恵みをいただく信仰の基本

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。 使徒の働き2章41節~42節

6月第一聖日の聖餐式で、神にしかできない特別な恵みを注いでいただき、主との霊的なつながりを確かなものにしましょう。弟子たちは、ペンテコステ(聖霊降臨)で神から聖霊を注がれ、イエスの十字架と復活を理解しました。聖霊の働きで命あふれる初代教会が誕生し、全世界に福音がひろがっていきました。実はこの時に、祝福されるための信仰の基本姿勢が明らかにされたのです。聖霊を受けたクリスチャンは、浮世離れした生活を送り、いつも幻想を見て特別に霊的な現象の中で生きていたのではなく、聖霊を注がれた者としてしっかりと地に足をつけた生活を始めていたことを知ってほしいのです。今日の聖書の箇所から、私たちの信仰生活が祝福されるための基本を確認しておきましょう。

1.「弟子」となる

ペテロのメッセージを聞いた人々は、罪を悔い改めイエスを信じる決心をして洗礼を受けました。イエスは「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と言われました。弟子になれば何か恵みをいただけるというご利益だけを求めるのではなく、弟子としての心構えが必要です。真面目だけど高ぶったり、変なプライドを持ったりしてはいませんか。たとえば落語家や料理人は、まず師匠と言われる人に弟子入りして、給料ももらわず下働きをしながら学びます。私たちもイエスの足跡に従い、イエスから教えられ、学び、主のために用いられるよう、弟子として訓練される者の心構えを忘れてはなりません。

2.クリスチャン生活の基本に立ち返る

クリスチャン生活の基本に立ち返るための第一は、使徒たちの教えを守ること。新約聖書27巻は使徒たちの教えをまとめたものですから、クリスチャンとして歩むとき、自分のひらめきや思いつきではなく、使徒たちの教えである聖書の言葉、すなわち神のお言葉に立ちましょう。そのために聖書を読み、神の御言葉を告白しましょう。自分の思いや感情を遂げるのが信仰ではありません。自分の考えや思いと違っていても神の御言葉を優先することです。
第二に、交わりを深めること。クリスチャンの信仰生活は決して孤独ではありません。互いの罪を言い表し、赦し愛し、励まし合い、助け、仕え合う、主にある兄弟姉妹としての交わりを深め、教会での集まりを大切にしましょう。
第三に、聖餐式を守ること。聖餐式の原型は、イエスが十字架にかかる前夜、弟子たちと共にした過越の食事です。その時から2000年にわたってイエスの十字架と復活を忘れないように、教会で守り続けられている儀式ですから、イエスとのつながりなくしては意味がありません。
第四に、祈ること。どんなに忙しくても祈ることを忘れてはいけません。祈ることによって神との交わりをしっかり保ち、神の御心を探ることができます。神と離れない信仰生活を自分のものにしましょう。
人それぞれにライフスタイルがありますが、ほかの何物でもないクリスチャンとしてのライフスタイルを大切にしていこうではありませんか。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」(詩篇23:6)。私たちには、主が共にいてくださる本物の居場所があります。心の深みからイエスを愛し、主に信頼して主の御業を期待して前進してまいりましょう。

 

カテゴリー: 未分類 | 恵みをいただく信仰の基本 はコメントを受け付けていません。

恵みを引き寄せる者となる

主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」…                創世記18章1節~15節

間もなく梅雨を迎えますが、恵みの雨を期待し、喜びの日々を歩みましょう。一番大切なのは私たちの信仰の姿勢です。常に神の臨在に立つという感覚と、神に喜ばれる者としての行動をさせていただきたい、それこそが、神に喜ばれる言動をし、クリスチャンとしての人生を整えて確かなものとするのです。信仰者としての覚悟を常に忘れずにいましょう。
今日は、アブラハムのエピソードから、祝福への秘訣を分かち合いましょう。彼の人生には、様々な問題や失敗があり、弱さも抱えていましたが、神は彼を選ばれましたし、信仰の父、祝福の基と呼ばれた人物です。人間らしい彼だからこそ、参考にして、恵まれた信仰生活の工夫を学ぶことができます。
3つの祝福される、幸せの鍵を確認しましょう。

1.神の恵みは人を通して与えられる

私たちは、現実の世界に生きています。そして神はしばしば、私たちの目の前にいる人を通してご自身を現されます。失敗も多かったアブラハムですが、彼は信仰による素朴な感覚を非常に強く持ち、神の恵みを掴みました。彼は目の前に現れた旅人との出会いの機会を失いませんでした。神が、超自然的な霊的現象で語りかけてくれるならば、私たちはそれを神の言葉として聞くでしょう。しかし、目の前の人々を通して神が語られる時に、それを軽んじたり、見逃さないようにしたいのです。核家族やひとり暮らしが増え、私たちは皆、人間関係が下手になっています。神との関係も人格的な交わりです。神との交わりを損ねないためにも人との交わりを保ち、交わることを愛する者でありましょう。特に自分の前にいる、神ご自身を現すかもしれない人々との交わりや関わりを大切にすることを肝に銘じましょう。

2.誰に対しても恵みを与える基本姿勢

アブラハムには、初対面の人でも、思いきりもてなし、恵みを与えるというクリスチャンの基本的な心構えがありました。これは神からクリスチャンに期待されている基本的なものです。アブラハムは情けない男でしたが、それでも神が彼を祝福したのは、彼が人を祝福する姿勢を常に持っていたからです。世の中の損得勘定ではなく、恵み深い者でありたいのです。良いものを分かち合い、共に喜び、気前の良い者に変えてくださいと、祈りたいのです。あなたの周りの人々が祝福され、あなたがいるだけで、皆が明るくなりますようにと願います。あなたが恵みの震源地であることを神は喜んでくださいます。

3.思わず出る不信仰に気をつける

神の人が約束の子イサクの誕生を告げた時、サラは物陰で笑い、神の人から咎められます。ふとした時に現れる不信仰に気をつけましょう。私たちの信じる神は、自然の法則の中にいるのではなく、すべてを創られた全知全能の神なのです。この神が働かれる時に、人間の理解を超えることがあっても構わないのです。そして、聖書の語る恵みの神の本質は、愛する私たちのためには、不可能を可能にして何でもしてくださるということです。教会に来ている時にはとても信仰深く語るけれども、それ以外の場所では、神からも隠れていると思って、不信仰にならないようにしましょう。常に神に喜ばれる信仰を働かせ、恵みを引き寄せる者となりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 恵みを引き寄せる者となる はコメントを受け付けていません。

教会に働く聖霊の力

私たちも以前は、愚かな者であり、…憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。…私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。…                テトスへの手紙3章3節~8節

キリスト教会には3つの大きな祝い、すなわち、クリスマス、イースター、そして、今日のペンテコステがあります。教会が誕生したのは、このペンテコステ、聖霊降臨があったからです。その日から二千年間教会は聖霊の命を保ち、証しし続けているのです。その誕生日とも言えるペンテコステを喜びましょう。
イエスがこの地上に救い主として姿を現されたことにより人間の歴史に多大な影響が起こりました。イエスが成就された、すべての人の救いと復活により与えられた永遠の命の約束を刻みつけるために教会が誕生しました。そして、人々は歴史を刻み始めました。B.C.(Before Christ)とキリスト以後のA.D.(ラテン語で主の年)という西暦の紀元が分かれたのです。キリストの歴史的な事実を人類の歴史の流れの中に刻みつけたのは、聖霊の働きです。イエスの義を頂いて、人が義と認められるという奥義が私たちに与えられているのは、聖霊によるのです。
この箇所でパウロは、すべての場面でクリスチャンの中には聖霊が働いていることを語っています。それを3つの点で確認し聖霊の恵みに感謝しましょう。

1.救いのわざは聖霊の働きによる

5節に、私たちが救われたのは、私たちの行いによるのではなく、御霊による清め、聖霊のバプテスマによると書かれています。宗教の学びや修行を積むことではなく、救いは、一方的な神の御意志によって、聖霊によって、キリストの恵みにより成就したのです。あなたの期待するような劇的な体験はないかもしれませんが、御霊によらなければイエスを主と告白できないのですから(Ⅰコリ12:3参照)、あなたが救われたのは、神の霊によって導かれ、聖霊の働きによるのだということを感謝しましょう。

2.信仰者の歩みにも聖霊が注がれている

神の約束された、永遠の命を相続し、神の祝福を頂くというクリスチャンの未来に向けての歩みの中にも聖霊が常に働いているのです。その一番のことは、祈りです。「主イエス・キリストの御名によって祈る」ということは、聖霊の力によって、キリストの力が働くことです。弱くてイエスを裏切った弟子が、聖霊に満たされて最初に行った奇跡は、美しの門の奇跡でした。足の立たない男に向かって、「イエスの名によって歩け」とイエスの名を唱えた瞬間、男は癒されました。使徒たちと同様に、私たちにも聖霊が働くのです。クリスチャンとして歩むために備えられている、聖霊の力が常に働いているのです。

3.聖霊の働きを豊かに頂く

6節にあるように、神はいつも、豊かに聖霊を下さるのです。だから、イエスの復活に出会いながらも及び腰であった弟子たちも、聖霊が注がれて変えられました。人々の前での初めての証しで三千人が救われました。使徒と呼ばれるまでに変えられたのです。聖霊が内に満ち溢れるほどになった時、体験したことのない喜びや力が現れます。祈る時、しるし、不思議、奇跡が起こります。教会は、聖霊が歴史の中に働いた時の姿ですから、教会を愛さなくては聖霊が豊かに働くことはありません。救いを実現し、信仰の歩みの内に働く聖霊に感謝し、教会で主に仕える私が聖霊で満たされるようにと祈りましょう。

カテゴリー: 未分類 | 教会に働く聖霊の力 はコメントを受け付けていません。

いやしの大きな流れに飛び込もう

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。…イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」…             マタイの福音書15章21節~28節

今日は母の日です。目に見えない所で愛を込めて祈ってくださり、家族のために仕えてくださり、教会のために御奉仕くださる姉妹たちの御健康を祈ります。主が共にいてくださり、心に喜びがあり、日々笑顔がはじけますように、感謝してお祈り致します。
今日開きましたマタイ15章、カナン人の女の信仰から、私たちも神からの豊かな恵みを頂き損ねないよう、学びましょう。イエスは、ツロとシドンの地方、つまり異邦人の地に行かれました。そこにひとりのカナン人の女が現れました。他の箇所にはギリシヤ人とも書かれていますので(マルコ7:26)、ユダヤ人にとっては、恵みを受けることのできない、全くの異邦人です。その彼女が、イエスに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけ、悪霊に憑かれた娘の癒しを求めたのです。つまり、異邦人の女が、イエスをメシアと認めて、奇蹟を行ってくださるよう求めているのです。しかし、イエスは沈黙し無視しておられました。

1.思い通り事が運ばなくても離れない

この時、このカナン人の女が求めていたのは、私たちが想像するように、すぐに行って癒やしてあげようと言ってもらうことだったでしょう。でもイエスは、彼女が期待したのとは大違い、お声ひとつ掛けられません。弟子たちは、声を掛けてその女を帰すようにと、イエスに願いますが、イエスは「イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」、つまり、イエスはイスラエル人のメシアとして、イスラエルを祝福するために来たのであって、異邦人のあなたの恵みなんて持ってないと言われたのです。しかし、彼女は、自分の予想と違っても、イエスから離れなかったのが素晴らしい。私たちの都合良く物事が運ばないからと言って神の恵みを受け取り損なわないようにしましょう。

2.つまらない感情に陥らない

彼女は、イエスの言葉に対し、私はどうせ異邦人、私は愛されてないなどと、つまらない、ひねくれた感情に陥らなかったから感謝です。私たちは、自分が受け止めてもらえない時、差別された、のけ者にされた、だから孤独だというような感情に陥りがちです。私だけが奇蹟を受けないなど、つまらない感情に陥ると恵みは受け取れません。

3.イエスに認められる賢さを持つ

子どもたちのパンを取って(イスラエル人のために用意されているもの)、小犬(異邦人)に投げてやるのは良くない。このイエスの言葉は、ある聖書学者たちの研究によると、本当に冷たい言葉だと言います。しかし、彼女は立派でした。小犬で結構です。パンくずでいいので私にくださいと、どこまでも神の前にへりくだったのです。イエスはその信仰をほめられ、願い通りになるようにと言われ、その時、娘は癒やされました。変な賢さが神の恵みを妨げる敏感さになるなら、むしろ鈍感でありたいのです。
神の恵みはテーブルから落ちるパンくずであろうと、私の人生には、有り余る恵みです。私たちは、誰からか言われた、嫌な言葉ばかり覚えていて、心に刻みつけ、その人を嫌ったり、批判したりします。人の言葉に敏感にならず、むしろ鈍感でありましょう。聖書の中には、恵みの言葉があふれていますから、神の癒しの言葉をいただきましょう。

カテゴリー: 未分類 | いやしの大きな流れに飛び込もう はコメントを受け付けていません。

主キリストの恵み・奥義の中を生きる

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。      ガラテヤ人への手紙2章19節~20節

ゴールデンウイークの前半は松山でのバザー、後半は九州聖会で主にある兄姉と共に過ごし、熱く祈り交わり、たくさんの恵みをいただき感謝でした。バザーでは、体がくたくたになるまで奉仕し、支え合いながらみんなで作り上げる素晴らしいバザーになりました。ありがとうございました。教会の中には、この世の中や社会の法則や論理とは違う、ここにしかない特別な命と特別な原理原則が存在しています。それは、単なる金儲けの損得勘定や、好き嫌い、人の注目度や話題性ではなく、神から与えられた命や聖書のお言葉に基づくものです。そこに教会らしさが溢れています。バザーでは、伝道のための献金を生み出すために、年齢・趣味・職業・好みも違う兄姉との交わりを楽しみながら喜んで奉仕しました。
教会に存在する特別な力や原動力の中心は、罪深い私たちを救うためにこの世に来てくださり、十字架の上で命を捨ててくださった主イエスです。私たちに与えられる命はこの世で終わるのではなく、天国まで続くことを証明するために、イエスは死の力を打ち破り蘇って神の恵みを証明されました。この十字架と復活のイエスが、私たちと共にいてくださり、教会のど真ん中におられるから、世の中の団体や金儲けのグループとは違うのです。
ガラテヤ人への手紙はパウロが初代教会の人々に書いたものです。単に宗教としての教えや理論を伝えるのではなく、救い主イエスを信じることによって与えられる大きな恵み、特別な祝福、つまり神によって与えられる奥義(秘密、隠されている、特殊なものの意)があり、私たちはクリスチャンとして、奥義を実体験できると語っています。教会生活が当たり前になりすぎて、ワクワクドキドキ期待することがなくなっているのでは残念です。バザーでも、準備の時の期待感と終わった後にも心がなんだかポカポカする余韻があるではないですか。クリスチャンは、人間の努力や訓練では身につけられない、特別な霊的な現象や霊的な賜物、奥義、秘義、必殺技とも言うべき大きな恵みをいただいているのです。今日は聖餐式の聖日です。クリスチャンとして与えられている大きな恵みを再発見し再確認したいと思います。

1.罪人でありながら義と認められている

どんなに良いことをして愛の込められた行いをしようとしても、所詮、罪びとの悪あがきで、心の中は人をうらやんだり、憎んだり、罪深い性質のままであることは、逃がれられない事実です。それでも私たちが清められて、神との関係を回復する方法があります。それはただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ罪が清められることです。

2.古いものは死にキリストがうちに生きる

一見ありそうもないことが起こっています。古い私たちは、イエスが十字架につけられたときに一緒に死にました。今は弱い私たちでありながらも、キリストの命が私たちのうちに生きておられます。パウロは言います。「私は土の器です。しかし、その内側に神の光、キリストの命を宿しています」(Ⅱコリント4:5-7参照)。クリスチャンの人生は不思議です。単に宗教の道徳や倫理を学ぶのではなく、イエスの命と重ね合わせられています。私たちは独りぼっちではありません。神の命と愛が私たちと共にあるのです。この恵みを体験して前進しましょう。

カテゴリー: 未分類 | 主キリストの恵み・奥義の中を生きる はコメントを受け付けていません。

神の恵みの業に富む者

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。…ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。          コリント人への手紙第二9章6節~15節

ゴールデンウィークに入りました。休みの多い1週間ですが、単に休みの多さではなく、私たちの心が喜んでいることがまず幸せの一番の基本です。仕事を休むことができない人もいるかもしれません。しかし忙しさの中でも私たちは喜びを頂くことができることを感謝しましょう。明日のバザーは私たち全員が主催者です。イエス様にあって喜び仕え、祝福の震源地となりましょう。
奉仕し、与え、捧げることの素晴らしさは、実は2000年間の教会の賜物です。今日の箇所で、パウロが語ったことがまさにそれです。コリントは、ギリシャの商業の盛んな豊かな町でしたが、ギリシャの北側にあるマケドニアの人々は貧しく、飢えていました。貧しい教会を支えるために、パウロたちが捧げることをアピールし、コリントの教会から献金と奉仕者が与えられることになっていました。しかし、その熱意が失われ、捧げ物は先延ばしにされていました。

1.幸せの秘訣

そこでパウロは、「あの熱心な信仰をもう一度思い出してください」と言い、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取る(6節)」という有名な言葉を語ったのでした。私たちの信仰生活も、まさに種まきのようなものです。恵みや幸せはいきなりくるものではなく、仕えること、捧げることを通して信仰の種を少しでも蒔いておくことだ、とパウロは語っているのです。

2.本当の幸せな姿

今日特に注目するのは8節。「…すべての良いわざにあふれる者とするために」とあります。ここには、シンプルですが、幸せの法則が書かれています。神はあなたをすべてのことに満ち足りる者とすると書かれています。これは、私たちが一般に求める幸せな人生です。しかし、聖書が語るのはその先、すべてのことに満ち足りている人はすなわち、すべての良いわざにあふれている人である、ということです。これは、聖書のユニークな表現です。満ち足りて幸せになるということは、イコール、神の前ですべての良いわざであふれる者となることだということです。良いわざとは、人々を愛すること、与えること、仕え合うこと、赦すこと、イエスの救いを宣べ伝えて証しをすることなどで、それらの良いわざにあふれる人が、すべてのことに満ちあふれている者であり、これがクリスチャンの目指す幸せな人生の基本なのです。

3.恵みが止まることなく流れる秘訣

経済的に満たされたなら、その経済を用いて神の働きのために捧げ、与えること。元気で体力的に満ち足りているなら、その体力を用いて人々のために仕えることができます。私たちが、本当の幸せの姿を描いて、自分がすべての事柄に満たされることを求めるのは、満たされるだけではなく、神に喜ばれるわざに励むことができる者になるのを求めることなのです。そのクリスチャンとしてのバランスの取れた幸せの姿を求めるなら、神は、成長やありとあらゆる恵みをあふれるばかりに与えてくださいます。
クリスチャンは、愛し、赦し、与えることができます。そういう人生を実現するために、神は、素晴らしいものを与えてくださいます。神に出会った者として、本当の幸せの姿を求めて、クリスチャンらしく喜んで前進していこうではありませんか。

カテゴリー: 未分類 | 神の恵みの業に富む者 はコメントを受け付けていません。

小さい者たちの神の国

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、…言われた。「…あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。…しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。…
                  マタイの福音書18章1節~14節

イエスの弟子たちの関心事は、自分たちの中で誰が一番偉いかということであり、そんな議論を度々していたようです。イエスは弟子たちに、子どものように自分を低くする者が、天の御国において一番偉いと答え、天の御国の地上での現れである教会における人との関わりのあり方、人の見方というものを弟子たちに教え始められます。
今日は小さい者たちのための神の国ということを中心に、神の恵みの言葉を味わいたいと思います。

1.小さい者に心をかけられるイエス

ここに小さい者たちという言葉が出てきます。その例として、小さい子どもたちを呼び寄せて、弟子たちの前に立たせたのです。小さい子どもたちは可愛らしく、愛しい存在であるからではなく、この時代には、労働力のない子どもは無価値な者と考えられていたのです。でも主は、その価値のない子どもたちをそのような目では見ておられないし、そういう目で見てはいけないと言うのです。私たちの主は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言われ、値打ちのない私たち、小さい一人一人を心にかけてくださっていることを覚えておきたいのです。

2.つまずきを与えることへの警告

まずイエスは、つまずきは避けられないと認めておられます。私たちはつまずきやすいのです。つまずくのは私たち自身の問題でもあります。しかし、それでもなお自分が人をつまずかせることがあってはならないということを、肝に銘じておかなければなりません。私たちがイエス・キリストを信じる者として本当に気をつけておかなければならないことは、誰に対してもつまずきを与えないように心がけることであります。つまずきは避けられず、つまずくのはその人自身の問題でもあります。でも極力本当につまずかせない配慮をもって歩む者でありたいのです。

3.人を自分よりも優れた者と思う

弟子たちが、「天の御国では誰が一番偉いか」と質問してきて、イエスは答えられました。「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国に入ることはできない」。私たちはつい偉ぶって、自分を大きく見せようとします。虚栄心が私たちの心の中には存在しています。その小さな思いがあるならば、それを小さな芽のうちに摘み取っておきたいと思います。そして人をつまずかせない、へりくだる生き方を実践していきたいのです。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)。本当にへりくだって、人々を自分よりも優れた者と思いましょう。神の栄光はそこから現れます。

4.私たちは主の恵みに支えられてある

小さい者とは、私たち自身のことでもあります。私たちは、天の御使いたちに支えられているから、父なる神の御顔を仰ぎ見ていられるのです。ヘブル1章14節には、仕える霊である天の御使いが、私たちのために遣わされているとあります。そして父の御心は、私たちが救われることなのであり、私たちの信仰は、自分の力や努力で成立しているのではなく、神の恵みに支えられてあるということをしっかりと心に刻みつけたいのです。

カテゴリー: 未分類 | 小さい者たちの神の国 はコメントを受け付けていません。

キリスト信仰を貫く癒しの御業

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。      ヨハネの福音書14章12節

「主の恵みは朝ごとに新たである」と聖書は語っています。今日の礼拝でも神からの新鮮な恵みが与えられることを期待し信仰の器で受けとめましょう!
今日は癒しの礼拝ですが、クリスチャンとして生きていくときに癒しを頂くのは当たり前のことであると知って欲しいと思います。今日の聖書箇所の中でイエスは重要なことを語られました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます」とイエスが言われる時は、特にイエスが注意を喚起している所ですので、その真理を見逃してはなりません。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりも大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」と弟子たちに語られました。イエスを信じるクリスチャンは、イエスより力強いわざを行なうようになるだろう、それはイエスが十字架と甦りの後、天に昇られて天から聖霊を下し、私たちを聖霊で満たしてくださるから、イエスがなさっていた御業以上のわざさえ行なうようになると言われたのです。イエスの御業とは、神の御言葉を語り人々を救いに導き、病んでいる人々を癒すことに他なりません。イエスの働きに、癒しは当たり前のように含まれ、聖霊が働く時代には、私たちもそのような働きができると約束されたのです! 聖書箇所を見ながらそれを確認しましょう。

1.イエスの癒しの御業

イエスが救い主キリストとしての公生涯を始められようとした最初の時に、旧約聖書を開いてご自分の働きを預言的に語られました。救いの到来を人々に宣言するために来たのであり、その中には、当然、癒しのわざが組み込まれている、と(ルカ4:16-19参照)。主イエスの働きとは、具体的にどのようなものか。ルカ4:40では、救い主イエスが、単に癒しを期待されただけでなく、常に癒しの御業を具体的に現されていることを感謝しましょう。

2.弟子たちにも与えられた癒しの御業

癒しの御業は、イエスだけでなく、十二弟子にも与えられていました。ルカ9:1-2を見ると、十二弟子には、福音を宣べ伝え、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を授けられ、そしてルカ9:6には、十二弟子が、福音を伝え病気を直したと記されています。さらに、十二弟子だけではなく、イエスが70人の弟子を、福音を伝え病気を直すために遣わされたと記されています(ルカ10:8-9)。そして17節で彼らが、主の御名の権威によって祈ると、悪霊さえ服従したとイエスに報告しています。

3.クリスチャンに与えられる癒しの御業

この癒しの恵みは、それ以外のイエスを信じ従う者にも与えられるとイエスは約束しています(マルコ16:17-18参照)。使徒5:12、15-16を見ると、初代教会に癒しのわざが溢れていたことがわかります。
このように確認してみると、癒しは特殊なことではないことがわかると思います。だから、私たちの教会でも癒しは体験できるのです! なぜなら、イエスの福音を宣べ伝えるキリストの体である教会、クリスチャンの集まりの中にはいつも癒しが当たり前のように伴ってくるからです。ヤコブ5:14-15には具体的に教会での癒しの働きが記されています。
今日もイエスが共におられる礼拝で、イエスの癒しの御業にあずかりましょう!

カテゴリー: 未分類 | キリスト信仰を貫く癒しの御業 はコメントを受け付けていません。

神様からの言葉に従う決心をする

…あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。…ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。…モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで。」と言った。ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。           ルツ記1章1節~22節,2章1節~4節

今日は、神様の御言葉に従う決心をするということを、ルツの決心を通して学びたいと思います。

1.信仰による決心

飢饉を逃れ、モアブの地に移住したナオミは、10年の間に、夫と、妻を迎えた2人の息子を亡くしてしまいます。ベツレヘムの飢饉が止んだことを聞き、ナオミはベツレヘムに帰り、若い2人の嫁、ルツとオルパは、モアブの実家に戻して、幸福な再婚をしてもらおうと願います。ナオミの優しい語りかけに、オルパはモアブの地に帰って行きます。しかし、ルツは16節にあるように、「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と告白します。ルツは異邦人の女でしたが(異邦人はユダヤ人にとっては人間扱いもされない存在であった)、ナオミとの生活を通して、神様のことをしっかり聞いていたのです。モーセの十戒も、神に喜ばれる生き方、神の教えを守って生きる生き方も、ナオミから教えられていたのです。ナオミを敬って生きる、ルツの決意の堅さを見て、ナオミはもう何も言いません。ルツは異邦人の女でありながら、信仰に生きたのです。

2.信仰による行動

ナオミと共にベツレヘムに行ったルツは、モーセの律法と姑の助言に従って行動します。ナオミに落穂拾いに行かせてくださいというルツは、前向きで謙遜、自分の手で働いて生きようとしています。こんなルツに、神の御手が働きます。2章に「はからずも…ボアズの畑であった」とあります。これは神様がはからってくださったのです。ボアズと出会ったルツは、彼と結婚しオベデという子どもが与えられます。マタイ1章のイエス・キリストの系図に記されているように、ダビデの先祖、主イエスの先祖となるのです。ルツは信仰に生き、贖いという祝福を得、メシヤの家系に名を連ねるという、大きな祝福を頂いたのです。ルツの決断が、歴史の中に、このルツ記を残し、世界中の人々が恵みを頂くことができるのです。
私たちもルツの信仰と決断を学ばなければなりません。神の教えに従うという決心、教えを知っているだけではなく、その教えに従って生きる道を選んでいこうではありませんか。そして、信仰の決心を堅く持ち続けようではありませんか。そして、神の恵み、祝福を頂いてまいりましょう。
聖書にはルツの他にも、イエスの母マリアの決心(ルカ1章)、バビロン捕囚で捕囚の民となりながらも、ネブカデネザル王の金の像を拝まなかった、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの決心(ダニエル3章)、それぞれに神の豊かな祝福が注がれました。私たちも信仰者に習い、神に従う決心をし、行動してまいりましょう。私たちは、多忙な日々ですが、神を愛し、人を愛することの筆頭は、父と母を敬うことです。イザヤ書に、神の望む生き方は「あなたの肉親の世話をすることではないか」とあります。直訳すると、あなたの肉親から身を隠さないことではないかということです。ルツとナオミの美しい嫁姑の関係から学びましょう。神の御言葉に従ったルツは、姑ナオミを心から愛し、ナオミのそばから離れませんでした。そんなルツに対して、神は祝福を与えてくださいました。日々、自分の思いではなく神の御言葉を選び取り、従ってまいりましょう。

カテゴリー: 未分類 | 神様からの言葉に従う決心をする はコメントを受け付けていません。

主の復活のある豊かな人生

…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
             コリント人への手紙第一15章12節~22節

今日4月1日は、イースターの聖日です。新しい週の始めであり、新しい月の始め、また、新年度の始めでもあります。素晴らしいタイミングで、甦りの主によって、力、元気、命を与えられ、新しい一年の日々に向けて歩み始めましょう。クリスマスは、毎年12月25日で日付が固定されていますが、イースターの日付は毎年変わります。聖書によると、イエスが甦られたのは、週の初め(日曜日)の早朝でしたから、日曜日を主の日、聖日として礼拝するようになりました。イエスの十字架と復活からすでに二千年の年月が流れましたが、罪の赦し、永遠の命の約束は全く変わりません。だから今でも世界中で福音が宣べ伝えられ、信じた者は救われ永遠の命の希望を与えられます。主の復活のある豊かな人生を歩むために大切な3つのことを確認しましょう。

1.神にある高くて大きいスケールの目標

幸せを手にする秘訣は、どんな世界でも、ゴールをどこに置くかによります。自分の理屈、感じ方、ひらめき、悟り、道徳心、宗教心のレベルではなく、よりスケールを大きく保つことにより、人生の豊かさは色あせません。私たちクリスチャンの人生のゴールは、永遠の命、神と共に住まう天国です。それを実現するのは、私たちの頑張りではなく、イエスの復活にあります。主の復活により、クリスチャンとしての信仰は、道徳や宗教観の枠の中で終わらず、神に受け入れられ、とこしえに神を賛美し喜ぶことができる希望、夢、目的があることを感謝しましょう。だからクリスチャンは、何歳になっても夢を失いません。死ぬ直前まで喜びがあり平安があります。

2.究極のハッピーエンドの約束

今の日本は、豊かで平和です。しかし、歴史を振り返ると、神を愛し、人を愛し、命を懸けて試練に挑戦したたくさんのクリスチャンがいました(ヘブル11章参照)。彼らは不幸だったのでしょうか。いいえ。神の愛が実現されるために、たとえこの世で望んだものが手に入らなくても、神から与えられるもっと大きな約束である永遠の命や祝福を信じて信仰の生涯を貫いたのでした。イエスの愛をいただくことによって、甦りの命をいただき、万が一この世では満たされなくても、神が共におられれば必ず祝福され、勝利し、大成功します。必ず幸せになります。この喜びを私たちの魂の深みにまで与えられていることを感謝しましょう。

3.甦りの命を実体験する

私たちは物心ついた頃から、教えられないのに嘘をつき、人に隠れて悪いことをするようになります。どんなに立派に見えても神の前に立つ時、罪がないと言える人は一人もいません。一人のお方が十字架上で私たちの罪を全部背負って死に、復活によって私たちに新しい命が与えられました。イエスに、私の心の中に宿ってください、と祈り求めて告白すれば、イエスの命と恵みをいただくことができるのです。それを今日、あなたも実体験すべきです。イエスの十字架からの復活は、私たちのためのものです。イエスが甦られたから、永遠の命へとつながるのです。どんなに厳しい事態でも、必ず力を与えられ、死を超える命が約束されています。喜びはなくならず、感謝は消えず、平安は揺るがされません。

カテゴリー: 未分類 | 主の復活のある豊かな人生 はコメントを受け付けていません。