主の恵みに近づく秘訣

…ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」…彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「…ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、…きよくなった。
                     列王記第二5章1節~14節

今日はナアマンの癒しの物語を通して、私たちの信仰生活を神に喜ばれるものへと軌道修正し、自分の信仰を成長させるための秘訣を学びたいと思います。3つの目の付け所を確認しておきましょう。
ナアマンは、イスラエルの敵国アラムの王の将軍であることを覚えておきましょう。一歩間違えば戦争になるという緊張状態での物語です。

1.神ご自身が働かれる御業を求めよう

神は私たちの想像をはるかに超えて力強く働かれ、無から有を、全てのものを生み出す御方です。あなたの信じている神は、奇跡まで起こすことのできる全能の神でしょうか。ナアマンは様々な手続きを経てやっと預言者エリシャのところまで来ました。丁重にもてなされると思ったにもかかわらず、エリシャは顔も見せず、ヨルダン川で7回体を洗いなさい、と電報のような言葉を伝言しただけでした。その無礼さにナアマンは激しく怒りますが、賢い家来たちになだめられ、エリシャの言葉に従い、7度目に川から出てきた瞬間、彼の肌は完全に癒されていたのです。私たちに必要なのは当てにならない人の慰めの言葉や手続き、理屈ではなく、神の御力です。私は神の御業を求める、とはっきりと意識し、主よ、私はこの一週間も神が直接働いて下さることを求めます、と積極的な信仰を働かせてまいりましょう。

2.自分の思いではなく、神の御言葉に従う

ナアマンは激怒し、危うく癒されることなくアラムに帰ってしまうところでした。何が問題だったのでしょう。彼の感情のもつれです。彼は一生懸命頑張り、複雑な手続きをしてきたのだから、手厚くもてなされたいと思っていたのですが、彼のために本当に必要なのは、彼の気持ちを満たすことではなく、彼を癒すための神の言葉が与えられることだったのです。それが際立つように、エリシャは顔も見せません。ナアマンに必要なのは、明瞭な神の言葉だけだったからです。私たちはしばしば自分の感情や欲求に従い、自分が愛され、大切にされ、持ち上げられることを求める傾向があります。しかし自分の身勝手な感情よりも、神を第一とし、御言葉に従えばいい、と自分に言い聞かせようではありませんか。まず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、これらすべてのものは神の国に添えて与えられます。生活の中に必要なもの、欲しいものもあるでしょう。しかし、何よりも私たちに命を与えて下さった神の御言葉を受け止め、身勝手な思いではなく神の御言葉に従えるよう自分を成長させて下さいと祈りましょう。

3.神による清めと癒しをいただく

ナアマンの心の中には人間的な手続きや方法、自分の感情、勝手な自己判断しかありませんでした。しかし彼に求められていたのは、神の清めの力癒しの力を体験することであり、そのために、御言葉に従うことでした。神への求めを、人間的な薬や手術の延長上にしてはなりません。表面的な病気の癒しではなく、自分の魂が、イエス・キリストに結びつき、癒され、解放されるという神の恵みを求めましょう。神との交わりを求め、神の御業を直接いただくことです。神が共におられることを体験するために、この礼拝を単なる習慣や惰性で終わらせず、神に期待して祈り、神の御業を全身でいただきましょう。

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良いものを与えていただける人

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。…求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。…なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
                   マタイの福音書7章6節~12節

今日の聖書箇所は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの教えの中心部分にあたります。特に12節は黄金律と言われる所であり、「山上の垂訓」の頂点であると共に、この教えの全てを集約している箇所であると言っても過言ではありません。この聖書箇所から、「良いものを与えていただける人」と題してメッセージをしたいと思います。

1.求める人

神に求める人が神からの良いものに与(あずか)ることができるのです!7~8節にあるように、何かを与えてほしいと思うならば、まず「求める」ことから始めましょう。神から良いものを与えられた経験、良いことをして頂いた実感や記憶がないという方がおられるとするなら、それは 、求めたことがないか、あったとしても、求め方が中途半端だったのではないでしょうか。イエスはヨハネの福音書の中でも「あなたがたはわたしの名で求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」と言われています。神は私たちに惜しげなく咎めることなく与えて下さるのです。聖書は私たちにその神に願うこと、祈ること、求めることを繰り返し教えているのです。11節には、「天の父が求める者に良いものを下さらないことがありましょう」と記されていますから、神に自分の必要を祈ろうではありませんか! 神に愛されていることを体験させて頂けるよう、賜物を頂けるよう、信仰が深くなるよう、与えられると信じてもっと祈りましょう!

2.与えられる値打ちのわかる人

神は与えがいのある人に与えて下さるお方です。与えがいのある人とはどのような人のことでしょうか? 聖書の時代、カナン人は「犬、豚」と呼ばれ、ひどい扱いを受けていました。それにもかかわらず、
カナン人の女が娘の癒しを求めて、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と大胆にイエスに求めたのです。それはイエスが驚くほどのすばらしい信仰でした。彼女は、天からの「パンくず」の恵みがどれほど大きいかを知っていたのです! この「犬、豚」扱いされている人を自分のこととして捉えたいと思います。この私に、与えられる価値があるだろうか? たとえ私たちが「犬や豚」のような存在であったとしても、与えられる値打ちと有り難みのわかる人になりたいのです。もし私たちがそうなるなら、神は私たちに良いものを与えて下さいます。

3.与えることのできる人

神は、与えることのできる人に与えて下さるのです。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と記されています。見返りを期待するのではなく、私たちはただ与えることのできる人になりたいと思います。神は与える人を愛して下さり、喜んで与える人に与えて下さるのです。与えることのできる人が、神から何かを与えられた時、それは決して無駄にはなりません。与えられたものがもっと意味や価値のあるものになるのです。
与えることは、必ず何かの犠牲が伴います。与える側になって、初めてそれがわかるのです。それがわかれば、神が与えて下さった、ひとり子イエスの犠牲、福音の価値がわかるようになるのです。「与えられる人」になれるよう求めて祈り、神の恵みに与(あずか)り、さらに信仰の歩みをしてまいりましょう。

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主と共にあるいやしを受け止める信仰

…群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。…なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」                ルカの福音書9章37節~41節

実りの秋を迎えました。恵み豊かな神は、神を礼拝し、歩み始める1週間を本当に祝福して下さいます。今日も癒しの恵みをいただいてまいりましょう。悪霊につかれたひとり息子を持つ父親が、助けを求めて群衆の中から叫びました。お弟子たちに、この霊を追い出して下さるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。イエスは嘆いて、そこに集まった群衆と弟子たちに、こう言われます。「ああ、不信仰な曲がった今の世だ。いつまであなたがたと一緒にいて、あなたがたに、がまんしていなければならないのでしょう」、今日は、この41節の御言葉をしっかりと受け止め、もう一度、信仰の姿勢をはっきりとしたいと思います。

1.癒しの御業は主イエスと共にある

この父親は、子どものことを心配し、偶像、占い、人の力、真の神…一生懸命でした。弟子たちに祈ってもらっても、癒されませんでした。本物の癒しの御業は、主イエスと共にあります。聖書は、イエスは父なる神の完全な啓示、神の現われだと語ります。だから、どんな癒しも、悪の力の解放も、すべての祝福は、主イエスと共にあるのです。私たちは、人の顔色を伺ったり、人に頼ったり、人のせいにしたりする弱い者ですが、人ではなく、イエスに集中し、私の癒しは、主と共にあると、信仰の姿勢をはっきりとさせましょう。

2.イエスに喜ばれる信仰を持とう

「ああ、不信仰な今の世だ」。イエスは、祈って癒されなかった弟子たちの信仰、人々の心、信仰のありかたを嘆かれました。2千年経った今を生きる私たちは、愛と救いの力、癒しの恵みをもって、イエスがこの世に来て下さっているのに、神を信じる以外に、
人間的に当てにできるものが多く、不信仰がもっと深刻になっているのかもしれません。では、私たちがイエスの前に立つ時、あなたの信仰は立派だと言われるには、どうしたら良いのでしょうか? 大きな3つの鍵があります。
 1.御言葉に立つ―イエスの御言葉をそのまま下さいと頼んだ百人隊長は、すぐにしもべの癒しをいただきました。「あなたの御言葉は、わが足のともしび、わが道の光です」と聖書が語るように、御言葉に立ち、御言葉をいつも告白する信仰を持ちたいと思います。御言葉は神の御約束です。信頼しましょう。
 2.神はどんなことでもできると信じる―信仰は、神にはどんなことでもできると信じることです。祈る時、心の中で、できないだろうと決めつけると、悪魔の思うつぼです。神にはできると信じましょう。
 3.常に神への感謝、栄光をお返しする―どんな素晴らしい祝福に与ろうと、すべての栄光は神のもの、主を崇め、礼拝し、栄光をお返ししましょう。10人のらい病人が癒された話では、神に栄光をお返しし、感謝するために戻って来たのは、わずか1人でした。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではいけません。この3つのことを胸に刻み、信仰を持って、神の前に立つ者でありたいと思います。
イエスに受け入れられる、シンプルで素朴で、純粋な素直な信仰を働かせましょう。恵みを与えようとする神、それを素直に受け止めようとする「私」がいるところに、神の素晴らしい御業が起こります。

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主にゆだねてすべてのことに勝利する

…弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」…イエスは、…天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。…食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
    マタイの福音書14章15節~21節、ヨハネの福音書6章35節

季節は実りの秋、恵みの秋になりました。私たちも神の恵みと実りをいただくことができますように。私たちの人生の中に、主イエス・キリストがおられるということは、どんなことにもまして頼りになります。主イエス・キリストを信じる私たちは、主にゆだね、導かれ、励まされて歩み、安心して迷う必要がありません。
レストランでメニューを見ながら迷ってしまう時があります。しかし、日本人の好みをよく知っているプロの料理なら、どれでもおいしいはずで、悩む必要はないかもしれません。私たちの命については、一番ご存知なのは神です。私たちに命を与えて下さった神は、私たちの必要や本当に求めているもの、なくてはならないものを全部ご存知で、それを与えて下さるのです。一番大事なことは、救い主である神に信頼して素直にゆだねていくことです。人生に必要なものは、全部神の御手の中にあります。9月の歩みの中で、主の最善の導きや主の最高の御業を素直にいただきましょう。自分の気まぐれで神の恵みを失うことがないように。イエス・キリストこそが、私たちの必要を満たして下さることを今日の聖書の御言葉を通して確認しましょう。

1.たった5つの小さいパンと2匹の魚だけ

これは、新約聖書の4つのどの福音書の中にも出てくる有名なエピソードです。このマタイの福音書では、イエスの御言葉に対して、たったこれだけではどうにもならない、という弟子たちの情けなさ、力の足りなさがよく表れています。もし私たちがその場にいたら、弟子たちと共に途方に暮れたことでしょう。しかし、聖書が教える信仰のすばらしさは、私たちのありのままの弱さや足りなさで、神の前に出ることができるということです。たった「5つのパンと2匹の魚」が聖書で取り上げられることを喜びたいと思います。

2.人々は満腹した

当時は、今のように飽食の時代ではありません。今日食べておかないと、明日食べ物があるかどうかもわからない貧しい漁村でした。人々は空腹でした。ガツガツ食べました。
その人たちが満腹になった後、12のかごにいっぱい残ったのです。どれほど豊かな食糧だったのでしょう。このことは、イエスを信頼して共に歩むならば、私たちの人生は必ず驚くほど祝福され、いただいた恵みを精一杯用いてもおつりがあるほどの豊かな恵みと祝福があることを表しています。

3.鍵は主イエス・キリストにある

イエスはパンと魚を祝福し、弟子たちはそれを配りました。弟子たちがそうだったように、悩むことの中に答えがあったのではなく、イエスにゆだねることが答えでした。私たちが頑張って努力して修業を積んだから立派な人間なのではなく、罪深さやいやらしさや情けなさを引きずりながらも神の前に出ると、私たちの人生は、大きな恵み、幸せ、祝福、喜び、感謝があふれる人生になるのです。
ヨハネ6:35では、さらに踏み込んで、「5つのパンと2匹の魚」だけでなく、ご自分が命のパンになって下さり、イエスを信じ受け入れるなら、その人は二度と飢えることも渇くこともないと言われています。この話は、イエスの時代を懐かしんで読み返すものではなく、今日の聖餐式で実体験すべきものです。イエスを受け入れイエスの命をいただきましょう。

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悩みの中で神様と出会う

…その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。…こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、…自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。…彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。…パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。…それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。…神はみこころを留められた。
                    出エジプト記2章1節~25節

昨日の納涼祭りは、朝から降っていた雨も上がり、午後は晴れ。雨のおかげで涼しく納涼会らしく行うことができました。ご奉仕して下さった方はもちろん、食べに来て下さったお一人お一人に心から感謝いたします。今日は旧約聖書のモーセの話を通して、私たちは悩みの中で神と出会わせて頂き、神から祝福を受けるということを学びたいと思います。

1.悩みを通し人間的なものは打ち砕かれる

モーセの一生は120年でした。40歳まではエジプトの王子として生きましたが、エジプト人を殺したことでミデヤンの地へ逃れ、80歳までは羊飼いとして、80歳から120歳までは偉大な指導者として用いられます。神のために働いた、この80歳から120歳の時こそ、モーセが一番輝き活躍した時代です。
神は、モーセを指導者としてイスラエルの民を救い出すというご計画をお持ちでした。しかし80歳までのモーセには、その準備が整っていなかったのです。神は、モーセが40歳から80歳の間、彼を訓練し続けます。「人を殺め私はここへ逃げてきた…しかし、これからどうすればいいのだろうか」そんな思いで毎日祈り続けた40年は、神が彼の人間的な考えや思いを全て砕くために与えた訓練の日々でした。
40歳までのモーセは、王子としての富と権力を持ち、自分の力で何でもできると思っていました。80歳で、神からエジプトに行きイスラエルの民を救い出せと言われた時、告白しています。「富も権威もない、私はただの80歳の羊飼い。一体何ができるのか」と。しかし神は言われます。「わたしがあなたと共にいる」。「権力によらず、能力によらず、我が霊によって」と聖書にあるように、人間的に頼るべきものを全て失ったモーセが神の言葉に従う時、初めてイスラエルの民を救い出すとことができたのです。

2.苦難の中で神と向き合い輝く人生へ

私たちの人生の中に、神は恵みを豊かに注いで下さっています。モーセが苦しみの40年を通して神に用いられて輝く人生を歩むことができたように、どんな苦しみの中を通らされたとしても、私たちは神によって整えられていくことを心から感謝したいと思います。思わぬ試練に出会うことがあります。しかしそれを通して、実は神が、あなたを一番輝く人生へと導き、整え、恵みを与えようと準備しておられるということを知らなければなりません。
聖書には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)とありますが、神はあなたを単に苦しめようとしておられるのではなく、それには意味があるのです。苦しみは、あなたが輝くための恵みとなるのです。私たちは苦しみの中で砕かれて、神に求めて祈る者でありたいと思います。
全ての苦しみは私たちにとっては通りたくないものです。でも、その苦しみの中でこそ、私たちの人生が、本当に輝くものへと神によって整えられるのです。心から神の訓練を感謝して受ける者でありたいと思います。私たちは、苦しみを通らされてこそ恵みをいただくことができます。私たちは苦しみの中で神と出会い、一番輝く者とされるのです。神がこの苦しみを通して、私たちを神に用いられる者へと訓練して下さることを信じて心を合わせて祈りましょう。

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主キリストのいやしがもたらす回復

…そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。…悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、…こう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。             マルコの福音書5章1節~20節

「全て疲れている人、重荷を負っている人」をイエスは招いて下さっているのです! 今日の癒しの礼拝でもイエスのもとに帰りイエスの恵みを頂きましょう。疲れや病から癒され強められましょう。
今日の聖書箇所は一人の男の有名な癒しの物語です。彼には沢山の悪霊がとりつき、誰も彼を押さえるだけの力がありませんでした。イエスは彼に沢山の悪霊がついていることを瞬時に見抜き、聖霊の力によって全ての悪霊を追い出されました。癒され正気に返っただけでも素晴らしい祝福ですが、イエスはこの男に「使命」まで与えて下さったのです! この箇所からイエスの癒しの本質を3つのポイントから見極め、しっかり祈り素晴らしい祝福を体験しようではありませんか!

1.人格、人間性の回復

イエスの癒しは、単に病気の症状が無くなるということでは終わりません。一番大切なことは、イエスの力は単なる肉体的な現象だけでなく、魂、心にまで染み込んで私たちの人格、人間性まで回復し、本来あるべき姿を回復させる癒しだということです。
凶暴な男性はイエスに出会うことにより癒され平安になりました。その変わりようは人々が驚愕するほどでした(15節)。イエスに祈る時、その癒しの力を薬や治療の中継ぎや手助けに終わらせてはいけません。神は医療を超える向こう側、本当の自分らしさが甦るところまで癒されることを感謝しましょう。命の与え主である神が、単に体調だけでなく、本来のあなたらしさを回復して下さるところまで癒して下さることに感謝し期待して祈りましょう。

2.人間関係の回復

イエスの癒しは人間関係も回復して下さるのです。19節で、「あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」と言われ、イエスは先取りの恵みを彼にもたらされました! イエスは分断された家族、友人との関係の回復を宣言して下さったのです。神の癒しを頂くと私たちは、人間関係も回復され、もはや孤独とは無縁の愛する者との接点のある交わりのある生き方へと導かれます。主の癒しを受けると必ず人間関係も癒されることを感謝しましょう。

3.霊的回復

3つ目は、神の御前に立つ霊的な回復です(20節)。神との交わりが私たちの命の中で大きな領域として存在しています。神との交わりがなければ、自分の命、生死、未来、自分の存在について、いつまでたっても不安を拭い去ることができません。これらは霊的領域から溢れてくる答えです。
救い主と出会ったことで彼は真人間に戻り、人々との関係も癒され、何より命を与えて下さった神との霊的関係によって神の恵みを人々に証しするまでの人に変えられたのです。このようにイエスが与えて下さる癒しには深い恵みが伴うのです!
イエスに触れていただくことで、神に選ばれたあるべき姿に近づき、主が共にいて下さり、人生が終わる時には永遠のいのちが約束されている。その時まで、神のすばらしさを表現するために生かされている。この素晴らしい主の癒しを頂きましょう。

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与えられたいのちの恵み

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。…神は見て、それをよしとされた。そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。…神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。…そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
                      創世記1章24節~31節

今日の記念会礼拝を感謝します。すでに天に召された、愛する人々を偲びつつ、私たちに与えられた命が、どのような命であるかを、もう一度考えたいと思います。この創世記1章、天地創造の物語を、神話や、おとぎ話だと言う人がいますが、そうではありません。聖書を学び、研究していくと、私たちの理解を超え、現代科学の説明をはるかに超えた、人間やこの世界についての、大切な真理がしたためられています。ご一緒にひも解いてまいりましょう。

1.神によって造られ、与えられた命

あなたの命は、どこから生まれたのでしょうか? 両親が私に命を授けてくれたと語る人もいますが、しかし親になると、自分が子供に命を与えたなどと、大それた事は思えません。神から与えられた命を受け継いだだけです。聖書は、はっきりと神が、神の形(ラテン語:イマゴディ)に似せ、人間を造ったとあります。私たちの命は、神によって造られ、与えられたのです。それは、神が私たち人間を造りたい、生かしたい、愛したい、そして共に歩みたいと願って下さったからです。神を崇め、感謝したいと思います。私たちは、造られた方の御心を聞くことにより、本能のままに生きるのではなく、愛することや、死後の霊的な世界を考える、本当の生きる意味、目的が解かるようになります。

2.すべての良き物を与えて下さった

神は人を祝福し、この世のすべての良きものをお与えになり、生めよ、増えよ、地を従え支配せよと語られています。生きていくために必要なものは、すべて与えられていますから感謝です。不足感や欠乏感を訴えるのではなく、感謝する者でありたいと思います。本当の命の生き方、人の歩みが確かにされるのは、憲法や法律ではなく、神の御言葉にあります。神に立ち返り、命の基本を思い、神から離れてはいけません。また、私たち人間は、その与えられたものを、責任を持って支配し取り扱わなくてはなりません。人間の都合で、自然破壊するのは神の御心に背いた愚かなことです。聖書は生きることを語り、生きよと言われます。決して自分で死を選んではなりません。必要な恵みを与えられている者として、精一杯生きようではありませんか。

3.それは非常に良かった

神は、天地宇宙を創造された1日、1日の締めくくりに「それをよしとされた」と語っています。私たちの人生は、命もすべての物も、良き物で満たされているのです。しかし、いつのまにか愚痴や不平不満、怒りを口にする者となっています。神は私たちが、自分の力だけでは楽しく生きられないのを知り、御子イエス・キリストを地上まで送って下さいました。悪の力に左右されて、まっすぐに生きられない私たちに、キリストが御自分の命まで捨てて救いの道を開いて下さいました。この救い主イエスを通して、命の与え主の神と、厳かに向き合うことができます。神の形をもって生きるようにされ、すべての良き物が与えられ、祝福された私たちの命です。これからは不平不満、欠乏感や不足感の中に生きる乏しい人生ではなく、すべては与えられ、満ち足りていますと感謝し、喜んで歩んでまいりましょう。神に立ち返り、本当に価値ある人生を手に入れられますように。

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主が遣わすことを喜ばれる私たち

…イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「…すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、…ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。…
                  ルカの福音書10章21節~24節

7月後半から2週間にわたって、メトロ・ワールド・チャイルドのビル・ウイルソン先生が来日して、日本各地で10回のセミナーを開催し、共に行動していました。メトロの働きによって、毎週世界中で20万人の子供たちが教会学校に集い、生きた福音が語られ、家庭訪問が行われています。この働きの原点は、ビル先生が救われたことにあります。犯罪歴のある父親は行方知れず、母親はアルコール依存症で子育てができない状況でした。12歳の時に母親に路上に置き去りにされ捨てられました。通りかかったクリスチャンの男性が、貧しさにもかかわらず、教会学校のキャンプの参加費を出し、参加させてくれました。そのキャンプで神様と出会い人生が動き始めました。親もなく何も持たず、発育障害を持つ、どう見ても神に用いられそうにもない、とんでもないマイナスから人生を始めた彼が牧師となり、スラムに乗り込み子供たちに伝道を始めたのでした。
神に用いられるのは、特別な人ではありません。日本人はとかく長い物には巻かれろという考えで、みんなと一緒であることに安心したり、目立つ人をチヤホヤしたり、批判にさらしたりします。しかし、2000年にわたってクリスチャンが聖書の教えを通して体験した恵みは、どれほど小さく無名の者でも、神によって用いられることを決して忘れてはならないということを証ししています。私たちがクリスチャンであることは、すでに神に選ばれていることなのですから、出て行って、家族や夏休みで久しぶりに会う人たちのために、愛と笑顔で救いのために祈りましょう。
ルカの福音書では、イエスは、周りにいるイエスを信じる人々を「小さい者たちよ」「小さき群れよ」と呼び、ほかの福音書にはない表現をしています。ここでは「弟子」は、単なるお世話役とか小間使いではありませんでした(ルカ9:1-2)。イエスと同じ力を与
えられ同じことをするようにと遣わされた者たちです。また、12弟子だけでなく、別に70人も同じように遣わされました(ルカ10:1)。だからみなさん、私たちも遣わされて出て行き、祈り、証ししようではありませんか。私たちが「弟子」としての自覚を持って出て行く時、確実に神の御業が行われ始めるのです。
今日の箇所で3つのことを押さえておきましょう。

1.私たちが用いられることを喜ばれる主

イエスは、悪霊が言うことを聞くからといって喜ぶなと戒めるだけでなく、弱い者でも神によって用いられることを喜んでくださいます。それを感謝し、弱く愚かであっても、主に用いられる者となりましょう。

2.イエスを通してでしかわからない恵み

御子イエスと直接関わることを許された人しか、神の恵みに触れることはできません。それはこれから行われる聖餐式に表されるイエスの十字架のことです。この十字架によってイエスと繋がることができ、その向こうにすべての恵みが備えられています。

3.今イエスを信じて繋がっている幸い

旧約の時代の王や預言者は、キリストの約束や癒し、悪霊からの解放、教会が立て上げられていく様子を見ることはできませんでした。今私たちは、旧約の時代の人々があこがれていた素晴らしい恵みを見、体験しているのです。つぶやきや不平不満は似合いません。主によって、日々与えられている恵みを数え前進してまいりましょう。

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全てを受け止められる神との出会い

すると彼の妻が彼に言った。「…神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「…私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」…ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること…を、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。            ヨブ記 2章9~10節、42章1~6節

確かに、世にあっては患難があり、わざわい、苦しみがありますが、それを恐れて逃げていては、ますますわざわいと悪魔は追いかけてきます。しかし、神に近づき、悪魔に立ち向かうなら、神様は私たちに近づいてくださり、悪魔は逃げ去ります。では、どのように神に近づき、悪魔に立ち向かうのでしょう?

1.主をあがめ、讃美で立ち向かう

わざわいの背後に働く悪魔の狙いは、私たちが神を呪うようになることです(1:11)。ヨブの妻はまんまと悪魔の罠にはまったのです。しかし、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と讃美して、わざわいをも受け取る信仰で悪魔に立ち向かったのです。私たちも、わざい、苦しみの中でも、主をあがめるのです。讃美で立ち向かうのです。絶望の底に沈みそうな時にも、神を待ち望み、「私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」と讃美するのです(詩篇42:11)。義のために苦しむことがあっても、動揺しないで、むしろ、心の中でキリストを主としてあがめるのです(Ⅰペテロ3:14-15)。キリストのために、信仰だけでなく、苦しみをも賜った、贈り物としていただいた、と感謝して讃美することができるのです(ピリピ1:29)。

2.二倍の祝福を受ける

ヨブは前半生で得ていた家畜や財産を、全て苦しみの内に失います。しかし、苦しみを経て、彼の後半生は、全てが二倍にされる祝福を受けます。苦しみに会って失ったものを何とか元通り取り戻せるだけでも、普通ならラッキーでしょう。しかし、主は、失う前よりも、苦しみに会う前よりも、はるかに良くしてくださるのです。もっと豊かになり、素晴らしくなる、二倍の祝福を受けるのです。ですから、私たちも詩篇の作者と共に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)と言えるのです。

3.苦しみの中で主と出会い、変えられる

ヨブは、わざわいと苦しみの中で、主と出会います。それまで、うわさを耳で聞くように、間接的に知っていたつもりの神様を、「今、この目であなたを見ました」と言える出会いをヨブは体験します。そして、苦しみを通して、ヨブは、わかったつもり、正しいつもりでいた自分の思い込みを木っ端みじんに砕かれます。自分を義とし、神を罪に定める罪を示されて(40:8)、ヨブはちりと灰の中で悔い改めます。
義人がなぜ苦しむのか? いえ、義人はいない、ヨブもそうです。あんな罪人が苦しみに会うのは分かるが、自分のように正しい者がわざわいに会うのはおかしい、神様の方が間違っている、などと言える人は誰もいないのです。しかし、ただひとり罪なき正しい御方が、私たちの罪のために、史上最大の苦しみとわざわいを受けられた、それにより、最も大きな、本物の、永遠の幸せが、この世界にもたらされたのです。このイエス・キリストの十字架を、私たちは信じる者です。だから、私たちも、この主にあって、幸せも、わざわいも、全てを受け止めて生きることができるのです。本当に主と出会うなら、そのように変えられるのです。そして、私たちは、キリストのからだである教会で、主と出会うのです。そこに全ての答えがあります。主がおられるから、神との出会いがあるから、全てを受け止めて生きられるのです。

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神の愛に気づいて

宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。
                       マラキ書1章1節~2節

文字通りの夏を迎えていますが、私たちは神と出会い、神とふれあい、神と豊かに交わることのできるそんな夏の日を過ごしていきたいと思います。
今日はマラキ書から神はどのように私たちを愛して下さっているのか、私たちはその神の愛にもっと気づきたいと思います。3つのポイントで神の愛をもっと理解し、そしてその神の愛を心に響かせる私たちでありたいと思います。

1.こんな私でさえ愛して下さる神の愛

神は私たち一人ひとりに同じ愛を注がれています。しかし、エサウを憎んだと、なぜ神はこのような言葉を用いて私たちに語りかけているのでしょうか。それはエサウを憎むという感情を神が持っているということではなく、あえてヤコブを愛するということを神は教えるためにこの言葉を用いているのです。この言葉をもって神はご自身の愛を私たちに示して下さっています。ヤコブの方が愛されたのですが、彼は決して愛されるキャラクターではありません。そんなヤコブが愛されたというのは、私たちも神に愛していただけるという証しです。私が特別に愛されているとしたら私が何かをしている、何かできるということではなく、こんな私でも愛されているということにおいて、私は特別に神に愛されているのです。

2.とことん忠実で徹底的な神の愛

神の愛は徹底的な愛で、私たちに対して忠実な愛です。エレミヤ書31章3節には、「永遠の愛をもって、あなたを愛した。それゆえわたしはあなたに誠実を尽くし続けた」とあります。永遠とは時間だけの問題ではなくて、無限であること、そして人の小さな秤では計りきれないもの、それが永遠です。神の愛は私たち人間では計り知れないほどに大きな愛であり、その愛をもって神はこの私たちに誠実を尽くし続けて下さるお方です。アブラハムは、自分の大切な宝であるイサクを神に捧げようとするほどに神に忠実でした。でも私たちはそれ以上に忠実である神の愛を知っています。神がそのひとり子を私たちに与えて下さるほどに忠実であったから、私たちは神の恵みの中を生きることができます。神ご自身のひとり子の命と私たちの命とを秤にかけて下さる。偉大な神がこの私たちを忠実に愛して下さった。徹底的に本当に忠実な神の愛です。

3.決して見捨てず、共にいて下さる神の愛

エサウが受けるべき祝福を奪い、彼から逃げるヤコブ。日が沈み、石を枕にして仮眠を取った時、彼は夢を見、その夢で神がヤコブに語りました。私はあなたに約束したことを成し遂げるまで決してあなたを捨てない。これには二つの意味があります。約束は必ず成し遂げられるという意味。そして文字通り神は決してヤコブを捨てないという意味。そして神は、この私たちにも同じように語って下さる。わたしは、あなたに対する約束を必ず成し遂げる。それまでは決してあなたを捨てない。神が私たちに約束しておられる究極的なものは神の国、天国です。私たちがその天の御国に入るその日まで、神は、私たちがこのヤコブのような人であっても、この私たちと共にいて決して見捨てないで私たちをそこに導いて下さるお方です。私たちはこの愛をしっかりと心に響かせて歩む者でありたいと思います。

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