主が遣わすことを喜ばれる私たち

…イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「…すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」それからイエスは、…ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。…
                  ルカの福音書10章21節~24節

7月後半から2週間にわたって、メトロ・ワールド・チャイルドのビル・ウイルソン先生が来日して、日本各地で10回のセミナーを開催し、共に行動していました。メトロの働きによって、毎週世界中で20万人の子供たちが教会学校に集い、生きた福音が語られ、家庭訪問が行われています。この働きの原点は、ビル先生が救われたことにあります。犯罪歴のある父親は行方知れず、母親はアルコール依存症で子育てができない状況でした。12歳の時に母親に路上に置き去りにされ捨てられました。通りかかったクリスチャンの男性が、貧しさにもかかわらず、教会学校のキャンプの参加費を出し、参加させてくれました。そのキャンプで神様と出会い人生が動き始めました。親もなく何も持たず、発育障害を持つ、どう見ても神に用いられそうにもない、とんでもないマイナスから人生を始めた彼が牧師となり、スラムに乗り込み子供たちに伝道を始めたのでした。
神に用いられるのは、特別な人ではありません。日本人はとかく長い物には巻かれろという考えで、みんなと一緒であることに安心したり、目立つ人をチヤホヤしたり、批判にさらしたりします。しかし、2000年にわたってクリスチャンが聖書の教えを通して体験した恵みは、どれほど小さく無名の者でも、神によって用いられることを決して忘れてはならないということを証ししています。私たちがクリスチャンであることは、すでに神に選ばれていることなのですから、出て行って、家族や夏休みで久しぶりに会う人たちのために、愛と笑顔で救いのために祈りましょう。
ルカの福音書では、イエスは、周りにいるイエスを信じる人々を「小さい者たちよ」「小さき群れよ」と呼び、ほかの福音書にはない表現をしています。ここでは「弟子」は、単なるお世話役とか小間使いではありませんでした(ルカ9:1-2)。イエスと同じ力を与
えられ同じことをするようにと遣わされた者たちです。また、12弟子だけでなく、別に70人も同じように遣わされました(ルカ10:1)。だからみなさん、私たちも遣わされて出て行き、祈り、証ししようではありませんか。私たちが「弟子」としての自覚を持って出て行く時、確実に神の御業が行われ始めるのです。
今日の箇所で3つのことを押さえておきましょう。

1.私たちが用いられることを喜ばれる主

イエスは、悪霊が言うことを聞くからといって喜ぶなと戒めるだけでなく、弱い者でも神によって用いられることを喜んでくださいます。それを感謝し、弱く愚かであっても、主に用いられる者となりましょう。

2.イエスを通してでしかわからない恵み

御子イエスと直接関わることを許された人しか、神の恵みに触れることはできません。それはこれから行われる聖餐式に表されるイエスの十字架のことです。この十字架によってイエスと繋がることができ、その向こうにすべての恵みが備えられています。

3.今イエスを信じて繋がっている幸い

旧約の時代の王や預言者は、キリストの約束や癒し、悪霊からの解放、教会が立て上げられていく様子を見ることはできませんでした。今私たちは、旧約の時代の人々があこがれていた素晴らしい恵みを見、体験しているのです。つぶやきや不平不満は似合いません。主によって、日々与えられている恵みを数え前進してまいりましょう。

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全てを受け止められる神との出会い

すると彼の妻が彼に言った。「…神をのろって死になさい。」しかし、彼は彼女に言った。「…私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」…ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること…を、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。…私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。            ヨブ記 2章9~10節、42章1~6節

確かに、世にあっては患難があり、わざわい、苦しみがありますが、それを恐れて逃げていては、ますますわざわいと悪魔は追いかけてきます。しかし、神に近づき、悪魔に立ち向かうなら、神様は私たちに近づいてくださり、悪魔は逃げ去ります。では、どのように神に近づき、悪魔に立ち向かうのでしょう?

1.主をあがめ、讃美で立ち向かう

わざわいの背後に働く悪魔の狙いは、私たちが神を呪うようになることです(1:11)。ヨブの妻はまんまと悪魔の罠にはまったのです。しかし、ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と讃美して、わざわいをも受け取る信仰で悪魔に立ち向かったのです。私たちも、わざい、苦しみの中でも、主をあがめるのです。讃美で立ち向かうのです。絶望の底に沈みそうな時にも、神を待ち望み、「私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」と讃美するのです(詩篇42:11)。義のために苦しむことがあっても、動揺しないで、むしろ、心の中でキリストを主としてあがめるのです(Ⅰペテロ3:14-15)。キリストのために、信仰だけでなく、苦しみをも賜った、贈り物としていただいた、と感謝して讃美することができるのです(ピリピ1:29)。

2.二倍の祝福を受ける

ヨブは前半生で得ていた家畜や財産を、全て苦しみの内に失います。しかし、苦しみを経て、彼の後半生は、全てが二倍にされる祝福を受けます。苦しみに会って失ったものを何とか元通り取り戻せるだけでも、普通ならラッキーでしょう。しかし、主は、失う前よりも、苦しみに会う前よりも、はるかに良くしてくださるのです。もっと豊かになり、素晴らしくなる、二倍の祝福を受けるのです。ですから、私たちも詩篇の作者と共に「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)と言えるのです。

3.苦しみの中で主と出会い、変えられる

ヨブは、わざわいと苦しみの中で、主と出会います。それまで、うわさを耳で聞くように、間接的に知っていたつもりの神様を、「今、この目であなたを見ました」と言える出会いをヨブは体験します。そして、苦しみを通して、ヨブは、わかったつもり、正しいつもりでいた自分の思い込みを木っ端みじんに砕かれます。自分を義とし、神を罪に定める罪を示されて(40:8)、ヨブはちりと灰の中で悔い改めます。
義人がなぜ苦しむのか? いえ、義人はいない、ヨブもそうです。あんな罪人が苦しみに会うのは分かるが、自分のように正しい者がわざわいに会うのはおかしい、神様の方が間違っている、などと言える人は誰もいないのです。しかし、ただひとり罪なき正しい御方が、私たちの罪のために、史上最大の苦しみとわざわいを受けられた、それにより、最も大きな、本物の、永遠の幸せが、この世界にもたらされたのです。このイエス・キリストの十字架を、私たちは信じる者です。だから、私たちも、この主にあって、幸せも、わざわいも、全てを受け止めて生きることができるのです。本当に主と出会うなら、そのように変えられるのです。そして、私たちは、キリストのからだである教会で、主と出会うのです。そこに全ての答えがあります。主がおられるから、神との出会いがあるから、全てを受け止めて生きられるのです。

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神の愛に気づいて

宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。
                       マラキ書1章1節~2節

文字通りの夏を迎えていますが、私たちは神と出会い、神とふれあい、神と豊かに交わることのできるそんな夏の日を過ごしていきたいと思います。
今日はマラキ書から神はどのように私たちを愛して下さっているのか、私たちはその神の愛にもっと気づきたいと思います。3つのポイントで神の愛をもっと理解し、そしてその神の愛を心に響かせる私たちでありたいと思います。

1.こんな私でさえ愛して下さる神の愛

神は私たち一人ひとりに同じ愛を注がれています。しかし、エサウを憎んだと、なぜ神はこのような言葉を用いて私たちに語りかけているのでしょうか。それはエサウを憎むという感情を神が持っているということではなく、あえてヤコブを愛するということを神は教えるためにこの言葉を用いているのです。この言葉をもって神はご自身の愛を私たちに示して下さっています。ヤコブの方が愛されたのですが、彼は決して愛されるキャラクターではありません。そんなヤコブが愛されたというのは、私たちも神に愛していただけるという証しです。私が特別に愛されているとしたら私が何かをしている、何かできるということではなく、こんな私でも愛されているということにおいて、私は特別に神に愛されているのです。

2.とことん忠実で徹底的な神の愛

神の愛は徹底的な愛で、私たちに対して忠実な愛です。エレミヤ書31章3節には、「永遠の愛をもって、あなたを愛した。それゆえわたしはあなたに誠実を尽くし続けた」とあります。永遠とは時間だけの問題ではなくて、無限であること、そして人の小さな秤では計りきれないもの、それが永遠です。神の愛は私たち人間では計り知れないほどに大きな愛であり、その愛をもって神はこの私たちに誠実を尽くし続けて下さるお方です。アブラハムは、自分の大切な宝であるイサクを神に捧げようとするほどに神に忠実でした。でも私たちはそれ以上に忠実である神の愛を知っています。神がそのひとり子を私たちに与えて下さるほどに忠実であったから、私たちは神の恵みの中を生きることができます。神ご自身のひとり子の命と私たちの命とを秤にかけて下さる。偉大な神がこの私たちを忠実に愛して下さった。徹底的に本当に忠実な神の愛です。

3.決して見捨てず、共にいて下さる神の愛

エサウが受けるべき祝福を奪い、彼から逃げるヤコブ。日が沈み、石を枕にして仮眠を取った時、彼は夢を見、その夢で神がヤコブに語りました。私はあなたに約束したことを成し遂げるまで決してあなたを捨てない。これには二つの意味があります。約束は必ず成し遂げられるという意味。そして文字通り神は決してヤコブを捨てないという意味。そして神は、この私たちにも同じように語って下さる。わたしは、あなたに対する約束を必ず成し遂げる。それまでは決してあなたを捨てない。神が私たちに約束しておられる究極的なものは神の国、天国です。私たちがその天の御国に入るその日まで、神は、私たちがこのヤコブのような人であっても、この私たちと共にいて決して見捨てないで私たちをそこに導いて下さるお方です。私たちはこの愛をしっかりと心に響かせて歩む者でありたいと思います。

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素朴な祈りで恵みの流れを生み出そう

ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。          歴代誌第一4章9節~10節

私たちに与えられた神を信じる信仰は、一人一人に恵みと幸せをもたらすものです! この夏の日々も恵みの神の祝福を満喫し、あなたの周りの人々に神の愛が伝わっていくことを願っていきたいと思います。兄弟姉妹、この夏の季節の始まりに当たって、私たちは「良い流れ」「恵みの流れ」を確実に受け止め、頂きながら前進しましょう。
今日の「ヤベツの祈り」と呼ばれる聖書箇所から、この「恵みの流れ」を掴みたいと思います。ヤベツは特別な預言者でも祭司でもありません。一人の主に仕える信仰者にすぎません。彼が素直に神に自分の求めを祈った、そうすると神が彼の祈りをシンプルに受け止めて下さって彼の願いは聴かれ神からの恵みを頂くことができたのです。兄弟姉妹、私たちも夏の始まりにあって「神の恵みの流れが私たちを導きます」と信仰の告白をもって歩んでまいりたいと思います。「聖書の神は恵みの神である」ということを体験する秘訣を3つのポイントから確認しましょう。

1.具体的な必要を素直に祈る

イエスが、命を捨てて十字架の血潮で私たちを恵みの中に導き入れて下さり、私たちの成長を願って下さることを感謝しましょう。私たちのために、御子イエスの命さえ与えて下さった父なる神が、御子と共に全てのものを私たちに与えて下さらないはずがありましょうか!と御言葉にあります。神は必ず全ての恵みを与えて下さいます。
ですからヤベツのように、生活の必要全てを具体的に神に祈ろうではありませんか。10節でヤベツは、「もっと私が豊かに祝福されますように、もっと土地持ちに、財産家になりますように」と祈っています。彼の祈りは格式ばったものではありませんでしたが、神はこの祈りを聴いて下さったのです。

2.霊的祝福を求めて祈る

10節の後半の部分「御手が私とともにあり」とありますが、旧約では、特に神が私たちと共におられ私たちを決して見捨てることなく、神の御業、助け、知恵、神の力強い働きが私たちの人生の中に現される、ということをこのようにわかりやすく擬人化して表現しています。私たちの心の中の孤独感という闇には注意が必要です。「御手が共にある」、神との繋がりのある時を喜び歩んでいきましょう。神が私たちと関係を持ち、共にいて下さることに感謝しましょう。

3.災い、苦しみからの守りを求めて祈る

私たちは、クリスチャンになっても弱いままの存在ですが、神の助け、守りがあって大丈夫な存在でいられるのです。だからヤベツは、「私は弱いから私を様々な試練から守って下さい」と祈ったのです。私たちも彼のように、自分の弱さ、足りなさをそのまま認めて神に祈りましょう。神は私たちと共にいて守って下さり、時には災いを遠ざけることさえして下さり、私たちを試練、迫害から守って下さるお方なのです。だから弱い私たちであっても、神と共に力強く前進することができるのです。弱い私たちが恐れずに歩める、この計り知れない恵みに感謝しましょう!
9節には、ヤベツの母は「悲しみのうちにこの子を産んだ」と記されています。そんな中にあっても神は祝福して下さったのです。どんな状況にあろうと恵みの神として向き合って下さる神に感謝しましょう。

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信仰によって受け止めるいやし

…十二年の間長血をわずらっている女がいた。…彼女は、…イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。…そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。…
                  マルコの福音書5章25節~34節

今日お読みした、長血の女の癒しの物語は有名で、聖歌617番「イエスは通りたもう」は、これをモチーフとして生み出されました。今日は、この歌詞を味わいながら、5つのポイントを分かち合いましょう。

1.主キリストとの出会いの価値を知ろう

1番に「イエスは通りたもう、人垣をくぐり、御衣の裾に触りまつらん」とあります。彼女は12年間も長血を患っていましたが、だれも直せないばかりか、多くの医者にひどい目に会わされ、財産をなくし、病状も悪くなるばかりでした。現代に生きる私たちは、いつでも聖書を読める恵まれたチャンスに置かれていますが、2千年前の彼女にとっては、イエスと出会うのは千載一遇のチャンスでした。彼女はイエスに出会えばきっと直ると信仰を持って、人混みの中へ中へと進んでいったのです。私たちもこの礼拝の中で、イエスとの出会いを逃がさないようにしましょう。

2.主の御業、御言葉の力強さを覚えよう

2番にはこうあります。「ただの一言をのたもうと共に、わが罪と病、ただちに癒えん」。主が一言でも語れば、私の抱えていた罪、咎、汚れ、病、煩いの一切がたちまち消えていくでしょうと詞っています。主の臨在に触れると、人生を変える救いの業、癒しの業が明確に現されます。信仰は、自分の理屈ではなく、主の御言葉に信頼することです。御言葉には権威があり、御業には力がありますから、主の約束に信頼する者は、失望させられることはありません。今一度、この信仰に立とうではありませんか。

3.主への真剣な信仰を持って近づこう

3番には「触る人々はいかに多くとも、我は信仰もて触りまつらん」とあります。彼女はイエスの着物の
裾にでも触れば、きっと直ると、信仰を持ってイエスに手を伸ばしました。彼女の手が触れた瞬間、イエスの癒しの力が反応して、彼女を癒したのです。イエスが求めているのは、あなたの信仰です。「私は信仰の目をあなたに向けます。どうか私に触れて下さい」と信仰を持って、イエスに近づきましょう。

4.主は、確実に答えて下さることを知ろう

4番には「触りまつるとき、主は我を見つめ、声をかけたまわん、いと優しく」とあります。指先がかろうじて触れた彼女に、イエスはだれが私の着物に触ったのかと言われます。もちろん、イエスはだれが信仰を持って触ったかを御存知でした。しかし、なおも問い続けます。それは良きものを100%彼女に与えるためでした。震えながら進み出る彼女に、「あなたの信仰が、あなたを直した」と語ります。主は私たちの祈りと信仰にも確実に答えて下さいます。

5.主キリストの御業を今日も体験しよう

5番に「イエスは癒しうる力を持ちたもう、イエスは救いうるまことの神」とあります。主は聖書の時代だけではなく、今もここに働いておられます。マレーシアのムーイ先生から、2万人以上が集った癒しの集会で、車イスから20人もの人が立ち上がる奇跡が起こったと喜びの電話がありました。東京の集会に来ておられる方から、イエスが癒し主と聞いた瞬間、うつ病から解放されたと、感謝の手紙を頂きました。今も生きて働かれる主を信じて癒されましょう。

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真の礼拝によって変えられよう

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
                  ローマ人への手紙12章1節~2節

あっという間に2017年の後半に入りました。そして、その最初の日曜日に共に礼拝を守れる恵みを感謝します。今一度、私たちの生活を整えて、限りない愛と恵みを持つ神様の力を頂いて、夏に向けて前進しましょう。
人はしっかりしているようでも、実はあてにならないものです。つい最近、最大の肉食恐竜、ティラノサウルスの研究発表に大変驚きました。私が子どもの頃はゴジラのようなイメージだったのが、このところは、何と羽毛が生えていたという学説が主流となり、それがまた今度は、羽毛ではなく小さな鱗状のもので覆われていたようだと言うのです。学者が綿密な研究に基づいて出した学説や常識と言われることでもコロコロ変わり、実は不完全なものなのです。
私たちの人生は、そのようなあてにならない人間を頼りにして生きていく必要はありません。今年一年のテーマは「Divine Connection 神と繋がる一年を!」です。神が共におられるなら、神と共に歩むなら、迷うことなく本当に幸せな人生を生きることができるのです。今日の聖書のお言葉から、神に信頼して恵み溢れる勝利の人生を歩むために、2つのポイントを確認しておきましょう。

1.本物の礼拝をささげよう

日本人は、伝統を重んじ形式を守り、「形」を整えるのは上手です。礼拝に出席して、讃美してはいますが、魂の霊的な「管」は詰まっていませんか。神の御心と繋がる本物の回路を持っていますか。「霊的な礼拝」を持つためには、私たち自身を「生きた供え物」としてささげなさい、と聖書は言います。
旧約聖書では動物をささげましたが、新約聖書では、イエスご自身が十字架で血を流し、私たちの罪を背負って死んでくださいました。だから、形だけの礼拝ではなく、愛と真心をイエスにささげ、命をおゆだねする本物の礼拝をささげましょう。

2.信仰による本物の成長や変化を求めよう

「命」は単なる置物ではありません。生きていれば、常に成長し変化し続けるものです。
しかし変化すれば良いというものではありません。この世と調子を合わせて変化するばかりで、神に喜ばれる成長と変化がなければ残念ですから、気を付けましょう。そのためには、「神のみこころは何か」をわきまえ知ることが大切です。聖書を読むこと、奉仕、献げもの、祈り、伝道、愛することが、以前に比べてずっと熱心で力強くなるような、クリスチャンとしての成長と変化は、神に喜んでいただけるものです。そして、クリスチャンとして本当に成長して自分が変えられるために、「心の一新」つまり、決心と決断が必要です。
2017年の後半の歩みのために、今日の礼拝は、大変重要な礼拝です。この礼拝の中で、霊的礼拝によって、イエスに直結する礼拝者、神に喜ばれる者に変わる決断をしましょう。
本物の礼拝をささげることで、罪深い弱い私たちが、神に喜ばれる者に生まれ変われるという保証があります。それは、すでに救い主イエスが、私たちを愛してイエスご自身の命をささげてくださったことで、準備は整えられているということです。あとは、私たちが信仰を働かせて、その恵みを受け取れば良いだけです。一歩前進、一歩成長しましょう。

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主の前に出る信仰を高める

…ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。…ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。…イエスは立ち止まって、…「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。…
                   ルカの福音18章35節~43節

今日の聖書箇所で、目が見えず物乞いをするしか生きるすべのなかった男が、キリストとの出会いを通して、目が癒されるという驚くほどの恵みをいただきました。その時イエスは、あなたの信仰があなたを治した、あなたのその信仰が、恵みをあなた自身に引き寄せたのだよ、と言われました。
私たちもこの一年の折り返し地点となるこの1週間、2017年の後半に向けて、生きた信仰を自分の中に確立していきましょう。

1.自分の霊的感度を確認しよう

イエスからあなたの信仰があなたを祝福し、救った、と語っていただける信仰を持つために、私たちはもう一度自分自身の霊的な心の感度がちゃんと高められているかどうか確認したいと思います。
この男が生きていたのは、今とは違って二千年前の厳しい社会の中です。目が見えない彼には、物乞いをするしか生きるすべがありませんでした。彼は、人間の感覚の中でも最も大切と言っていい視覚が失われていたのですが、神を感じる霊的な感性においては、私たちより優れていたのです。いつものように物乞いをしていた時に、周りの雰囲気が何か違うことを感じ、周りの人に聞きました。そして彼は、救い主として人々が噂をしているナザレのイエス・キリストが来ていることを突き止めたのです。私たちの教会では、礼拝や特別集会、イベントで楽しく盛り上がりますが、そこにイエスがおられることに気づいて欲しいのです。イエスに対する霊的感度を忘れないようにしたいのです。

2.霊的な行動力を働かそう

仕事のノルマなら一生懸命がんばっても、神から促された霊的な事柄に対しては、信仰の行動力がないままでは残念です。祈れば良いと分かっているのに祈らないまま、気付いた時はすべてが通り過ぎて終わってしまっているということになりませんように。イエスがどこにおられるかもわからない盲目の彼にとっては、大声で叫ぶ以外に自分の存在をイエスに知ってもらう方法がなかったのです。でも彼は、自分に与えられた神からのチャンスを失わなかった。精一杯信仰を働かせて行動したのでした。私たちも霊的な行動力、信仰によって神を求める行動力に優れた者になろうではありませんか。

3.主に必要な恵みを求めよう

皆にとっては迷惑な騒音でしかなかった彼の大声も、イエスにとっては心から求める信仰の祈りとして響いたのです。彼を呼び出して、そしてイエスの方から語りかけて下さった。「私に何をしてほしいのか」。そのとき彼はすぐに申し上げます。「目が見えるようになることです」。彼は自分が神に求めるべき一番重要なものをすぐに申し上げて、その答えをイエスからいただいたのです。イエスの前に立つ時に、足りない愛、弱い考え、癒し、知恵、私たち一人ひとりが本当に必要としているものを素直に認めたいと思います。私たちの抱えている必要や問題が、主によって整えられ変えられ解決されることを祈ろうではありませんか。イエスの前に素直にへりくだって、自分の必要を正直に求めることができる者になりましょう。

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クリスチャンのライフスタイルを目指して

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。       コロサイ人への手紙3章16節

兄弟姉妹、今の時代は様々な問題、罪や悪の問題が私たちに迫って来ていると言っても過言ではありません。しかし私たちは、本当にいのちの溢れる生活を持ちたいのです。本当のクリスチャンであるためには、日曜日に礼拝に来るだけの律法主義的な信仰ではなく、生活様式がクリスチャンとして変えられることです。様々な状況の中でも、毎日の生活の中にクリスチャンらしいライフスタイルが定着しますように。6月も後半に入りましたが、これからの一週間もあらゆる状況の中でイエスの恵みを期待する私たち一人一人でありたいと思います。今日の聖書箇所からクリスチャンとしてのライフスタイルを確立するための4つの鍵を確認したいと思います。

1.神の御言葉によって生きる

毎日の歩みを神の御言葉に立って生きる者となりましょう! 「キリストのことばを豊かに住まわせなさい」と聖書は語っています。クリスチャンの私たちは神の御言葉を土台としましょう。ダビデは「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)と語りました。何があっても揺るがない、変わらない神の御言葉があなたの心の土台の核としてしっかりと据えられていますように。そのためにもこの一週間、あらゆる場面で聖書を開いて御言葉を心に刻みつけましょう!

2.神から知恵をいただく

神の御心がどんなに素晴らしいか、それは神が創造主だからです。創造主しかわからない知恵があるのは当然の摂理です。人の知恵ではなく、神からの知恵をいただきましょう。旧約に登場するソロモンは神に知恵を求め、それが神の御心に適い彼は偉大な王になりました。私たちも神に知恵を求め、それを互いに分かち合い、教え合っていきましょう。

3.戒めを受け入れる

今の世の中は自分の思いを全部受け入れて欲しいと思う人々が増え、その結果、世の中の仕組みも随分わがままになったのではないかと感じます。でも神は私たちに対し「戒め」ということをはっきりと語って下さいます。例えばヘブル12:7では「試練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです」と記されています。今の世の中は過保護になり、子供を叱らない傾向にあります。けれど神は、子供である私たちを躾け、戒め、時には懲らしめて下さるのです。自分の考えを認めてもらうことより、神に叱ってもらい、成長することを求めましょう。神が私たちを子として愛して下さり、本気で戒めて下さることを感謝しようではありませんか。

4.神を賛美、感謝する

ダビデは詩篇34:1で「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」と語っています。兄弟姉妹、あなたの毎日の生活の中で、あらゆる時に賛美、感謝の声があげられていますように! あらゆる時に主をほめたたえる者でありたいと思います。そのためには、あなたに与えられている恵みを数え、それを証しし合い、笑顔と喜びを忘れないようにしましょう!
4つの鍵を実践し、この一週間を通してクリスチャンの生き様を自分のものとして定着しましょう。

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持ち続けるべきいやしの恵み

ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、…すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。                 ヘブル人への手紙2章1節~4節

梅雨に入り、優しい色の柴陽花が、梅雨の雨によく似合います。今日は癒しの礼拝です。イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも同じです。(ヘブル13:8)の御言葉通り、今も生きて働きたもう、真の救い主、主御自身の恵みに触れることができますから感謝です。どんなに変わりやすい世の中であっても、変わらない主の恵み、特に3つのことを確認し、恵まれてまいりましょう。

1.素晴らしい救いが与えられてる

3節に、こんなに素晴らしい救いをないがしろにしては、もう逃れられないとあります。イエスは真の救い主ですから、古い物と新しい物、死んだ者と、命を与えられている者とに分けられます。人間の歴史も、イエス以前(B.C.)と以降(A.D.)に分けられ、神の啓示、恵みの表れ方が根本的に違います。また、あなたの人生も、イエスを信じる前と後では、どれほど変えられたか。病気の時、仕事で不安を感じたり、人間関係で心がざわつく時、今ではその瞬間に祈り、イエスの助けを求めています。イエスを信じて歩んでいくと、人を嫌い、不平不満、愚痴をこぼしていた私たちが罪清められ、感謝ですね!ハレルヤですね!と喜び、賛美をし、主をほめたたえる者と変えられていることを感謝しましょう。これほどの素晴らしい恵みが、救いが与えられています。これを忘れず、更に新鮮な恵みをいただいてまいりましょう。

2.増し加えられる主の恵み

4節にあるように、主は今も生きて共に働き御業をもって証ししておられるので、恵みは流れ続け、増し加えられます。そして神の恵みと祝福は無限大です。イエスを裏切ったペテロや、クリスチャンを迫害したパウロでさえも、イエスの十字架によって、赦し清められ、その上、聖霊が下ると、彼らがイエスの御名によって祈る時、人々は聖霊に満たされ、病の癒しや様々の奇跡、祝福の御業が起こりました。「病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」(ヤコブ5章)と聖書は約束しています。今日、信じる私たちが集う教会の中に働く癒しの力があり、しるし、不思議、力ある業が現わされます。主の御名には力がありますから、今も変わらぬ、恵みの御業を体験しましょう。

3.受け継がれている神の恵み

福音は、イエスから弟子たちへ、弟子たちから初代教会へ、そして私たちへと伝えられました。単なる言葉としてではなく、教会の中に働く聖霊の力によって、教会に集う皆に受け継がれました。2千年経った今も、神の御前には、同じ新約の教会の時代ですから、主の愛も聖霊の力も、ちゃんと届き、証しされています。聖霊の働きを聞く時、あなたの側から、繋がりを断たないで下さい。神はあなたに恵みを届けようとしておられますから、その流れを切らないことが大切です。世の中は難問だらけ、悩みは尽きませんが、私たちは罪の流れには押し流されません。なぜなら、主イエスの土台の上に立っているからです。こんなに素晴らしいキリストの救いを与えられ、恵みが増し加えられ続けていることを感謝しようではありませんか。さあ、もっともっと主の証し人として、元気に歩ませて下さいと御一緒に祈りましょう。

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聖霊によって拡がりのある世界

そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
                  ルカの福音書24章45節~49節

6月と言えば梅雨ですが、雨が多くて嫌な季節にしないで、日々の生活の中で心と身体に神からの恵みの雨を豊かにいただきましょう。
クリスチャンとして人生を歩むことは実に感謝なことです。自分の心の器は小さくて、能力には限界があります。すぐに壁にぶつかり落ち込み悲しみます。しかし、小さい器の中で萎縮するのではなく、神と共に歩むことによって、神の愛に触れられて、人生のスケールがどんどん拡がっていきます。だから、いつも喜びがあり平安があります。
今日は、世界中のキリスト教会で、天から神の聖霊が私たちのもとへ下って来られたことをお祝いするペンテコステの聖日です。イエスが十字架にかかられ三日目に死から甦られ、四十日間弟子たちと共に居られたあと、天に上げられました。その十日後にイエスが約束されたもう一人の助け主である聖霊が下られました。
教会に初めて来た方も、教会には来ているけれどまだクリスチャンでない方も、また教会と共に長く歩んできた「ベテラン」クリスチャンも、聖霊の働く信仰を信じて、自分の頑張りや努力、コネ、お金の力ではなく、神の力・霊的な力を体験してほしいと思います。十字架の場面でイエスを裏切ってしまった情けない弟子たちが、聖霊を受けて力強い証人として生まれ変わり、それによってキリスト教が世界に広まっていったのです。
今日の聖書の箇所であるルカ24章は、イエスの生涯のしめくくりの時に、どうしても弟子たちに伝えたい、福音の拡がりについて語られています。

1.十字架の死で終わるものではない

イエスは、私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれ、三日目に死者の中から甦られました。イエスの名による罪の悔い改め、救いの約束(福音)が、ゴルゴタの丘から始まり世界中に、時間と空間、老若男女を問わず伝えられ、証しされ、現代を生きる私たちにまで拡がっていきました。聖書で語られる恵みの約束は、この一冊の本の中に閉じ込められた小さな約束だと思い込んではなりません。

2.一人の救い主からすべての人々へ

十字架上で死なれたのはイエスお一人ですが、救われ、神によって罪きよめられ、喜びのある神の子どもとされたのは、あらゆる国の人々でした。そして、私たちを含め多くの人々が、主の証人となりました。イエスの命によって、世界中のすべての人々が、神の愛の視野の中に入ってきたのでした。

3.あたなも天からの力を着せられる

あなたは、イエスが約束された聖霊の賜物を直接天からいただき、人生の目的やビジョンを持って、主の証人として歩んでいけるように変えられます。ペテロが経験したのは、魂の内側から造りかえられる、まさに大変身です。同じ十字架のイエスのもとから押し迫る恵みの拡がりが私たちにもあるのです。
神の愛から脱落する者は一人もいません。どんな罪人でもイエスの前に罪を悔い改めて、私を救ってくださいと願うなら、必ず救われます。今日はペンテコステの聖日です。私の魂の器にも、神の聖霊を注いでくださいとお祈りしましょう。そして、神からの力をいただいて、主の証人として力強く歩んでまいりましょう。

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