恐れないで、ただ信じていなさい

会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」…会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」…         マルコの福音書5章21節~24節、35節~43節

今日、イエスが会堂管理者ヤイロに言われた「恐れないで、ただ信じていなさい」というみ言葉を、私たちに語られたみ言葉としてしっかりと受け止めたいと思います。
ヤイロはイエスに、死にかかっている娘の上に手を置いて助けてください、と必死にお願いしました。イエスはすぐにヤイロの家に出かけましたが、途中大勢の群衆に阻まれ、また長血を患った女性をいやされて、ヤイロの家に着く前に娘は死んだと連絡が来ました。ヤイロの心の中は、「一番恐れていたことが起こった。もう手遅れだ。イエス様を家まで案内して手を煩わせることはない」と絶望と深い悲しみで何も言えませんでした。ここでヤイロがイエスを家に案内することをやめていたら、娘は生き返らなかったことを知らなければなりません。この時イエスは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と慈しみ深くヤイロを励まして言われました。今日は、この聖書の箇所を通し神から恵みをいただく秘訣を学びましょう。

1.祈りを決して取り下げない

家族の救いや病のいやし、問題の解決、様々なことを神に祈ります。しかし、なかなか応えられないという現実を通して、もう無理だろう、祈りをやめようか、こんなに長い間祈っているのに救われないからと、祈りを取り下げようと考えたことはありませんか。信仰を持っていても、私たちの思いや願い通りにならないことは山ほどあります。その中で、あなたに求められていることは「恐れないで、ただ信じていなさい」というみ言葉です。信仰をもって祈り求め期待し続けることで、神は働いてくださるのです。私自身も大きな癒しの恵みを体験しました。二十年近くアレルギー性鼻炎で苦しめられ薬に頼っていましたが、去年ムーイ先生の集会で、神は癒してくださるという信仰を与えてくださいました。それ以来だんだん薬が減っていき、今では薬を飲まずに快適な生活を送っています。心から感謝しています。あなたが信じないで、どうして神は働くことができるでしょう。私たちが祈りを取り下げて、神が働かれないようにしてしまっていることを知らなければなりません。

2.神に祈り委ねる

ヤイロは娘が死んだと聞いた時、いったんはイエスを家にお連れするのをやめようと思ったでしょう。しかし、「恐れないで、ただ信じていなさい」のお言葉通り家にお連れして娘は生き返りました。イエスは「ヤイロよ、私はあなたの娘をいやしたいのだ」とおっしゃいました。同じように、あなたにもおっしゃっているのです。
以前、九十歳のご婦人がもう一週間も持たないだろうと医者に言われていましたが、毎日、癒しの祈りに通っていました。すると意識が戻ってだんだん元気になり、食事もとれるようになって、病院から施設に移り、それから二年間も生かされたのです。私たちの信じる神は、私たちの祈りに応えて働いてくださる神です。祈りに応えたいと思ってくださっている神です。感謝しましょう。あなたが祈っていることを決して取り下げてはいけません。イエスの名によって祈ることを絶対にやめてはいけません。イエスが言われる通り「恐れないで、ただ信じていなさい」、この信仰をもって歩み続ければ、神の恵みを確かに受けることができるのです。このことを信じましょう。

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主による“新しさ”を求めよう

だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」               マタイの福音書9章16節~17節

日は新しい年号が発表され、日本の社会の新しい時代が始まります。この「新しさ」を、単に外側だけの新しさではなく、心の持ち方や心構えにまでつながる新しさを神から頂いて前進してまいりましょう。
イエスは福音を語られるとき、常に「新しさ」という概念を伴わせて語ってくださいます。今日開いた聖書の箇所がまさにそういう場面です。イエスは布切れやぶどう酒に対して、「真新しい」、「新しい」という形容詞を付けておられます。この表現に神が与えてくださる恵みの特徴が記されています。新しい歩みを踏み出して行こうという私たちは、このイエスのお言葉から恵みを頂く鍵を掴みたいと思います。

1.新しい自分を信仰によって描いていく

何もしなくても時は流れていきます。自分の心が変わらなければ、本当の新しさを体験することはできません。人生を作り上げてきた思い出を振り返ることは良いことですが、失敗や挫折、不幸だと思ったことにいつまでも自分を置いてしまわないことです。神が用意してくださるものは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(Ⅰコリント2:9)」。すなわちそれらは新しいものです。私たちの神は生きて働かれる方ですから、神の御業は新たに起こり続けています。常に新しさを持って信仰の恵みを語ってくださいますから、新しさに目を向けていきましょう。

2.新しさにはエネルギーが伴う

イエスは、神や天国に関わる真理を語られるとき、だれにでもわかるように生活感の溢れる譬(たと)えをもって語られました。新しい布切れは弾力性や伸縮性がありますが、何年も着続けた服の布地はくたくたで、そんな古い布地に新しい布切れで継ぎ当てをすれば、古い布地は新しい布切れの伸縮性や弾力性についていけずにもっとひどく破れてしまいます。また、搾りたてのぶどう酒を古い皮袋に入れれば、パリパリで伸縮性のない古い皮袋は、ぶどう酒が発酵して熟成していく過程で生じるガスのせいでパンパンになり、そのエネルギーに耐えられなくなって張り裂けてしまいます。イエスの前に新しさを求めるときに、そこには力やエネルギーが伴うのです。

3.新しい信仰の器を準備する

最後の箇所で、「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます」と記されています。神の新しい恵みを求めながら自分は変わりたくないと言うのではなく、神は私たちに新しさを要求されます。神は75歳のアブラハムに「私が示す新しい土地に行け、新しい旅に出よ」と伝え、そこから彼の冒険が始まりました。新約聖書の中にも、イエスを信じて歩むときに、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すてが新しくなった(Ⅱコリント5:17)」とあります。神は常に力とエネルギーで新しいもの生み出しておられるので、それを受け止める信仰の器が必要です。新しいぶどう酒、神の与える新しい恵みをしっかり受け止め、おいしいぶどう酒へと発酵させることができる皮袋、信仰の器を私たちの内に用意させてくださいと祈ってまいりましょう。

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ヨブの根本的な信仰にならおう

…主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」サタンは主に答えて言った。「…彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」…使いがヨブのところに来て言った。…「あなたのご子息や娘さんたちは…死なれました。…」…ヨブは…地にひれ伏して礼拝し、「…主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」…ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。
                 ヨブ記1章1節~3節、6節~22節

この数週間私は大きな二つの出来事で感じるところがありました。1つは45歳で突然のくも膜下出血で召された大川光基兄のこと。命を与えられて生かされていることそのものが実は神からの大きな恵みであることを思い起こさせられました。そして先週の福岡と東京でのレイモンド・ムーイ先生の癒しの集会。イエス・キリストの名前によって癒しを求めて祈る時、その場で多くの癒しが起こされました。私たちの命はいつか必ずこの地上から離れる時が来ます。でもその時まで、私たちが喜びを持って元気でいられるように、主は病いの癒しや、様々な恵みを与えてくださる恵みの神であることを心から感謝します。
今日のヨブは、旧約聖書の登場人物の中でも特徴ある人物です。この1章に彼の生き様や信仰の要約となるものが記されています。特にこの章の最後の言葉から、この春の歩みを恵まれたものとするためのポイントを押さえておきましょう。

1.サタンのような考え方を持たない

ここでヨブの正しさを見せかけだと告げ口をした悪魔、サタンのような考え方を決して持ってはなりません。それは、祝福された人々を見ると、なぜか嫉妬し、邪推する悪に染まった歪んだ心です。サタンは人の心に歪んだ思いや悪を植え付け、神に敵対させようする存在です。私たちは喜ぶ者とは共に喜ぼうではありませんか。悪を行うことや罪深い考えに染まるように、そそのかしたり、誘惑するサタンの働きがあります。そういったものに関わらないようにしましょう。サタンには誘惑されず、影響を受けません、悪に染まることをしません、と神によって私たちの心が清められ保たれることを願いましょう。

2.神をご都合主義の神にしない

神を信じ、クリスチャンになれば、何もかもがバラ色で、良いことしか起こらないというのは極端すぎます。神を単に御利益主義の神に終わらせないようにしましょう。試練、苦しみ、悲しみを感じることが起こっても、私たちを愛し、信頼し、導いてくださる神がおられることを忘れないことです。神は私たちに、最大の贈り物として自由意志を与え、自由に決断する権利まで委ねてくだいました。自由がある以上、不都合が起こることは避けられません。しかし、自由意志を与えても神と向き合う者となると期待されていることを感謝しましょう。

3.幸せの基準をいのちそのものに置く

形ある財産や目に見える物に幸せの根拠を置かないことです。私といういのちがこの地上に与えられ、このいのちを生き、また神の元へ帰って行くことができるという、この根本を素直に喜ぶ者になりましょう。完璧な健康や財産に幸せの根拠を置くと、ちょっとしたことですぐに不幸になります。しかし私たちのいのちは、主が与えられ取られるにすぎないのです。裸で生まれ、最後は裸で神の元に帰って行く。だから、いのちが与えられているということを神からの恵みとして感謝し、そこに幸せの基準を置く、究極の謙(へりくだ)りを忘れない器となりましょう。
この後もヨブは、最後までこの姿勢を失わず、神から2倍の祝福を受けます。彼の生き方が教える、与えられたいのちに感謝するという究極の謙りの根本的な信仰にならい、幸せな春の日々としましょう。

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弱さをも誇る信仰

…私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも…死に直面したこともしばしばでした。…日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。…私は自分の弱さを誇ります。…しかし、主は、「…わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、…喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
   コリント人への手紙第二11章23節~30節, 12章9節~10節

4月からの新しい年度を迎えるにあたって、進学、就職、引っ越しと何かと慌ただしいかもしれませんが、大切な節目の時でもあります。こんな時こそ、Make It Happen! 信仰を働かせましょう! 私たちは弱いからこそ、主の守りや導きをいただき、人のすべての計画や思いにまさる神の御業がなされるように祈ります。
シベリアの永久凍土から2万8000年前のマンモスが大変良い状態で発見され、その細胞核を使ってマンモスを復活させる試みがあるとニュースで見ました。そんな昔のDNAが生きていることに驚くと同時に、クリスチャンのDNAについても考えました。私たちも、イエスから、そしてイエスから命を受けて教会を誕生させた初代教会の使徒たちから、信仰の霊的DNAを受け継いでいるはずです。ですから、その信仰を復活させようではありませんか。
私たちは、心身ともに強いことや何事もうまくいって順風満帆であることを願い求めますが、神に造られた人間である限り、弱さ、もろさ、不完全さを常に抱えた者であることを認めたいと思います。パウロは、この手紙の中で何度も自分の弱さに言及しています。人生において大切なことは、弱さとどう向き合うか、弱さをどう正しく取り扱うかということです。ここで大切な3つのカギを確認しておきましょう。

1.人としての弱さを認める

人である私たちには必ず弱さがあります。クリスチャンだからと言って、強がって弱さを隠したり、かっこいい自分だけを演じたり、うわべだけで幸せそうな姿を取り繕う必要はありません。時には自分の弱さや不完全さを素直に認めて、落ち込んだり苦しんだ経験さえ語れる勇気を持ちたいと思います。ここでは、パウロは自分の弱さを素直に語っています。

2.弱さは恵みへの転換点、祝福のカギ

弱さを単なる挫折や失敗や苦しみで終わらせることなく、弱さは、神の恵みへの転換点、祝福をいただくカギとなることを知りたいと思います。イエスが常に共におられることを忘れてはなりません。神が共におられるとき、私たちの弱さでさえも、私たちの人生を神の恵みへと引き寄せ、神の御業を体験させる勝利への転換点となるのです。パウロが告白しているように、弱さを誇りましょう。かっこ悪くみすぼらしく、生きることさえままならないみじめな自分の弱さを用いてくださる、主キリストがおられるからです。

3.弱い時にこそ強い

クリスチャンである私たちには、人生をひっくり返すような逆説的な強さ、神の恵みが約束されています。パウロには肉体のとげがあり、取り除いていただくように必死に祈りました。しかし、神の恵みはあなたの弱いところに完全に現れると言われ、パウロは「私は弱いときにこそ強い!」と言って、喜んで弱さを受け入れたのでした。
神の約束、恵みは、人間の計算や方程式を超えています。今、あなたが、たとえ弱さを感じることがあっても、それだけで終わらせないで、神の前に自分の弱さを認めて素直に祈りましょう。あなたが弱さを感じるときにこそ、神の強さを体験し、イエスのすばらしさをほめたたえる者にならせていただくことができると、今、信じて祈りましょう。

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尊ぶべきいやし主

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
                 ペテロの手紙第一2章22節~25節

延岡商業高校のホームページに掲載された礼儀指導の1枚の写真から、体罰だ、時代錯誤だと多くの批判が出ています。時代錯誤でしょうか? 私は、最近の世の中の風潮が、自分の自由さ、わがままを主張し、横柄な態度になっていると感じています。人間社会は文化を積み重ね、人間関係の中でも礼儀や作法を身に付け、よいものを作ってきました。私は礼儀作法は価値があり、大事だと思っています。礼儀作法を重んじる姿勢は、神様を礼拝する姿勢にも通じます。神様を礼拝するというのは、自分に都合のよい、御利益のために信じているのではなく、神様との本当の繋がり、礼儀作法を遙かに超えた、神を崇め尊ぶ、もっともっと深い謙(へりくだ)りが必要だと、心から思わされます。この観点から、今日のいやしの礼拝で恵みをいただくために、いやし主である救い主キリストが、どんな御方か学んでまいりましょう。

1.主キリストは、全き正しい御方

イエスは、私たちを友と呼んでくださいました。私たちも、素直に主よと呼びかけています。しかしイエスは、私たち人間のようにいい加減な御方ではありません。その口の言葉にも、行動にも、魂の中にも、汚れ、罪の染みが一切ない、全き聖き御方なのです。この聖い御方が、主に仕える者、奴隷の姿にまでなってくださいました。父なる神の御旨にご自身を委ね、神のみこころに従って生き、死ぬことを選ばれ、私たちに模範を残されたのです。救い主イエス・キリストは、全き御方であり神の聖さを常に持っておられる御方であるという、このキリストの聖さから目を離してはいけません。感謝し、喜ぶと同時に、正しい恐れも忘れてはいけません。

2.罪を背負い、身代わりに死なれた御方

あなたの人生の中で、親や祖父母が、どれほど愛してくれたかを思い出すことができるでしょう。しかし、キリストは、それ以上にこの私たちを愛し、私たちの罪を身代わりに背負われて、十字架にかかってくださいました。人間が軽々しく近づくことができないほど、全き聖き御方が、私たちの命の身代わりとなって死んでくださったのです。ここに、究極の愛、犠牲の愛、神の愛が表されています。

3.救いといやしを成就された御方

キリストの打ち傷のゆえに、私たちの魂が救われ、いやされるのです。「むなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテ1:18-19)とあるように、イエスは、尊く汚れない、完全な神の御子であるキリスト(救い主)以外に誰も成し遂げることのできない、完全な救いといやしの御業を成就された御方です。
今一度あなたの信仰が、イエスを軽く考えていなかったか思い起こしてください。毎回の礼拝で、イエス様とお会いできているか、自分のわがままばかり祈っていないか。父がよく言っていました、「同じ献金でも、きれいなお札で、感謝して捧げているか」と。奉仕や信仰は、イエスに対するものです。聖書の証言する通り、イエスは、全き聖なる御方、尊ぶべき御方、心から誉め称えるべき御方です。信仰の襟を正し、心から感謝し、謙り、主の御前に恐れおののき敬意を持ってお仕えしてまいりましょう。

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春の日々にキリストのかおりを放つ

…神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、…真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。           コリント人への手紙第二2章14節~17節

神が与えてくださった春に向かう日々を大切にし感謝して前進しましょう。今の日本は、臭いに敏感な時代になりましたが、今日、この3月の聖餐式の礼拝にあたり、私たちはクリスチャンとして放つべき「キリストのかおり」があることをもう一度思い起こしましょう。パウロはここで、私たちは「キリストのかおりを放つ者」であり、それが、凄まじい恵みをもたらす「かおり」であり、生死にまで関係するような「かおり」を放つ存在、それがクリスチャンであると記しています。私たちは、「イエスを内に宿す者だ」と告白しますが、イエスが内におられるなら、内におられるイエスの効果が様々な事柄に出てくるのです。今イエスの御前に座っていますが、兄弟姉妹、あなたの心の内側から「キリストのかおり」が香り立っているでしょうか? 人生の辛さ、重苦しさ、不機嫌でいやな雰囲気しか香り立っていないとすれば、それは残念なことです。春の季節に「キリストのかおり」をあらゆるところで放てるようにと祈りましょう。イエスが共におられるなら「私たちはキリストのかおりを放つ者となる!」ことをはっきりと信仰によって意識していきましょう。ここで3つの事を確認したいと思います。

1.キリストのかぐわしいかおり

かおりと臭いは、科学的には同じでしょうが、「臭い」と言うと、悪いイメージもあるのですが、「かおり」には良いイメージが湧きます。聖書では「かぐわしいかおり」(15)、嗅ぐだけで、人々の心が平安、喜びに結びつくような幸せな「かおり」を私たちが放つことができると記されています。クリスチャン生活は、教会にいる時だけでなく、いついかなる時にも「キリストのかおり」を放ってほしいと思います。あなたの雰囲気が人々に伝わる時、キリストの恵みのかぐわしさ、キリストの救いの麗しさ、キリストにある信仰の喜ばしさが自然と香り立つものでありますように。

2.いのちと死を分けるかおり

あなたの心の中に「イエス・キリストはただお一人の救い主です!」この信仰の告白が明確にあるようにしましょう! キリストは、私たちの魂を天国にまで、永遠のいのちにまで導き入れてくださる唯一の救い主であられます。この方から放たれている「かおり」を受け入れるか拒否するかによって、「いのち」か「死」かという生死まで分けるのです。私たちの魂、霊が神の御元で永遠の安息を得られるか、地獄の滅びの中に陥るかの決定的な差を生む「かおり」なのだということを知りたいと思います。

3.キリストのかおりを放つ者となろう

16節の「いったいだれでしょう」とは、すなわちあなたがた一人一人が皆そうではないかと語りかけているのです。聖書のお言葉は、語りかけられた者には応答することが求められています。この「キリストのかおり」、「かぐわしいかおり」でありながら、人の運命に関わる「かおり」さえ放つことのできる存在、主のしもべ、証し人として生きる者は誰なのか、と語られた時に「はい、主よ、私です」と答えましょう。信仰生活は他人事で終わらせることはできません。あなたが当事者なのです。だから各々自分自身が「キリストのかおりを放つ者として歩みます」と信仰によって応答する者でありたいのです。この春、私たちは「キリストのかおり」を放って前進してまいりましょう。

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“聞く”姿勢を土台とした信仰

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」                 ヨハネの福音書10章1~5節

先週、私はフィリピンのマニラにいました。ビリー・グラハム師の孫、ウィル・グラハム師の集会に参加し、四国での伝道大会のメインの講師として彼に来ていただくための直談判に行ったのです。四国の現状を伝え、その突破口を開くため、教派・教団の枠を越えて協力を要請できる説教者が、ウィル師であることを、私の言葉で訴えました。先生から「非常に胸を打たれた。良い返事ができるよう尽力します」とご返事いただき、周りの方々からも、あんなに心を動かされたウィル師を初めて見たと言われ、感謝しました。たとえ小さな私たちの働きであっても、そこに働く信仰は、世界規模で福音を語る、世界最大の伝道団体と何ら変わらない同じ信仰であることを思い出させていただいて心から感謝しています。
イエスは「わたしは良い牧者です」と繰り返して語り、イエスご自身が羊飼いで私たちは羊だと語ります。羊飼いイエスと、飼われる羊、つまり私たちとの関係で絶対に忘れてはならない要素の一つに、今日のテーマである「聞く」ということがあることを思い起こしましょう。

1.「聞く」姿勢を持とう

あなたの生活の中に、聞くということがあるでしょうか。最近は、聞く姿勢が少なくなっているかもしれません。情報や雑多な声が多すぎる一方で、自分の好きなものに耽っていれば良いという引きこもり状態の人もいて、実は聞かない人がたくさんいます。もう一度聞くということに注目したいと思います。この1週間、ぜひ生活の中で静まる時間、聖書の言葉を開いて祈り心を持って、単に自分の必要を神に訴えるだけではなく、神が私に何を求めているのか、その声を聞く作業が生活の中でちゃんとあるのか確認し、その姿勢を持ちたいと思います。

2.イエスの声を聞き分ける者になろう

羊でも、盗人の声は聞かず、自分の羊飼いである御主人の声を聞き分けるのですから、私たちは、誰の声か聞き分け、何よりもイエスの御声を聞き分ける者になりましょう。悪魔は私たちの心の隙を狙って、疑いや不安や怒りや不平不満の言葉を投げかけてくるのです。強盗や盗人や殺す者の声に耳を傾けてはなりません。神の声を聞き分ける者になろうではありませんか。その訓練のためには、聖書を一回でも多く読むことです。そうすれば、神の御声がわかるようになります。様々な人がいろんなことを言うでしょう。しかし、そんな無責任な言葉に振り回されるのではなく、神の言葉を聞き分けたいのです。

3.聞いて従う者になろう

クリスチャンにとってイエスの御声を聞くということは、それに従うということを含んでいます。聞くことと従うことは一つです。私たちも、「どうしてあなたは私の言うことを聞かないのか」と言うのは、聞こえていても、言うことに従わないことをとがめる時でしょう。良き羊飼いであるイエスの声を聞くならば、そこには、当然、イエスのお言葉に従い、言われた通りに行動することを含んでいます。神は共にいてくださり、私たちの人生に聖書の御約束の通りに、素晴らしい御業を起こしてくださいます。イエスの声を聞くならば、ちゃんとそれに従いましょう。イエスに示されたら、それに従っていく者でありましょう。

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イエス様と言うお方

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
                    マタイの福音書8章14節~17節

今日の礼拝で神の明確な語りかけを聖書のおことばを通してはっきりと聴いてまいりましょう。マタイの福音書8章~9章にはイエスの悪霊追放と病人の癒しの物語が記されています。けれど、これは単なる奇蹟の物語ではなく、イエスの愛とご配慮を現す物語なのであります。今日の聖書箇所からイエスがどのようなお方かということを3つのポイントから学びたいと思います。

1.私たちを見ていてくださる

今日の聖書箇所では、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをイエスがご覧になっていることが記されいます。その他にも8章、9章には、「イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て」(8;18)「イエスは彼らの信仰を見て」(9:2)「マタイという人が収税所に座っているのを見て」(9:9)「イエスは振り向いて、彼女を見て言われた」(9;22)等、「イエスが見た」場面が数多く記されています。そしてイエスがご覧になった後、必ず彼らに変化が起こっている、このことにしっかり着目したいと思います。聖書にある通り、イエスは私たちをご覧になり、深く目を留めてくださり、様々な私たちの状況、必要を知っておられる、そういう形で私たちを見ておられるのです。イエスは私たちに対して何かの目的を持ち、計画を抱き何かを成さろうとされているのです。

2.関わりを築き私たちに触れてくださる

また、「イエスは彼女の手に触られた」(8:15)と記されています。「らい病の彼に触り」(8:3)、「私について来なさい」(9:9)と関わりを求められ、「食卓に着いていた」(9:10)では、関係を築いていることを現しています。長血をわずらっている女には、わざわざ「振り向いて」(9:22)イエスは彼女との関わりを築こうとされました。「盲人たちの目にさわり」(9:29)、彼らの目が開かれました。沢山の癒しの物語が記されていますが、それらが、単なる病気治しではないことがわかるでしょう。イエスは、彼らと関わろうとしてくださったのです。イエスが私たちに関わり、触れてくださると特別なことが起こるのです! 悪霊が追放され病が癒され私たちの問題は解決し必要が満たされていくのであります。

3.私たちの身代わりになってくださる

なぜ、イエスが触れて関わると彼らは癒されたのでしょうか? それはイエスが身代わりになってくださったからなのです。イエスが全ての呪い、重荷、煩い、病いを彼らに代わり背負ってくださったから癒されたのであります。イエスは私たちの代わりになってくださるお方です。イザヤ53:4-6にある通りです。イエスは罪のために刺し殺されました。けれど本当は罪のために刺し殺されなければならないのは、私たちでした。イエスがその代わりとなってくださったのです。本当なら罪咎等の罰は自分が負うべきもの、償いも自分がすべきこと、けれどイエスが代わりとなって、十字架の上で私たちが受けるべき罰を受けてくださった、私たちの償いをご自身が成し遂げてくださったのです!
ですから今週もこの素晴らしい祝福、恵みを自覚してイエスに向き合い、イエスとの関係に生きイエスに心から感謝して歩んでまいりましょう。

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キリストには“できる”と信じる信仰

イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。…イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。 マタイの福音書9章27節~31節

この教会は、60年前、万代恒雄牧師が、福音を宣べ伝えようと、みかん箱の上に乗り、路傍伝道から始め誕生しました。当時、伝道するお金も献金もありませんでしたので、皆さんとバザーを始め、以来、今日まで、伝道のための献金を生み出し続けています。今年も、この働きを立ち上げ、私たちの教会に刻み付けられている信仰を、更に整え、活かしたいと思います。今年も私と一緒に、御奉仕ください。御一緒にこの働きを立ち上げていきましょう。
週報にも書きましたが、大いに期待して買った愛媛県産の「せとか」入りの炭酸飲料が、果汁わずか1%で、がっかりしました。しかし、同時に、クリスチャンである私のイエス様は何%?と考えさせられました。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章)、100%と告白しています。中世の聖人、フランチェスコも、歴史上、キリストに最も近づいた人物と言われました。この2千年の間、クリスチャンがキリストに似た者とされているかは、大きなテーマです。
この癒しの礼拝で、この盲人の癒しを通して、自分のイエス様は何%か、心を探り、神の恵みを引き出すには、どうすればよいか考えてみましょう。

1.イエスの御心に通じる信仰とは何か?

イエスが「あなたの信仰があなたを直した」と認める信仰は何でしょうか? 二人の盲人は、イエスが来ると大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて行きます。ここで、自分自身が求めないと癒しの恵みは起こらないということが判ります。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われると、「そうです。主よ」と答えています。イエスは彼らの目に触って「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、癒されました。このことから、イエスが二人の盲人に求めていた信仰は、非常にシンプルで、ただ「イエスにはできる」と信じることだけだと判ります。私たちの努力ではなく、イエスを100%の救い主、癒し主と信じることです。主は「だれでも、この山に向かって、動いて海にはいれと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ11章)と語っています。主が求めておられるのは、疑わないで信じる信仰です。イエスとの関係、信頼の深さです。どこまでもイエスを信じる者となりましょう。

2.その信仰の具体的な中身は?

あなたの信じているイエスは、聖書の中のイエスの何%でしょうか? 現代人の知識によって、イエスを薄めてしまっていませんか? 世の中では、自らクリスチャンと言いながら、主の癒しも、十字架の贖い、死の力を打ち破った復活も信じないクリスチャンが、沢山います。そうであってはいけません。祈っても癒されない大きな原因は、祈られても治らないと信じているからです。不信仰でイエスを受け止めると、その通りになってしまいます。自分の理屈や常識でイエスの働かれる場所を狭めるのではなく、聖書の語る通りのイエスを、イエスは何でもできると、信じ受け入れることです。子どもの頃、「何でもできる、私のイエス様…」という讃美歌があり、皆でよく讃美しました。この盲人のように、シンプルに、100%のイエス、イエスにはできると信じましょう。聖書の御言葉通り信じること、それが勝利の秘訣です。

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いのちのパンである主ご自身

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。    ヨハネの福音書6章32節~35節

今日は節分です。日本では、「豆まき」をしますが、豆をまいたくらいで悪魔を追い出すことは不可能です。この世では、私たちの喜びを奪い、悲しませ、落ち込ませたりして、人生をボロボロにしようとする悪の力が働いています。しかし、クリスチャンの私たちはなんと幸いでしょう。イエスの十字架の血で罪がきよめられ、いっさいの悪しきものから遠ざけられています。イエスを信じる信仰によって救われ、きよめられ、神の霊で満たされていることを感謝しましょう。そして、「清らかなもの、美しいもの、愛に満ちたもの」をクリスチャンとして証ししてまいりましょう。
今日は聖餐式の聖日です。聖餐式は、イエスが十字架にかかられた後2000年間、世界中で守られています。イエスの体と血を表すパンとぶどう酒をいただいて、私たちがイエスと一つであることを確認する大切な儀式ですが、単に儀式としてではなく、神からの豊かな恵みと祝福を体験し、心から喜んで聖餐に与りましょう。
4つの福音書の中でもヨハネの福音書は特に、イエスが、ご自分が何者であるかを明確に語っています。「わたしがいのちのパンです」と語られて、聖餐式とは何かをよりはっきりと私たちに教えられました。

1.天から与えられる「いのち」がある

食料は口から食べてエネルギーを得て、体を元気にして命をはぐくむものです。しかし、食料だけでなく、天の神から下ってきて私たちを生かし、いのちとなるパンが存在することを知らなくてはなりません。現代は食生活が豊かになり、「栄養」の内容にまで気を配ります。しかし、「霊的な栄養」が十分かどうかを忘れています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)。私たちは、食料が豊かであれば幸せかというと必ずしもそうではありません。天からのいのちをしっかりいただきましょう。

2.天からの「いのち」はイエスご自身

「わたしがいのちのパンです」というイエスの言葉をしっかり認めましょう。イエスが単に立派な人で教えが素晴らしい、生き方が模範になるというだけでなく、イエスご自身がいのちのパンであり、イエスによって生かされているという点で、イエスはこの世の誰とも違います。他の宗教の教祖と同じ人間ではありません。イエスご自身をいただいてつながりを持ち、私たちは生きることができます。学んで修行して道徳的に良い人になることが目的ではなく、イエスと一つにされる、切っても切り離せない関係が大切です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

3.「飢えることも渇くこともない」との約束

人生の中で必要な助けがない、友がいない、心が虚しい、生きる望みがない、疲れ、絶望するということがなくて、いつも心が満たされ潤っている。これがイエスの恵みの約束です。人生のどんな悩みの中にあっても、キリストが共にいてくださり、必要を満たしてくださいます。主を信じる者には、神によってすべての必要が満たされることを信じましょう(マタイ6:31-33)。
聖餐式に与る瞬間に、病はいやされ経済は祝福され、弱い私たちが強められることを期待しましょう。

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