ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。…」…サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。…ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。…あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、…この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」…メフィボシェテは…いつも王の食卓で食事をした。                                      第2サムエル記9章1節~13節

今日の箇所で、ダビデ王は三度、「あなたに恵みを施したい。」と語っています。この言葉を通し、神が私たちにも豊かな恵みを施したいといつも望んでおられることをしっかりと覚えたいのです。

1.人生を変える恵みの約束

ダビデとサウル王の息子ヨナタンは、仲の良い親友でした。サウルがみこころに添わない王だとわかった時、神はサウルからダビデに王位を渡そうとします。その時、サウルはダビデを殺そうとしますが、ダビデを愛していたヨナタンによって逃がされ、ダビデは、「私が王になった時、ヨナタンの一族に恵みを施そう。」と約束します。ヨナタンとサウルは戦死しますが、ヨナタンにメフィボシェテという5歳の息子がおり、乳母が抱いて逃げる時、慌てて彼を落とし、足が不自由になっていました。その後、彼はずっと追っ手から逃れる生活をしていました。
十数年後、ダビデは親友ヨナタンとの約束を思い出し、彼の息子がいること知り、呼び出します。「あなたの祖父サウルの土地を全部返そう。そして、私の息子のように、いつも私の食卓で食事をしてよい。」いつ命を奪われるかとビクビクしていたメフィボシェテの生活は一変して豊かになります。ダビデが親友ヨナタンの子に恵みを与えたいと願った、それ以上に、神は私たちに恵みを与えたいと心から願っておられます。

2.神の恵みの相続人としての心構え

では、どうすれば恵みを実際にいただくことができるのでしょうか。メフィボシェテがダビデのもとに連れて来られた時の言葉に注目したいのです。「なぜ死んだ犬のような私に良くして下さるのですか。」彼の心の中にある否定的な思いが表われています。彼は、心まで萎えてしまい、自分が一生隠れて生活しなければならない価値のない者だと勝手に思っていました。そのために、受けられたはずの恵みを、長い間、受け損ねていたのです。
私たちは、自分をどのように評価しているのでしょか。エジプトを脱出した後、カナンを偵察し戻って来た十人は、「先住民は、みな背の高い強い者たちだ。私たちは、いなごのように見えただろう。」と思い込み、それを信じたイスラエルの民は、約束の地に入る恵みを受け損ないました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言われる神の目から見た自分自身の姿を知り、そこに神の恵みをいただく秘訣があることを覚えなければなりません。
聖書には、キリストを受け入れ、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を与えると記されています。ダビデとヨナタンとの契約の中にあって恵みが実現するならば、神の子として私たちが恵みをいただくことができるのは、さらに確実なことです。ですから、すべてのことを疑わず、つぶやかず、生きていかなければなりません。
詩篇に、「あなたの口を大きくあけよ。わたしがそれを満たそう。」(詩篇81:10)とあります。神の恵みの相続人である私たちは、大きく口をあけて、「祝福を期待します。」とお祈り致しましょう。

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主の恵みを実体験した者の祈り

ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。…まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。勇士の弓が砕かれ、…不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。…主は弱い者をちりから起こし、…高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。…主は聖徒たちの足を守られます。…主に油注がれた者の角を高く上げられます。」           第1サムエル記2章1節~10節

今日の箇所は、ハンナの祈りです。3千年以上前のイスラエルには一夫多妻の風習がありました。ハンナの夫のもうひとりの奥さんには子どもがあったのですが、ハンナには子どもが生まれなかったので、ハンナの苦しみは深かったはずです。悩み抜き、疲れ果てていましたが、祈りを聞いていただき、主なる神をほめたたえて祈りました。そして、生まれたサムエルは、後に大預言者となるのです。

1.主の救いを実感する

怖じ気づいた動物は頭を上げることができず、角が低くなったままですが、ハンナは、「私の角は主によって高く上がります。」と祈ります。そして、「私の口は私を攻撃する敵に対して大きく開き、神の救いの喜びを語ります。」と続きます。
「さわらぬ神にたたりなし」ということわざもあるように、多くの日本人が感じている神は、ばちを当てるやっかいな神です。でも、私たちが信じる聖書の神は、私たちを愛し、罪の力や不安の中から救い出して下さる神ですから、喜びましょう。あなたにとっても、生きて働かれる救いの神がいらっしゃいます。

2.小さな者を勝利させて下さる神

小さな力でも、てこの原理を使えば大きな物を動かすことができます。そして、信仰の原理は、小さな者に勝利を与え、弱い者を強くします。私たちの神は、小さな物事を用いて偉大なことをなさる神であることを感謝したいのです。一粒の種でも、30倍、60倍、100倍に実を結ぶではありませんか。世の中の尺度で成功だと高ぶっている高慢な者の鼻をへし折って下さる神の恵みの事実があることを感謝しましょう。神こそが弱い者を強められ、本物の祝福を与えて下さるお方です。小さく弱い私たちでも引き上げて下さる恵みが実際に起こっています。

3.実現される神のご計画

皆さんの中で、自分の計画通りに教会に来てクリスチャンになったという人はひとりもいないはずです。あなたはなぜ教会に導かれ、イエスを信じ、信仰を告白してクリスチャンとなったのでしょう。あなたの病が癒され、今日まで導かれてきた様々な出来事を見れば、そこに神の不思議なご計画を見ることができるではありませんか。人のすべての考えにまさる神のご計画があります。そして、あなたも私も神のご計画の中にすでに生きています。神の御手にすべてを委ねて前進できることを感謝しましょう。

4.神に信頼し、人生を委ねる

イエスを信じるまでは、私たちは自分の幸せや儲けしか考えない自己中心的な者でした。でも、神のみこころによって生きる人生を与えられましたから、神の御業のために用いられていこうではありませんか。私たちの教会には、日本や世界の人々の救いのために用いられるビジョンがあります。バザーを通し、松山に喜びと命に溢れた教会があることを証しし、リバイバルの火付け役となりましょう。神のご計画の中で主に油注がれた者として引き上げられ、さらに用いられていこうではありませんか。私たちも祈る時に、「主よ、あなたの救いを喜びます。」と生きた信仰を込められますように。

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神の臨在とキリストの現れのある信仰生活

まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、…雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。わたしは…国々から彼らを集め、…良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。…わたしは…迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。…                          エゼキエル書34章11節~16節

今日の箇所は、羊飼いが羊を一匹一匹大切に世話をするように、弱い私たちひとりひとりにかかわって下さる神の愛が描かれています。

1.徹底的な愛を注いで下さる神

私たちが奉仕し、愛し合い仕え合いましょうというのは、どこから来ているのでしょうか。それは、天地宇宙の造り主である神が、私たちを徹底的に愛される神だからです。神は、羊飼いが自分の羊を散らされたまま放っておくことがなく、何があっても探し出し、守るように愛して下さいます。
この神の愛は、どのように具現化されたのでしょうか。ヨハネの福音書10章に、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」とあります。神の愛は、私たちを救うために命を捨てられた御子イエスのご生涯において具現化されました。この本物の愛を決して忘れてはなりません。

2.救われるために、資格はいらない

世界のどの国にいようと、どの民族の中にいようと、神を信じる神の民を神は広い心で導いて下さり、ひとつに集め栄えさせて下さいます。神の愛の選びに制限はありません。
どんな立派な人だから、どんな血筋だから、どんな資格やコネがあるから、救われるのでしょうか。マタイの福音書11章に、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。たとえ、弱く、取るに足らない者であっても、素直に神の恵みを求める者は、例外なく、誰でも恵みをいただくことができるのです。
イエスがよみがえられた時、弟子たちに、「あらゆる国の人々を弟子とせよ。」と命じられました。神の寛大な導きは、私たちにも与えられています。神の不思議な導きの中で、罪と後悔の生活から救い出され、神の国の住人とされたことを感謝したいのです。

3.満ち溢れる祝福で、潤して下さる神

ヨハネの福音書4章に、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」とあります。イエスは、あなたの命や人生のすべての場面に、たとえ死んでも永遠の命に続く豊かな命の水を与えて下さいます。だから私たちの心はいつもはつらつと元気で感謝できるし、健康で、将来の計画や老後のことでも、ひとつひとつに神の恵みをいただくことができます。尽きることのない恵みを感謝しましょう。
神のご性質は、恵みと救いです。私たちはイエスを信じていますから、もう人生に迷いはありません。イエスが私たちの歩むべき正しい人生の道であり、イエスの中にすべての真理があり、イエスを通して私たちは本物の命にあずかります。まことの神が私たちの魂の中におられ、私たちの教会は、世の中にはない神の恵みを体験しています。神の愛を知っている者として、春のバザーに向かいましょう。「私を用いて下さい。私の中にまことのキリストの姿が映し出されますように。」と祈ろうではありませんか。

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干からびた骨も生かされる主の恵み

…主の霊によって、私は…谷間の真ん中に置かれた。…多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「…これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「…あなたがご存じです。」主は…仰せられた。「…骨に預言して言え。…主は…仰せられる。…おまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。…」…私が預言していると、…骨と骨とが互いにつながった。…肉が生じ、…息が彼らの中にはいった。…彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。…                        エゼキエル書37章1節~10節

イスラエル人は、エジプトを大脱出し、約束の地カナンへ導き入れられ、祝福されていたはずでした。士師の時代を経て、幾多の王も与えられたのですが、偶像礼拝に走ってしまい、神から裁きを受けるのです。敵の軍隊に蹂躙され、優秀な人々は捕虜となり、神殿は崩れ、イスラエルは廃墟となります。
イスラエルの滅亡後、幻の中で、神が預言者エゼキエルをひとつの谷に連れて行きます。見渡すと、戦場で戦って殺された仲間のおびただしい数の骨が、葬られることもなく、うず高く積み上げられていました。その時、神は、「これらの骨は生き返ることができるだろうか。」と問われたのでした。

1.死からの復活はあるか、と問われる神

干からびた骨は、死の象徴です。灰にも等しい骨を前に、神は、「これらの骨は、生き返るか。」と問いかけられました。エゼキエルには十分な信仰はなく、「神様、あなたしか知りません。」と答えています。預言者であっても、明確な答えはありません。
去年の3月11日に、東北地方は大津波で家も工場も流され、2万人近くの方が亡くなり、一挙に廃墟となりました。福島では、原発事故で人っ子ひとり住めないゴーストタウンとなった町もあります。訪れた人々は問いかけられることでしょう。「この街は、再生できると思いますか。」。早く行動し始めなければならないのに、日本中の皆がはっきりした答えを出すことを戸惑い、誰も復興を宣言できていません。
私たちの心の中にも荒地があったり、人間的に大変な病を宣告されたり、死しか見えないようなことがあるかもしれません。でも、命の与え主である神はあなたと向き合われ、問いかけられます。「あなたの生活の中で命を失ったものは、よみがえるか。」、「あなたの病は癒されるか。」。私たちも弱く不完全ですが、「だめです。」という答えではなく、せめて、「神様、あなたはご存じです。」と答えを神に委ねたいのです

2.命を生み出される神の本質

神は預言者に、「預言して言え。息よ、四方から吹いて来い。」と命じられます。旧約聖書が書かれたヘブル語では、「息」という言葉は、「風」や「霊」と同じです。彼は、自分で信仰を働かせることはできませんでしたが、命じられた通り、「神の霊よ。吹いて来い。」と預言します。すると、骨と骨とがゴトゴトぶつかり合う音が響いてつながり合い、肉や血管が生じ、皮膚がおおい、生き返った人間の大集団となったのです。
無から有を生み出す創造の働きが神の本質です。私たちの答えがどうであれ、神は命を生み出して下さいます。癒しを求める最大の根拠がここにあります。弱っている者が強められる神の働きに触れたいのです。癒しの根拠は、私たちの信仰の熱心さや頑張りではありません。
神は自ら命をもって存在され、神がおられる所どこででも、死の世界に命が芽生え、荒野に道が、砂漠に川が生じます。癒し主のご性質に感謝し、「生かしてください。」と祈ろうではありませんか。

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伴いたもうよみがえりの主

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、…人としての性質をもって現われ、…実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、…天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、…「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。                                      ピリピ人への手紙2章6節~11節

この箇所の直前に、自分のことだけでなく周りの人のことも顧みなさい、それは魂の目標であるキリストのうちに見られるものだからと聖書は語っています。心の目を開いてキリストを見つめ、キリストの福音について学びましょう。

1.神の可能性に生きる恵み

聖書は、神が天地宇宙のすべてを造られたと語っています。神は、ご自身の栄光の世界と、涙にくれる弱い私たちの世界を切り離されたまま放置されませんでした。地上の世界で悪の力がはびこり人々は翻弄され、人間の力ではどうしても幸せをつかみ取ることができないと知った時、神は私たちを救おうとして下さいました。私たちから神に向かって道を切り開くことはできないので、神ご自身が人の姿をとり、地上に降って来て下さいました。
私たちには限界があり、自分の健康さえ守ることができず、十分な力やお金もありません。しかし聖書を通し神と向き合う時、ありとあらゆる命の可能性を私たちのために働かせて下さる生けるまことの神と出会うことができます。その恵みを喜びましょう。

2.私たちに寄り添って下さる神

天地宇宙の造り主というと、あまりにも大きすぎて、手の届かない存在かもしれません。しかし、神が人となって近づいて下さり、そればかりか、私たちの一番悲惨で絶望的な死にまで同化して下さいました。私たちが立派でかっこいいから救って下さるのではなく、いつもため息まじりで自分の力だけでは生きていけない私たちにとことん寄り添って下さり、私たちの情けない所も全部背負って下さるのです。

3.永遠の命の恵みにあずかる

なぜキリストの御名が素晴らしいかと言うと、どんな行きづまりでも打ち破る力を秘めているからです。私たちの罪を背負い十字架で死なれたイエスこそ、死の力を打ち破りよみがえられたお方なのです。
それでは、なぜ私たちが聖書を通し本当の救いにあずかることができるのでしょうか。それは、キリストの復活の力が私たちにも与えられるからです。私たちの命が、この地上で肉体をもって生きる間だけの命だとしたら、人は皆、滅びに向かって生きているわけで、そんな哀しいことはありません。しかしイエスを信じれば、肉体の死の向こう側にある神の御前の永遠の命が約束されているのです。

4.あなた自身の救い主イエス・キリスト

人間は、神が造られたものの中で最高で複雑だからこそ、悩みも多いのです。でも、自分の力だけで問題を背負い込まないようにしましょう。「わたしは、世の終わりまであなたがたと共にいる。」と約束されたイエスは、あなたが調子のよい時だけでなく、苦難の時も一緒にいて下さり、救い主として働いて下さいます。あなたは、もはやひとりぼっちではありません。イエスの御名によって、「助けて下さい。」と祈ると、あなたの力やこの世のノウハウを超え、神からの恵みと癒しの力が注がれ、喜びや希望を分かち合う人生が展開していきます。キリストを共に体験していこうではありませんか。

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主キリストと共に歩む過去・現在・未来

…私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。…あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。                                      ローマ人への手紙6章3節~11節

私たちは、洗礼を受け救い主イエスと結び付き、神を知らない生まれながらの古い人からクリスチャンという新しい人に変えられたことを知りたいのです。

1.キリストにより清算された<過去>

私たち人間は、弱く足りない所だらけで、自分の力だけでしっかりと生きて行くことができません。ですから、「資格を取っておけばよかった。」、「もっと貯金をしておけばよかった。」と過去は後悔の連続です。「ちゃんとやり直したい。」と思っても、愚かさは変わりませんから、依然としてしっかり生きて行くことはできないのです。神から与えられた人生なのに、後悔の塊のままで死ぬとしたら、残念なことです。
しかし、不完全な私たちのために、命の与え主である神はものすごい解決を下さいました。「キリストの死にあずかるバプテスマを受け、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、私たちの罪のからだが滅び、今後は罪の奴隷でなくなるためである。」と聖書は語ります。自分では一生懸命に生きたつもりでも、神と結び付いていなかったので魂が汚れていて、どんなに清く生きようとしてもできなかった私たちの過去を清算して下さるために、キリストが身代わりに十字架で死んで下さり、新しい命を与えて下さったのです。私たちクリスチャンはキリストと共に葬られ、過去の罪はすでに取り除かれていますから、心から感謝したいのです。

2.命あふれる新しい歩みの実現<現在>

クリスチャンであるということは、新しい自分を生きるということです。どこかで古い自分を引きずっていませんか。私たちを魂の内側から変えて下さるイエスの恵みによって、新しい命の人生を、今、与えられましょう。イエスと出会い、聖書が語る救いをいただくことがなぜ素晴らしいのでしょうか。それは、イエスの救いは、二千年前のイエスの十字架の死の出来事で終わらず、今を生きる私たちに新しい命が与えられるからです。聖霊にどっぷりと浸り、キリストの愛に満たされた命あふれる歩みができることを喜びたいのです。

3.永遠のいのちにあずかる約束<未来>

「もし、私たちがキリストとつぎ合わされていれば、キリストの復活と同じようになる。」とありますが、キリストの復活とは何でしょうか。それは、人類が例外なく体験する死の力を超えるよみがえりの命が与えられる約束です。政治家や会社の社長さんであっても、イエスを知らない生身の人間のまま生きていると、死は恐いのです。素晴らしいことに、クリスチャンは死が終わりではなく、死の向こうにまで喜びの約束があるのです。そして、永遠の命をいただくと、腰が据わったしっかりした生き方ができる命になるものだとつくづく思います。
私たちの過去・現在・未来すべてをひっくるめて罪の力から解放し、新しい人として生かして下さる恵みを感謝しましょう。これを成し遂げて下さるのは、人間の歴史が何万年続こうと、イエス・キリストしかおられません。キリストと結び合わされましょう。

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人生の小舟に同乗されている主

…イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と言われた。…激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、…眠っておられた。弟子たちは…言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」…                                       マルコの福音書4章35節~41節

私たちがどんなに真面目に頑張っても、悩みは人生に起こります。でも、主の御手が常に導いて下さいますから、私たちはたとえ倒れても真っ逆さまに倒れはしません。人生に試練が起こった時、不意打ちされ、ただ振り回されて慌てふためくのではなく、今日の箇所から信仰の秘訣を学びましょう。

1.恐怖の中でも平然としておられる主

イエスと弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとした時、突然、激しい風が起こり、舟は波をかぶり水でいっぱいになりました。その湖で生まれ育った元漁師の何人かの弟子たちは、舟を操るプロだったはずですが、舟が沈むと思い大騒ぎをします。今のように救命胴衣もなく、無線でSOSを呼ぶこともできません。そこで、弟子たちは、ともの方で眠っておられたイエスを揺り起こし、「おぼれそうです。死にそうです。」と叫びます。文字通りのパニック状態でした。しかし、そこにおられたイエスは泰然自若としておられました。「どうしてそんなに恐がるのか。信仰がないのはどうしたことか。」
あなたの心の中に、うろたえやすいあなたとは違う心構えを持ったイエスが共におられますか。

2.どんな状況も制御される主

弟子たちはもう沈むことを想定し、溺れないように手一杯の準備をするだけでした。しかし、揺り起こされたイエスは立ち上がったかと思うと、風を叱りつけ、湖に向かって「黙れ、静まれ。」とおっしゃられ、一瞬にして弟子たちが思いつきもしない方法で嵐を静めて下さったのです。
私たちには確かに、それを見ていてもどうしようもない、手に負えないことがあります。今回の大震災で暴走し始めた原子炉を見ていても、誰もコントロールできないし、水素爆発が起こり多量の放射性物質が漏れてしまいました。でも、イエスは私たちが思いもつかない特別な方法で事を解決されるのです。

3.私たちと共にいて下さる主

イエスは、弟子たちの舟に確かに乗り込んでおられました。嵐の中の小舟でも、イエスがおられると、絶対に沈みません。風や波に翻弄されても、あなたの人生の旅をする小舟にはイエスが乗り込んでおられます。この感覚を忘れてはいけません。
神によって命を与えられた私たちは、ひとりで生きるように造られたのではなく、神と共に生きるように造られたのです。私たちには気休めの神ではなく救い主が共におられます。これが、信仰者としての恵みです。病院で難しい病気の名前を告げられ不安な時も、人間関係に悩む時も、イエスが共におられることを忘れないで下さい。
弟子たちはイエスのことをまだよくわかっていませんでしたから、嵐を静めるイエスの御業を見た時、「どういう方なんだろう。」と恐怖さえ感じました。想像を絶する恵みを持っておられたからです。私たちにはイエスの本当のお姿が証しされていますから、心から喜び、人生の中にイエスの御業が現わされることをさらに期待しましょう。イエスとの霊的な交わりをいつも忘れることがありませんように。

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御言葉に従って信仰を成長させよう!

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」…主は言われた。「…からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。…あなたがたのだれかに、…しもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『…食事をしなさい。』と…言うでしょうか。…『…給仕しなさい。…』と言わないでしょうか。…言いつけられたことをみな、してしまったら、『…なすべきことをしただけです。』と言いなさい。                                    ルカの福音書17章5節~10節

イエスの弟子たちの信じ方は試行錯誤の連続であり、イエスから叱られることも迷うことも多かったのですが、後のクリスチャンは愛を込めて彼らのことを使徒と呼びました。そんな弟子たちがイエスのところに来て、「私たちの信仰を増して下さい。」と願いました。信仰の分量が増し加えられなければならないと思い違いをしていたのです。信仰の成長のために、イエスは、信仰の働かせ方を教えて下さいました。

1.信仰を行動に移す

信仰を増してほしいと願った弟子たちに、イエスは、小さな信仰でも用いることの大切さを教えて下さいました。弟子たちは神を信じているつもりでしたが、自分で信仰を用いなかったのです。信仰を単に知識で終わらせず、具体的な行動に移し換えてみましょう。あなたの家族に病気や怪我の人がいるなら、あなたが実際にイエスの御名によって、「癒して下さい。」と祈ることです。あなたの周りに、頑張っても何かうまくいかない、心がギスギスして幸せそうでない人がいれば、救われるように祈ってあげるべきですし、礼拝やバザーにお誘いしてみましょう。教会がますます愛に満ち溢れるようになればいいのにと思うなら、あなた自身が人々を励まし、祈り、奉仕してみようではありませんか。
信仰は知識の量や経験の年数の問題ではなく、使っているかどうかなのです。わかっていても、やるとやらないとでは大違いです。クリスチャンとしての信仰を働かせてみて下さい。そうすれば、結果は神が与えて下さいます。

2.もう一歩踏み込む信仰をもつ

二千年前のイスラエルでは、裕福な家には奴隷の身分のしもべがいました。しもべが羊飼いや畑仕事を命じられ一日働き、日が暮れて戻って来て、ちょうど主人の食事の時間で、他のしもべが作った料理が運ばれて来た時、「さあ、夕飯の時間だから、一緒に食べよう。」と言われたりするだろうか、とイエスは当時の人々の常識に訴えかけました。
今のように民主的な時代ではありません。2千年前の人にとっては、しもべはしもべとしての生き方があるから、仕事から帰って来て主人が食事をしていたら、給仕や食事の上げ下ろしをするのが当然でした。本当にほめられるしもべとは、言いつけられたことをしても謙虚で、主人が求める以上のことすらできる者だとイエスは言われます。
与えられた1ミナを使わなかったしもべのように、月並のレベルの信仰で終わるのではなく、1ミナから5ミナを儲けた者のように、与えられたものを精一杯用い、主人に、「良い忠実なしもべだ。」と喜ばれる生き方がしたいのです。自分のしたことを認めてほしいし、しんどいことはやりたくない、それが人の本音でしょう。でも、イエスが私たちのためにしもべの姿をとり、命まで捨てて仕えて下さったことを思い出し、一歩踏み込む信仰をもつ者でありたいのです。
この春、今までしたことのないことをぜひ試してみて下さい。神によって選ばれている私たちですから、新しい恵みが必ず備えられています。

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愛に基づく交わりのあるPracticaの一年

…愛は神から出ているのです。愛のある者は…神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。…神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が…示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。…神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちも…互いに愛し合うべきです。                   ヨハネの手紙第一4章7節~11節

本物の救い主とは、私たちを愛して下さる方であると使徒ヨハネは語っています。イエスは、私たちのために十字架の上で命まで捨てて下さいました。ここに、神の徹底的な愛が示されています。主の愛が与えられている私たちですから、今度は文句なしに、みんなを愛していきましょうとヨハネは語ります。

1.主の愛の御業である十字架を忘れない

十字架にかかられる前夜、イエスはもうひとつの象徴的な愛を示されました。弟子たちのほこりまみれの汚い足を洗われたのです。イエスは、互いに仕え愛し合いなさいということを自らの行動をもって示されたのです。神は御子キリストをこの世に遣わし、十字架の上で私たちの罪を背負わせ、私たちの身代わりにキリストを裁かれました。それによって私たちは救われ、神の愛がわかったのです。イエスの十字架の死は神話ではなく、歴史上の事実です。私たちクリスチャンはキリストの弟子ですから、キリストの愛をお手本とし、「互いに愛し合う者とさせて下さい。」という祈りを心からお捧げしましょう。

2.神との交わりの中に生きることを喜ぶ

自分ひとりだけの狭い世界に生きるのではなく、兄弟姉妹と共に歩むことが、どうしてそれほど大切なのでしょうか。第一ヨハネ1章3節に、「私たちが見聞きしたキリストを伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子キリストとの交わりです。」とあります。「私たちの交わり」とは、人間的な交わりに終わらず、キリストによって救われた者同士の交わりであり、聖霊の働きにより、父なる神、御子キリストとの交わりに入れられることです。互いを愛する愛こそ神の内から出た愛ですから、その愛によって私たちは神との交わりを持つことができます。そして、神が味方であれば、誰も私たちに敵対することができず、この世の歩みの中で何も恐れず歩んで行くことができるのです。

3.神の家族の交わりの中に生きることを喜ぶ

第一ヨハネ1章7節に、「私たちが神と交わりを保っているならば、その交わりは周りの兄弟姉妹との交わりに及び、御子イエスの血によって互いの罪を清め、神に喜ばれる神の家族となることができる。」とあります。私たちは、年齢も、個性も、生まれも育った環境も、仕事も、家庭の雰囲気も、偏差値も違います。でも私たちは主にある家族であり、キリストがひとりひとりの違いを愛して下さった愛で愛し合うことができます。そこに、本物の交わりが生じます。キリストの愛による神の家族がいることを、心から喜び合いたいのです。
キリストからいただいた圧倒的な愛の何万分の一でも、人々に注ぐことができるようになろうではありませんか。イエスは旧約の律法の教えを二つに集約されました。「心、思い、知性、力を尽くし、神を愛せよ。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛せよ。」神から与えられた愛は、常に人々へと向かうことを忘れてはいけません。あなたの心の中に、愛で裏打ちされた信仰が働きますように。

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主の祈りの恵み

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕                  マタイの福音書6章9節~13節

主の祈りは、全てをご存知の主イエスが、祈るべき一番大切なことを教え、しかも、その全てが神の御心にかない、必ず答えられる、恵みの祈りです。

1.天にいます私たちの父よ

祈りを聞いてもらえるほど近い関係の「父」であると同時に、人間の限界を超えて「天」にも及ぶ無限の可能性をお持ちの「天の父」こそ、祈りの鍵です。以前は罪の中にいた私たちが神の子とされ、御子イエス様と共に「私たちの父」と神の名を呼べることは、何という恵みでしょう。

2.御名があがめられますように

何よりも第一に祈ること、それは神の名があがめられることです。私たちの生き様や言動、あらゆるものを通し、神があがめられることです。誰もみな一つとなって神をあがめるなら、そこに、神の国、天国が来ます。

3.御国が来ますように

人間や国家、悪が支配する罪の世界に、まことの神のご支配を求める祈りです。私たちの心に、家庭に、この世界の全ての場所に、神が王として治める本当の幸せが訪れます。

4.御心が天で行なわれるように地でも行なわれますように

自分の思いではなく、全知全能の神の御心が一番よいのです。御心とは違う現実の中で、「これも御心」と諦めるのではなく、本当の御心を求めるのです。イエスご自身も十字架の死を前に父の神の御心を求められたからこそ、私たちも救われたのです。だから祈りましょう。天国のように御心が行なわれるなら、この世界も天国となります。

5.私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい

御心を行なうために生きる上で必要な全てのもの、「日ごとの糧」を祈り、与えられて、私たちは生きるのです。そして、私たちを生かす全てものが、この祈りの答え、「いのちのパン」であるイエス様の恵みだと知るとき、全てが感謝に輝くのです。

6.私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人を赦しました

自分も、自分が赦せない人も、全ての人を含む「私たち」の罪の赦しを祈るとき、自分が赦されることと、誰かを赦すことが一つとなります。そのとき、罪が赦されなければ生きられない私たちの魂のために、イエス様が「私たち」の一人として、十字架で全ての罪を赦して下さった感謝があふれてきます。

7.私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください

過去の罪の赦しだけでなく、今も、これからも、悪や試みに会わないよう祈りましょう。祈りは答えられ、「私は試みに会いませんでした。神に守られ、どんな問題も益にかえられ、全ては恵みでした。」と、感謝できる幸せな人生が約束されています。

8.国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン

主の祈りは讃美で始まり、讃美で終わります。大作曲家バッハが自分の曲に「S.D.G.(神にのみ栄光があるように)」とサインしたように、「自分のもの」という欲に縛られず、「全ては、あなたのものです。」と神に栄光をお返しして、讃美で始まり讃美で終わる人生は、本当に幸せです。

そして、私たちの祈りの結びの言葉は、いつも「アーメン(その通り)」です。自分の判断ではなく、全ての祈りを叶えられる主にあって「アーメン」と言い、主を讃美して、祈りは完成します。私たちは命の限り、この主の祈りを祈り続けます。やがて、天国に鳴り響く喜ばしい「アーメン」の大合唱を聞く、その日まで。

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