主にある“一途さ”のある信仰

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
                 ピリピ人への手紙3章13節~14節

皆さんのお祈りに支えられて、一週間のアメリカ出張から帰ってまいりました。私たちが日本事務所をしているメトロ・ワールド・チャイルドの本部ビルに、ビル先生をはじめ世界中から責任者が集まっての会議でした。子供たちに対する熱心な働きについてお互いに証しし、これからの働きについて話し合うことができました。この会議を通して一途に一つのことに集中して熱心である、というクリスチャンとしての姿勢をもう一度教えられて心から感謝いたしました。
さあ皆さんのこの一週間はいかがでしたか? 神が共におられますから、私はこんなふうに祝福され、充実していました、と証しできる一週間を歩もうではありませんか。私たち日本人は毎日大忙しで、毎日いろんなことに追い掛け回されています。でも忙しさが心を滅ぼし、中身のない、疲れるだけの日々になりませんように。
今日開いた聖書箇所から、クリスチャンとして、主にあって充実した歩みをしたいと思います。そのためにこの朝、見直しておきたい鍵が3つあります。

1.心に一途な信仰があるか確認しよう

偉大な伝道者と呼ばれていたパウロであっても、現状に全く満足していなかったのです。この一事に励んでいます、とパウロが語ったように、この一週間あなたが特に祈っていくテーマを一つ持ちましょう。自分のために、あるいは誰かのために、祈ろうではありませんか。時間を調整して、クリスチャンとして集中して取り組むべき事柄を一つ絞り込み、少なくともそれだけは、しっかりイエスに祈って行動しましょう。
クリスチャンとして、今週どんなことをしましたか、どんなことにチャレンジしましたか、と問われた時、これに力を注いでみました、と明確に言える一つのものをしっかりと持っていきたいと思います。

2.後悔ではなく、前に向かって前進しよう

ここに、「すなわち後ろのものを忘れひたむきに前のものに向かって進み」とあります。この一週間が、何か特別な日々ではないかもしれませんが、私は前進する者でありたいと思います。クリスチャンであることの素晴らしさは神にあって私は日々前進することができるということ。確かに弱さ足りなさを抱えた私たちですから、過去には失敗もいっぱいあるでしょう。日本人は、くよくよ考えてしまう癖がありますが、神は希望の神ではありませんか。イエスはあなたに寄り添いながらも、必ず前に向かっておられる。イエスとともに前に向かって前進し、失敗を単なる後悔で終わらせず、失敗の土台の上に私は前進
を神から与えられたいと思います。

3.イエスを見上げて精一杯歩もう

イエスを見上げ、イエスからほめていただけるように、与えてくださる栄冠に向かって、精一杯努力していきましょう。「わたしがあなたを選び、任命した。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためである」という、イエスの御心を頂いている私たち一人一人の人生の中には、必ずなすべき事柄があります。人と比べて幸せならいいと考える雰囲気が世の中に溢れています。でも私たちは、神の御心によってクリスチャンにしか与えられない神からのビジョンがあることに気付き、その実現のため、イエスからほめていただけるように、私たちの人生を精一杯向上させていきましょう。

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自ずから与えられるいやしの恵み

ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。…そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
                    使徒の働き3章12節~16節

イエスを信じて歩んでいくという事はイエスの救いにあずかり私たちの命が変えられる事です。そしてイエスはいつまでも変わる事のない救い主ですから、「主の恵みは朝ごとに新たなり」というお言葉の通りにイエスが働かれる所にはどこででも新鮮な恵みが与えられますから感謝します。あなたの人生には辛い事があったかもしれません。しかし、あなたはイエスの愛に触れ、救われたのです。この救いによって私たちは生まれ変わらせていただき、日毎に新しい恵みが与えられ、主と共に歩んでいくことができるから喜びましょう。
今朝は癒しの礼拝です。癒しの恵みをしっかり受けとめてまいりましょう。今日の聖書箇所は、ペテロとヨハネが神殿で祈り、「美しの門」を通った時に、施しを求めてきた足なえの男を瞬時に癒した(1~8節)後、引き続き起こったペテロの演説の箇所にあたります。この聖書箇所から3つのポイントを押さえておきたいと思います。

1.癒しは信仰生活の中で自然に起こる

ペンテコステによって誕生した教会にはキリストの愛、聖霊の力が働き、集う人々は毎日祈り、主イエスの御言葉に立ち、愛の交わりを成長させ続けていました。そのような状況の中でペテロとヨハネはいつものように宮で祈り、帰る道筋で物乞いの男に出会いました。ペテロが「イエスの名によって歩きなさい」と言った結果、なんと瞬時に彼は癒されたのです! 兄弟姉妹、この事を掴み取って下さい。ここで彼らの祈りを通して最初の偉大な奇跡の御業が体験されたのです。彼らは特別な準備、訓練をしたわけではありません。ただ聖霊が注がれ素直な信仰生活をしている、その流れの中で癒しの御業が当たり前のように起こっている事に注目しましょう。ですから私たちが信仰に励んでいるならば当然のように神の癒しの御業、イエスによる癒しが、ありのままのあなたの人生の中にも起こってくるのです。神の恵みが与えられる事を信じましょう。

2.癒しはイエスの御名と御名を信じる信仰によって起こる

ペテロは16節で「イエスの御名に力がある」と語っています。イエスの御名とは、私たちの救い主のお名前ではありませんか! この御名に人々を救う権威があり、救いの力の出所があり、癒しはイエスの十字架により完成しているのです。御名を信じる信仰を用意して、イエスの御名の権威と、御名を信じる信仰が合わさる時に癒しの御業は起こるのです。決して私たちの努力や頑張りや能力ではない事をはっきり知りましょう。あなたが頑張りすぎると神の御業を邪魔してしまいます。素直にイエスの力、権威を受けとめたいと思います。イエスの御名と御名を信じる信仰によって癒される事を感謝しましょう。

3.主の御前に自分の清さを求める

ペテロの演説はまだ続きますが、話の中心点は「悔い改め」(19節)、「邪悪な生活から立ち返る」(26節)ことになっていきます。イエスの御名に相応しく御名を素直に信じる人の心は、主の御前に悔い改めて清められた心です。私たちの心は正しいと思う考えの中にも邪悪さが潜んでいる事に注意しなければなりません。だからこそ、主の御前に自分の清さを求めようではありませんか!

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主キリストの血による恵み

…私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。…私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。…しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、…ますますそうしようではありませんか。
                ヘブル人への手紙10章19節~25節

今日は母の日です。もし忘れていたら、今からでもお母さんたちに感謝を伝えましょう。この母の日は、世界中で広く祝われていますが、元々アメリカの教会から始まり、当時の大統領令として5月の第2日曜日が母の日として制定されました。その後、父の日も教会から世界中に広まりました。アメリカは、建国以来2百数十年の中で、4回の大リバイバル運動があり、この記念日が制定された時は、3回目のリバイバル運動の中でした。そのためこの習慣が世界中に広がったのです。そして、これから日本の社会を変えていくのは私たちの教会、これを信じて前進しましょう。
私たちの交わりとは、父なる神、御子なるイエス・キリストとの交わりです。私たち一人ひとりが、イエスと結びつくことによって、それぞれがイエス・キリストを通して交わるのです。主キリストによって与えられた繋がり、交わりが、私たちの人生にあることを喜びましょう。聖餐式を前に、主の血潮により与えられた3つの大きな恵みを確認しましょう。

1.イエスの血潮によって救われた

旧約の時代には、民の代表である祭司が神殿で神を礼拝し、そこにある幕を通って最も神に近づく至聖所に入ることができたのは、大祭司と呼ばれる人だけでした。
しかし、イエスが来られたことにより、すごいことが起こりました。イエスの血潮を通るなら、神が共におられるいのちの場所、至聖所に誰もが入ることができるようになったのです。このイエスこそ本物の大祭司であり、イエスの十字架の血潮で救われ、私たちも神の臨在に触れることができるのです。聖餐式を単なる儀式としてお茶を濁すことがないように、信仰を持って感謝して受け止めましょう。

2.新しい生き方が与えられている

私たち人間が生み出すものはいつも色あせ、限界があります。しかし、洗礼を受けてクリスチャンとして歩む者は、色あせない希望を告白する生き方、死の向こう側にある永遠のいのちの喜びと平安、希望を持って生きることができます。
聖餐式でイエスの十字架の恵みに与(あずか)る時、どんなに弱い私でも揺るがない、いつも希望と信仰を告白できる、強い新しい生き方を与えられていることを感謝しましょう。私たちは弱くても、私たちと共におられるお方は強い、と聖書に書かれているこの新しい生き方が与えられていることを喜びましょう。

3.信仰による交わりが与えられている

救われるということは、兄弟姉妹と共に歩む生き方が与えられていることでもあります。自分が愛されるだけでなく、愛に満たされた行いをお互いにし合えることを感謝しましょう。
この当時、せっかくキリストによって救われたのに、集まることをやめたり、わがままな人が出始めたようです。お互いに個人的なことは詳しく知らないかもしれませんが、その人もまた、イエスに愛された人であり、イエスを通して、主にある兄弟姉妹なのです。だから、教会を通して互いに交わるのです。イエスが私たちのために血を流し、救いを成し遂げられ、この方によって新しい生き方が与えられました。
聖餐式でイエスの愛をいただき、強められ、兄弟姉妹を愛して歩むことを告白して祈りましょう。

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神様と深い関係を持つ

…ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。…イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。…イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」…ザアカイは立って、主に言った。「…私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。…                ルカの福音書19章1節~10節

私たちの愛する松山福音センターのスタッフであった井原真弓姉が、5月1日に召天されました。実は、バザーの前から危篤状態でした。バザーも勝利のうちに終わり、万代牧師が九州聖会や日本宣教フェスタの御用で留守になる前に、前夜式も告別式も松山にいるタイミングで執り行うことができました。今は悲しい思いでいっぱいですが、姉妹の魂は天国にあり、私たちのために祈って下さっていることを感謝したいと思います。
さて今日は、ザアカイの話を通して神と深い関係を持つことの恵みをしっかりいただきましょう。

1.神に近づきなさい

ザアカイは、取税人の頭で金持ちでしたが、人々からは罪人の頭と言われ、本当の平安はありませんでした。イエスに救われた人の話を聞き自分もイエスに会いたいと思い、背の低い彼は、いちじく桑の木に登りました。イエスは、そんな彼の名を呼んで、「あなたの家に泊まることにしている」と、ザアカイの思いもよらなかったことを言われました。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)との信仰を持って一歩神に近づけば、神は何歩も近づいて下さいます。
4月にイースター、6月にはペンテコステがやってきます。「父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)。旧約では、預言者を通して語られる神でした。イエスが来られた時は、インマヌエルの神としてぐっと私たちに近づいて下さいました。しかし今は、信じる者一人ひとりの心の中に聖霊として住んで下さるのです。

2.神との深い交わりを持つ

ザアカイはどう悔い改めをしたらいいか、どう生きたらいいかわかりませんでしたが、イエスに会えばわかると思いました。そして、家に来ていただいて一緒に食事をしながら、はっきり教えられたのでした。「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、4倍にして返します」と具体的に告白し、救いをはっきり経験しました。イエスがそうしなさい、と言われたのではなく、イエスとの交わりの中で教えられたのです。私たちが神との交わりを持ちさえすれば、神は私たちが知りたいこと、なさねばならないことを必ず具体的に教えて下さいます。神との交わりは、礼拝や祈りはもちろんですが、聖書を読むことが一番の方法です。
私の証しですが、人は何のために生きるのかいつも考えていた時に、偶然教会のパンフレットを手にし、教会に通うようになりました。神によって目的を持って生かされていることを教えられ、受洗しましたが、しばらくして教会を離れてしまい、どんな仕事をしてもうまくいかず満たされないままに、とにかく聖書を読み続けました。そんな中で、マタイ5:23,24の御言葉によって、離れていた教会に行って赦しを請い、戻ることができました。祈ってもわからないことも、聖書を読み続けていると神が導いて下さいます。ザアカイのようになりふり構わず、神に近づき、聴く姿勢があれば、神は必ず御霊によってあなたを導き、選ぶべき生き方を教えて下さいます。聖書通読表を用いて聖書をしっかり読み、神から与えられた御言葉に素直に従って、ザアカイのように実行していく者でありたいと思います。

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聖霊に導かれる教会

…その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、…多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。…みないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、…みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。                   使徒の働き2章41~47節

昨日バザーでご一緒できた皆様、共に一生懸命に奉仕してくださり、ご家族やご友人をお連れくださった兄弟姉妹、本当に感謝します。天候も守られ、すがすがしい一日を過ごすことができました。お客様からも、素晴らしいですねというお声や次回への期待も寄せられました。体に疲労感は残っているかもしれませんが、主が私たちに与えてくださっている霊的な、心や魂に響く喜びを大切にしましょう。
今日は4月の最終日。今月は大きな行事として、主イエスの復活をお祝いするイースターがありました。しかし、イエスが復活して、それで終わりではなく、復活の主は弟子たちと40日間共におられてから昇天し、その10日後のペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下り、教会が誕生したのです。
今日の御言葉から、私たちも人の業ではなく、聖霊に導かれる教会として成長するための3つの要素を、主は気付かせてくださっています。

1.信じる者として共に集い続ける

この個所に共通している要素は、これです。彼らは、信じる者として常に共に集まり続けていたということです。キリストの教会は、人々がしっかり共に集まることのできる場所です。バザーにおいて、私たちは心を一つにして主のために奉仕をしました。ひとりぼっちの孤独な信仰ではなく、たくさんの私たちであったけれども、互いに力を合わせて祈り合い、かばい合い、補い合い、一つになりました。昔に比べて今の世の中は幸せになるための条件はそろっているようでも、喜びの感覚が社会全体から消えていっているように思えます。それは人が一緒に過ごすことが極端に減っているからです。プライバシーはありがたいですが、聖書は、人はそもそも一人で生きるようには造られていないと言っています。

2.霊的な中心点をしっかりと持つ

ペテロら使徒たちが語る教えに向かって皆信じて集中し、使徒たちを通して、しるし・不思議が行われました。教会のルールや組織的なものはまだありませんでしたが、神への本当にへりくだった恐れが教会の中にあったのです。私たちのバザーも霊的な中心点がはっきりしていたから恵まれました。それは、私たちが自ら仕え奉仕していく中で兄弟姉妹たちとの交わりを建て上げ、人々に証しをしていくこと、そして生み出したものを伝道のために用いるということです。教会がますます聖霊を注がれて成長するために、神の言葉への恐れ、教会の霊的な中心点を明確にして忘れないようにしましょう。

3.誰にとっても教会こそが本当のオアシス

聖霊によって誕生した弟子たちの教会は、人々との接点を忘れず人々に影響を与える教会でした。人々から認められ好意を持たれ、毎日仲間がどんどん加えられました。常にイエスの福音が語られているから、どんどん救われる人が起こされました。私たちはクリスチャンと世の人々を線引きしすぎて世捨て人の集まりのようにはなりません。世の中がばらばらになっていく時代だからこそ、共に集まり、一緒に行動し、心を一つに結びつける教会にものすごい価値があります。人々との接点を決して忘れず、周りのみなさんにも神の愛、救いの影響を及ぼす教会として用いられるようになりましょう。人の業ではなく、神の御業が現れる教会となりますように。

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いやしの恵みを制限しない

…イエスはナインという町に行かれた。…やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。…主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、…「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。…
                   ルカの福音書7章11節~17節

先週はイースターの聖日でした。この癒しの礼拝でも、十字架と復活により、罪を清められ死を打ち破り甦られたイエス・キリストからのよき恵みが一番良い形で与えられることを信じ期待しましょう。
主のいやしを語る時、単に病気が治るとか痛みがなくなるということだけで終わりません。イエスが、死そのものを取り扱われ、死人さえ生き返り、癒さるという記事が、特に福音書の中にいくつも書かれていることを忘れてはいけません。小さく萎縮した心ではなく、聖書が伝えているとおりの豊かさ、神の恵みの大きさを意識したいと思います。
イエスの一行がナインという町に行った時、葬式の行列に出会いました。ご主人に先立たれたのか、やもめである母親の唯一の望み、かけがえのないひとり息子が死んだ葬儀でした。イエスは母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてよい」と言われ、近寄って棺桶に手をかけ、「起きなさい」と言われたのです。すると、死んでいた青年が起き上がって、ものを言い始めたので、人々は恐れおののいたという記事です。ここから、3つのことを覚えましょう。

1.神にはどんなことでもできる

主の癒しの恵みは死の領域まで拡大し、人にはできない、絶望だという所にまで主は希望をもたらされたのです。人間的な常識で、自分で枠を決めるのではなく、主は、死んでいる者さえ生き返らせると信じ、私たちの信仰の器を精一杯拡大したいのです。今の知識が全てではなく、神の中にある知識や力は豊かで力強いものであることを認めましょう。この病は治らないと決めつけず、神には何でもできるという信仰を拡大しましょう。

2.主の愛にとって小さすぎる者はいない

偉大な主、イエス・キリストが、とことん愛を持って接して下さることを感謝したいのです。たったひとりの息子を失い涙に暮れている彼女を主はかわいそうに思い、普通の人なら忌み嫌う棺桶にまで手を触れました。私たちの目にどんなに価値のない者のように見えても、主の愛にとって小さすぎる者はありません。弱さを抱える私たちのことをかわいそうに思い、愛し、涙さえ流して下さるお方です。
あなたが祈る時、主の愛は、あなたに向けられています。たとえあなたが誰からも忘れ去られた存在であっても、主はあなたを愛し、愛と力を注いで下さることを感謝しましょう。

3.神が私たちの所に現れて下さった

その後、皆は恐怖を抱いて、大預言者が現れた、神が私たちを顧みて下さったと言って神をあがめました。その人々には、イエスが何者かはわかっていませんでした。十分知りもしないで語った言葉でしたが、実は、正しかったのです。確かに、神が私たちを顧み、弱い私たちを憐れんで下さったのです。イエスが、私たちの罪を背負って十字架で死に、死の力を打ち破って甦って下さったのは、神が私たちと共におられ、顧みて下さることの現れです。
癒しを求める時、イエスの命は、私たちの体を本当に生かし、救いと命を与えて下さるのです。確かに主なる神が私たちの所に現れて下さったのです。この、主の御業を今ここで、私たちも体験しようではありませんか。

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いつも、いつまでも、共におられる主

…イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
   マタイの福音書28章16節~20節、ヨハネの福音書14章16節

イースターおめでとうございます。
イースターは、イエスが死から蘇えられたことを祝う聖日です。イエスは、救い主としてこの世に来られただけではなく、罪の無い御方でありながが、十字架の上で私たちの罪のために身代わりとなって刑罰を受けて死んで下さったのです。けれど神は、御子イエスを死んだままでは終わらせませんでした。死の力を打ち破る命を与えられ、イエスは3日目に死から蘇り、復活して下さいました。そしてイエスご自身が証明して下さったことは、私たちが死んで、涙の別れで永遠に終わってしまうのではなく、私たちの存在の締めくくりは、神と共にある永遠の命へと繋がるということです。
主の十字架の死と復活により、私たちの存在が、死で終止符を打たれるのではなく、永遠に生きる命を与えられたのです。ですから、クリスチャンたちは、イエスが十字架で私たちの罪を潔めて下さり、死から蘇って下さったことにより、私たちの命にも死の向こう側に死を超える命があるのだと確信し、2千年間に渡り永遠の命を喜び、イースターを祝い続けているのです。ですからクリスチャンの歴史を振り返ると、どんな試練の中にあっても喜びの歴史となっているのです。あなたにも永遠の命が与えられているのです!この事実を心から感謝しましょう。
そして、イースターを私たちがここまでお祝いするのは、イエスがご自分の命を捨ててもいいほど私たちを愛して、永遠の命まで与えて下さったからにほかなりません。聖書は本物の愛を私たちに伝えています。この本物の愛を心に刻み込みましょう。
残念なことに、私たち人間は、誰も真実の愛を持ち合わせていません。愛情があるふりをして、罪を野放しにするような世の中の風潮があります。私たちはそういう時代だからこそ、このイエスの愛を聖書を通して学び、受けとめ、自分のものとしたいのです。今日の聖書箇所ではマタイの28章20節と、ヨハネの14章16節に特に注目し、クリスチャンの信仰の真髄となる2つのことを確認したいと思います。

1.主はいつも共にいてくださる

24時間、四六時中、私たちの意識があろうとなかろうと、主が共にいて働いて下さることを感謝したいと思います。蘇りの命を与えられた主が言われる「いつも」ですから、本当に、どんな時も、ということになります。イエスを信じる信仰が素晴らしいのは、イエスがいつも共にいて下さるからです。私たちがたとえイエスのことを忘れたとしても、イエスは私たちを守り、伴って下さり、一緒にいて下さる、だから私たちはどんな状況でも大丈夫なのです! 常に守られ、助けられ、導かれていることを喜びましょう。

2.主はいつまでも共にいてくださる

そして主イエスが、聖霊によって 「いつまでも」共にいてくださることを感謝しましょう。「いつも」ということが「今」を確実に感じさせると同時に、「いつまでも」ということ、それは未来、将来に向かって絶えることのない約束という意味合いがあります。
私たちの「いつまでも」は、時間とともに色褪せてしまいがちです。けれど、イエスの愛は「いつまでも」続く、永遠に続く愛です。「いつも」「いつまでも」私たちとともにいて下さる神に感謝しましょう。

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ゲツセマネの祈り

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」…イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」       マタイの福音書 26章39節、42節

エルサレムの神殿の東、ケデロンの谷を渡り、オリーブ山のふもとにある、「油しぼり」という意味のゲツセマネの園。十字架の前夜、弟子たちとの最後の晩餐を終えて、主イエスはそこで祈られました。それは、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれています。

1.主と同じ言葉で祈る

私たちが生きる目標は、神に似る者になることです。人はそのように造られたからです(創世記1章)。そして、祈りの目標も、神である主に似ること、主が祈られたように祈ることです。それにはまず、主が祈られた同じ言葉で祈ってみることです。
このゲツセマネの主の祈りをそのまま祈ってみてください。取り去ってほしい苦い杯のような事柄を、自分の中でかかえこまなくてよいのです。素直に「この杯を私から過ぎ去らせ、取りのけてください」と祈っていいんです。そのとき、ものすごく解放されます。主と本音の部分でつながって、もう私たちは孤独ではなくなります。普通なら、できないこと、したくないことはしない、それで終わり、そこが限界です。しかし、正直に自分の本音も弱音も打ち明けながら、「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と祈るとき、自分の考えや力の枠を超えて、神がよいと思われる最善の答えを、神の全能の力で行ってくださると、信じ、委ねることができます。自分の枠を超えた可能性が開かれます。心に光が射し込んできます。そして、その苦い杯を取りのけることが主の御心なら、必ず状況は変えられます。主の御心でなく、苦い杯がそのまま取りのけられないとしても、受けとめ方が全く変わってきます。外から、誰かから押し付けられたものではなく、神から与えられたものとして、苦い杯の意味が、味わいが変わります。ぜひ主と同じ言葉で祈ってください。

2.主と同じ心で祈る

祈りにおいて、主に似る者となるために、主と同じ言葉で祈るだけでなく、祈りに込められた主の御心を知って、主と同じ心で祈る者に変えられましょう。
私は以前、このゲツセマネの祈りがわかりませんでした。私たちが受けるはずの罪の罰を身代わりに受けられる十字架の苦しみ、確かにそれは苦い杯のようなものだとしても、主はそのためにこの世界に来られたはずなのに、それを嫌がり、取りのけてほしいなんて…、主は私たちのための十字架を嫌々受けられたのだろうか…、私は理解できませんでした。しかし、ある時、祈りの中で教えられました、私が受けるはずの罪の罰という苦い杯は、主でさえも受けたくないと思われるほどのものだったと。それほど大きな罪、苦い杯を受けてくださったのは、誰のためなのか、それは私のため、私たちのためです。この祈りに込められた主の御心は、愛です。とてつもなく大きな愛なのです。そして、この祈りがあったから、十字架があり、復活があり、愛と救いの御心がこの地に現わされ、アダムとエバから始まった罪の歴史はひっくり返り、この世界は変わったのです。

「主よ。この杯を取りのけてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」。それは、世界を変えた祈り。そして、私たちも変えられました。これからも、この世界は変わり続け、救われ続けます。この祈りが、祈り続けられるからです。私たちが、教会が祈り続けるからです。

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初めの愛、初めの行いに立ち返ろう

エペソにある教会の御使いに書き送れ。…「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。…
                     ヨハネ黙示録2章1節~5節

4月の始まりと同時に、新しい年度の始まりです。私たちの信仰も神から新しい力をいただきましょう。私たちは、決して完璧ではありません。中途半端で、弱さを抱えています。そんな私たちと共にいて励まして下さるのは、他でもないイエスです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ書41:10)と約束された神の恵みが新鮮に注がれることを感謝します。
ヨハネの黙示録は、預言的な象徴やたとえ、暗示的な言葉で表現される部分も多い書です。ここでは、個性ある、信仰の持ち方に差がある7つの教会へ、主からの信仰の警告のために手紙が送られました。2章はその前半部分で、まずエペソの教会に送られた手紙から始まります。救い主イエスは、私たちが今までどれほど一生懸命に信仰の歩みをしてきたかをご存知です。主は、私たちの人生のひとコマひとコマを共に歩んで下さる神です。すべてをご存知のイエスだからこそ、今抱えている微妙な心のズレ、危うさ、間違っている事に対して、ビシッと忠告して下さいます。それに耳を傾けたいと思います。今日は2つのことに注意して、信仰を調整しましょう。

1.初めの愛を思い起こそう

これまであなたは頑張ってきました。熱心に見えるあなたに、「初めの愛」が燃えていますか。いつの間にか、信仰が冷たくなり始めてはいないでしょうか。社会、家族、仕事、友だちのことで、相手のダメなことばかりが目に付き、他人を批判し責めたててはいませんか。私たちクリスチャンは、神の光に自分を照らし、悔い改め、躍動感や深い感動があるか、マンネリ化して冷たくなっていてないか、まず自分の心を探る者でありたいと思います。自分の罪の身代わりとなって十字架の上で死んで下さったイエスに初めて出会った時、イエスの愛に感動したことを思い出して下さい。教会に行き、祈ることに心がワクワクし、いつも感謝し恵まれていた、そんな初めの愛を取り戻して欲しいと思います。人間の心は変わりやすいものですから、いつも聖霊が注がれ、キリストの愛で満たされたいと思います。

2.初めの行いからやり直す

神が私たちに求めていることは、高度で複雑で難しいことではなく、基本中の基本です。初めの愛に相応(ふさわ)しい初めの行いは、素直な悔い改めです。私たちが一番気をつけなければならないことは、高ぶりです。しばしば、命を与えて下さった神よりも自分が偉いと錯覚して、罪を犯します。たとえ信仰生活が長くなっても、変わらずへりくだり、主を見上げる者でありましょう。神の目から見れば、皆、どんぐりの背比べなのですから。大切なことは基本に立ち戻ることです。具体的には、忠実な礼拝出席、心からの祈り、奉仕、感謝のささげものです。
新年度になり、まわりの環境が変わっただけではなく、主の御前に新鮮な命をいただきましょう。もっともっとわくわくして御言葉に接し、素直なクリスチャンになって、キリストに愛されている一人の魂として自分を見つめ直せば、感謝すべきことが山ほどあります。ありとあらゆる可能性にあふれています。主が共にいて下されば、喜びと可能性の日々を送ることができます。今日の聖餐式にあずかり、信仰によって刷新されて新年度を歩み始めましょう。

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神の御心への決断

…民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。…エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」…そこで、モーセとアロンは、…全集会の集まっている前でひれ伏した。…ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは…次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。…主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ。…」                   民数記14章1節~9節

世間は森友学園のニュースで持ちきりです。しかし、万が一総理大臣から寄付があったとしても法律的にはなんの問題も無いので、実はわざわざ国会で証人喚問をする必要などないのです。それでも、野党やマスコミからは総理大臣批判の格好のネタとしてことさらに取り上げられ、総理夫人との関係などが長々と報道されています。そんな話題を聞いていると世の中というのは、人の都合によって真実が捻じ曲げられているものだと感じます。国政的には、北朝鮮のミサイルを始め、討論すべき問題は山積しているのですから、国会らしく筋の通る論議をしてもらいたいものです。と同時に、つくづく同じ状況や同じ出来事、同じ事実に基づいていても、人の話というのはどこまで変化してしまうのだろうと思います。同じ出来事・同じ事実にもかかわらず私たちは本当に神の御声を聞いているでしょうか。人の言葉や理屈ばかりで、神の御言葉を聞き逃してないでしょうか、この箇所を通して確認しましょう。
これは、前の13章から始まる、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトから大脱出を果たした出エジプトの時の物語です。脱出後、荒野の道を進んで、ついに約束の地カナンを目前にしての出来事が記されています。

1.私たちには限界があることを認めよう

13章でカナンに行った12人の偵察隊の中で、良い地だったからすぐに進んで行こうという意見と、そこの住民が強そうだったからやめよう、という意見に分かれます。同じものを見ていながら、人々の意見は分かれたのです。私たちの力や判断には常に弱さや限界があります。所詮、人の知恵は人の知恵であって、神の知恵にはかないません。そのことをクリスチャンとして認めましょう。

2.人の思いではなく神の思いを探ろう

8節に、「もし、私たちが主の御心にかなえば」とあります。私たちがいつも大切にしなくてはならないのは、単に私たちが人間としての算段での損得勘定や好き嫌いや感情ではなく、神の御心を受け止めることです。神の御計画は、ただイスラエル人をエジプトから荒野に向けて脱出させるだけではなかったはずです。エジプトから脱出すると同時に、イスラエル人のために神が備えた地カナンへ導くことでした。神は、私たちに語られた御言葉を簡単に曲げるような御方ではありません。神があなたに夢や目標を与えてくださったら、神の御心はずっと変わらず、あなたを導いてくださるのです。

3.神が共におられる方向に人生の選択を

私たちは、神の思いか人の考えなのか、それをよく吟味した上で、神の御心をちゃんと見極め、しっかりと信仰を持って選択しようではありませんか。この時、イスラエル人とモーセはどうなったと思いますか? 恐ろしいことに、実はみんな失敗したのです。本当はヨシュアとカレブが言ったように前進しておけば、約束の地カナンに入れたはずでした。しかし進路を変えてしまい、カナンに入るのに40年を無駄にしたのです。聖書の御言葉は格好いいものばかりではなく、大成功した物語も失敗した物語もそのまま書かれています。この箇所から学び、さまざまな意見の中から神の御心であるものをちゃんと選び取り、決断できる人へと成長しましょう。

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