慰めよ。慰めよ。わたしの民を

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。
その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
                      イザヤ書 40章1~2節

主は「慰めよ」と語られます。この世界には、私たちには、神の慰めが必要なのです。慰めなんていらない、と強がってはいけません。神は慰めの神です(Ⅱコリント1:3)。イエス様は慰め主(助け主)であり、聖霊様は、もうひとりの慰め主(助け主)です。慰めはいらないと言うなら、神様なんていらない、ということになります。へりくだりましょう。私たちは、神様の慰めなしには生きられない者なのです。
そして、今日の聖書箇所、イザヤ書40章では、やがてユダの国が、神に逆らい、罪と不信仰を重ねて滅びに至り、全てを失って、奴隷として、遠い異国バビロンに奴隷として連れて行かれると預言され、さらに、そこから救い出される約束が語られています。
まさに慰めを必要としていた時代に、当時の人々を慰めた神の言葉は、時代を超えて、今も私たちの心に慰めを与え続ける、いのちの言葉です。

1.主がそばで名を呼び、語りかける慰め

「慰める」という言葉は、旧約聖書のヘブル語では、心や思いを変えるという意味があり、新約聖書のギリシヤ語では「そばで(名を)呼ぶ」という意味があります。全能なる愛の神様がすぐそばで私たちの名前を呼んで語りかけてくださるとき、どんなに痛み傷ついた心も慰められ、心も思いも変えられます。
自分の罪のための苦しみ、それがいつまで続くか分からない中でも、「あなたの労苦は終わった」という主の言葉を聞くなら、私たちの心は慰められます。全ての罪に引き替えて、二倍のものを受ける、どんなに罪の苦しみが大きくても、それをはるかに上回る二倍の喜びが待っているのです。主がすぐそばで、そう語られるのです。私たちの名前を呼んで、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださるのです(43:4)。自分なんか何の値打ちもないと落ち込んでいた心も慰めを受けます。私たちが年を取っても、白髪になっても、「わたしは背負う。…背負って、救い出そう」と主は語られるのです(46:4)。重荷を背負って疲れていた心も慰められます。主が私自身を、その重荷ごと背負って支えておられる、だから、今日も生かされていると気づくとき、慰めを受け、立ち上がることができます。たとえ母親が自分のお腹を痛めた子どもを見捨てることがあったとしても、「このわたしはあなたを忘れない」(49:15)と主は語られるのです。神にも見捨てられたと思い込んでい
た心の暗闇の中にも、慰めの光が射し込んできます。

2.十字架の慰め

さらに、主が私たちを慰めるために与えてくださったのは、イザヤ書53章、主の十字架の預言です。私たちの全ての罪も病もわずらいも、全て主が身代わりに十字架で背負い、取り去り、贖われる、主が苦しまれたのは、私たちがもう苦しまないためです。十字架から聞こえてくるのは「もう泣くことはない、苦しむことはない」という主の慰めの言葉です。主を十字架で殺した人々さえ見捨てることなく、そんな人々のために命をかけて赦しを祈られた主です。この方が私たちを見捨てるなんて、ありえません。それは私たちが主の民、神の子どもだからです。「主よ、あなたの十字架が、私の慰めです」。この慰めがあるから、私たちは立ち上がり、進み続けるのです。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです(40:31)。

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