地カナンへと、神の約束と導きは続きます。聖書で約束の地は「インマヌエルの国」、「うるわしい国」、「聖なる地」と呼ばれています。申命記では、「主が求められる地」(12節)と言われています。過酷なエジプトでの生活からイスラエルの民を救い出し、後は自分たちで頑張りなさいと言われたわけではなく、水や食料を与え、律法(十戒)を与え、神を礼拝することを教え、昼は雲の中に、夜は火の中にあって導き続け、ヨルダン川をせき止め川の中を歩いて渡らせ、エリコの町の攻略では、共にいることを証明して、約束の地へと導き続けました。選ばれたイスラエルの民のために神が絶えずすべての必要を満たし、目を留め続けてくださったのです。
世界の人口は現在76億人と言われていますが、神はイスラエルの民に目を留めてくださったように、あなたにも目を留め続けてくださっていることを知らなければなりません。聖書に登場する人々の例からそのことを学びましょう。

1.サラの女奴隷ハガル(創世記16章)

ハガルは、主人サラへの高ぶりから、サラにいじめられ、死を覚悟して家を出たときに、神はハガルのこれからの生き方について教えてくださいました。ハガルは悔い改めて、神のことを「エル・ロイ」(見てくださる方、すべてを知
り、目を留めてくださる方)と告白しました。アブラハムとサラにイサクが生まれた後も、神はハガルとその子イシュマエルをちゃんと生きていけるよう守ってくださいました。

2.十二弟子(ヨハネ14:16-18)

イエスが十二弟子を選ばれ、信仰を与え、訓練し、御業をあらわし、恵みを伝えました。イエスが十字架につけられ、復活し、天に帰られた後、もう一人の助け手として聖霊を送ると言われ、イエスは決して彼らを一人にはしませんでした。弟子たちが祈っていると天から約束通り聖霊が与えられ、大いなる働きが前進していきました。この聖霊が私たちの内にもいてくださるから感謝です。
私自身、十代半ば、何のために生きているのか悶々としていた時、教会に導かれ信仰を与えられ、高知から松山へと40年前に導かれてきました。数年前、その時に仕事でお世話になった工場長に会い、私がその会社に採用された時のことを聞きました。彼はクリスチャンで、当時万代恒雄先生が銀天街で路傍伝道をしていたのを知っていて、その教会に行っている私をすぐに採用してくださったそうです。私が知らぬ間に、神は働いていてくださっていたと知りました。そこで三年間働いた後、神学校を出て献身者へと神は導いてくださいました。皆さんの人生も、たまたま、偶然、運がよかったと思っていることがあるかもしれませんが、神は間違いなくあなたに目を留め、助け、いやし、祝福し、最高の人生に導き続けようとされる神だということを信じてまいりましょう。

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教会のあり方・大切な3つのこと

さて、弟子たちの間に、…だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、…彼らに言われた。「…このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。…一番小さい者が一番偉いのです。」ヨハネが答えて言った。「…先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、…私たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」しかしイエスは、彼に言われた。「…あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です。」       ルカの福音書9章46節~50節

宗教と呼ばれるものの中には、構成しているメンバーをランク付けする所があります。制度のための役職以上の意味がその役職に与えられたり、貢献をする事でステージが上がっていく、そのような宗教があります。けれど「教会」には、そこに集まっているメンバーの上下関係はありません。しかしイエスの弟子や初代の教会の人たちの中では、「誰が一番偉いのか?」という議論がしばしば持ち上がりました。その議論に対するイエスの答えは、彼らを、また後の「教会」を戒めるものでありました。(ルカ9:47,48)
今日の聖書箇所から「教会のあり方」として3つの大切な事を学びたいのです。

1.取るに足りない者が受け入れられる場所

イエスが「一番小さい者が一番偉い」と言われたのは、教会は、誰が偉いかを問うような場所ではないと教えられたのです。聖書の時代、取るに足りない存在だった「子ども」、そのような者を受け入れなければ、イエスを受け入れたとは言えないと教えられたのです。また、ヨハネやペテロのことは「無学な普通の人」と使徒の働きには記されています。そして、ガリラヤ出身の彼らは、ユダヤ人の世界では重んじられませんでした。そんな彼らが、イエスに受け入れられているばかりか、イエスの弟子とされているのです。「教会」という場所は、数に数えられない者が受け入れられる場所なのです。だから私たちもここに居られるのです! 居ても居なくてもいいような私が受け入れられて
いることに感謝しましょう! そして私たちは、本当に小さい者を受け入れる者になりたいのです。教会というものは、そういう場所でなくてはなりません。

2.イエスに所属し、イエスの名にこだわる

イエスの弟子たちは自分が本家であると思い、そうでない人々を見下すような風潮があったのかもしれません。しかし聖書には、弟子たちの情けない行状がたくさん記されています。それは、彼らに権威はなく、イエスの御名前だけが権威を持っていることの現れであります。弟子たちの仲間でない者もイエスの御名前によって祈ると、悪霊が出ていったのです! それはイエスの御名前に権威があるからです。「教会」において全てのことをイエスの御名前によって成す私たちでありたいと思います。私たちは、イエスに所属しているのであり、イエスの御名にこだわる者でありたいのです。イエスの御名前によって祈れば、神の素晴らしい御業が成されるのです!

3.味方がたくさんいる神の国

日本ではクリスチャンは少数派、マイノリティです。そうすると、私たちの味方は少ないように思ってしまうかもしれません。また、信じていない者は味方ではないと思うかもしれません。しかしイエスは、「反対しない者はあなたの味方です」(50)と言われたのです。クリスチャンでなくても、私たちに敵対しない人を敬い愛してまいりましょう。反対しない者、味方は私たちの周りにたくさんいます。その方たちを敬い愛し、祈っていく時、今は単なるイエスの言葉で「味方」と言える人が、やがて私たちの本物の仲間になっていくのです。「教会」はそんな場所でなくてはなりません。そのような「教会」を目指しイエスの御名前によって祈り前進してまいりましょう!

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これこそ神である主の宮だ

そこで、ダビデは言った。「これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。」そして、ダビデは命じて、イスラエルの地にいる在留異国人を召集し、神の宮を建てるため石材を切り出す石切り工を任命した。              歴代誌第一22章1節~2節

ダビデは罪を犯しました。人口調査を行い、神ではなく戦士の数に頼り、神の民を自分の民のように扱ってしまいました。しかし、ダビデは悔い改め、主に告げられたとおり、エブス人オルナンの土地を購入し、全焼のいけにえをささげます。すると、天から火が下って、いけにえを焼き尽くしたのです。
その時、ダビデは叫んだのです、「これこそ、神である主の宮だ」。そこに、神殿が建てられるのです。
これこそ神の宮だと言える、それはどのような所なのでしょうか?

1.天と地がつながる所

神の宮、教会とは、天と地がつながる所です。四面楚歌、八方ふさがりと思える時も、天は開いています!天と地、神と人がつながり、神からの答えが与えられます。ですから私たちは「神の宮」教会に集うのです。信仰は、神に結びつくことにあります。神と私たちが結びつく場所、教会はそういう所なのです。神と離れている状態が罪なのです。しかし、教会は天と地が繋がる所であり、神と人とのつながりを妨げる罪が取り除かれ、清められ赦される場所なのです。私たちは日々罪を犯してしまう弱い存在です。だからこそ、神の宮、教会に集うのです!

2.神と出会う所

赦されるとは、赦して下さる神と出会うことです。癒される、救われるとは、癒し主、救い主なる神と出会うことです。神の宮、教会は神と出会う所です。そして出会ったら必ず変えられます。何の理由もないのに不安で心配な時があります。しかし、教会に来て神と出会うと、変わります。なんだかうれしくてたまらない! 恐れや暗闇が消え去るのは、愛と光である神様と出会うからです。神と出会う所、教会は天国に一番近い所です。私たちの人生は最高の喜びに向かって進んでいるのです。だから、毎日がうれしくてたまらないのです。神の宮、教会に来るたびに、それを思い出すのです。全てを完成して下さった神との出会いの中で、真の安息、平安を得るのです。

3.全てをささげられる所

ダビデが「これこそ、神である主の宮だ」と叫んだその場所は、実はモリヤの山上でした(Ⅱ歴代誌3:1)。アブラハムが、愛する一人子イサクを神にささげようとした所です。最も手放したくないものを手放す、それが神を第一にすること、神を礼拝することです。握りしめている手を開いて、手放し、明け渡す時、初めて受けることができるのです。それが神の恵みを受ける鍵です。本当の意味で神を信頼しているかが問われています。私たちの人生が不完全燃焼で終わらないのは、全てをささげても惜しくない、そういう方に出会えたからなのです! それでも、ささげきれない弱さのある私たちです。しかし、主イエスは、そんな私たちのために、いのちも全て、ささげてくださったのです。この方こそ、喜んで、全てを明け渡し、お任せできる方です。そして、「ささげなさい」ということは、ささげる私たちの全てを「受け止めて下さる」という恵みでもあるのです。
神の宮、教会は、天と地がつながる所、神と出会う場所、全てをささげられる所です。そこで、私たちは変えられるのです。だから、私たちは喜び、感謝にあふれ、神の宮、教会に通い続けるのです。

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すでに成就している聖霊の約束

五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、…みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
…イエスは立って、大声で言われた。「…わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
     使徒の働き2章1節~4節, ヨハネの福音書7章37節~39節

今日はペンテコステの日(聖霊降臨日)。教会では特別なお祝いの日が三回あり、一つ目はイエスの誕生をお祝いするクリスマス、二つ目は救い主イエスが十字架にかかって三日目によみがえられたことをお祝いするイースター、三つ目が今日のペンテコステです。ユダヤ人たちにとって大切な過越しの祭りの日から50日目のお祝い(五旬節)をペンテコステと言い、クリスチャンにとっては、過越しの祭りはイエスが十字架にかけられた日にあたります。
五旬節に弟子たちはいつものように集まって祈っていたところ、激しい音と共に聖霊がくだり、新しい言葉で祈り始めていたのです。それまでは引っ込み思案で失敗だらけの弟子たちでしたが、聖霊降臨によって大きく変えられ、力に満たされ、イエスを大胆に証しするようになったのです。病める者の上に手を置いて祈れば病気も癒され、彼らのメッセージを通してその日に三千人が救われ、教会が誕生した特別な日がペンテコステです。聖霊降臨を体験した弟子たちの時代が新しく始まり、教会が誕生した重要な変わり目に、大切な3つの要素があったことを確認してまいりましょう。

1.完璧な救い主イエスが常に共におられる

ルカ24章45~47節では、十字架と復活を体験されたイエスは高らかに福音を宣言されました。聖書の預言は十字架と復活のイエスによって、すべての人を罪や悪や呪いから解放される福音。主イエスが救いの業を成就されたことによって文字通り新しい時代が始まるという約束があるのです。私たちの目の前にはいつも完璧な救い主であるイエスがおられることを忘れてはなりません。

2.イエスに従う弟子がいる

ルカ24章48節では、イエスが目の前にいた弟子たちを証人(証し人)と呼んでくださいました。しかし弟子たちはこの言葉に戸惑いを覚えたのでした。なぜなら、イエスから離れ、裏切り、証し人と呼んでもらえるような資格はないと思っていたからです。しかしイエスは、十字架と復活のことを目で見て、はっきりわかっている弟子たちを証人であると呼んでくださったのです。イエスの前に、弱く失敗だらけでもイエスに従おうとする弟子たちがいました。

3.イエスからの約束が与えられた

十字架と復活のイエスがいて、証人と呼ばれた弟子たちがいて、もう一つの要素は、イエスからの約束が与えられたことです。弱くて足りないあなたたちが、神からの力を着せられ、神の栄光のために生きる証し人に変えられるという約束が与えられたのです(ルカ24:49)。人間がする約束は反故にされることもありますが、神からの約束は必ず成就することを覚えておきましょう。そして、五旬節の日(ペンテコステ)に聖霊が天からくだり、その約束は成就したのでした。
それを知った上で、聖霊を受けるとどうなるか。 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:37-39)と言われたのです。神が私たちに与えてくださる御言葉、祝福、約束を信じて受けるならば、私たちの内側から、心の奥底から生ける水の川、喜びや感謝や力が流れるように溢れ出すと約束されています。その約束は、弟子たちだけにではなく、今を生き、神を信じる私たちにも同じように約束され、すでに成就しているのです。このことを覚えて、信仰生活が自分の努力や清さを求める頑張りからもう一歩進んでほしいのです。いのちを与えてくださった神ですから、何でもすることができます。豊かな聖霊の流れを求め祈りましょう。

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十字架と復活の主からの恵み

 

さて、そこでイエスは言われた。「…わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」…「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。…あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」…彼らは、…いつも宮にいて神をほめたたえていた。             ルカの福音書24章44節~53節

この聖餐式の礼拝で私たちの歩みを神の恵みの中にある正しい方向へと整えてまいりましょう。疲れていたり、落ち込んでいたり、なにか重苦しい心であるならば、悪魔がもたらすこのような妨害を、礼拝の中で、救い主であるイエスに取り除いていただきましょう。主は生きて働いて新鮮な恵みでこの礼拝の中で私たちを強めてくださいます。
イエスは、十字架の死を前にして、最初の聖餐式を執り行われましたが、その意味は今も変わっていません。イエスの救いを受け止める時に、今日頂くパンと葡萄酒はイエスそのものだということを受け止めていきたいと思います。十字架と復活の主が、最後のメッセージとして弟子たちに語られた今日の箇所から4つの大きな恵みを頂きましょう。

1.聖書の預言を成就した完璧な救い主

私たちは、イエスがただの偉人やキリスト教の開祖だから重んじているのでありません。イエスこそがまことの救い主であり、主だからです。旧約聖書に書いてある預言は全部成就する、とイエスは語ってこられました。イエスの御名前には全ての人を救う力とどんなことも実現させる力があります。他の宗教では、開祖たちが修行をして救いや幸福を探し求めたような物語があります。しかし、聖書の信仰は全く違います。私たちを救うために神の世界から現れてくださった完璧な救い主がすでにおられるからです。

2.罪の赦しと救いが実現

イエスは、私たちの罪が清められ、永遠の命が与えられる救いの道を開いてくださいました。イエスの十字架を仰ぎ見れば、私たちの罪は清められます。そして、神の子どもとされ、甦りの主ご自身が証明されたように、永遠の命まで約束されていることを感謝しましょう。イエス・キリストによって、私たちの罪の赦しと魂の救いが実現したのです。(ルカ23:46‐47)

3.イエスと私たちとの関係が変わる

罪人の私たちは、神から裁かれて滅びるばかりの者でしたが、イエスは私たちを愛し、ご自分の命を捨てて救ってくださいました。それにより私たちは神の子どもとなる特権が与えられ、神の働きにまで参加することができ、主イエスの証人とされたのです。証人とは、私たちの言動を通してイエスのすばらしさを人々に伝えることができるということです。そのために特別な聖霊の力まで与えられています。イエスとの関係を通して、私たちは、特別な使命や目的を与えられた、生きがいのある素晴らしい人生を与えられているのです。(ルカ24:48~49)

4.喜びと賛美の溢れる命へと変えられる

十字架と甦りのイエスを信じていると、呪いや憎しみ、絶望の暗い人生が、喜びと賛美が溢れる日々に変えられます。主の十字架と復活を証しする、証人としての価値ある毎日へと変えられていることを感謝しましょう。人の言葉や世の流れに翻弄されるのではなく、ありとあらゆることを通してイエスを証ししましょう。私たちは人間ですから、弱さを覚えることもありますが、それをそのまま放置するのはクリスチャンらしくありません。今日の聖餐式で100%本物のイエスが、私たちの真ん中にいらっしゃるということをもう一度確認し、祝福を与えられましょう。

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友である主キリストと歩む

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
                     ヨハネの福音書15章15節

2019年の前半もあとひと月。この一週間を歩むにあたって、振り返ってもらいたいテーマは、イエスは私たちのことを確かに友と呼んでくださり、人間の友との関係以上の強いつながりを持ってくださったことです。この友としての見方から、イエスを本当に受け入れ、私たちの歩みが決して自分一人のものではなくて、イエスと共に歩んでいくものだと理解したいと思います。今の時代は、SNSなどで、友だちが増えているように見えながら、実は本当の友の数は減り、孤独になる傾向が強くなっています。しかし、クリスチャンとして歩むならば、決して一人ぼっちではなく、私たちを友と呼んでくださる救い主イエスが共にいてくださることを心から感謝したいと思います。イエスの中に本物の友の姿を見出す者となるため、三つのことを確認しましょう。

1.イエスが私のことを友と明言される

教会に来ても長い間洗礼を受けないままの方に、洗礼をおすすめすると、「心の中でイエスを信じていれば良いのではないですか」と言われることがあります。でも心の中で本当に信じているならば、明らかにされて良いではありませんか。隠さなければならないものは、人生を動かす真理や土台にはなりません。それを明らかにすべきです。イエスは、私たちとの関係を隠されませんでした。時々クリスチャンであることを隠している人がいますが、そういう思いが、クリスチャンとしての力を発揮することを妨げています。救い主であるイエスとの関係は公のものでありたいし、イエスが私たちを友と宣言し、公にされた関係であることを感謝したいと思います。

2.友として神の奥義まで伝えてくださる

イエスが友である時に、私たちのために隠し事をしないで、神の深い御心まで教えられていることを感謝したいと思います。私たちはみな聖書を持っていますが、あなたは聖書をどれほど読んでいますか。私たちは神の御言葉に親しみ、そこから神の御旨、御心を知ることができるのです。それは本当に大きな祝福です。イエスは私たちを友と認めてくださって、他の存在には明らかにされない神の真理、神の奥義まで伝えてくださいました。パウロは、神を信じた者にしか与えられない真理があると語っています。友だからこそ、神の御心まで教えられていることを心から喜びたいと思います。

3.友のために命まで捨てる

イエスは、友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はない(ヨハネ15:13)と語られ、それを単なる言いぐさに終わらせず、私たちを救うために本当に十字架にかかって死なれたのです。私たちは、救い主イエスに友として愛されているのです。
時に私たちは、孤独になることを求めながら、実際に孤独だと感じると、不幸だと思う。これは正に現代病だと思います。しかし、イエスとの関係で、私たちは選ばれ、救われ、愛されています。そして、イエスは私たちのために命まで捨ててくださったのですから、この愛をしっかり受け止めたいと思います。私たちは決して一人ではなく、イエスが本当の友として私たちと歩んでくださることを感謝しましょう。その愛に少しでも応え、愛のある信仰者として歩んでまいりましょう。

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十字架と復活による信仰者の成長

…週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。…イエスが彼女たちに出会って、…言われた。「…行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」…「…あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
          マタイの福音書28章1節~10節,16節~20節

私たちの人生は、目標を手に入れるだけで終わってしまってはだめで、その後に続く物語が生き続けるかどうかが大切なのです。クリスチャンは、春にイースターでイエスの十字架と復活を心から喜びますが、それからが肝心! 「イエスの出来事は私のため、クリスチャンとしての命がまた新しく動き始めます!」とイエスの命に満たされ歩みたいのです。私たちは最高の被造物ですから、もっともっと素晴らしい命を神から頂いて歩みましょう!
今日の聖書箇所前半は、イエスの復活の日の朝の出来事です。イエスの墓にやってきたマリヤたちに御使いは、イエスが死からよみがえられた事実と、ガリラヤでイエスと弟子が再会するという、重要な二つのメッセージを伝えています。さらに、よみがえられたイエスからもガリラヤで会えるというメッセージが伝えられます。イエスの御生涯が、神の力と栄光の内に幕が閉じられようとする時、実はイエスご自身が新しい幕を開かれようとしていたのです。
ガリラヤでイエスは、弟子たちに有名な命令を出されます(18~20節)。このイエスのお言葉は、イエスを裏切り、よみがえりの出来事もよくわからず混乱し、意気消沈し目的を失い愚かで迷いやすい頼りない弟子たちに対しては、不思議なお言葉でした。しかしイエスは、そんな弟子たちに対して、宣教命令を出されたのです! イエスは弟子たちに、哀れな者としてではなく、次のレベルアップを当たり前のように期待されたのでした!
救い主であるイエスの恵みの凄さは、イエスお一人の凄さだけで終わるのではなく、十字架と復活のイエスに出会う人々の人生まで大きく変え成長させることにあります。弱い私たちであっても成長させられるのです。イエスの御業の完成は、私たちのクリスチャンとしての前進、信仰の成長の物語に繋がっていってこそ本物と言えます。弟子たちの成長から3つのレベルアップについて学びたいと思います。

1.立場のレベルアップ

イエスからお叱りを受けることが多かった、見習いの立場であった弟子たちが、人々を教える者に任命されたのです。イエスが私たちを単なる見習いから、イエスの権威を受けて教える者へと、能力、働きを成長させてくださることを感謝しましょう。

2.働き場所のレベルアップ

田舎者の無学の弟子たちに、全世界に出て行くことを命じられたように、生きる世界も働き場所も段違いに大きくなるのです。私たちもそれまでの狭い枠組の中に留まるのではなく、イエスによって広い世界へと働きの場所をレベルアップさせられます。

3.霊的レベルアップ

イエスと物理的に一緒にいることにこだわっていた弟子たちが、霊的な一体感を持って主が御業をなしてくださるという、神が共におられる臨在の感覚においても成長させられ、レベルアップさせていただきました。霊的力不足の弟子たちを、本当の力に満たすため聖霊まで与えて変えられました。
イエスは、あなたが今、殻を破るのを期待しておられます。イエスの十字架と復活はどのような人でも殻を破らせ成長させます。主にあって殻を破り、次の段階へと成長しましょう。

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十字架・復活を知る信仰者の特権

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
                 マルコの福音書16章17節~20節

今日は母の日です。日頃、お母さんに感謝の少ない私たちですが、今日は、母の愛と労に感謝して祈りたいと思います。
5月を迎え新しい時代へ歩みを進めていく中で、私たちは日々、喜び愛し祝福し合って、恵みを積み重ねていくことが大切です。先日のイースターで、私たちの罪を贖う主の十字架の恵みと、永遠のいのちを保証する復活の主が、常に私たちと共にいてくださるという恵みの内を歩んでいることを確認しました。これこそがクリスチャンの恵みであり、醍醐味です。この主の恵みを伝えてまいりましょう。
マルコの16章は、イエスの復活の記事に始まり、クリスチャンとして全世界に出て行き福音を伝えなさいと締めくくられています。そして、主を信じる私たちには、特権が与えられていると書かれています。すなわち、イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、どんな危険な状況でも命が守られ、病人に手を置けば癒されるのです。与えられた特権、特典は用いましょう。当時の弟子たちも弱く自信もなく、恐れでいっぱいでした。でも彼らは、福音を宣べ伝えたから、主は彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものにしたのです。信じる者に与えられた特権を生かしましょう。

1.出て行って実践してみること

信仰はやっぱり使ってみて、試してみて、働かせてみて、聖書が語る通りに信仰を用いてみるクリスチャンでありたいと思います。イエスが私たちに与えられた特権を用いないままという、もったいないことがないようにしましょう。私たちの信仰は飾り物ではありません。生活の現場で、人々の病気の癒しのために、抱えている問題の解決のために信仰を働かせて、実際に祈ってみることです。イエスの御名によって祈り、御業を体験することが大切です。

2.主イエス・キリストの福音を伝えること

弟子たちは出て行って、いたる所で福音を宣べ伝えました。福音とはイエスの教え、恵みです。どこまで行っても弟子たちが伝えたのはイエスです。イエスが物事の中心で、私たちはそこから目を離さない。私たちに力があるのではなく、イエスがそこにおられ、イエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、癒し主であることを絶対に忘れないこと。イエスが私たちの中心におられることを確認しましょう。

3.御言葉に伴うしるしをいつも期待する

クリスチャンの祈りは、祈りっぱなしでは終わりません。弟子たちは病む人々に手を置き、祈り、悩み怒りや絶望の中にある人々を解放し、神の業、奇跡を体験したのです。もちろん、薬を飲むこと、病院に行って手当てを受けること、あるいは手術も必要でしょう。しかし、その前に特権を生かしてイエスの力ある業、奇跡を求めて祈ってまいりましょう。主によって与えられた特権により、私たちが誰かに手を置いて祈れば主によって癒されるし、しるし、不思議、奇跡さえ起こるのです。イエスはそのように語っています。今こそ主の救いを語る時、リバイバルの始まりです。私たちの愛には限界があり、力は足りません。しかし、神にはどんなことでもできます。主が私たちに与えてくださった特権を知り、それを感謝し、それをそのまま働かせ体験しましょう。

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キリストの愛をよみがえらせ、キリストの愛で愛していこう

…私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。…神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。        ヨハネの手紙第一4章7節~11節

この一週間は、平成から令和へ年号が変わり、新しい時代が始まった特別な一週間でした。新時代の喜びばかりでなく、あなたの生活の中に神の祝福、喜び、感謝すべきことがしっかり届いているでしょうか。4月29日の教会のバザーでは、一緒に奉仕し、チケットを販売し、お客さんを誘って来てくださった皆さんに、心から感謝します。神のために、老若男女、皆で力を合わせて思い切り奉仕ができたのは、大きな喜びでした。10連休中のお出かけや、雨の天気予報などで人出は例年に比べ少なかったようですが、バザー自体に支障はなく、素晴らしいものになりました。伝道の働きのために思いっきりささげることができるのは、感謝なことです。
今日は聖餐式と同時に、子どもの日です。子どもの成長と祝福のために祈りましょう。人生はたとえ100歳まで生きるとしても、日々の積み重ねです。一日一日を神に恵まれた日として歩んでいくことが必要です。神から大いに恵まれ祝福されるためのキーワードの一つは、「愛」です。流行歌や小説でよく使われ耳にする言葉で、よくわかっているように思われますが、神の救いを考えるとき、「愛」を抜きには語れません。「愛」をもう一度学び、今日の聖餐式にあずかりたいと思います。

1.神は愛なり

聖書が語る愛は、単に人を好きになるというようなあやふやな概念ではありません。神は滅びゆく罪ある私たちを愛してくださって、神のひとり子であるイエスをこの世に遣わされました。そして、イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。神の愛が形となり事実となったのです。私たちは、罪の裁きを免(まぬか)れたばかりか、神の子どもとされ、永遠の命までも与えられていることを心から感謝しましょう(ヨハネ3:16)。毎日の歩みの中に、救い主イエスを通して明確になった神の愛が、はっきりと心の中にありますように。今あなたの心の中に神の愛をよみがえらせましょう。

2.キリストの愛に満たされる

最近の世の中では、悪いことの方が大きな影響力があるように感じます。凶悪犯罪やインフルエンザの流行も人々を襲います。しかし、神の救いと愛の力はそれよりももっと強く広がります。「罪の増し加わるところには、また恵みも満ちあふれます」(ローマ5:20)。神から愛されイエスの愛を体験している私たちは、神の愛に満たされ、生まれ変わらせていただきたいと思います。

3.神の愛を実践する

イエスは、「互いに愛し合いなさい」と私たちに新しい戒めをくださいました。救い主イエスが与えた、旧約聖書の律法を超える戒め、命令です(ヨハネ13:34)。
神の愛をいただいた者として自分のためだけでなく、今度は神の愛をもって人々を愛する者になりましょう。自分の周りにいる人々、教会の兄弟姉妹によいものを与え、感謝の言葉で接し、祈り合い、お互いに心から愛し合う者になりたいと思います。
愛ある一日一日が、私たちの人生を形作っていきます。聖餐式の今日も愛を分かち合いながら、大いに恵まれた一日を過ごしましょう。

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