赦しそしてパラダイス

…そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」…十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、…そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書23章33節~43節

私たちクリスチャンが日本で暮らす上で避けて通れないものの中に、町内会の付き合いでお神輿担ぎに駆り出されたり、その会費を払わなければならなかったり、仏式の葬儀に参列しなければならないときもあります。私も最近仏式の葬儀に何度か参列する機会があり、その度に「どう振る舞うべきか」と考えます。「お焼香」は仏様や亡くなられた方を拝む行為なのでしないとして、その時間をどう悼むのか、また「合掌・礼拝」のとき、手を組もうか、それとも合掌すべきなのか、その時々で悩みます。
お坊さんの中には「キリスト教やイスラム教では天国へは行けない」とはっきり言う方もいます。仏教の教えはともかく、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という小説を読んだ方も多いと思いますが、登場人物のカンダタは、結局お釈迦様に助けられませんでした。しかし私たちのイエスは43節にある通り、一人の罪人を天国へと連れて行かれました。今日この箇所で、赦しと天国について学びたいと思います。

1.赦されることが天国への道である

カンダタはどうして救われず、極楽浄土に行けなかったのか。そこにはお釈迦様の慈悲や哀れみはあったのでしょうが、赦しがなかったからです。イエスは「金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい。しかし神にはそれができる」と語っています。人の行いに根拠を求めても天国に入ることはできません。そこには赦しが必要です。
また、イエスは「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈りますが、この「彼ら」とは誰のことでしょう。イエスとともに十字架にかけられている2人の罪人もそうでしょう。でも実は、その場にいた人々だけでなく、私たちも含めた全人類のことを指した「彼ら」なのです。私たちは少々の善い行いに勝る悪い行いがあり、それを赦して下さる神がいるからこそ天国の門は開かれるのです。

2.主の十字架の死が赦しを確かにする

34節でイエスが祈られたことは単なる祈りではなく、必ず成し遂げられるという宣言です。罪人の一人は「この方は、悪いことは何もしなかったのだ」と証言し、ピラトもまた罪を見いだせないと言いました。でもイエスが死ななければならないとするなら、別の理由があります。それは「罪人の罪を赦し、死から救うため」です。イエスの死は、罪を赦すために支払われた贖いの代価なのです。私たちは、死と裁きに束縛されています。イエスはご自分の命を代価に、死と裁きの束縛から私たちを解放し、命と赦しを与えて下さったのです。

3.罪を認め、赦しに委ねる

「私は赦される必要はない」と思っているうちは、天国の門は開きません。赦される必要があることを私たち自身が自覚するためには、まず自分自身の罪を認めなければなりません。今あなたは、この2人の罪人の内のどちらの人間でしょうか? パラダイスにいると言われた罪人でしょうか、それともイエスの十字架を前にして「私を救え」と叫んでいる罪人でしょうか。私たちは罪深い、そのことを認めて神に委ねられる人となりましょう。

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