力ある祈りの回復

イエスは…言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」           マルコの福音書11章22節~25節

昨日は節分、今日は立春です。神社などでは節分の行事が行われて大賑わいです。不幸を遠ざけて幸せを招き入れたいという人々の気持ちはわかります。しかし「豆」ぐらいで退散する「鬼」であればいいのですが、この世には信仰によって立ち向かわなければならない悪の力が立ちはだかります。悪の力に勝利されたお方、十字架の贖い主イエス・キリストの命、聖霊の力がどんな悪の力よりも強いことを知り、信仰を持って神の力を働かせてまいりましょう。
今年のテーマ「Brush Up! 与えられた信仰を整え直し、働かせよう!」を信仰の7原則の視点から「礼拝」、「聖書の御言葉」とメッセージをしてきましたが、今日は「祈りの生活」について、力強い祈りとその恵みについて分かち合いたいと思います。

1.神を信じて祈る

弟子たちは、イエスがお言葉一つで人々を悪霊から解放し、病をいやし、荒れた海を鎮め、イチジクの木まで枯らしたのを見て、イエスの凄まじい力に戸惑い驚きました。それに対してイエスは、ご自分の御業を誇るのではなく、「神を信じなさい」(22節)、あなたの信仰に伴う神の力だと言われました。さらに23節では、信じる者の祈りは、山をも動かすと言われました。これは、単に人間的な励ましではなく、救い主イエスが、私たちにも力ある祈りが与えられていることを教えられたのです。祈ってはいても、弱弱しい祈りに陥り、たくさん祈れば、やっと一つか二つ答えられるという不確かな感覚になっていませんか。聖書の原則に戻って、神を信じて力ある祈りを取り戻しましょう。あなたが祈れば、人の目には不可能と思えることさえ起こるのです。

2.疑わず祈りの答えを先取りして祈る

21世紀の生活は、確実にしかもすぐに手に入る事柄が便利で良いとして、そこに目に見えて存在しないものは受け入れられないし、すぐに実現しないと疑います。夢や希望を描く心の力が弱くなっています。だから祈りが答えられないと、不安になり不信仰に陥ります。疑いに勝利する秘訣は、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(24節)とある通り、祈った瞬間から祈りは実現していて、神の御業が行われ始めているのです。同時に、祈りの実現を信じ先取りし、感謝をささげることを忘れてはなりません。

3.祈る心の状態を整える

祈りがかなえられる心の状態が25節に語られています。それは、高ぶったり、自己中心でわがままな心ではなく、祈り合い、助け合い、励まし合い、素直でへりくだり、柔らかい心で愛し赦すことができる心の状態です。「義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:16)とある通りです。
短い2月ですが、恵みと価値あるものにするためにも、ほかの誰よりもあなた自身が祈る者となりましょう。朝晩の祈り、食事の前の祈り、事あるごとにあなたの手のわざを祝福してくださるように、最善のことがなされるように祈ってください。このような力強い祈りが私たちに与えられたのは、イエス・キリストが十字架で血を流し命まで与えてくださったからです。イエスの祈りが今は私たちの祈りです。さあ、信仰のスイッチを入れて祝福と恵みの日々を歩みましょう。

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いのちのことばをしっかり握って歩もう

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
                 ピリピ人への手紙2章15節~16節

与えられた信仰を整え直すには、信仰生活の7原則を見直す必要があります。先週は、まず礼拝を大切にしようとお話ししました。今日は2番目、聖書の御言葉に焦点を当てたいと思います。あなたの普段の生活の中に、聖書を読む習慣が根付いていますか? 自分の心に取り入れていますか? 聖書は置物やお守りではありません。生きたお言葉として、私たちの人生に働くことが大切です。その聖書、御言葉とは何か探ってまいりましょう。

1.いのちの言葉を語るイエス

ペテロはヨハネ6章で「あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます」と語っています。イエスは、弱く滅びゆく私たちを、十字架で贖い、救ってくださいました。そして、神の子として生きるよう、いのちの言葉を語ってくださいました。だから、信じる私たちは、イエスのいのちの言葉から学びたいのです。百人隊長は異邦人でしたが、信仰の肝所を掴んでいました。「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」と告白し、その信仰を誉められました。イエスの中には、私たちを生かす、いのちの言葉がある、これを感謝し、「アーメン」と受け止めたいと思います。

2.使徒たちもいのちの言葉を語った

使徒5章にあるように、全世界に福音を宣べ伝えた使徒たちは、大きな迫害に遭い、牢屋に閉じ込められ、もはや命が終わるのではないかという時もありました。しかし、主は御使いを送り、さあ、町の真ん中、宮の真ん中に立ち、いのちの言葉を語りなさいと励ましたのです。初代教会、本来の教会は、いのちの言葉を語りました。彼らは、イエスの証し、十字架の甦り、聖霊の油注ぎを通して、いのちの言葉であるイエスを伝えることを使命としました。教会は今も、神の御言葉、いのちの言葉を語ります。礼拝の中で、いのちの言葉をいただきましょう。

3.イエスご自身がいのちの言葉

ヨハネ1章には、言葉は神と共にあり、言葉は人となって、私たちの間に住まわれたとあります。つまり、イエス御自身がいのちの言葉なのです。多くの宗教がありますが、聖書の神が決定的に違うのは、語りかける神だということです。だから、お言葉が重要なのです。神の言葉として、聖書を受け止め、聖書に親しんでください。そして、神は私に何を語っておられるか、神のみこころを知り、いのちの言葉を引き出してください。あなたが何かにチャレンジする時、病から癒されたい時、問題から脱出したいと願う時、聖書を読み、その中から鍵となる御言葉を見つけ、暗唱してください。そして、何度も告白し、必ず約束が実現すると祈ってください。
私自身、小学生の終わり頃から、神のお言葉が、私を支え、強めてくださいました。今は、「神によって、私たちは力ある働きをします」という詩篇60:12の御言葉に励まされています。神の御言葉をしっかりと学び、心の中に刻みつけていこうではありませんか。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩119:105)。この1年、神の御言葉との向き合い方をBrush Up! 神の御言葉に親しみ、暗唱聖句を大切にしてください。そすれば、どんな暗闇でも迷うことなく歩むことができます。

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主への信仰を込めた礼拝

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。           詩篇16篇8節~9節

礼拝をもって始める一週間は、必ず祝福されますから、その恵みを頂き、期待して前進しましょう。
あなたの新年度の歩みは順調ですか? 今年は「Brush Up!与えられた信仰を整え働かせよう!」をテーマにしていますが、まだ一年の初めですから微調整して、この2018年が祝福に導かれる日々となるよう整えていきましょう。すでに神から私たちに与えられているものに、それを手入れして磨いて用いていけば、喜びに溢れるものが山程あることに気づきます。そのことに感謝し、平安と喜びがある日々を歩んでいきたいと思います。
今日開いた詩篇16篇から、単なる習慣や形式的な礼拝ではなく、私たち一人一人の心の中に、真の救い主であるイエスと向き合う素直な信仰が働いているか確認したいと思います。ダビデは偉大な王であり、どんなに人々から尊敬されようと、神の前では謙(へりくだ)り、素直な信仰者であったことに気付かなければなりません。ここに成功の秘訣があります。

1.神と共に歩む

私たちクリスチャンにとって何より大切なことは、神と共に歩むことです。神との関係なしには、クリスチャンの歩みは存在しません。私たちに命を与え、今も愛し、どんな罪人であってもイエスの十字架の血潮によって救ってくださる、この神との関係があってこそ、クリスチャンとしての歩みができることを「アーメン」と受け入れたいと思います。だから、独りよがりな自分の思いや考え、願望だけでやっていけると思うのはクリスチャンとしては大間違いです。
あなた自身が、あなたの目の前に神を意識されますように。神との交わりが与えられていることに感謝しましょう。いつも神との関係を保ち、神の臨在のある人生を歩むことが、クリスチャンの生き方の醍醐味です。仕事などでどうしても礼拝に出られない時に、あなたの心の中にどのような思いがありますか? 痛みや悲しさがありますか? しっかりと信仰によって正常に反応するようにと心から願います。

2.喜び、楽しみ

私たちは、人生を通して喜びや楽しさを求めて生きているのではないでしょうか。物を手に入れたり旅行に行ったり、楽しむためにはお金も必要かもしれません。けれど聖書では、神を信じることによって与えられる特別な質を伴った「喜び」と「楽しさ」があると語っています。これを味わうことが、私たちの人生に本当の深みを与え、「生きていて良かったな」と心底思えるのであり、人生の中に生きがいを感じ、変な後悔をしないですむのです。その「喜び」と「楽しさ」を実体験するには、神との関係の中で与えられる「喜び」「楽しさ」を見いだすことが必要なのです。
その喜びや楽しさがあるのが礼拝です。ブラッシュアップで、7原則を語りますが、まずは、礼拝を大切にしようではありませんか。礼拝を守るためにクリスチャンたちが戦ってきた結果、日曜日が休めるようになったのです。多様化する社会の中にあっても、神を礼拝する姿勢が鈍ることがありませんように。私たちの教会では、日曜の朝から夜まで4回の礼拝があります。神を信じて歩むことを選び取った私たちは、神を後回しにはしません。今年もまずは礼拝を大切にして、信仰者としての軸を強固なものにしていこうではありませんか!

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どうしても必要なことはみことばに聞き入る事です

…イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。…私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「…あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことは…一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」          ルカの福音書10章38節~42節

私たちには心配事は山ほどあって、なかなか落ち着いて過ごすことができない現実があります。しかし、そのような中にあっても私たちが本当にしなければならないことはただひとつ、「神のみことばに耳を傾けて生きる」ということであって、これ以外にはないということを改めて学びたいと思います。

1.神の御言葉にとことん従う

ダビデは、「私は私の前に主を置いた」と告白しています。彼は神に聞くということをとことん大切にしました。とにかく自分を神の前に置いて、神の言われることに従うことを選び続けていくのです。神の声はいつもあなたに響いていますが、それをなかなか聞くことができない、聞こうとしないという現実があります。しかし、神に聞いて生きていく以外に、私たちが祝福される道はない、ということを知らなければなりません。イザヤ書では、「救い主が不思議な助言者としてこの世に来てくださる」と預言されています。確かにイエスがこの地上で人々に語られた言葉は、不思議な言葉でした。でもその言葉に耳を傾け、聞く者は救われ、恵みをいただいたのです。私たちは、自分が理解できるから、自分が納得できるから、という自分本位で御言葉を取捨選択するのではなく、たとえ自分の思いや願いとは異なるものであったとしても、イエスが語られた言葉であるから耳を傾け、聞き、どこまでも従っていく者でありたいと思います。

2.神のみことばを聞くことを選び続ける

マリヤはイエスの前にひざまずいて、イエスの話を聞いていました。周囲になんと言われようと、とにかくイエスの語られることばを聞くという姿勢を彼女は持ち続け、そのように行動したのです。マリヤのように神のお言葉をしっかり聞くということが、私たちが
恵みをいただける秘訣であることを知りましょう。
私たちは、ひとりで悶々とし、どうすることもできなくて、苦しむことがしばしばあります。そのような時でも、神の言葉を聞き続けていく者でありたいのです。聖書を読み、神に聞く。神の御言葉に耳を傾けさえすれば、神はあなたを導いてくださるのです。
マリヤの姉のマルタは、イエスのお世話をすることに一生懸命でした。人間的にはそれも大事なことでしょう。しかしそのマルタに対して、神の言葉を聞くこと以上に大事なことはない、とイエスは言われました。それこそが私たちがどうしてもしなければならないことなのです。自分はどう生きたらいいのか、神は何と言われているのか、私たちは本当に聞き続けなければならないのです。
人間ですから、弱さもあり、失敗もたくさんするでしょう。しかし神に聞こうとする者を、神は必ず導いてくださいます。この一年、神の言われる言葉に耳をしっかり傾けていただきたいと心から願います。心配事や悩みは、マルタのように山ほどあります。でもとにかく聞く、とにかく礼拝を守る、とにかく聖書を読む、とにかく耳を傾けてみようとする、その姿勢さえ持つなら、神の恵みは必ずあなたに注がれます。
絶対に、神はあなたを見放したり見捨てることはありません。神に聞きさえすれば、あなたの上に神の祝福は絶対に尽きることがありません。人の言うことではなく、また自分の思いではなく、神が言われることに耳を傾ける、ただ神が言われること、聖書が語る御言葉に耳を傾けていきたいと心から願います。

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聖書が語る約束のいやし

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。     ヤコブの手紙5章13節~16節

何事も後々に影響を与える最初の一歩が大切ですので、一年の最初の日曜日に、礼拝を守り信仰を高め主の恵みを信じて、力強く歩み出せることを感謝します。今年のテーマは、「Brush Up! 与えられた信仰を整え直し、働かせよう!」です。“…この福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです”(Ⅰコリント15:2)。イエスは、十字架の上で私たちの罪を負って死なれ、死の力をうち破って蘇ってくださり、私たちと出会い、私たちの救い主となり、聖霊まで注いでくださいました。その聖書の約束通り、私たちがどのような状況にあっても、家族との関係、仕事、人生設計、健康のことであろうと、生きていく上でこの福音の言葉を用いれば、必ず祝福されます。だから私たちは、何かもっと良いものを待ち望んだり、修行して頑張るのではなく、イエスからすでに与えられているはずの信仰を働かせましょう。信仰を形作る部品が錆びたり、曇ったり、ずれていたりしているなら、整え直してBrush Up、磨きをかけてちゃんと動くようにしましょう。「信仰の7原則」で言えば、「礼拝」に出て神に従う生き方をしていますか。時間があればではなく「聖書」を開いていますか。時間を見つけて神の前にひざまづいて「祈って」いますか。神から与えられた初穂を喜んで「献金」として神にお返ししていますか。周りの人々に助けられているのならば、自分も惜しみなく与え「奉仕」しましょう。あなたが持っている信仰のすばらしさを周りの人々に伝えるために「伝道」しましょう。主にある兄弟姉妹との「交わり」を大切にして「霊的引きこもり状態」にならないよう励まし合いましょう。信仰をブラッシュアップする方法は山ほどあります。小さなことからでもいいからやり始めることです。

今日はいやしの礼拝。私たちの教会は、今も神は生きて働かれ、聖書のお約束通り、イエスの御名によって祈れば、聖霊の豊かな働きにより、いやされることを信じています。そして今日のヤコブの手紙は、教会の兄弟姉妹たちに信仰の手引きとして書かれ、「信仰」とは具体的で現実的で、生きて働くものであることを教え、信じて行動しようと励ましています。私たちの信仰も生きて働くものにしましょう。

1.病のいやしは聖書の約束

聖書の中には、イエスが病をいやされる場面が何回も出てきます。私たちが魂の救いを得ると同時に病がいやされることによって神の恵みが現実的に現されるのです。イエスも、ご自分が救い主であることを証明するために、病気の人をいやされたのです。

2.自分自身で信じて祈ってみよう

形式的に誰かの言葉をなぞって祈るのではなく、たとえ心の中に戦いや迷いや疑いや不安があったとしてもいいし、どんな小さな祈りでもいいので、あなたが信仰を込めて祈れば、いやされます。

3.いやしの祈りが罪の赦しに結びつく

救い主きよめ主である神に向かって、イエスの御名によっていやしを祈るとき、私たちの心は自然に神と向き合い、罪の影響を受けて悪魔にそそのかされる悪い思いからきよめられ、罪の赦しへと結びつくのです。主は今も生きて働いておられます。今日ここでいやしを体験しましょう。2018年の日々の生活の中にも神からの勝利をいただきましょう。

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共におられ、導かれる主

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。                    詩篇23篇1節~6節

この一年、神様の命に繋がり続ける一年であるようにと願って、「Connective」をテーマに歩んできました。2017年のテーマの御言葉は、イザヤ書41章10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」でした。私たちと常に共にいて導いてくださる神様とつながっていることによって大きな祝福を頂くことができます。
今日は、詩篇23篇をそれぞれテーマに区切って、神様に感謝し賛美する信仰をもって今年を締めくくりたいと思います。

1.主が常に共にいてくださる安心感

1~2節「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。…」
人は、神の創造の初めから、一人で生きていくようには造られていません。人々との交わりの間に生きています。一人では生きていけない弱い私たちに、神様は最も大切な恵みを与えてくださいました。それは命の与え主である神ご自身が常に私たちと共にいて導いてくださっているということです。このことがどれほどの平安と確かさを私たちに与えていることでしょう。羊飼いが羊の世話をし、危険から守るためにいつも目を配るように、主がいつも私たちを導いてくださることを感謝しましょう。

2.困難や試練も必ず導き通してくださる

3、4節「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰を歩くことがあっても…」。
人生の歩みの中では、不安や恐れ、心配、時には争いの道を歩まなくてはならないこともあるでしょう。私たちは苦痛やため息のない人生を期待しますが、実際の私たちの人生には痛みが伴います。それは、私たちには弱さや不完全さがあることの証明でもあります。しかし、主は私たちをこのような状況から助け出してくださいます。問題があるときでも大丈夫。人生のどん底とも思えるような状況からも助け出してくださるということを覚えましょう。

3.恵みと祝福の尽きることのない人生

5、6節「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。…」
私たちの人生に溢れるばかりの祝福を備え与えてくださる恵みの神が共にいてくださいます。敵が目の前にいる状況であっても、主は祝宴を用意してくださっているのです。聖書の神は、愛と恵みの神です。日本人の宗教観にある、罰を与える神ではありません。私たちの人生には、神の恵みが常に追いかけてくるのです。祝福され、恵まれるという「予感」を持ちましょう。私たちクリスチャンは楽観主義です。弱くても神が助け出してくださり、罪人であっても救い出してくださる。たとえ死んでも永遠の命で生かしてくださる神が共にいてくださるのです。
イエスの別名はインマヌエル。それは、「神が私たちと共にいてくださる」という意味です。救い主であるイエスを信じているということは、イエスの導きが常に私たちにあるということです。来年に向けて、主の導きを本当に求め、感謝してさらに前進する者でありましょう。

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もしもクリスマスがなかったら…!

…御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」…その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」               ルカの福音書2章8節~14節

クリスマスおめでとうございます! 今年もメリエスト・クリスマス2017」と題して、全国各地を回らせていただいています。牧師と共に祈り、行動して下さることを心から御礼申し上げます。
ちょっと想像してみましょう。もしも世界にクリスマスがなかったなら?と。…クリスマスプレゼントもなく、家族や愛する人々との温かみのある日々はなく、年の瀬を、ただ忙しく終っていたかもしれません。クリスマスの訪れと共に、戦場が、平和と一致の場所に変わった、あの戦場の奇跡もなかったかもしれません。私たちの社会は、歴史は、もっと暗いものになっていたと思います。

1.クリスマスの意味を知ろう

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)ここでの5W1Hを考えると、When今日。神の言われる永遠の中での今は、常に今この時を意味します。Whereダビデの町で。神の救いや喜びを待ち望む今の私たちの人生の戦場に。Whoイエス・キリストと言われる救い主が、Whatあなたがたのため、いえ私のために、Why人々を救うために。Howお生まれになった。ここが重要です。聖書は、難しい宗教の教えではなく、事実が記されているのです。2千年前の大昔ではなく、将来のいつかでもなく、今日という、神の救いを求める、私のいる所に、救い主御子イエスが、キリストとして明確に現れて下さったのです。「今日、イエス様、私の救い主となってください」と呼び求める時、あなたの心の中の飼葉おけの中に、キリストはお生まれ下さるのです。キリストの恵みは、今を生きる私たちの人生の現場に具体化される事実としての恵みです。

2.価値ある命

私たちは、しばしば失敗を繰り返したり、辛い経験があると、自分は何の価値もない虚しい人間だと、悲しい思いにさいなまれることがあります。しかし、キリストが人として現れて下さり、私たちの罪を背負って十字架で死んで下さったことにより、私たちの罪が取り除かれ、神の命が与えられました。どんなに小さく見える私たちであっても、天地宇宙を造られた偉大な神の命に繋がり、神の偉大な愛に結び付けられているのです。取るに足りない私たちを、神がイエス・キリストを通じて、価値ある命として下さったことを感謝しようではありませんか。

3.神にとって不可能なことは1つもない

クリスチャンとして救い主イエス・キリストを見上げて歩む時、「神にとって、不可能なことは一つもない」(ルカ1:37)、全知全能の神が共におられることを感謝しましょう。その神が、私たちの祈りに答え、弱い者に力を、争いや敵意に襲われている者には平和を、苦しんでいる者には、聖霊の導きによる、勝利を与えて下さいます。人の力では実現できなかった平和、神の栄光、恵みと力、不可能を可能にする恵みが、私たちの人生に現されます。共に、「イエス様、今日私の心に、あなたが救い主としてお生まれ下さいました。私の汚い心の飼葉おけの中に休んで下さり、私と共にいて、素晴らしい命の物語を始めて下さるイエス様、感謝します。心からイエス様をほめたたえます」と、感謝の祈りを捧げましょう。

 

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光として来られた主キリスト

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
                 ヨハネの福音書12章46節~47節

いよいよクリスマスの盛り上がりの時期を迎えますが、イエスの誕生を祝うクリスマスのお祭りが実に2000年にも亘り、世界中で祝われている、その価値の大きさを忘れないようにしたいと思います。それが今日まで続いているのは、イエス・キリストが今生きる私たちにもたらしてくれる恵みが聖書の約束通りであるからです。イエスが私たちに与えてくださる恵みが全く色褪せない、今も私たちの内にイエスの命、救い、恵みが与えられることを心から感謝しましょう! 神を信じ信仰を持って生きていくということは、私たちの命、存在そのものの根本、一番大切な所に関わる神からの恵みであることを知りたいと思います。イエスを信じることにより私たちの生き方が変えられ、罪の中から救われ癒され喜びの溢れる毎日を歩むようにされるのだということを感謝したいと思います。今日の聖書箇所、特に46節に記されている二つの基本的な事実を認めておきましょう。

1.イエスは「光」として世に来た

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザヤ書9:2)、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)、救い主である主の到来を聖書では、このように「光」として描いています。そしてこの箇所では、イエスがその「光」であるということが記されています。これはクリスマスで語られる大切なメッセージなのです。神の御子である御方がこの世に下ってきてくださった。それは、「光」として、すなわち御子キリストが、救い主イエスとして、この世に来られたという事実です。私たちもそのイエス、「やみの中に輝く光」を直接頂く恵みに与(あずか)りましょう。
けれど、この箇所にはもう一つ見過ごしてはならない大切な事実があります。

2.やみの中にとどまることのないため

この言葉が指し示す事実とはすなわち、イエスと出会うことなしには、私たちは「やみの中にとどまり続けている者だ」ということです。これが決して見過ごしてはならないもう一つの事実なのです。クリスマス、イエスが「光」として下ってくださったと語りますが、なぜそのことに大きな意味があるかと言えば、もう一つの事実があるからです。それは、イエスと出会わないままでは、全ての人は、「やみの中にとどまり続ける」ことになるという、実に重要な事実です。「神を信じなくても生きていける」と言われる方がおられますが、その考えの前提となるのは、自分の生き方は自分で選べる、自分の力で幸せを手に入れることができるということになります。でも、聖書の語る事実は違うのです。イエスと出会い、イエスを信じることなしには、全ての人は事実として「やみの中にとどまり続けている」ということに気づいていないだけなのです。この事実があることを見抜いておきましょう。イエスと出会わないと暗い破壊的な人生を歩むことになるということを肝に銘じておきましょう。
イエスは私たちをさばくためではなく、光として私たちを救うためにこの世に来られた、まことの救い主であることを喜びましょう。私たちはそのイエスを信じてイエスと共に歩んでいきます!と信仰告白を明確に持ち、クリスマスの日々なのですから、私たちはクリスチャンとして、いつもにこやかに過ごしましょう。

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低きに下られたいやし主!

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
                     ルカの福音書2章1節~7節

    
クリスチャンである私たちは、イエスの誕生をお祝いするクリスマスの12月ですので、誰よりも心の中に喜びや平安を頂いて前進したいと思います。
今日の聖書箇所は、しばしば生誕劇で描かれている場面ですが、時はローマ帝国の時代、全世界の人口調査をせよという命令が下ります。皆それぞれの出身地、本籍地に戻って登録をしなければならず、ヨセフとマリヤもベツレヘムを目指したのでした。しかしマリヤは、御使いガブリエルが告げた通り、聖霊によって身ごもっていました。ベツレヘムに到着した時、宿屋はどこもいっぱいで、仕方なく家畜小屋に泊まっている間にマリヤは男の子を生み、その赤ん坊を飼い葉桶の中に寝かせたと、記されています。その当時の飼い葉桶は、汚いえさ箱でゴミ箱同然でした。その中にイエスは寝かされたというのです。またヨセフも、ローマの支配下にあるため、身に危険が及ばないよう、自分がダビデ直系の子孫であることが知られないように生きていたでしょう。それでも、あの偉大な王の血筋であるという誇りが当然あったと思います。他国に侵略され、支配されている一員として人口登録に赴き、家畜小屋で休むことを選び、そこで子どもが誕生するのを見届けなければならない。大きな葛藤があったはずです。しかしここにイエス誕生の3つの大きなポイントがあります。

1.一番低いものとして生まれたイエス

イエスがお生まれになった時、家畜が住む場所でそのえさ箱に自らの命を横たえられました。王宮でも高貴な血筋の家でも、庶民でもなく、この世で最も低いところにイエスはご自分の命を生み落とされるようにして下さいました。これはイエスのへりくだりを表すものです。イエス・キリストは、支配するお方ではなく、へりくだって下さる御方です。

2.底辺で共に結びついて下さるイエス

へりくだられるだけではなく、一番低い底辺のところで私たちとの繋がりを作り、私と共にいて下さる御方です。イエスの誕生を目撃した最初の人たちは羊飼いでした。当時の人々からすれば、最も貧しい世の中からも捨てられたも同然の人々でした。そんな人々の友となり、そんな人々の祝辞を受け、そんな人々の希望にもなって下さる。主は低き私たち、弱く取るに足りない、大したところが全くない私たちと結びつき、一つになり、同化して下さるのです。

3.一番低いところから偉大な御業が始まる

最も低いところから救い主イエス・キリストの地上での物語を始めて下さり、全人類の贖いを成し遂げられました。イエスは、私たちがどんなに弱くとも、一番低いところまで敢えて自ら下ってきて下さり、私たちと結びついて一つとなり、私たちの内に宿って下さる御方です。そしてこのイエスが、救い主としての偉大な御業を成し遂げて下さり、人々を救い、いやしてして下さることを感謝したいと思います。
この主の御業は、旧約聖書のイザヤ書53章にあるように、イエスが生まれる何百年も前から預言されていました。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。イエスが、弱く足らない、病んでいる私たちの世界まで下ってきて下さり、私たちと結びつき、内に宿って下さる。そしてその一番低い、弱り果てているところから、偉大な救い主の御業を行って下さる。このいやしの御業をいただきましょう。

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クリスマスの事実!

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
                  ヨハネの手紙第一4章9節~10節

主のご誕生をお祝いするアドベントの季節の始まりに、私たちの信仰も高めていただいて、各地で行われるメリエスト・クリスマスの集会に来られそうな方だけでなく、来られるかどうかわからない方にもぜひご案内をしてください。また、大洲キリスト教会の会堂は12月5日に完成し、12月24日にはクリスマス集会をもちます。南予の福音宣教の拠点にしたいと思っています。形のあるものだけでなく、その向こうにある、目には見えないけれど完璧なプレゼントである、イエスの命、愛、救いをプレゼントしましょう。
一年の終わりに、忙しいからと言って不機嫌にならず、心の喜びのボリュームを少しアップしませんか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)争いが絶えない世の中を見るとき、人の本質は罪であることがよくわかります。その中で、クリスチャンとされた私たちは、救われた喜び、平安、愛をいっぱいいただきました。今度は、それを家族や職場の仲間、友人に伝えていきましょう。Christmas(クリスマス)は本来、Christ(キリスト)と、Mas(祝いの時・儀式=お祭り)の合わさった言葉です。クリスマスは、イエスの誕生をお祝いする心を込めた礼拝です。ここでクリスマスの意味を確認しておきましょう。

1.神がひとり子イエスを遣わされた事実

世の人々は、ファンタジーや空想話が好きですが、しかしそれらは、私たちを本当に救うことはできません。神は、ひとり子イエスを、私たちの罪の身代わり(なだめの供え物)として死なせるために遣わされました。クリスマスは、この事実から始まり、この事実に基づいています。この事実なしには、クリスマスの意味はありません。

2.命を与えてくださった事実

なぜクリスマスが2000年以上も祝われ続けているのでしょうか。日本では、商業主義によってクリスマスが盛大に祝われていることは否定できません。しかし、クリスチャンである私たちは、イエスによって命を与えられたことを決して忘れてはなりません。人の力で罪は消せません。私たちの罪を取り除くには、御子イエスの血を流すことなしにはできないのです。神は、イエスの命を私たちにくださいました。それにより私たちは命を得たのです。あなたの命を根本から変える新しい命を得たことを感謝しましょう。

3.神の愛が示された事実

神の愛は、御子を遣わされ、私たちが命を受けることによって、明確に示されたのです。まことの神の愛を知らない多くの日本人の神概念は、「触らぬ神に祟りなし」とか「溺れる者は藁をもつかむ」というように、甚だあやふやなものです。しかし、聖書の神は、愛です。「愛」は美しい言葉で好んで使われますが、人生を長く生きれば、私たちの「愛」には限りがあって自己中心的で弱いものであることがわかります。私たちが立派だから、神が私たちを愛してくださったのではなく、神がまず私たちを愛してくださいました。神は、何があっても揺らいだりせず、尽きることがない愛で私たちを愛し続け、常に弱い私たちと共にいてくださいます。
今日は聖餐式の聖日です。この3つの事実を素直に受け止める信仰告白の儀式が聖餐式です。イエスの命をいただきましょう。

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