十字架と復活による信仰者の成長

…週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。…イエスが彼女たちに出会って、…言われた。「…行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」…「…あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
          マタイの福音書28章1節~10節,16節~20節

私たちの人生は、目標を手に入れるだけで終わってしまってはだめで、その後に続く物語が生き続けるかどうかが大切なのです。クリスチャンは、春にイースターでイエスの十字架と復活を心から喜びますが、それからが肝心! 「イエスの出来事は私のため、クリスチャンとしての命がまた新しく動き始めます!」とイエスの命に満たされ歩みたいのです。私たちは最高の被造物ですから、もっともっと素晴らしい命を神から頂いて歩みましょう!
今日の聖書箇所前半は、イエスの復活の日の朝の出来事です。イエスの墓にやってきたマリヤたちに御使いは、イエスが死からよみがえられた事実と、ガリラヤでイエスと弟子が再会するという、重要な二つのメッセージを伝えています。さらに、よみがえられたイエスからもガリラヤで会えるというメッセージが伝えられます。イエスの御生涯が、神の力と栄光の内に幕が閉じられようとする時、実はイエスご自身が新しい幕を開かれようとしていたのです。
ガリラヤでイエスは、弟子たちに有名な命令を出されます(18~20節)。このイエスのお言葉は、イエスを裏切り、よみがえりの出来事もよくわからず混乱し、意気消沈し目的を失い愚かで迷いやすい頼りない弟子たちに対しては、不思議なお言葉でした。しかしイエスは、そんな弟子たちに対して、宣教命令を出されたのです! イエスは弟子たちに、哀れな者としてではなく、次のレベルアップを当たり前のように期待されたのでした!
救い主であるイエスの恵みの凄さは、イエスお一人の凄さだけで終わるのではなく、十字架と復活のイエスに出会う人々の人生まで大きく変え成長させることにあります。弱い私たちであっても成長させられるのです。イエスの御業の完成は、私たちのクリスチャンとしての前進、信仰の成長の物語に繋がっていってこそ本物と言えます。弟子たちの成長から3つのレベルアップについて学びたいと思います。

1.立場のレベルアップ

イエスからお叱りを受けることが多かった、見習いの立場であった弟子たちが、人々を教える者に任命されたのです。イエスが私たちを単なる見習いから、イエスの権威を受けて教える者へと、能力、働きを成長させてくださることを感謝しましょう。

2.働き場所のレベルアップ

田舎者の無学の弟子たちに、全世界に出て行くことを命じられたように、生きる世界も働き場所も段違いに大きくなるのです。私たちもそれまでの狭い枠組の中に留まるのではなく、イエスによって広い世界へと働きの場所をレベルアップさせられます。

3.霊的レベルアップ

イエスと物理的に一緒にいることにこだわっていた弟子たちが、霊的な一体感を持って主が御業をなしてくださるという、神が共におられる臨在の感覚においても成長させられ、レベルアップさせていただきました。霊的力不足の弟子たちを、本当の力に満たすため聖霊まで与えて変えられました。
イエスは、あなたが今、殻を破るのを期待しておられます。イエスの十字架と復活はどのような人でも殻を破らせ成長させます。主にあって殻を破り、次の段階へと成長しましょう。

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十字架・復活を知る信仰者の特権

信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
                 マルコの福音書16章17節~20節

今日は母の日です。日頃、お母さんに感謝の少ない私たちですが、今日は、母の愛と労に感謝して祈りたいと思います。
5月を迎え新しい時代へ歩みを進めていく中で、私たちは日々、喜び愛し祝福し合って、恵みを積み重ねていくことが大切です。先日のイースターで、私たちの罪を贖う主の十字架の恵みと、永遠のいのちを保証する復活の主が、常に私たちと共にいてくださるという恵みの内を歩んでいることを確認しました。これこそがクリスチャンの恵みであり、醍醐味です。この主の恵みを伝えてまいりましょう。
マルコの16章は、イエスの復活の記事に始まり、クリスチャンとして全世界に出て行き福音を伝えなさいと締めくくられています。そして、主を信じる私たちには、特権が与えられていると書かれています。すなわち、イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、どんな危険な状況でも命が守られ、病人に手を置けば癒されるのです。与えられた特権、特典は用いましょう。当時の弟子たちも弱く自信もなく、恐れでいっぱいでした。でも彼らは、福音を宣べ伝えたから、主は彼らと共に働き、御言葉に伴うしるしをもって御言葉を確かなものにしたのです。信じる者に与えられた特権を生かしましょう。

1.出て行って実践してみること

信仰はやっぱり使ってみて、試してみて、働かせてみて、聖書が語る通りに信仰を用いてみるクリスチャンでありたいと思います。イエスが私たちに与えられた特権を用いないままという、もったいないことがないようにしましょう。私たちの信仰は飾り物ではありません。生活の現場で、人々の病気の癒しのために、抱えている問題の解決のために信仰を働かせて、実際に祈ってみることです。イエスの御名によって祈り、御業を体験することが大切です。

2.主イエス・キリストの福音を伝えること

弟子たちは出て行って、いたる所で福音を宣べ伝えました。福音とはイエスの教え、恵みです。どこまで行っても弟子たちが伝えたのはイエスです。イエスが物事の中心で、私たちはそこから目を離さない。私たちに力があるのではなく、イエスがそこにおられ、イエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、癒し主であることを絶対に忘れないこと。イエスが私たちの中心におられることを確認しましょう。

3.御言葉に伴うしるしをいつも期待する

クリスチャンの祈りは、祈りっぱなしでは終わりません。弟子たちは病む人々に手を置き、祈り、悩み怒りや絶望の中にある人々を解放し、神の業、奇跡を体験したのです。もちろん、薬を飲むこと、病院に行って手当てを受けること、あるいは手術も必要でしょう。しかし、その前に特権を生かしてイエスの力ある業、奇跡を求めて祈ってまいりましょう。主によって与えられた特権により、私たちが誰かに手を置いて祈れば主によって癒されるし、しるし、不思議、奇跡さえ起こるのです。イエスはそのように語っています。今こそ主の救いを語る時、リバイバルの始まりです。私たちの愛には限界があり、力は足りません。しかし、神にはどんなことでもできます。主が私たちに与えてくださった特権を知り、それを感謝し、それをそのまま働かせ体験しましょう。

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キリストの愛をよみがえらせ、キリストの愛で愛していこう

…私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。…神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。        ヨハネの手紙第一4章7節~11節

この一週間は、平成から令和へ年号が変わり、新しい時代が始まった特別な一週間でした。新時代の喜びばかりでなく、あなたの生活の中に神の祝福、喜び、感謝すべきことがしっかり届いているでしょうか。4月29日の教会のバザーでは、一緒に奉仕し、チケットを販売し、お客さんを誘って来てくださった皆さんに、心から感謝します。神のために、老若男女、皆で力を合わせて思い切り奉仕ができたのは、大きな喜びでした。10連休中のお出かけや、雨の天気予報などで人出は例年に比べ少なかったようですが、バザー自体に支障はなく、素晴らしいものになりました。伝道の働きのために思いっきりささげることができるのは、感謝なことです。
今日は聖餐式と同時に、子どもの日です。子どもの成長と祝福のために祈りましょう。人生はたとえ100歳まで生きるとしても、日々の積み重ねです。一日一日を神に恵まれた日として歩んでいくことが必要です。神から大いに恵まれ祝福されるためのキーワードの一つは、「愛」です。流行歌や小説でよく使われ耳にする言葉で、よくわかっているように思われますが、神の救いを考えるとき、「愛」を抜きには語れません。「愛」をもう一度学び、今日の聖餐式にあずかりたいと思います。

1.神は愛なり

聖書が語る愛は、単に人を好きになるというようなあやふやな概念ではありません。神は滅びゆく罪ある私たちを愛してくださって、神のひとり子であるイエスをこの世に遣わされました。そして、イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださいました。神の愛が形となり事実となったのです。私たちは、罪の裁きを免(まぬか)れたばかりか、神の子どもとされ、永遠の命までも与えられていることを心から感謝しましょう(ヨハネ3:16)。毎日の歩みの中に、救い主イエスを通して明確になった神の愛が、はっきりと心の中にありますように。今あなたの心の中に神の愛をよみがえらせましょう。

2.キリストの愛に満たされる

最近の世の中では、悪いことの方が大きな影響力があるように感じます。凶悪犯罪やインフルエンザの流行も人々を襲います。しかし、神の救いと愛の力はそれよりももっと強く広がります。「罪の増し加わるところには、また恵みも満ちあふれます」(ローマ5:20)。神から愛されイエスの愛を体験している私たちは、神の愛に満たされ、生まれ変わらせていただきたいと思います。

3.神の愛を実践する

イエスは、「互いに愛し合いなさい」と私たちに新しい戒めをくださいました。救い主イエスが与えた、旧約聖書の律法を超える戒め、命令です(ヨハネ13:34)。
神の愛をいただいた者として自分のためだけでなく、今度は神の愛をもって人々を愛する者になりましょう。自分の周りにいる人々、教会の兄弟姉妹によいものを与え、感謝の言葉で接し、祈り合い、お互いに心から愛し合う者になりたいと思います。
愛ある一日一日が、私たちの人生を形作っていきます。聖餐式の今日も愛を分かち合いながら、大いに恵まれた一日を過ごしましょう。

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いやし・救い・神の霊が働くキリストの教会

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。         ヤコブ書5章13節~16節

平成から令和へと、天皇の代替わりの行事などで前代未聞の10連休になりました。この連休中のバザーは、開拓伝道以来60数年の歴史を持つ、私たちの教会に貫かれた信仰が凝縮されています。私たちはとことん奉仕し、献げ、伝道し、証しをするためにバザーをしています。この基本を忘れず、共に喜んで仕える喜びを分かち合いたいと思います。
今日の箇所は、使徒ヤコブが初代教会に送ったメッセージです。初代教会が誕生し、年月を重ねていく中で教会のシステムができ、教会の教えがしっかりと形成されました。しかし、何もないところから懸命に教会を立ち上げてきた兄妹姉妹の信仰の行いが消えていくことを彼は恐れていたのでした。教会には常に生きた恵みと行いがあり、キリストの体として生きて働かなくてはいけない、信じているならば、行動に移していこうと励まし続けているのです。

1.信仰によってひとつとなる

主に喜ばれる教会には、信仰によって心を通じ合わせた一体感があることを忘れないでください。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ。喜ぶ人がいると、妬んだり憎んだりひねくれたりする、本当につまらない世の中です。私たちは、共に喜び、共に悲しみ、困難も一緒に祈って乗り越えます。信仰によってひとつとなってバザーの奉仕ができる喜びと交わりの素晴らしさを楽しもうではありませんか。お互いに祈り合おうでありませんか。ひとつの家族として、単なる理屈、理想論、イメージではなくて、実際に体験的な一体感をもち、喜びや悲しみを分かち合い、祈り合いながら前進しましょう。

2.信仰の一体感は神の力をもたらす

私たちが喜びや悲しみを分かち合いながら、共に祈ることによってひとつとなることはものすごい恵みを生み出します。教会で共に祈り合うならば、病は癒され、心の汚れまで赦され、救われるのです。私たちが信仰により、イエス・キリストによって救われ、永遠の命を与えられた教会にいる時に、神の力が豊かにあり、人々は病から癒され、罪の弱さからも救われることを感謝したいと思います。この1週間も、各集会で驚くべき癒しを体験した方々が起こされました。イエスの癒しの御業は、祈る時に今も現れます。神の力が臨在している、それが教会の素晴らしさです。私たちの交わりの力を通して、今度は神の霊的な力が働くことを感謝しようでありませんか。

3.祈り合う教会に大きな力が働く

私たちが祈り合えば、人間の力を超える癒しや救いの霊的な力があるというだけではなく、それを実に大きな「力」として体験することができるのです。ヤコブはこの直後に、預言者エリヤのことを「エリヤも私たちと同じ人間だったのに、彼が祈ると雨は3年6ヶ月降らず、また彼が祈ると再び雨が降りました」と語っています。信じている者の祈り、義人の祈りは働くと大きな力があります。この偉大な力を私たちは体験していこうではありませんか。使徒の働きでも弟子たちを通して、しるし、不思議、力ある業、奇蹟さえもが起こっています。そして私たちも、同じキリストの教会です。喜びと悲しみを分かち合い、救いと癒しが起こり、それを偉大な力として体験する、教会に与えられる恵みを分かち合い、体験しましょう。

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もしもイースターがなかったら…

…キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。    コリント人への手紙第一15章14節~20節

イースターの礼拝を感謝します。今日のイースター礼拝では、私たちの罪を全部背負い、罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエスが、お約束通り3日目に死の力を打ち破ってよみがえってくださったことを喜び合いたいと思います。死を打ち破る命を現された救い主がいる、そしてこの救い主が私たちと共にいる、だから私たちの命はイエスの命に与ってとこしえに生きることができる、主と共によみがえり、永遠の命の恵みに浴することができるのであります。このイースターの喜びの時には、私たちを苦しめる心の闇、罪穢(けが)れが取り除かれ、罪赦された私たちは神の子としていつまでも主と共に生きることができる、死の向こう側に広がる神の命のある永遠の恵みの世界があることを感謝しましょう。希望のある人生が与えられたイースターの恵みを忘れないようにしましょう。クリスチャンの頂くべきど真ん中の出来事、それがイースターなのです! 今日の聖書箇所から、私たちの心の中にはっきりと、イースター、キリストの復活に関わるメッセージを刻みつけたいと思います。そのきっかけとして、「もしイースターがなかったら」、「もし救い主キリストの死からの復活がなかったなら」と問いかけて三つの点からイースターの恵みを心に刻みつけましょう。

1.死に打ち勝つ恵み

「もしイースターがなかったら」、神の命を持たれたイエスが十字架で死んで、それで終わったのなら、イエスもただの人!ということになり、キリスト教は死に打ち勝つことのない宗教で終わったことでしょう。しかし、イエスは実際によみがえり、その主に出会った弟子たちが聖霊に満たされ全世界にキリスト教を伝道したからこそ、2000年後の今日、私たちもこのようにイースターの恵みに与っているのです。

2.聖書の教えの恵み

「もしイースターがなかったら」、聖書の教えは単なる道徳的な教えで終わってしまったことでしょう。しかし、キリスト教は、イースターがあったからこそ、私たちが新しく神の子として生まれ変わることができること、そして永遠の命を語ることができます。これが他の宗教の教えとは全く違う所なのです! 聖書は、私たちは神と共に永遠に命の世界に生ききることができる、という約束を教えているのです。

3.愛、希望、喜びの恵み

「もしイースターがなかったら」、私たちは悲しんで生きなければなりません。クリスチャンは辛いことがあっても必ず立ち直ることができます。痛みがあっても安らぎの時が来ると信じることができます。しかし、イースターがなければ、結局、最期は辛く悲しい死で人生を終えることになり、それが人生のゴールだとすれば、何と寂しいものでしょう。しかし、キリストは初穂としてよみがえってくださいました。その結果、それを信じる私たちも同じように神の御元で永遠に生きることができるようになったのです! クリスチャンたちはこの恵みを忘れないように、心に刻みつける習慣を作り上げました。週の初めの朝、よみがえりのイエスを礼拝し始め、日曜日に教会が礼拝の時を持つようになったのです。兄弟姉妹、私たちは日曜日が巡ってくるたびに、よみがえりの主イエスを思い起こし、その恵みと希望に感謝しましょう。

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主の身代わりの死を感謝する

…彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。…          イザヤ書53章1節~12節

先週はフィリピンのマニラへメトロ・ワールド・チャイルドの働きの視察に出かけて留守にしていました。今回視察した、新しくできたグループは、リーダーや奉仕者の中心が10代の若者たちでした。日曜学校の企画、運営、賛美リードやメッセージ、ゲームや悔い改めの祈りの導きなど、大人顔負けの素晴らしいもので大変感動しました。私たちは、彼らより人生経験が豊富な年長者というだけでなく、イエスに用いられ、実際に福音の種を蒔く者となりましょう。
今週は主の十字架を記念する受難週。救い主イエス・キリストが私たちの罪、心の歪み、魂の汚れを身代わりに背負って十字架の上で死んでくださったことにより私たちの罪は取り除かれ、裁きが終わり、神に愛される子どもとして救いと永遠の命を与えられて生きることができることを感謝しましょう。このことは絶対に忘れてはいけませんし、イエスの十字架の死と復活は、全ての人類が誠実さをもって向き合わなければならないことです。イザヤ書53章ではイエスの誕生のはるか前に救い主の到来を預言していました。私たちの救い主がどのような方であるかを4つのポイントで確認してまいりましょう。

1.苦しみ、痛みのすべてを体験された方

聖書の語る救い主は勧善懲悪のヒーローではなく、この世のありとあらゆる苦しみ、痛み、悲しみ、困難を体験し、苦しめられ、人からのけ者にされ、蔑まれ、他でもない、私たちも彼を尊ばなかった、苦難のしもべでした。私の人生を変える救い主は、私たちのところに下り、私たちの弱さ、足りなさ、悲しみ、苦しみ、病気、それらをわからない方ではなく、私たちの悲しみ、苦しみの全てを体験された方でした。

2.私たちの身代わりとなってくださった方

私たち人間は、彼が自分の罪のために罰せられたと思ったのです。しかし実際は、全く汚れのない神の子どもであったイエスが、私たちのとんでもない罪を背負ったがゆえに裁かれたのです。イエスは私たちの痛みや悲しみ、病気をただ背負われただけでなく、神に打たれ、神に罰せられ、苦しめられ、そして死んでくださった。それは他でもない、私たちの身代わりだったのです。

3.死の代価を払ってくださった方

イエスは死ぬまで私たちを捨てることもなく、私たちを責めることもなく、むしろ私たちの罪を黙って背負い、生ける者の地から命を絶たれました。なぜイエス・キリストの十字架が2000年間経ってもクリスチャンたちに尊ばれているかと言えば、私たちの救い主が、ただ言葉で励ましただけでなく、想像でもなく、事実として、私の罪の身代わりとなって死んでくださったからです。

4.十字架の死によって私たちを救った方

私たちの咎、罪、汚れ、いい加減さをイエスが担ってくださいました。イエスが自分の命を死に明け渡し、背いた人たち、罪人と共に数えられて、罪人の罪を背負って死んでくださったから、私たちの罪が取り除かれ、罪から贖われて私たちは義とされ、救われたのです。神はイエス・キリストの十字架の死を通して救いの道を切り開かれたのです。
このことを感謝して今日の聖餐に与りましょう。

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恐れないで、ただ信じていなさい

会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」…会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」…         マルコの福音書5章21節~24節、35節~43節

今日、イエスが会堂管理者ヤイロに言われた「恐れないで、ただ信じていなさい」というみ言葉を、私たちに語られたみ言葉としてしっかりと受け止めたいと思います。
ヤイロはイエスに、死にかかっている娘の上に手を置いて助けてください、と必死にお願いしました。イエスはすぐにヤイロの家に出かけましたが、途中大勢の群衆に阻まれ、また長血を患った女性をいやされて、ヤイロの家に着く前に娘は死んだと連絡が来ました。ヤイロの心の中は、「一番恐れていたことが起こった。もう手遅れだ。イエス様を家まで案内して手を煩わせることはない」と絶望と深い悲しみで何も言えませんでした。ここでヤイロがイエスを家に案内することをやめていたら、娘は生き返らなかったことを知らなければなりません。この時イエスは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と慈しみ深くヤイロを励まして言われました。今日は、この聖書の箇所を通し神から恵みをいただく秘訣を学びましょう。

1.祈りを決して取り下げない

家族の救いや病のいやし、問題の解決、様々なことを神に祈ります。しかし、なかなか応えられないという現実を通して、もう無理だろう、祈りをやめようか、こんなに長い間祈っているのに救われないからと、祈りを取り下げようと考えたことはありませんか。信仰を持っていても、私たちの思いや願い通りにならないことは山ほどあります。その中で、あなたに求められていることは「恐れないで、ただ信じていなさい」というみ言葉です。信仰をもって祈り求め期待し続けることで、神は働いてくださるのです。私自身も大きな癒しの恵みを体験しました。二十年近くアレルギー性鼻炎で苦しめられ薬に頼っていましたが、去年ムーイ先生の集会で、神は癒してくださるという信仰を与えてくださいました。それ以来だんだん薬が減っていき、今では薬を飲まずに快適な生活を送っています。心から感謝しています。あなたが信じないで、どうして神は働くことができるでしょう。私たちが祈りを取り下げて、神が働かれないようにしてしまっていることを知らなければなりません。

2.神に祈り委ねる

ヤイロは娘が死んだと聞いた時、いったんはイエスを家にお連れするのをやめようと思ったでしょう。しかし、「恐れないで、ただ信じていなさい」のお言葉通り家にお連れして娘は生き返りました。イエスは「ヤイロよ、私はあなたの娘をいやしたいのだ」とおっしゃいました。同じように、あなたにもおっしゃっているのです。
以前、九十歳のご婦人がもう一週間も持たないだろうと医者に言われていましたが、毎日、癒しの祈りに通っていました。すると意識が戻ってだんだん元気になり、食事もとれるようになって、病院から施設に移り、それから二年間も生かされたのです。私たちの信じる神は、私たちの祈りに応えて働いてくださる神です。祈りに応えたいと思ってくださっている神です。感謝しましょう。あなたが祈っていることを決して取り下げてはいけません。イエスの名によって祈ることを絶対にやめてはいけません。イエスが言われる通り「恐れないで、ただ信じていなさい」、この信仰をもって歩み続ければ、神の恵みを確かに受けることができるのです。このことを信じましょう。

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主による“新しさ”を求めよう

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」               マタイの福音書9章16節~17節

日は新しい年号が発表され、日本の社会の新しい時代が始まります。この「新しさ」を、単に外側だけの新しさではなく、心の持ち方や心構えにまでつながる新しさを神から頂いて前進してまいりましょう。
イエスは福音を語られるとき、常に「新しさ」という概念を伴わせて語ってくださいます。今日開いた聖書の箇所がまさにそういう場面です。イエスは布切れやぶどう酒に対して、「真新しい」、「新しい」という形容詞を付けておられます。この表現に神が与えてくださる恵みの特徴が記されています。新しい歩みを踏み出して行こうという私たちは、このイエスのお言葉から恵みを頂く鍵を掴みたいと思います。

1.新しい自分を信仰によって描いていく

何もしなくても時は流れていきます。自分の心が変わらなければ、本当の新しさを体験することはできません。人生を作り上げてきた思い出を振り返ることは良いことですが、失敗や挫折、不幸だと思ったことにいつまでも自分を置いてしまわないことです。神が用意してくださるものは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(Ⅰコリント2:9)」。すなわちそれらは新しいものです。私たちの神は生きて働かれる方ですから、神の御業は新たに起こり続けています。常に新しさを持って信仰の恵みを語ってくださいますから、新しさに目を向けていきましょう。

2.新しさにはエネルギーが伴う

イエスは、神や天国に関わる真理を語られるとき、だれにでもわかるように生活感の溢れる譬(たと)えをもって語られました。新しい布切れは弾力性や伸縮性がありますが、何年も着続けた服の布地はくたくたで、そんな古い布地に新しい布切れで継ぎ当てをすれば、古い布地は新しい布切れの伸縮性や弾力性についていけずにもっとひどく破れてしまいます。また、搾りたてのぶどう酒を古い皮袋に入れれば、パリパリで伸縮性のない古い皮袋は、ぶどう酒が発酵して熟成していく過程で生じるガスのせいでパンパンになり、そのエネルギーに耐えられなくなって張り裂けてしまいます。イエスの前に新しさを求めるときに、そこには力やエネルギーが伴うのです。

3.新しい信仰の器を準備する

最後の箇所で、「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます」と記されています。神の新しい恵みを求めながら自分は変わりたくないと言うのではなく、神は私たちに新しさを要求されます。神は75歳のアブラハムに「私が示す新しい土地に行け、新しい旅に出よ」と伝え、そこから彼の冒険が始まりました。新約聖書の中にも、イエスを信じて歩むときに、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すてが新しくなった(Ⅱコリント5:17)」とあります。神は常に力とエネルギーで新しいもの生み出しておられるので、それを受け止める信仰の器が必要です。新しいぶどう酒、神の与える新しい恵みをしっかり受け止め、おいしいぶどう酒へと発酵させることができる皮袋、信仰の器を私たちの内に用意させてくださいと祈ってまいりましょう。

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ヨブの根本的な信仰にならおう

…主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「…彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」…使いがヨブのところに来て言った。…「あなたのご子息や娘さんたちは…死なれました。…」…ヨブは…地にひれ伏して礼拝し、「…主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」…ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
                 ヨブ記1章1節~3節、6節~22節

この数週間私は大きな二つの出来事で感じるところがありました。1つは45歳で突然のくも膜下出血で召された大川光基兄のこと。命を与えられて生かされていることそのものが実は神からの大きな恵みであることを思い起こさせられました。そして先週の福岡と東京でのレイモンド・ムーイ先生の癒しの集会。イエス・キリストの名前によって癒しを求めて祈る時、その場で多くの癒しが起こされました。私たちの命はいつか必ずこの地上から離れる時が来ます。でもその時まで、私たちが喜びを持って元気でいられるように、主は病いの癒しや、様々な恵みを与えてくださる恵みの神であることを心から感謝します。
今日のヨブは、旧約聖書の登場人物の中でも特徴ある人物です。この1章に彼の生き様や信仰の要約となるものが記されています。特にこの章の最後の言葉から、この春の歩みを恵まれたものとするためのポイントを押さえておきましょう。

1.サタンのような考え方を持たない

ここでヨブの正しさを見せかけだと告げ口をした悪魔、サタンのような考え方を決して持ってはなりません。それは、祝福された人々を見ると、なぜか嫉妬し、邪推する悪に染まった歪んだ心です。サタンは人の心に歪んだ思いや悪を植え付け、神に敵対させようする存在です。私たちは喜ぶ者とは共に喜ぼうではありませんか。悪を行うことや罪深い考えに染まるように、そそのかしたり、誘惑するサタンの働きがあります。そういったものに関わらないようにしましょう。サタンには誘惑されず、影響を受けません、悪に染まることをしません、と神によって私たちの心が清められ保たれることを願いましょう。

2.神をご都合主義の神にしない

神を信じ、クリスチャンになれば、何もかもがバラ色で、良いことしか起こらないというのは極端すぎます。神を単に御利益主義の神に終わらせないようにしましょう。試練、苦しみ、悲しみを感じることが起こっても、私たちを愛し、信頼し、導いてくださる神がおられることを忘れないことです。神は私たちに、最大の贈り物として自由意志を与え、自由に決断する権利まで委ねてくだいました。自由がある以上、不都合が起こることは避けられません。しかし、自由意志を与えても神と向き合う者となると期待されていることを感謝しましょう。

3.幸せの基準をいのちそのものに置く

形ある財産や目に見える物に幸せの根拠を置かないことです。私といういのちがこの地上に与えられ、このいのちを生き、また神の元へ帰って行くことができるという、この根本を素直に喜ぶ者になりましょう。完璧な健康や財産に幸せの根拠を置くと、ちょっとしたことですぐに不幸になります。しかし私たちのいのちは、主が与えられ取られるにすぎないのです。裸で生まれ、最後は裸で神の元に帰って行く。だから、いのちが与えられているということを神からの恵みとして感謝し、そこに幸せの基準を置く、究極の謙(へりくだ)りを忘れない器となりましょう。
この後もヨブは、最後までこの姿勢を失わず、神から2倍の祝福を受けます。彼の生き方が教える、与えられたいのちに感謝するという究極の謙りの根本的な信仰にならい、幸せな春の日々としましょう。

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弱さをも誇る信仰

…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも…死に直面したこともしばしばでした。…日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。…私は自分の弱さを誇ります。…しかし、主は、「…わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、…喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
   コリント人への手紙第二11章23節~30節, 12章9節~10節

4月からの新しい年度を迎えるにあたって、進学、就職、引っ越しと何かと慌ただしいかもしれませんが、大切な節目の時でもあります。こんな時こそ、Make It Happen! 信仰を働かせましょう! 私たちは弱いからこそ、主の守りや導きをいただき、人のすべての計画や思いにまさる神の御業がなされるように祈ります。
シベリアの永久凍土から2万8000年前のマンモスが大変良い状態で発見され、その細胞核を使ってマンモスを復活させる試みがあるとニュースで見ました。そんな昔のDNAが生きていることに驚くと同時に、クリスチャンのDNAについても考えました。私たちも、イエスから、そしてイエスから命を受けて教会を誕生させた初代教会の使徒たちから、信仰の霊的DNAを受け継いでいるはずです。ですから、その信仰を復活させようではありませんか。
私たちは、心身ともに強いことや何事もうまくいって順風満帆であることを願い求めますが、神に造られた人間である限り、弱さ、もろさ、不完全さを常に抱えた者であることを認めたいと思います。パウロは、この手紙の中で何度も自分の弱さに言及しています。人生において大切なことは、弱さとどう向き合うか、弱さをどう正しく取り扱うかということです。ここで大切な3つのカギを確認しておきましょう。

1.人としての弱さを認める

人である私たちには必ず弱さがあります。クリスチャンだからと言って、強がって弱さを隠したり、かっこいい自分だけを演じたり、うわべだけで幸せそうな姿を取り繕う必要はありません。時には自分の弱さや不完全さを素直に認めて、落ち込んだり苦しんだ経験さえ語れる勇気を持ちたいと思います。ここでは、パウロは自分の弱さを素直に語っています。

2.弱さは恵みへの転換点、祝福のカギ

弱さを単なる挫折や失敗や苦しみで終わらせることなく、弱さは、神の恵みへの転換点、祝福をいただくカギとなることを知りたいと思います。イエスが常に共におられることを忘れてはなりません。神が共におられるとき、私たちの弱さでさえも、私たちの人生を神の恵みへと引き寄せ、神の御業を体験させる勝利への転換点となるのです。パウロが告白しているように、弱さを誇りましょう。かっこ悪くみすぼらしく、生きることさえままならないみじめな自分の弱さを用いてくださる、主キリストがおられるからです。

3.弱い時にこそ強い

クリスチャンである私たちには、人生をひっくり返すような逆説的な強さ、神の恵みが約束されています。パウロには肉体のとげがあり、取り除いていただくように必死に祈りました。しかし、神の恵みはあなたの弱いところに完全に現れると言われ、パウロは「私は弱いときにこそ強い!」と言って、喜んで弱さを受け入れたのでした。
神の約束、恵みは、人間の計算や方程式を超えています。今、あなたが、たとえ弱さを感じることがあっても、それだけで終わらせないで、神の前に自分の弱さを認めて素直に祈りましょう。あなたが弱さを感じるときにこそ、神の強さを体験し、イエスのすばらしさをほめたたえる者にならせていただくことができると、今、信じて祈りましょう。

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