もっと愛する者にならないか

・・・そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「…だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

ルカの福音書7章36節~50節

今日の箇所は、パリサイ人シモンがイエスを食卓に招いた場面です。福音書の多くの箇所で、パリサイ人はイエスを陥れようと様々な計画を練り、イエスの方は、彼らを偽善者だと非難するという関係が記されています。けれど、ルカの福音書では、イエスとパリサイ人は近い関係にあり、イエスを食卓に招く場面が記されています。今日の箇所から罪深い不道徳な女と、パリサイ人シモン、この2人のイエスへの対照的な態度を通しメッセージをしたいと思います。

1.もっとへりくだって生きる者となろう

この女は、イエスの御足に口づけしてやめませんでした。これは謙遜の現れであります。一方シモンは、口づけはもとより、足を洗う水さえ出さなかったのです。彼は、イエスに関心があったのでしょうが、今をときめくイエスに対して、自分たちの正しさや賢さを誇りたかったのかもしれません。イエスが預言者かどうか試そうともしていたのです。ですから、イエスを招きながら、謙遜ではありませんでした。しかし人間の賢さは、神の前では小賢しさでしかありません。また私たちがどんなに正しくても、そこに謙遜がなければ、その正しさは、人も自分も救うことがでません。だから私たちはもっと謙遜に、もっとへりくだりましょう。そうする時に主が私たちを高く引き上げ、私たちを変えて、成長させて下さるのです。

2.感謝の心を持つ人になろう

「足への口づけ」は、謙遜と同時に感謝を表現する行為でもありました。今年の教会のテーマは、「いつも感謝する」です。ルカ17章では10人のらい病人全員がイエスの奇跡のいやしの御業に与りましたが、その中でたったひとりだけが、イエスのもとへ「感謝」するために戻ってきたのです。他の9人は感謝する心が欠けていたのです。どんな時でも感謝できる人は感謝するのです。その心を持っているかどうかです。パウロは「感謝の心を持つ人になりなさい」と語りました。イエスに口づけした女は、イエスへの感謝の心を持っていたのです。

3.もっと愛する者とされよう

イエスはたたみかけるように話されます。「あなたは、口づけしてくれなかった。あなたは、私の頭に油を塗ってくれなかった」。すなわち、あなたは、私を食卓に招いたけれど、本当のもてなしはしていない、そうシモンに語られたのです。イエスは愛、謙遜、感謝の欠落したシモンを責めているのでしょうか? 愛の欠けた私たちではありますが、その私たちにそのまま注がれている神の愛があるのです。「女」は不道徳を改めたから、愛の行いをしたから、赦されたのではありません。彼女は多く愛され多く赦され、だから多く愛することができたのです。パリサイ人シモンもイエスに愛され赦されているのです。だから、「あなたは自分が正しいと思っているけれど、自分の間違いに気づきなさい。あなたもその間違いが赦されて愛されていることに気づかないか。そして愛する者とされないか」とイエスは語られているのです。愛されている、赦されていることに、きちんと気づくことが、「もっと愛する者になる」ための第一歩です。もっと愛する者とされるとき、謙遜、感謝の心を持って歩むことができるのです。

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