尊ぶべきいやし主

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
                 ペテロの手紙第一2章22節~25節

延岡商業高校のホームページに掲載された礼儀指導の1枚の写真から、体罰だ、時代錯誤だと多くの批判が出ています。時代錯誤でしょうか? 私は、最近の世の中の風潮が、自分の自由さ、わがままを主張し、横柄な態度になっていると感じています。人間社会は文化を積み重ね、人間関係の中でも礼儀や作法を身に付け、よいものを作ってきました。私は礼儀作法は価値があり、大事だと思っています。礼儀作法を重んじる姿勢は、神様を礼拝する姿勢にも通じます。神様を礼拝するというのは、自分に都合のよい、御利益のために信じているのではなく、神様との本当の繋がり、礼儀作法を遙かに超えた、神を崇め尊ぶ、もっともっと深い謙(へりくだ)りが必要だと、心から思わされます。この観点から、今日のいやしの礼拝で恵みをいただくために、いやし主である救い主キリストが、どんな御方か学んでまいりましょう。

1.主キリストは、全き正しい御方

イエスは、私たちを友と呼んでくださいました。私たちも、素直に主よと呼びかけています。しかしイエスは、私たち人間のようにいい加減な御方ではありません。その口の言葉にも、行動にも、魂の中にも、汚れ、罪の染みが一切ない、全き聖き御方なのです。この聖い御方が、主に仕える者、奴隷の姿にまでなってくださいました。父なる神の御旨にご自身を委ね、神のみこころに従って生き、死ぬことを選ばれ、私たちに模範を残されたのです。救い主イエス・キリストは、全き御方であり神の聖さを常に持っておられる御方であるという、このキリストの聖さから目を離してはいけません。感謝し、喜ぶと同時に、正しい恐れも忘れてはいけません。

2.罪を背負い、身代わりに死なれた御方

あなたの人生の中で、親や祖父母が、どれほど愛してくれたかを思い出すことができるでしょう。しかし、キリストは、それ以上にこの私たちを愛し、私たちの罪を身代わりに背負われて、十字架にかかってくださいました。人間が軽々しく近づくことができないほど、全き聖き御方が、私たちの命の身代わりとなって死んでくださったのです。ここに、究極の愛、犠牲の愛、神の愛が表されています。

3.救いといやしを成就された御方

キリストの打ち傷のゆえに、私たちの魂が救われ、いやされるのです。「むなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテ1:18-19)とあるように、イエスは、尊く汚れない、完全な神の御子であるキリスト(救い主)以外に誰も成し遂げることのできない、完全な救いといやしの御業を成就された御方です。
今一度あなたの信仰が、イエスを軽く考えていなかったか思い起こしてください。毎回の礼拝で、イエス様とお会いできているか、自分のわがままばかり祈っていないか。父がよく言っていました、「同じ献金でも、きれいなお札で、感謝して捧げているか」と。奉仕や信仰は、イエスに対するものです。聖書の証言する通り、イエスは、全き聖なる御方、尊ぶべき御方、心から誉め称えるべき御方です。信仰の襟を正し、心から感謝し、謙り、主の御前に恐れおののき敬意を持ってお仕えしてまいりましょう。

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春の日々にキリストのかおりを放つ

…神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、…真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。           コリント人への手紙第二2章14節~17節

神が与えてくださった春に向かう日々を大切にし感謝して前進しましょう。今の日本は、臭いに敏感な時代になりましたが、今日、この3月の聖餐式の礼拝にあたり、私たちはクリスチャンとして放つべき「キリストのかおり」があることをもう一度思い起こしましょう。パウロはここで、私たちは「キリストのかおりを放つ者」であり、それが、凄まじい恵みをもたらす「かおり」であり、生死にまで関係するような「かおり」を放つ存在、それがクリスチャンであると記しています。私たちは、「イエスを内に宿す者だ」と告白しますが、イエスが内におられるなら、内におられるイエスの効果が様々な事柄に出てくるのです。今イエスの御前に座っていますが、兄弟姉妹、あなたの心の内側から「キリストのかおり」が香り立っているでしょうか? 人生の辛さ、重苦しさ、不機嫌でいやな雰囲気しか香り立っていないとすれば、それは残念なことです。春の季節に「キリストのかおり」をあらゆるところで放てるようにと祈りましょう。イエスが共におられるなら「私たちはキリストのかおりを放つ者となる!」ことをはっきりと信仰によって意識していきましょう。ここで3つの事を確認したいと思います。

1.キリストのかぐわしいかおり

かおりと臭いは、科学的には同じでしょうが、「臭い」と言うと、悪いイメージもあるのですが、「かおり」には良いイメージが湧きます。聖書では「かぐわしいかおり」(15)、嗅ぐだけで、人々の心が平安、喜びに結びつくような幸せな「かおり」を私たちが放つことができると記されています。クリスチャン生活は、教会にいる時だけでなく、いついかなる時にも「キリストのかおり」を放ってほしいと思います。あなたの雰囲気が人々に伝わる時、キリストの恵みのかぐわしさ、キリストの救いの麗しさ、キリストにある信仰の喜ばしさが自然と香り立つものでありますように。

2.いのちと死を分けるかおり

あなたの心の中に「イエス・キリストはただお一人の救い主です!」この信仰の告白が明確にあるようにしましょう! キリストは、私たちの魂を天国にまで、永遠のいのちにまで導き入れてくださる唯一の救い主であられます。この方から放たれている「かおり」を受け入れるか拒否するかによって、「いのち」か「死」かという生死まで分けるのです。私たちの魂、霊が神の御元で永遠の安息を得られるか、地獄の滅びの中に陥るかの決定的な差を生む「かおり」なのだということを知りたいと思います。

3.キリストのかおりを放つ者となろう

16節の「いったいだれでしょう」とは、すなわちあなたがた一人一人が皆そうではないかと語りかけているのです。聖書のお言葉は、語りかけられた者には応答することが求められています。この「キリストのかおり」、「かぐわしいかおり」でありながら、人の運命に関わる「かおり」さえ放つことのできる存在、主のしもべ、証し人として生きる者は誰なのか、と語られた時に「はい、主よ、私です」と答えましょう。信仰生活は他人事で終わらせることはできません。あなたが当事者なのです。だから各々自分自身が「キリストのかおりを放つ者として歩みます」と信仰によって応答する者でありたいのです。この春、私たちは「キリストのかおり」を放って前進してまいりましょう。

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“聞く”姿勢を土台とした信仰

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」                 ヨハネの福音書10章1~5節

先週、私はフィリピンのマニラにいました。ビリー・グラハム師の孫、ウィル・グラハム師の集会に参加し、四国での伝道大会のメインの講師として彼に来ていただくための直談判に行ったのです。四国の現状を伝え、その突破口を開くため、教派・教団の枠を越えて協力を要請できる説教者が、ウィル師であることを、私の言葉で訴えました。先生から「非常に胸を打たれた。良い返事ができるよう尽力します」とご返事いただき、周りの方々からも、あんなに心を動かされたウィル師を初めて見たと言われ、感謝しました。たとえ小さな私たちの働きであっても、そこに働く信仰は、世界規模で福音を語る、世界最大の伝道団体と何ら変わらない同じ信仰であることを思い出させていただいて心から感謝しています。
イエスは「わたしは良い牧者です」と繰り返して語り、イエスご自身が羊飼いで私たちは羊だと語ります。羊飼いイエスと、飼われる羊、つまり私たちとの関係で絶対に忘れてはならない要素の一つに、今日のテーマである「聞く」ということがあることを思い起こしましょう。

1.「聞く」姿勢を持とう

あなたの生活の中に、聞くということがあるでしょうか。最近は、聞く姿勢が少なくなっているかもしれません。情報や雑多な声が多すぎる一方で、自分の好きなものに耽っていれば良いという引きこもり状態の人もいて、実は聞かない人がたくさんいます。もう一度聞くということに注目したいと思います。この1週間、ぜひ生活の中で静まる時間、聖書の言葉を開いて祈り心を持って、単に自分の必要を神に訴えるだけではなく、神が私に何を求めているのか、その声を聞く作業が生活の中でちゃんとあるのか確認し、その姿勢を持ちたいと思います。

2.イエスの声を聞き分ける者になろう

羊でも、盗人の声は聞かず、自分の羊飼いである御主人の声を聞き分けるのですから、私たちは、誰の声か聞き分け、何よりもイエスの御声を聞き分ける者になりましょう。悪魔は私たちの心の隙を狙って、疑いや不安や怒りや不平不満の言葉を投げかけてくるのです。強盗や盗人や殺す者の声に耳を傾けてはなりません。神の声を聞き分ける者になろうではありませんか。その訓練のためには、聖書を一回でも多く読むことです。そうすれば、神の御声がわかるようになります。様々な人がいろんなことを言うでしょう。しかし、そんな無責任な言葉に振り回されるのではなく、神の言葉を聞き分けたいのです。

3.聞いて従う者になろう

クリスチャンにとってイエスの御声を聞くということは、それに従うということを含んでいます。聞くことと従うことは一つです。私たちも、「どうしてあなたは私の言うことを聞かないのか」と言うのは、聞こえていても、言うことに従わないことをとがめる時でしょう。良き羊飼いであるイエスの声を聞くならば、そこには、当然、イエスのお言葉に従い、言われた通りに行動することを含んでいます。神は共にいてくださり、私たちの人生に聖書の御約束の通りに、素晴らしい御業を起こしてくださいます。イエスの声を聞くならば、ちゃんとそれに従いましょう。イエスに示されたら、それに従っていく者でありましょう。

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イエス様と言うお方

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
                    マタイの福音書8章14節~17節

今日の礼拝で神の明確な語りかけを聖書のおことばを通してはっきりと聴いてまいりましょう。マタイの福音書8章~9章にはイエスの悪霊追放と病人の癒しの物語が記されています。けれど、これは単なる奇蹟の物語ではなく、イエスの愛とご配慮を現す物語なのであります。今日の聖書箇所からイエスがどのようなお方かということを3つのポイントから学びたいと思います。

1.私たちを見ていてくださる

今日の聖書箇所では、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをイエスがご覧になっていることが記されいます。その他にも8章、9章には、「イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て」(8;18)「イエスは彼らの信仰を見て」(9:2)「マタイという人が収税所に座っているのを見て」(9:9)「イエスは振り向いて、彼女を見て言われた」(9;22)等、「イエスが見た」場面が数多く記されています。そしてイエスがご覧になった後、必ず彼らに変化が起こっている、このことにしっかり着目したいと思います。聖書にある通り、イエスは私たちをご覧になり、深く目を留めてくださり、様々な私たちの状況、必要を知っておられる、そういう形で私たちを見ておられるのです。イエスは私たちに対して何かの目的を持ち、計画を抱き何かを成さろうとされているのです。

2.関わりを築き私たちに触れてくださる

また、「イエスは彼女の手に触られた」(8:15)と記されています。「らい病の彼に触り」(8:3)、「私について来なさい」(9:9)と関わりを求められ、「食卓に着いていた」(9:10)では、関係を築いていることを現しています。長血をわずらっている女には、わざわざ「振り向いて」(9:22)イエスは彼女との関わりを築こうとされました。「盲人たちの目にさわり」(9:29)、彼らの目が開かれました。沢山の癒しの物語が記されていますが、それらが、単なる病気治しではないことがわかるでしょう。イエスは、彼らと関わろうとしてくださったのです。イエスが私たちに関わり、触れてくださると特別なことが起こるのです! 悪霊が追放され病が癒され私たちの問題は解決し必要が満たされていくのであります。

3.私たちの身代わりになってくださる

なぜ、イエスが触れて関わると彼らは癒されたのでしょうか? それはイエスが身代わりになってくださったからなのです。イエスが全ての呪い、重荷、煩い、病いを彼らに代わり背負ってくださったから癒されたのであります。イエスは私たちの代わりになってくださるお方です。イザヤ53:4-6にある通りです。イエスは罪のために刺し殺されました。けれど本当は罪のために刺し殺されなければならないのは、私たちでした。イエスがその代わりとなってくださったのです。本当なら罪咎等の罰は自分が負うべきもの、償いも自分がすべきこと、けれどイエスが代わりとなって、十字架の上で私たちが受けるべき罰を受けてくださった、私たちの償いをご自身が成し遂げてくださったのです!
ですから今週もこの素晴らしい祝福、恵みを自覚してイエスに向き合い、イエスとの関係に生きイエスに心から感謝して歩んでまいりましょう。

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キリストには“できる”と信じる信仰

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。…イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。 マタイの福音書9章27節~31節

この教会は、60年前、万代恒雄牧師が、福音を宣べ伝えようと、みかん箱の上に乗り、路傍伝道から始め誕生しました。当時、伝道するお金も献金もありませんでしたので、皆さんとバザーを始め、以来、今日まで、伝道のための献金を生み出し続けています。今年も、この働きを立ち上げ、私たちの教会に刻み付けられている信仰を、更に整え、活かしたいと思います。今年も私と一緒に、御奉仕ください。御一緒にこの働きを立ち上げていきましょう。
週報にも書きましたが、大いに期待して買った愛媛県産の「せとか」入りの炭酸飲料が、果汁わずか1%で、がっかりしました。しかし、同時に、クリスチャンである私のイエス様は何%?と考えさせられました。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章)、100%と告白しています。中世の聖人、フランチェスコも、歴史上、キリストに最も近づいた人物と言われました。この2千年の間、クリスチャンがキリストに似た者とされているかは、大きなテーマです。
この癒しの礼拝で、この盲人の癒しを通して、自分のイエス様は何%か、心を探り、神の恵みを引き出すには、どうすればよいか考えてみましょう。

1.イエスの御心に通じる信仰とは何か?

イエスが「あなたの信仰があなたを直した」と認める信仰は何でしょうか? 二人の盲人は、イエスが来ると大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて行きます。ここで、自分自身が求めないと癒しの恵みは起こらないということが判ります。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われると、「そうです。主よ」と答えています。イエスは彼らの目に触って「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、癒されました。このことから、イエスが二人の盲人に求めていた信仰は、非常にシンプルで、ただ「イエスにはできる」と信じることだけだと判ります。私たちの努力ではなく、イエスを100%の救い主、癒し主と信じることです。主は「だれでも、この山に向かって、動いて海にはいれと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ11章)と語っています。主が求めておられるのは、疑わないで信じる信仰です。イエスとの関係、信頼の深さです。どこまでもイエスを信じる者となりましょう。

2.その信仰の具体的な中身は?

あなたの信じているイエスは、聖書の中のイエスの何%でしょうか? 現代人の知識によって、イエスを薄めてしまっていませんか? 世の中では、自らクリスチャンと言いながら、主の癒しも、十字架の贖い、死の力を打ち破った復活も信じないクリスチャンが、沢山います。そうであってはいけません。祈っても癒されない大きな原因は、祈られても治らないと信じているからです。不信仰でイエスを受け止めると、その通りになってしまいます。自分の理屈や常識でイエスの働かれる場所を狭めるのではなく、聖書の語る通りのイエスを、イエスは何でもできると、信じ受け入れることです。子どもの頃、「何でもできる、私のイエス様…」という讃美歌があり、皆でよく讃美しました。この盲人のように、シンプルに、100%のイエス、イエスにはできると信じましょう。聖書の御言葉通り信じること、それが勝利の秘訣です。

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いのちのパンである主ご自身

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。    ヨハネの福音書6章32節~35節

今日は節分です。日本では、「豆まき」をしますが、豆をまいたくらいで悪魔を追い出すことは不可能です。この世では、私たちの喜びを奪い、悲しませ、落ち込ませたりして、人生をボロボロにしようとする悪の力が働いています。しかし、クリスチャンの私たちはなんと幸いでしょう。イエスの十字架の血で罪がきよめられ、いっさいの悪しきものから遠ざけられています。イエスを信じる信仰によって救われ、きよめられ、神の霊で満たされていることを感謝しましょう。そして、「清らかなもの、美しいもの、愛に満ちたもの」をクリスチャンとして証ししてまいりましょう。
今日は聖餐式の聖日です。聖餐式は、イエスが十字架にかかられた後2000年間、世界中で守られています。イエスの体と血を表すパンとぶどう酒をいただいて、私たちがイエスと一つであることを確認する大切な儀式ですが、単に儀式としてではなく、神からの豊かな恵みと祝福を体験し、心から喜んで聖餐に与りましょう。
4つの福音書の中でもヨハネの福音書は特に、イエスが、ご自分が何者であるかを明確に語っています。「わたしがいのちのパンです」と語られて、聖餐式とは何かをよりはっきりと私たちに教えられました。

1.天から与えられる「いのち」がある

食料は口から食べてエネルギーを得て、体を元気にして命をはぐくむものです。しかし、食料だけでなく、天の神から下ってきて私たちを生かし、いのちとなるパンが存在することを知らなくてはなりません。現代は食生活が豊かになり、「栄養」の内容にまで気を配ります。しかし、「霊的な栄養」が十分かどうかを忘れています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。私たちは、食料が豊かであれば幸せかというと必ずしもそうではありません。天からのいのちをしっかりいただきましょう。

2.天からの「いのち」はイエスご自身

「わたしがいのちのパンです」というイエスの言葉をしっかり認めましょう。イエスが単に立派な人で教えが素晴らしい、生き方が模範になるというだけでなく、イエスご自身がいのちのパンであり、イエスによって生かされているという点で、イエスはこの世の誰とも違います。他の宗教の教祖と同じ人間ではありません。イエスご自身をいただいてつながりを持ち、私たちは生きることができます。学んで修行して道徳的に良い人になることが目的ではなく、イエスと一つにされる、切っても切り離せない関係が大切です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

3.「飢えることも渇くこともない」との約束

人生の中で必要な助けがない、友がいない、心が虚しい、生きる望みがない、疲れ、絶望するということがなくて、いつも心が満たされ潤っている。これがイエスの恵みの約束です。人生のどんな悩みの中にあっても、キリストが共にいてくださり、必要を満たしてくださいます。主を信じる者には、神によってすべての必要が満たされることを信じましょう(マタイ6:31-33)。
聖餐式に与る瞬間に、病はいやされ経済は祝福され、弱い私たちが強められることを期待しましょう。

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“ことば”から始める信仰の整え

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。…舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。…賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。…               ヤコブの手紙3章2節~12節

今年の教会のテーマとして“Make It Happen!さあ信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!”を掲げました。神により「不可能も可能になる!」ことを信じ告白して前進しましょう! そしてあなたの日々の出来事を建て上げ作り上げ、そこに喜び、感謝、生き生きとした感動が溢れるように毎日を作り上げていきたいと思います。神からの恵みをいただくために、私たちは大袈裟な事がないと駄目だと思いがちです。しかし、私たちの人生の大切な事はごく身近な事から変えられていくのです。兄弟姉妹、神は小さな変化を作り出す所で私たちに大きな恵みをお与えくださる事に心から感謝しましょう。
私たちは誰もが弱点を持っていますが、神を信じていると必ず成長の可能性があり、大きく変化、成長を遂げる事ができるのです。その一つのきっかけとなるのは「ことば」にあります。「ことば」を整え直す事によって私たちは大きく飛躍できる可能性があるのです。神を信じる事で大きな恵みをいただくために今日の聖書箇所から自分の語る「ことば」に注目したいと思います。

1.「ことば」の持つ力、影響力を知る

今は「ことば」を世界中に発信できるようになりました。今の世の中の風潮は何でも思った事を自由に表現するべきだという流れになっていると思います。自分が一人で生きているなら、それでも構いません。しかし、クリスチャンとしての信仰生活は、神と共にあり神との関係に生きているのです。ですから、神に対してはどんなことでも告白し、打ち明け嘆いて祈って構いませんが、世の中に対しては、不満、批判を垂れ流してはいけません。私たち人間の弱さや罪からくる悪いものを全部受け止める事ができるのはイエスだけです。それを忘れて身近な人々にぶつけると、それが「不幸」の始まりになります。IT技術が世の中に発展した割に「幸せ」になれないのは、「喜び」や「感謝」を拡げるより、「不平」「不満」「愚痴」等が増幅されていて、世の中全体に「悪」「罪の力」が蔓延しているからです。私たちは、人々に「喜びのことば」を語っていきましょう。小さなことばの持つ大きな意味を忘れてはいけません。聖書の真
理に則(のっと)った「ことば」を語りましょう。信仰のことば、喜び、感謝、良いことを語りましょう。

2.普段語る「ことば」を整える

あなたの「ことば」が否定的にならないよう、むやみに「噂話」「愚痴」等を語らないように。神に喜ばれる「ことば」を語る「口」であり「舌」でありたいと思います。日本人は真面目な所が悪い方に向かい「そんないい加減な、適当にはできません」と、否定的で批判的な暗い方向に向きがちです。しかし「適当」にではなく、主が共におられる者として、いつも「喜び」「賛美」「感謝」を口にしましょう。愚痴や不平が多いと反省する人は、聖書の御言葉を覚えて告白しましょう。あるいは讃美をしましょう。人と出会った途端に皮肉を言わないこと。讃美と呪いが同じ口から出てくるようなことがあってはなりません。出会ったら、喜び合い、恵みや喜びの証しを語る事ができるように用意しておきましょう。普段のことばを笑顔に溢れるものにすることが最初の一歩です。否定的なことばを肯定的に変換し、恵みを分かち合い、喜び溢れた日々を過ごしましょう!

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神が共におられることを知る

ヤコブは…夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。…そして、見よ。主が彼のかたわらに立って…仰せられた。「…わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。…翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。…                創世記28章10節~22節

ヤコブの生涯を通して、神が共におられることを学びましょう。イサクの子、ヤコブは双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれたので、ヤコブ(かかとという意味)と名付けられます。狩りが得意で外向的なエサウと、内向的で抜け目のないヤコブ、2人の決定的な違いは、長子の権利へのこだわりでした。長子の権利が欲しくてたまらなかったヤコブは、ついにある日、空腹の兄と取引をして権利を得ます。そして、兄になりすまして父から祝福を受けます。弟を殺そうとする兄から逃れるため、ヤコブは、母の兄ラバンを頼りに旅に出ます。

1.神様は、祝福の神である

石を枕に眠る夜、ヤコブは、兄への恐怖や、これからの旅の不安を感じたことでしょう。そんな時、夢の中で神の御声を聞きます。「見よ、わたしはあなたとともにあり…この地に連れ戻そう…決してあなたを捨てない」(15節)と。ヤコブは孤独の中に、決して見捨てることのない神が共におられることを知ります。聖書はここで、ヤコブは悔い改めたとは記していませんが、悔い改める者に恵みを与えると聖書は約束していますから、きっとヤコブは、「お父さん、お兄さんに罪を犯しました。どうか赦してください。私を見捨てないでください」と、神の前に悔い改めて祈ったでしょう。神は、私たちが悔い改めて神に立ち返ることを求めておられ、悔い改める者には祝福と導き、全ての良きものを与え続けてくださいます。

2.神様は、選びの神である

当時は、長男が祝福を受け継ぐことが常識でしたが、25章に「兄が弟に仕える」と、神が預言しています。マラキ書にも「エサウはヤコブの兄であったが、私はヤコブを愛した。ヤコブが神に選ばれた者、祝福を受け継ぐ者である」と、はっきり記されています。イスラエルの民が神によって選ばれたように、ヤコブも神に選ばれた者です。ですから、ヤコブがどんなに失敗しようと、神は彼の信仰を整え、悔い改めることができるように導き続けているのです。これは、選ばれた者の特権です。聖書に「あなたが私を選んだのではありません。私があなたを選び…」とあるように、不思議な神の選びによって、私たちも神に選ばれた者なのです。もし間違った道に行ったとしても、神は私に示し、悔い改めさせて正しい道へと引き戻してくださいます。自分は選ばれた者で、何があっても必ず祝福されると信じていきましょう。

3.神の言葉を信じる者に、約束は実現する

神が共におり、連れ戻してくださるという約束を信じたヤコブは、おじのラバンの家に20年間身を寄せます。兄をだました彼が今度はだまされる側に回りますが、その度ヤコブは神の助けと祝福を受けます。家畜も豊かに増えて、多くのの子宝にも恵まれます。恐れていた兄との再会は、まさに神の奇跡でした。神の言葉を信じて生きたヤコブに、約束は実現したのです。ヤコブはどん底の中、決して見捨てることのない神が共におられることを知りました。
私たちも、神によって選ばれた者です。失敗もしますが、神は常に私と共におられます。悔い改めへと導いて正しい道へと立ち返らせ、祝福し続けてくださるのです。主の約束のお言葉を信じ、信仰生活を歩んでいきましょう。

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信じたとおりになる信仰の秘訣

…ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」…「…ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。…」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。…」…「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。            マタイの福音書8章5節~13節

今年のテーマは「Make It Happen! さあ!信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」(マルコ11:23)です。信仰を持つと、私たちの人生観や死生観、物の考え方が当然変わります。しかし、聖書が語る信仰は、単なる道徳ではなく神と私たちの関係です。神と共に歩み、神との関係性の中で私たちクリスチャンは生かされるのです。聖書には、単に心の感じ方や、精神的な事柄ではなく、そこで何が起こったか、病がいやされ、悩みから解放され、経済が祝福され、恵みと喜びが30倍60倍100倍になったという「事」が必ず起こったと書かれています。この一年、精神的な恵みだけではなく、聖書にある神の御業としか言いようのない「事」を日々体験しようではありませんか。今日の聖書の箇所に出てくる百人隊長は、異邦人で、しかも当時のイスラエルを支配していた軍隊の隊長でしたが、「イスラエルのだれにも、このような信仰を見たことがありません」とイエスからほめられました。そして、「あなたの信じたとおりになるように」と言われた時、彼のしもべはいやされました。注目したいのは、信じることが神の御業を引き出していることです。百人隊長の言動を通して、信じたとおりになる信仰の秘訣を確認しましょう。

1.力の源は主なる神にあると認める

私たちの人生に大きな影響を与え、恵みをもたらす力の出どころがどこか、しっかり知る必要があります。百人隊長は、支配している属国の民の一人であるイエスが、救い主であり、神の御子であり、イエスの中から神の力がほとばしり出ていることを信じ、助けを求めにやって来ました。神の御業をしばしば押しとどめているものは、プライド、知識、高ぶり、経験などです。興味深い現象ですが、アジアやアフリカでは、病のいやしや奇跡が起きやすいのです。同じ牧師がメッセージを取り次ぎ、祈るのですから、神の働き方や聖霊の臨在に違いがあるのではなく、受け止める側が、ブレーキをかけるかどうかです。先進国に住む私たちは、当然病院に行き、薬を飲み、医者の話も聞きますが、私たちに命を与えてくださった神のいやしの力を受け入れましょう。

2.イエスの御言葉の権威を認める

百人隊長はイエスとの会話の中で、「権威」についてぴったり当てはまる軍隊での例話を話しました。百人隊長はだれよりも正しく、イエスの持っておられる権威を認め、神の栄光をほめたたえたのです。病のいやしを求めるとき、薬や手術の代わりにイエスに祈り、神の栄光を崇め、神の権威に従い、神ご自身に働いていただく人生でありましょう。

3.愛と恵みの救いの神であることを認める

イエスは、しもべをいやしに行こうとすぐに応答しました。百人隊長は、権威を認めたイエスの驚くべき愛による応答に感謝し、素直に受け止めたうえで、わざわざ来ていただく資格は私にはありませんと謙(へりくだ)って辞退したのでした。「その代わりにお言葉をください。お言葉の中にはすべてに勝る権威、力がありますから」とイエスの深い愛を認めて言ったのです。その彼にイエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と言われました。弱い自分の力や変わりやすいこの世の方法に頼らず、あなたも信じてみませんか! 必ず神は働かれ事を起こされます!

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さあ、信仰を働かせよう! 事を成し遂げよう!

イエスは答えて言われた。…心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
…主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」…手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、…主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
マルコの福音書11章22節~24節、出エジプト記4章1節~5節

明けましておめでとうございます! 今年のテーマについて祈ってきましたが、神から「Make It Happen! さあ、信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」というお答えをいただきました。信じたら神の御業が起こるということを体験していきたいと思います。去年のテーマは、与えられた信仰を磨き上げようということでしたが、さらに肝心なことは、その信仰を実際に働かせて神の御業を体験することです。このことに今年はこだわっていこうではありませんか。

1.信仰を働かせて神の御業を体験しよう

このマルコの箇所は有名なお言葉です。ここでイエスは、単に心を落ち着かせるために神を信じなさいと語られたのではありません。だれであっても、この山に向かって心の中で疑わずに信じたのなら、その通りになるとおっしゃったのです。そこに描かれている信仰は実に力強いものです。私たちの実生活の中で素晴らしい御業が起こるということを神は約束しておられるのです。ですから、みんなで共に祈っていきたいと思います。一歩踏み込んで、神に与えられるビジョンや夢を成し遂げていきましょう。

2.運や人任せにしない

次に知っておきたいことは、周りに流される生き方では幸せのきっかけをつかみ損ねるということ。人任せにしてはいけません。自分のいる所から神の恵みが与えられるということを確信しましょう。私たちの命は偶然与えられたのではなく、神から愛をもって与えられたものであることを受け止め、神と向き合って、神との関係の中を歩みましょう。私たちの力だけでは幸せにはなりきれません。だから神は、イエス・キリストを送り、私たちの抱えている不幸、災い、心の歪みや罪の性質までイエスの血によって取り除く方法を生み出してくださいました。神と私たちの命をしっかり重ね合わせ、恵みの流れに触れることができるように私たちの命を整えてまいりましょう。

3.自分の手にあるものを用いてくださる

ここに登場するモーセは、およそ3,500年前、エジプトからの、民族を挙げての大脱出を指導したリーダーでした。当時エジプトは世界最強と言われており、そのエジプトにイスラエルは400年もの間、奴隷として仕えていました。モーセは、何と80歳の時に神により指導者として召されましたが、それまでの40年間、荒野で世捨て人のような生活を送っていた無名の老人でしたので、彼はしり込みしたのです。しかし神は、モーセが持っていた何の変哲もない杖を蛇に変え、これを用いる時、イスラエルの同胞は、彼が主と出会ったことを認め、エジプトのパロの前に立つ時、この杖が神の力を発揮すると励ましてくださったのです。
主は、あなたの手にあるものは何か、と聞かれます。たとえ小さな者でも、持っている信仰を用いることです。祈り、使い、試して、信仰を働かせて行動してみることです。そして、自分のためだけではなく、神の力を必要とする所で信仰を用いましょう。たとえ自信が無くても、新年の最初の日、神の御前に立ちました。ここでの祈りによって神の御業が現されると信じましょう。あなたの手の中にあるものが武器となることを知りましょう。運任せ、成り行き任せにせず、信仰を働かせて事を成し遂げましょう!

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