いのちのパンである主ご自身

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。    ヨハネの福音書6章32節~35節

今日は節分です。日本では、「豆まき」をしますが、豆をまいたくらいで悪魔を追い出すことは不可能です。この世では、私たちの喜びを奪い、悲しませ、落ち込ませたりして、人生をボロボロにしようとする悪の力が働いています。しかし、クリスチャンの私たちはなんと幸いでしょう。イエスの十字架の血で罪がきよめられ、いっさいの悪しきものから遠ざけられています。イエスを信じる信仰によって救われ、きよめられ、神の霊で満たされていることを感謝しましょう。そして、「清らかなもの、美しいもの、愛に満ちたもの」をクリスチャンとして証ししてまいりましょう。
今日は聖餐式の聖日です。聖餐式は、イエスが十字架にかかられた後2000年間、世界中で守られています。イエスの体と血を表すパンとぶどう酒をいただいて、私たちがイエスと一つであることを確認する大切な儀式ですが、単に儀式としてではなく、神からの豊かな恵みと祝福を体験し、心から喜んで聖餐に与りましょう。
4つの福音書の中でもヨハネの福音書は特に、イエスが、ご自分が何者であるかを明確に語っています。「わたしがいのちのパンです」と語られて、聖餐式とは何かをよりはっきりと私たちに教えられました。

1.天から与えられる「いのち」がある

食料は口から食べてエネルギーを得て、体を元気にして命をはぐくむものです。しかし、食料だけでなく、天の神から下ってきて私たちを生かし、いのちとなるパンが存在することを知らなくてはなりません。現代は食生活が豊かになり、「栄養」の内容にまで気を配ります。しかし、「霊的な栄養」が十分かどうかを忘れています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。私たちは、食料が豊かであれば幸せかというと必ずしもそうではありません。天からのいのちをしっかりいただきましょう。

2.天からの「いのち」はイエスご自身

「わたしがいのちのパンです」というイエスの言葉をしっかり認めましょう。イエスが単に立派な人で教えが素晴らしい、生き方が模範になるというだけでなく、イエスご自身がいのちのパンであり、イエスによって生かされているという点で、イエスはこの世の誰とも違います。他の宗教の教祖と同じ人間ではありません。イエスご自身をいただいてつながりを持ち、私たちは生きることができます。学んで修行して道徳的に良い人になることが目的ではなく、イエスと一つにされる、切っても切り離せない関係が大切です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

3.「飢えることも渇くこともない」との約束

人生の中で必要な助けがない、友がいない、心が虚しい、生きる望みがない、疲れ、絶望するということがなくて、いつも心が満たされ潤っている。これがイエスの恵みの約束です。人生のどんな悩みの中にあっても、キリストが共にいてくださり、必要を満たしてくださいます。主を信じる者には、神によってすべての必要が満たされることを信じましょう(マタイ6:31-33)。
聖餐式に与る瞬間に、病はいやされ経済は祝福され、弱い私たちが強められることを期待しましょう。

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“ことば”から始める信仰の整え

私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。…舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。…舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。…賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。…               ヤコブの手紙3章2節~12節

今年の教会のテーマとして“Make It Happen!さあ信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!”を掲げました。神により「不可能も可能になる!」ことを信じ告白して前進しましょう! そしてあなたの日々の出来事を建て上げ作り上げ、そこに喜び、感謝、生き生きとした感動が溢れるように毎日を作り上げていきたいと思います。神からの恵みをいただくために、私たちは大袈裟な事がないと駄目だと思いがちです。しかし、私たちの人生の大切な事はごく身近な事から変えられていくのです。兄弟姉妹、神は小さな変化を作り出す所で私たちに大きな恵みをお与えくださる事に心から感謝しましょう。
私たちは誰もが弱点を持っていますが、神を信じていると必ず成長の可能性があり、大きく変化、成長を遂げる事ができるのです。その一つのきっかけとなるのは「ことば」にあります。「ことば」を整え直す事によって私たちは大きく飛躍できる可能性があるのです。神を信じる事で大きな恵みをいただくために今日の聖書箇所から自分の語る「ことば」に注目したいと思います。

1.「ことば」の持つ力、影響力を知る

今は「ことば」を世界中に発信できるようになりました。今の世の中の風潮は何でも思った事を自由に表現するべきだという流れになっていると思います。自分が一人で生きているなら、それでも構いません。しかし、クリスチャンとしての信仰生活は、神と共にあり神との関係に生きているのです。ですから、神に対してはどんなことでも告白し、打ち明け嘆いて祈って構いませんが、世の中に対しては、不満、批判を垂れ流してはいけません。私たち人間の弱さや罪からくる悪いものを全部受け止める事ができるのはイエスだけです。それを忘れて身近な人々にぶつけると、それが「不幸」の始まりになります。IT技術が世の中に発展した割に「幸せ」になれないのは、「喜び」や「感謝」を拡げるより、「不平」「不満」「愚痴」等が増幅されていて、世の中全体に「悪」「罪の力」が蔓延しているからです。私たちは、人々に「喜びのことば」を語っていきましょう。小さなことばの持つ大きな意味を忘れてはいけません。聖書の真
理に則(のっと)った「ことば」を語りましょう。信仰のことば、喜び、感謝、良いことを語りましょう。

2.普段語る「ことば」を整える

あなたの「ことば」が否定的にならないよう、むやみに「噂話」「愚痴」等を語らないように。神に喜ばれる「ことば」を語る「口」であり「舌」でありたいと思います。日本人は真面目な所が悪い方に向かい「そんないい加減な、適当にはできません」と、否定的で批判的な暗い方向に向きがちです。しかし「適当」にではなく、主が共におられる者として、いつも「喜び」「賛美」「感謝」を口にしましょう。愚痴や不平が多いと反省する人は、聖書の御言葉を覚えて告白しましょう。あるいは讃美をしましょう。人と出会った途端に皮肉を言わないこと。讃美と呪いが同じ口から出てくるようなことがあってはなりません。出会ったら、喜び合い、恵みや喜びの証しを語る事ができるように用意しておきましょう。普段のことばを笑顔に溢れるものにすることが最初の一歩です。否定的なことばを肯定的に変換し、恵みを分かち合い、喜び溢れた日々を過ごしましょう!

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神が共におられることを知る

ヤコブは…夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。…そして、見よ。主が彼のかたわらに立って…仰せられた。「…わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。…翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。…                創世記28章10節~22節

ヤコブの生涯を通して、神が共におられることを学びましょう。イサクの子、ヤコブは双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれたので、ヤコブ(かかとという意味)と名付けられます。狩りが得意で外向的なエサウと、内向的で抜け目のないヤコブ、2人の決定的な違いは、長子の権利へのこだわりでした。長子の権利が欲しくてたまらなかったヤコブは、ついにある日、空腹の兄と取引をして権利を得ます。そして、兄になりすまして父から祝福を受けます。弟を殺そうとする兄から逃れるため、ヤコブは、母の兄ラバンを頼りに旅に出ます。

1.神様は、祝福の神である

石を枕に眠る夜、ヤコブは、兄への恐怖や、これからの旅の不安を感じたことでしょう。そんな時、夢の中で神の御声を聞きます。「見よ、わたしはあなたとともにあり…この地に連れ戻そう…決してあなたを捨てない」(15節)と。ヤコブは孤独の中に、決して見捨てることのない神が共におられることを知ります。聖書はここで、ヤコブは悔い改めたとは記していませんが、悔い改める者に恵みを与えると聖書は約束していますから、きっとヤコブは、「お父さん、お兄さんに罪を犯しました。どうか赦してください。私を見捨てないでください」と、神の前に悔い改めて祈ったでしょう。神は、私たちが悔い改めて神に立ち返ることを求めておられ、悔い改める者には祝福と導き、全ての良きものを与え続けてくださいます。

2.神様は、選びの神である

当時は、長男が祝福を受け継ぐことが常識でしたが、25章に「兄が弟に仕える」と、神が預言しています。マラキ書にも「エサウはヤコブの兄であったが、私はヤコブを愛した。ヤコブが神に選ばれた者、祝福を受け継ぐ者である」と、はっきり記されています。イスラエルの民が神によって選ばれたように、ヤコブも神に選ばれた者です。ですから、ヤコブがどんなに失敗しようと、神は彼の信仰を整え、悔い改めることができるように導き続けているのです。これは、選ばれた者の特権です。聖書に「あなたが私を選んだのではありません。私があなたを選び…」とあるように、不思議な神の選びによって、私たちも神に選ばれた者なのです。もし間違った道に行ったとしても、神は私に示し、悔い改めさせて正しい道へと引き戻してくださいます。自分は選ばれた者で、何があっても必ず祝福されると信じていきましょう。

3.神の言葉を信じる者に、約束は実現する

神が共におり、連れ戻してくださるという約束を信じたヤコブは、おじのラバンの家に20年間身を寄せます。兄をだました彼が今度はだまされる側に回りますが、その度ヤコブは神の助けと祝福を受けます。家畜も豊かに増えて、多くのの子宝にも恵まれます。恐れていた兄との再会は、まさに神の奇跡でした。神の言葉を信じて生きたヤコブに、約束は実現したのです。ヤコブはどん底の中、決して見捨てることのない神が共におられることを知りました。
私たちも、神によって選ばれた者です。失敗もしますが、神は常に私と共におられます。悔い改めへと導いて正しい道へと立ち返らせ、祝福し続けてくださるのです。主の約束のお言葉を信じ、信仰生活を歩んでいきましょう。

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信じたとおりになる信仰の秘訣

…ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」…「…ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。…」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。…」…「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。            マタイの福音書8章5節~13節

今年のテーマは「Make It Happen! さあ!信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」(マルコ11:23)です。信仰を持つと、私たちの人生観や死生観、物の考え方が当然変わります。しかし、聖書が語る信仰は、単なる道徳ではなく神と私たちの関係です。神と共に歩み、神との関係性の中で私たちクリスチャンは生かされるのです。聖書には、単に心の感じ方や、精神的な事柄ではなく、そこで何が起こったか、病がいやされ、悩みから解放され、経済が祝福され、恵みと喜びが30倍60倍100倍になったという「事」が必ず起こったと書かれています。この一年、精神的な恵みだけではなく、聖書にある神の御業としか言いようのない「事」を日々体験しようではありませんか。今日の聖書の箇所に出てくる百人隊長は、異邦人で、しかも当時のイスラエルを支配していた軍隊の隊長でしたが、「イスラエルのだれにも、このような信仰を見たことがありません」とイエスからほめられました。そして、「あなたの信じたとおりになるように」と言われた時、彼のしもべはいやされました。注目したいのは、信じることが神の御業を引き出していることです。百人隊長の言動を通して、信じたとおりになる信仰の秘訣を確認しましょう。

1.力の源は主なる神にあると認める

私たちの人生に大きな影響を与え、恵みをもたらす力の出どころがどこか、しっかり知る必要があります。百人隊長は、支配している属国の民の一人であるイエスが、救い主であり、神の御子であり、イエスの中から神の力がほとばしり出ていることを信じ、助けを求めにやって来ました。神の御業をしばしば押しとどめているものは、プライド、知識、高ぶり、経験などです。興味深い現象ですが、アジアやアフリカでは、病のいやしや奇跡が起きやすいのです。同じ牧師がメッセージを取り次ぎ、祈るのですから、神の働き方や聖霊の臨在に違いがあるのではなく、受け止める側が、ブレーキをかけるかどうかです。先進国に住む私たちは、当然病院に行き、薬を飲み、医者の話も聞きますが、私たちに命を与えてくださった神のいやしの力を受け入れましょう。

2.イエスの御言葉の権威を認める

百人隊長はイエスとの会話の中で、「権威」についてぴったり当てはまる軍隊での例話を話しました。百人隊長はだれよりも正しく、イエスの持っておられる権威を認め、神の栄光をほめたたえたのです。病のいやしを求めるとき、薬や手術の代わりにイエスに祈り、神の栄光を崇め、神の権威に従い、神ご自身に働いていただく人生でありましょう。

3.愛と恵みの救いの神であることを認める

イエスは、しもべをいやしに行こうとすぐに応答しました。百人隊長は、権威を認めたイエスの驚くべき愛による応答に感謝し、素直に受け止めたうえで、わざわざ来ていただく資格は私にはありませんと謙(へりくだ)って辞退したのでした。「その代わりにお言葉をください。お言葉の中にはすべてに勝る権威、力がありますから」とイエスの深い愛を認めて言ったのです。その彼にイエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と言われました。弱い自分の力や変わりやすいこの世の方法に頼らず、あなたも信じてみませんか! 必ず神は働かれ事を起こされます!

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さあ、信仰を働かせよう! 事を成し遂げよう!

イエスは答えて言われた。…心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
…主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」…手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。「これは、…主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
マルコの福音書11章22節~24節、出エジプト記4章1節~5節

明けましておめでとうございます! 今年のテーマについて祈ってきましたが、神から「Make It Happen! さあ、信仰を働かせよう!事を成し遂げよう!」というお答えをいただきました。信じたら神の御業が起こるということを体験していきたいと思います。去年のテーマは、与えられた信仰を磨き上げようということでしたが、さらに肝心なことは、その信仰を実際に働かせて神の御業を体験することです。このことに今年はこだわっていこうではありませんか。

1.信仰を働かせて神の御業を体験しよう

このマルコの箇所は有名なお言葉です。ここでイエスは、単に心を落ち着かせるために神を信じなさいと語られたのではありません。だれであっても、この山に向かって心の中で疑わずに信じたのなら、その通りになるとおっしゃったのです。そこに描かれている信仰は実に力強いものです。私たちの実生活の中で素晴らしい御業が起こるということを神は約束しておられるのです。ですから、みんなで共に祈っていきたいと思います。一歩踏み込んで、神に与えられるビジョンや夢を成し遂げていきましょう。

2.運や人任せにしない

次に知っておきたいことは、周りに流される生き方では幸せのきっかけをつかみ損ねるということ。人任せにしてはいけません。自分のいる所から神の恵みが与えられるということを確信しましょう。私たちの命は偶然与えられたのではなく、神から愛をもって与えられたものであることを受け止め、神と向き合って、神との関係の中を歩みましょう。私たちの力だけでは幸せにはなりきれません。だから神は、イエス・キリストを送り、私たちの抱えている不幸、災い、心の歪みや罪の性質までイエスの血によって取り除く方法を生み出してくださいました。神と私たちの命をしっかり重ね合わせ、恵みの流れに触れることができるように私たちの命を整えてまいりましょう。

3.自分の手にあるものを用いてくださる

ここに登場するモーセは、およそ3,500年前、エジプトからの、民族を挙げての大脱出を指導したリーダーでした。当時エジプトは世界最強と言われており、そのエジプトにイスラエルは400年もの間、奴隷として仕えていました。モーセは、何と80歳の時に神により指導者として召されましたが、それまでの40年間、荒野で世捨て人のような生活を送っていた無名の老人でしたので、彼はしり込みしたのです。しかし神は、モーセが持っていた何の変哲もない杖を蛇に変え、これを用いる時、イスラエルの同胞は、彼が主と出会ったことを認め、エジプトのパロの前に立つ時、この杖が神の力を発揮すると励ましてくださったのです。
主は、あなたの手にあるものは何か、と聞かれます。たとえ小さな者でも、持っている信仰を用いることです。祈り、使い、試して、信仰を働かせて行動してみることです。そして、自分のためだけではなく、神の力を必要とする所で信仰を用いましょう。たとえ自信が無くても、新年の最初の日、神の御前に立ちました。ここでの祈りによって神の御業が現されると信じましょう。あなたの手の中にあるものが武器となることを知りましょう。運任せ、成り行き任せにせず、信仰を働かせて事を成し遂げましょう!

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へりくだりの救い主

…全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。                ルカの福音書2章1節~7節

今日の聖書の箇所は、クリスマスの聖誕劇でお馴染みの場面です。ベツレヘム滞在中に、月が満ちてマリヤはイエスを産み落としました。そこは何と、家畜の飼葉おけでした。劇では、馬小屋らしい演出をします。しかし、本当の家畜小屋や飼葉おけがどれほど粗末で汚いものかご存じでしょうか?まして、人でさえまともに食べることもできなかった当時の飼葉おけはどれほど粗末だったことでしょう。聖書の語る紛れもない救い主、王の王、神の御子であるイエスが飼葉桶の中に自らの命を置かれたというわずか数節のこの物語にどれほど大きなへりくだりが現され深い価値あるものかを忘れてはなりません。

1.ご自身の神の栄光をかなぐり捨てられた

神の輝き、神の御姿、神の御子を人間に対して啓示する存在である、輝かしいお方でありながら、神の栄光を捨てることができないとは考えないで、本当に捨ててくださった。私たちは貧しい人に対して施しもしようとしますが、自分の衣服を全部貧しい人にあげ、家やマンションを売り渡して、その人々に住まわせ、自分が馬小屋のような場所で住む覚悟がありますか。人は、自分の持っている輝きや栄光を全部捨てることはできない。しかしキリストはそれを全て捨ててくださいました。

2.キリストは人となってくださった

キリストは「栄光を捨てたよ」、とかっこよく誇らしげに語られたのではなく、本当に人となってくださった。最近はペットが家族のように愛されて、かわいい犬や猫の家族と同じように暮らしている動画を見るとほっこりします。でも、考えてください。いくら好きだからと言ってあなたは犬や猫になれますか。単なる詩的な文学的表現ではなく、本当になれますか。神であられた方が、みじめで弱く力のない愚かな人間になってくださった。このものすごい出来事は、私たちと同じ人となって私たちを救うためでした。

3.キリストは仕える者になってくださった

聖書の時代の「仕える」という言葉は奴隷になることです。格好の良い執事ではありません。自分の命の自由や権利を持たず、売買され、どんな辛い仕事も汚れた仕事もする。家畜のように使われるのが奴隷です。キリストは、その仕える者になられ、自ら弟子たちの足を洗い、私たちの罪が重くのしかかった十字架を背負い、いばらの冠を被せられ、その両手に釘を打たれ、足を釘で打ち抜かれ、脇腹を槍で刺されて私たちのために死んでくださった。キリストは仕える者の姿を取ってくださいました。

4.私たちのために死んでくださった

イエスは私たちが生きることができるようにと、私たちの背負うべき罪を背負い、身代わりに死んでくださいました。命を捨てるまで私たちを愛し支えてくださったのが救い主イエスです。だからこそ飼葉おけの中の救い主なのです。飼葉おけの底、その一番深く汚い所は、私たちの心に繋がっています。適当に嘘つきで、いい加減な、こんなに汚い罪人のために下ってきてくださったことを喜び、本物のクリスマスとしましょう。救い主はへりくだりの救い主。この方だけが人の成し得ない奇跡を成し遂げ、救いを実現してくださったことを感謝し、喜びましょう。

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救い主のこの世に来られた目的

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。                 マルコの福音書10章45節

何か新しい物事を始める時には、二つのパターンがあります。一つは、とりあえず始めてみて、一つ一つの事柄を積み重ねていくうちに、方向性を見つけていく。もう一つは、最初に目標、目的を定めて、その実現のために始める。どちらが良いかという事ではなく、二つの違うパターンがあるという事を頭に入れておきましょう。そして、クリスマスは、明らかに二つ目のパターンです。この聖書箇所でイエスは、この世にお生まれになったその瞬間から、はっきりとした目的があったと明確に語っています。生涯を通して実現すべき大きな目的が最初から備えられていたのです。イエスの御生涯についてここに書かれている明確な二つの目的について見てみましょう。

1.人々に仕えるための御生涯

イエスが私たちに仕えてくださる、これはイエスの御生涯の特徴です。イエスは、神の御子、王の王としてこの世にお生まれになりました。王家の子ならば、人々がお仕えするのが当たりまえです。しかしイエスは、私たちのために仕える御生涯をお過ごしになりました。聖書の物語には、イエスが身を粉にして多くの人々を癒してくださり、人々に与え尽くす人生が記されています。イエスは、その御生涯を通して私たちに徹底的に仕え惜しみなく神の愛を与え尽くし、愛されるより愛すること、与えられるより与えること、仕えられるより仕えることを実践されました。
全知全能の神の力を身にまとう神の御子ご自身が、私たちに仕えてくださり、手本を示してくださったのです。その恵みに感謝します。

2.ご自身の命を与えるための御生涯

イエスは死ぬためにこの世に来られた。そのような使命を帯びておられた事を忘れてはいけません。
それは全ての人の罪を取り除き罪からのきよめ、贖い、救いを成就されるためでした。イエスがお生まれになった時、十字架と復活を最初からイエスは見ておられたのでした。それは十字架での罪の贖い、神の救いを実現するためでした。血を流す事なしに人が贖われる事はない、これが神のお約束でした。私たちの身代わりとなって十字架で死ぬためにお生まれになった、これがイエスのご誕生の目的でした。
2000年前、イエスが人としてお生まれになったことを喜ぶだけが、本当のクリスマスの目的ではありません。イエスが、神の愛を徹底的に現し、人に仕え愛するため、神の愛を自ら実践するため、そして、十字架で罪の身代わりとして死ぬためにこの世に生まれたことを心から感謝しましょう。今から分かち合う聖餐式は、そのイエスのいのちの目的であるイエスの愛と十字架の死の意味を本当に知っている者だけが与(あずか)ることができるものです。
主はザアカイの箇所で、「人の子は、失われた人を捜して救うために来た」と語られました。そして、パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と語り、ヨハネは、「その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と語りました。「この方以外には、だれによっても救いはありません」と聖書記者たちは皆、語ったのです。
世の中がクリスマスの楽しい雰囲気にある中で、私たちクリスチャンは、イエスの来られた目的を絶対に忘れず、罪から私を贖い救ってくださったことを感謝して、クリスマスを喜びましょう。

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あなたのような神が、ほかにあるでしょうか!

ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。…あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
                      ミカ書5章2節、7章~18節

   
東方の博士の話で有名な、救い主聖誕の地ベツレヘムの預言です。ミカの預言から数百年後、東方の博士たちがエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」と言います。ヘロデ王は恐れ惑い、祭司長や学者たちに、キリストはどこで生まれるのかと問いただしたとき、彼らはミカ書の預言にあるとおり「ユダヤのベツレヘムです」と答えたのです。
当時、北イスラエル王国の都サマリヤも、南ユダ王国の都エルサレムも「廃墟となる」、「ここは汚れているために滅びる。それはひどい滅びだ」と預言されていたのです。しかし、どこにも救いも希望もないという時代に、やがて救い主が生まれるという希望の預言が与えられたのです。だから、ミカは叫ぶのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」。

1.あなたのような神はほかにない

この言葉には驚きと感動があります。生きた信仰には驚きが伴います。神の恵みは驚くばかりの恵みです。救われた私たちは、闇の中から驚くべき光の中に招かれているのです(Ⅰペテロ2:9)。なまぬるい信仰ではなく、生きた信仰、それが、当時のイスラエルにも私たちにも必要なのです。最近、神様の恵みに驚かされた、ということがありますか? もう神様の恵みに驚かされっぱなしです、というワクワクするような感動があふれる日々を歩むことができるとしたら、なんと幸いなことでしょう。私たちの人生には、主によって驚くばかりの特別な素晴らしいことが起きると信じましょう。そして、私たちは主を賛美して言うのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と。
また、たとえ特別なことが起きなくても、です。こうして生きることをゆるされていること、三日坊主の私たちが主を信じ続けられていること、それは特別な奇跡です。それは、主が、私たちの信仰がなくならないように、私たちのために祈ってくださっているからです。こんな素晴らしい神様がほかにあるでしょうか。私たちがへりくだって、いっしょに歩むことを求めてくださる神、こんな神様がほかにあるでしょうか。「人の間には、正しい者はひとりもいない」(7:2)。みんな罪人です。しかし、主は「咎を赦し、そむきの罪を見過ごされ、いつくしみを喜ばれる」のです。だから、ミカと共に私たちも叫ぶのです、「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」と。たったひとりの罪人の私たちが救われる時、天で大いに喜んでくださる神、こんな神様はほかにはありません。

2.こんな素晴らしい人生はほかにはない

こんな素晴らしい神様に出会えた私たちは、「こんな素晴らしい人生はほかにはない。私は誰よりも幸せです」と、みんなでそう言い合えるのです。

3.ほかにない神の恵みを伝える

こんな素晴らしい神様、救い主はほかにないと知ったから、キリストの弟子たちは、「この方以外には、だれによっても救いはありません」と伝えたのです(使徒4:12)。ほかにはない素晴らしい神様に出会えた私たちは、この道しかないと確信し、神の恵みの福音を語り伝えていくのです。そして、新しく救われる人々と共に、主を讃美するのです、「あなたのような神様は、ほかにはありません!」と。

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信仰による感謝の心

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」
                  コロサイ人への手紙3章15節~17節

先週、メトロの働きの後、10名の里親の皆様と世界的に有名な教会の礼拝に、4カ所出席しました。その中で共通して語られたテーマは“感謝しよう”でした。アメリカはこの時期、収穫感謝祭なのです。収穫感謝祭は、1620年、イギリスからアメリカに渡ったピューリタン(聖教徒)から始まりました。彼らは神の栄光のために生きることを一番の目的とし、神に喜ばれる生き方ができるようにと、まず礼拝をもって新大陸の生活を始めました。厳しい最初の冬、何人もの人が命を落としましたが、春になり、生き延びた人々は大地を耕し、種を蒔きました。そして秋になり、初めて収穫できた作物を前に、神に心からの感謝と祈りを捧げたのです。この祈りがずっと受け継がれ、今も収穫感謝祭として根付いています。私たちも、生かされていることを感謝できているでしょうか? 口先だけの「ありがとう」「ごめんなさい」ではなく、自分の弱さを認め、悔い改め、へりくだりって人と接しているでしょうか。本当の喜びを込めて感謝しているでしょうか。このことも踏まえ、聖書が語る感謝を学びたいと思います。今日の箇所は、パウロがコロサイの町の教会に送った手紙です。パウロは、豊かな人生を歩むために必要なことは何かを教えています。

1.キリストの平和で心を支配しよう

15節にキリストの平和があなたがたの心を支配するようにとあります。キリストの平和とは、十字架の贖いにより、私たちは既に神と和解させていただいていることです。ですから、パウロは、感謝の心を忘れないでいるようにと教えています。詩篇92篇には「主に感謝することは良いことです」と語られています。キーワードは、感謝です。あなたの心が不平不満・愚痴・怒りではなく、主の前にへりくだり、喜び・感謝で溢れますように。感謝する心を忘れない、このことを自分に言い聞かせ、心に刻みつけましょう。

2.感謝を土台とした信仰生活

あなたの信仰生活が、困ったときの神頼み、薄っぺらな信じ方になっていないでしょうか。16節の御言葉「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ…心から神に向かって歌いなさい」これが、信仰生活の基本です。神の言葉を心の中に豊かに住まわせ、御言葉を土台として生きるとき、感謝に溢れ、そこに本物の平和があります。「私の人生は不思議です。神によって選ばれ、愛され、イエスを信じ、救われ導かれました。心から、あなたに賛美を捧げます」と歌うのです。神の愛を喜び、神への感謝が土台にある信仰生活を大切にしましょう。

3.言葉・行動を感謝で味付けしよう

17節にあるように、私たちの言葉・行動にも、心からの感謝を込めて、言葉を語りかけ、行動を起こしてまいりましょう。神様との関係においても、人間関係においても、常に感謝の心で歩むことから、平和は実現していきます。平和を生み出す土台は、感謝する心です。1年のこの時期、クリスマスを前にして感謝することを忘れてはいけません。主の前にへりくだり、心の中に感謝をいただきましょう。私の信仰生活が、神に向かって感謝を土台とし、語る言葉も行動も、感謝をもってなすことができますようにと、祈ってまいりましょう。そして、主に感謝し、クリスマスの主役であるイエス様をみんなでお伝えしましょう。

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救いの衣、義の衣

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。     イザヤ書61章10節

現在の日本のキリスト教会では、まだリバイバルが起きているとは言えません。しかし私は、日本で大きな宣教の業、リバイバルが起こされると確信しています。ですから皆さんも喜んで主の前に仕えていただきたいと思います。

1.神の用意した救いの衣を受け入れる

イザヤ61:10には、神は私たちに「救いの衣、正義の外套をまとわせ」と記されています。マタイ22章でイエスは、「王の結婚」を譬(たと)えとして「天の御国」がどのようなものかを語られました。「最初に招かれたにもかかわらず来なかった人」とは「イスラエルの人々」のことで、「王子」はイエス、「大通りの人々」は「異邦人」をさしています。王は大通りにいる良い人も悪い人も全ての人を招き、準備のないその人たちに王は礼服を準備したと考えられます。しかし、礼服を拒絶した人は、つまみ出されたというのです。神が私たちのために「救いの衣」を準備して招いてくださり、その衣を受け入れた者が御国に入ることができるということは「神の国の法則」に合致しています。私たちが良いことをしたから、お金を払ったから、救いの衣を受ける資格があるのではないのです。神が準備したものを受け取った者だけが、資格を持つのです。

2.救いを受け入れた者の性質を理解する

イエスは十字架に架けられる前に、弟子たちの足を洗われ、「水浴した者は足以外洗う必要はない」と語られました。私たちは、100%義であるという「義の衣」を頂いていますが、この世界に生きる限りは足が汚れます。礼拝に集う皆様は神に愛される存在ですが、この世で私たちは傷を負ったり罪を犯してしまったりします。だから私たちは、罪を告白して清められなければならない、「足を洗う必要がある」のです。私は罪を犯したので礼拝に来る資格がない者だ、という間違った考えを持つと、どんどん神から遠ざかってしまいます。そうではない、私たちはこの世にあっては罪を犯すけれども、それを告白することで清められるという性質を持っているのです。神から頂いた義の衣を着ているあなたは、神に愛されているのだという事を今一度確認しましょう!

3.旧約から変わらない神の御性質

旧約において、神はアダムとエバに裸を覆うための皮の衣を着せてくださいました。この衣が、義の衣の原型だと考えられます。皮の衣を得るためには、獣が殺され、血が流れる必要があります。この獣が、おそらく小羊であったのではないでしょうか。もし神がアダムとエバに血を流して罪の赦しを与えたとするなら、もう既に恵みの福音が示されていたのです。創世記4章で、カインとアベルの話があります。なぜ彼らは、同時に捧げ物をしたのでしょうか。おそらく彼らは、神との交わりがあったアダムとエバによって「血を流すことなしに罪の赦しはない」という、血が流された皮の衣、すなわち義の衣の意味を教わっていたのではないでしょうか。そして、正しい礼拝のための捧げ物とは何かということも息子たちに伝えていたのでしょう。永遠の昔から今日に至るまで、神は変わっておられません。そして、これからも変わりません。一方的な恵みによって私たちを救い、導いてくださるのです。この恵みに感謝します。

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