初めの愛、初めの行いに立ち返ろう

エペソにある教会の御使いに書き送れ。…「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。…
                     ヨハネ黙示録2章1節~5節

4月の始まりと同時に、新しい年度の始まりです。私たちの信仰も神から新しい力をいただきましょう。私たちは、決して完璧ではありません。中途半端で、弱さを抱えています。そんな私たちと共にいて励まして下さるのは、他でもないイエスです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ書41:10)と約束された神の恵みが新鮮に注がれることを感謝します。
ヨハネの黙示録は、預言的な象徴やたとえ、暗示的な言葉で表現される部分も多い書です。ここでは、個性ある、信仰の持ち方に差がある7つの教会へ、主からの信仰の警告のために手紙が送られました。2章はその前半部分で、まずエペソの教会に送られた手紙から始まります。救い主イエスは、私たちが今までどれほど一生懸命に信仰の歩みをしてきたかをご存知です。主は、私たちの人生のひとコマひとコマを共に歩んで下さる神です。すべてをご存知のイエスだからこそ、今抱えている微妙な心のズレ、危うさ、間違っている事に対して、ビシッと忠告して下さいます。それに耳を傾けたいと思います。今日は2つのことに注意して、信仰を調整しましょう。

1.初めの愛を思い起こそう

これまであなたは頑張ってきました。熱心に見えるあなたに、「初めの愛」が燃えていますか。いつの間にか、信仰が冷たくなり始めてはいないでしょうか。社会、家族、仕事、友だちのことで、相手のダメなことばかりが目に付き、他人を批判し責めたててはいませんか。私たちクリスチャンは、神の光に自分を照らし、悔い改め、躍動感や深い感動があるか、マンネリ化して冷たくなっていてないか、まず自分の心を探る者でありたいと思います。自分の罪の身代わりとなって十字架の上で死んで下さったイエスに初めて出会った時、イエスの愛に感動したことを思い出して下さい。教会に行き、祈ることに心がワクワクし、いつも感謝し恵まれていた、そんな初めの愛を取り戻して欲しいと思います。人間の心は変わりやすいものですから、いつも聖霊が注がれ、キリストの愛で満たされたいと思います。

2.初めの行いからやり直す

神が私たちに求めていることは、高度で複雑で難しいことではなく、基本中の基本です。初めの愛に相応(ふさわ)しい初めの行いは、素直な悔い改めです。私たちが一番気をつけなければならないことは、高ぶりです。しばしば、命を与えて下さった神よりも自分が偉いと錯覚して、罪を犯します。たとえ信仰生活が長くなっても、変わらずへりくだり、主を見上げる者でありましょう。神の目から見れば、皆、どんぐりの背比べなのですから。大切なことは基本に立ち戻ることです。具体的には、忠実な礼拝出席、心からの祈り、奉仕、感謝のささげものです。
新年度になり、まわりの環境が変わっただけではなく、主の御前に新鮮な命をいただきましょう。もっともっとわくわくして御言葉に接し、素直なクリスチャンになって、キリストに愛されている一人の魂として自分を見つめ直せば、感謝すべきことが山ほどあります。ありとあらゆる可能性にあふれています。主が共にいて下されば、喜びと可能性の日々を送ることができます。今日の聖餐式にあずかり、信仰によって刷新されて新年度を歩み始めましょう。

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神の御心への決断

…民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。…エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」…そこで、モーセとアロンは、…全集会の集まっている前でひれ伏した。…ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは…次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。…主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。…主が私たちとともにおられるのだ。…」                   民数記14章1節~9節

世間は森友学園のニュースで持ちきりです。しかし、万が一総理大臣から寄付があったとしても法律的にはなんの問題も無いので、実はわざわざ国会で証人喚問をする必要などないのです。それでも、野党やマスコミからは総理大臣批判の格好のネタとしてことさらに取り上げられ、総理夫人との関係などが長々と報道されています。そんな話題を聞いていると世の中というのは、人の都合によって真実が捻じ曲げられているものだと感じます。国政的には、北朝鮮のミサイルを始め、討論すべき問題は山積しているのですから、国会らしく筋の通る論議をしてもらいたいものです。と同時に、つくづく同じ状況や同じ出来事、同じ事実に基づいていても、人の話というのはどこまで変化してしまうのだろうと思います。同じ出来事・同じ事実にもかかわらず私たちは本当に神の御声を聞いているでしょうか。人の言葉や理屈ばかりで、神の御言葉を聞き逃してないでしょうか、この箇所を通して確認しましょう。
これは、前の13章から始まる、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトから大脱出を果たした出エジプトの時の物語です。脱出後、荒野の道を進んで、ついに約束の地カナンを目前にしての出来事が記されています。

1.私たちには限界があることを認めよう

13章でカナンに行った12人の偵察隊の中で、良い地だったからすぐに進んで行こうという意見と、そこの住民が強そうだったからやめよう、という意見に分かれます。同じものを見ていながら、人々の意見は分かれたのです。私たちの力や判断には常に弱さや限界があります。所詮、人の知恵は人の知恵であって、神の知恵にはかないません。そのことをクリスチャンとして認めましょう。

2.人の思いではなく神の思いを探ろう

8節に、「もし、私たちが主の御心にかなえば」とあります。私たちがいつも大切にしなくてはならないのは、単に私たちが人間としての算段での損得勘定や好き嫌いや感情ではなく、神の御心を受け止めることです。神の御計画は、ただイスラエル人をエジプトから荒野に向けて脱出させるだけではなかったはずです。エジプトから脱出すると同時に、イスラエル人のために神が備えた地カナンへ導くことでした。神は、私たちに語られた御言葉を簡単に曲げるような御方ではありません。神があなたに夢や目標を与えてくださったら、神の御心はずっと変わらず、あなたを導いてくださるのです。

3.神が共におられる方向に人生の選択を

私たちは、神の思いか人の考えなのか、それをよく吟味した上で、神の御心をちゃんと見極め、しっかりと信仰を持って選択しようではありませんか。この時、イスラエル人とモーセはどうなったと思いますか? 恐ろしいことに、実はみんな失敗したのです。本当はヨシュアとカレブが言ったように前進しておけば、約束の地カナンに入れたはずでした。しかし進路を変えてしまい、カナンに入るのに40年を無駄にしたのです。聖書の御言葉は格好いいものばかりではなく、大成功した物語も失敗した物語もそのまま書かれています。この箇所から学び、さまざまな意見の中から神の御心であるものをちゃんと選び取り、決断できる人へと成長しましょう。

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今ある自分の中に神の奇跡を見出そう

「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。…そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。  詩篇124篇1節~8節

主が共にいて下さるから、この一週間も必ず祝福されます!私たちには人を羨むという愚かな性質がありますが、妬みが生み出す欠乏感、不足感、劣等感や孤独感まで抱くことがないように。心がイエスの愛によって守られ、「光の子」として春の日々を感謝して前進しましょう。
今日の聖書箇所の中では、特に印象的な言葉が2回繰り返されています。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」。イスラエルの人々にとって神の選びの民とされたことは最も大きな喜びでした。奴隷であった彼らが、当時の大帝国エジプトから脱出し、民族として新しい歩みを始めるという、常識では考えられないことが、神の奇跡によって実現したのです。この民族としての記憶を絶対忘れてはならないという、彼らの信仰がこの詩篇を生み出したのです。私たちには、生活の中で様々な困難な状況もあるでしょう。でもそのような時も確かに神の奇跡を見出すことができると確信しましょう。これからの春の日々を歩む時、本当に幸せな毎日を体験するために一番必要なことは、あなたの心が信仰によって整えられることです。3つのことを確認してまいりましょう。

1.イエスと出会えたことに感謝する

日曜日に礼拝に集うことが、単なる習慣や当たり前になっていないでしようか? 習慣化して、神からの恵みを軽く扱うことがないようにしましょう。もし、救い主に出会わなければ、あなたはどうなっていたでしょうか? それを素直に考える者でありたいのです。主が私たちと出会って下さっていなければ、私たちの人生の中に「賛美」「感謝」「ほめたたえる」等の言葉はなかったかもしれません。愚痴、不満を言うことばかりに時間を費やしていたかもしれません。執り成しの祈りもできず、責任転嫁をしながらの暗い人生を過ごしたのではないでしょうか。教会に通うようになり、特別な場が与えられ、「平安」をいただいていることを明確に意識し心から感謝しましょう。

2.あなたの中の神の奇跡に感謝する

「神の恵みにより私は今の私になりました」とパウロは語っています。あなたが今のあなたであることにすでに神の恵みがあり、今のあなたの中にある神の奇跡を見てほしいと思います。私たちは自分を過小評価しがちで自暴自棄になってしまうことがあります。けれどそのような「弱い」時にこそ神が働いて下さることを体験できるから感謝しましょう。今在る私たちのごく自然な流れの中に、実は神の恵みがあることを喜ぼうではありませんか。神の愛、救いのご計画が集中して現され結晶している、それがあなたであることをはっきり意識してほしいのです。

3.全てが与えられていることに感謝する

人の目には色々な物が不足しているように見えても神が共にいて下さる私たちは、満ち足りて本当に充足した歩みをすることができる。そんな喜び、充足感、感謝を持って歩んでいこうではありませんか。春夏秋冬、季節が巡る中でも更に神が豊かに祝福して下さることを感謝しましょう。全ての恵みが主キリストの御名の中にあります。春からの一年間を喜びを持って前進しましょう。詩篇の作者は23篇で「主は、私の羊飼い、私は乏しいことがありません」と語っています。この恵みの神と共に歩めることを喜び、あなたの心を一新しましょう。

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与えられた信仰を用いるいやし

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。…ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。…
                     使徒の働き3章1節~10節

聖書の神の御言葉に立って、今も生きて働かれる神の恵みにふれる、真の信仰の世界に置かれていることを感謝し、今日は使徒3章「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言った、ペテロ、ヨハネに注目してまいりましょう。2千経った現代では、ペテロは教会の土台となった偉大な大使徒、ヨハネは福音書を書いた偉大な愛の使徒と言われますが、前章にあるように、この時のペテロとヨハネは、初めて聖霊に満たされ、大胆に人の前に立つことができるようになった直後の出来事です。

1.ないものはないという事実を認めよう

旧約時代の習慣に従って、二人は午後3時に祈りをするため、神殿に上って行きました。美しの門を通り過ぎる時、生まれつき足のきかない、物乞いをしている男に施しを求められました。ペテロはお金がありませんでしたので、金銀は私にはない、ごめんね!とあっさり言っています。私たちは人と自分を比較して、私は持っていない…みじめだから、私の人生には恵みが来ない、とすねてはいけません。人生の長さも、個性も文化も、社会の有様もみんな違います。単なる見かけや条件を横並びにすることは、幸福の要因ではありません。みんな同じでないと許せないという、変な民主主義に陥り、ないものねだりをして人生をみじめに終わらせてはいけません。私たちは神様の前に祈るとき、自分の足りなさや弱さを認めて素直に祈ろうではありませんか。

2.与えられているものを認め、感謝しよう

今、与えられているものを落ち着いて見渡してみましょう。この朝、共に神を礼拝する兄弟姉妹のいること、ワクワクして来られる素晴らしい教会があり、一緒に祈り合える神の家族や愛すべき家族、あなたの能力、個性があります。新しい使徒としての入り口に立ったばかりのペテロとヨハネが立派だったのは、お金はないけれど、卑屈にならなかったことです。彼らは「ナザレのイエス・キリストの御名によって歩きなさい」という御名の力、自分に与えられている信仰の恵みがあると認め、それを素直に引っ張り出しました。信仰は、自分だけでそっと持っていれば良いというものではありません。自分は信仰を与えられていますと、告白しようではありませんか。

3.持っている信仰を用いよう

今回のインド伝道でも、多くの人が癒されました。体中が痛んでいた青年や、悪霊に取り憑かれ、地面を這い回っていた少女が解放されたと、感謝の証しをしてくれました。私に特別な超能力がある訳ではありません。一生懸命、御言葉を語り、祈りますが、人としてできることはそこまでです。しかし、不思議なことに、イエス・キリストの御名で祈ると、神の奇跡が現されるのです。御名による祈りを、伝道師や牧師の特権にするのではなく、あなたも自分の持っている信仰で祈ってほしいのです。イエス・キリストの御名による祈りを、自分の病や、体の弱っている状況に対して用いるのです。そうすれば、イエスは必ず、あなたの願い、祈りに答えて下さることを体験できます。主は「重荷を負っている者は、わたしの元に来なさい」と言って下さっています。信仰者として、イエスの元に行って祈ること、与えられた信仰を用いて、信頼して願うことを忘れてはいけません。

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いやし、解放し、救いに導かれる方

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 
                   ローマ人への手紙5章6節~8節

日本での祈りに支えられ、インド伝道は大変祝福されました。皆さんのお祈りを心から感謝しています。4日間の夜の野外集会を中心に、到着の翌日から、牧師セミナーや女子高での祈り、複数の教会での聖日礼拝、孤児院訪問、TV収録、村の教会の献堂式や家庭集会など精一杯働かせていただきました。野外集会は、ヒンズー教徒からの迫害が激しく、直前にタンカチャン牧師の教会の広場に場所が変更されました。そんな中でも、聖霊の臨在により、主イエスが働かれ、聖書の約束どおり病のいやしや悪霊からの解放が現されました。会衆の前でも生き生きとした証しがされ、何百人もの人たちがイエスを信じ神の子とされ、生まれ変わって新しい人生を歩み始めました。主は今も生きて働いておられます。
私たちが、日本のみならず、世界中の人々にイエスの福音を述べ伝えようとするのは、単に病気の癒しや問題の解決、たたりや呪いからの解放という目先のことだけでなく、すべての人が救われて命の質、人生が変えられるためです。
最近の世の中では、自由に好きなことをして生活が平安で楽しく、他人に迷惑をかけなければそれで良いと言いますが、果たしてそうでしょうか。それでは、神から期待されている生き方から逸脱し、罪深い生き方に墜ちてしまいます。トリベロールには、もう何年も通い続けていますが、たくさんの人たちが、自分も家族も救われ本当に喜んでくれています。イエスを信じる信仰の恵みは、一過性の現象ではなく、確実に実が残り、永遠の命にまで人々を導くものであることを心から感謝します。
自分の立場を守るためには、たとえ家族であろうとも殺してしまう者もいれば、一方では、弱くて役に立たない罪深かった私たちのために死んで下さった方、イエスがおられ、このキリストを通して天の父なる神の愛が現されているという、2つの事実を確認して聖餐式にあずかりましょう。

1.罪人であり、今も弱さを引きずる者

私たちは、不敬虔で弱く未完成です。その罪が生み出した弱さを引きずった者です。自分の力では罪との関わりを断ち切ることができなかった者です。「聖書」とは、「聖い本」と書きますので、人を愛し、人生を尊ぶような美しい言葉で溢れていると想像している人もいます。しかし、聖書の中には、汚い人間の話題もたくさん書かれています。私たち人間は、どれほど立派であっても罪とは無関係ではいられないからです。人である以上、私たちの心の中には罪があります。そして、罪が取り除かれない限り、私たちの魂は、永遠の滅びに至るのです。

2.身代わりとなって死んで下さった救い主

罪人である私たちのために、身代わりとなって十字架で死んでくださった救い主がいることを感謝しましょう。しかも、私たちが自分の罪を自覚する以前に死んでくださった方、一見無駄死にのような、イエスの身代わりの死を無駄にしない方法がひとつだけあります。それは、これを自分の罪のための贖いの死であると認め、自分の心にこの方を救い主として受け止め、イエスの救いをいただくことです。
この3月も、キリストの愛と喜び、力、命をいただいて歩んでいこうではありませんか。

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イエスさまの三つのことばに生きる

…わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。…あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
                   ヨハネの福音書15章1節~8節

万代先生からのインド伝道の報告が連日届いています。野外での集会は、この4日間の集会では、「イエスの御名による祈り」というテーマで説教をされています。その中で毎日、多くの人が集い、たくさんの癒しの恵みがあらわされていることに感謝します。
今日読んだヨハネの福音書は、今年掲げているテーマ「Divine Connection」と関係の深い箇所です。ここでイエスは自身をぶどうの木に喩えられます。枝は繋がっていてこそ葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結ぶことができます。でも、一見繋がっているように見えても、しっかり繋がっていなければ実を結ぶことはできません。繋がりの修復の秘訣は、イエスの言葉にとどまることです。この箇所から、とどまるべき3つのイエスの言葉を学びましょう。

1.互いに愛し合いなさい

この箇所は、最後の晩餐の時にイエスが弟子の足を洗った後の場面です。イエスは何度も「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と仰います。イエスの教えの中で、「心を尽くし、思いを尽くし、力の限りを尽くし、主なる神を愛せよ、そしてそれと同じようにあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」が一番大事だと言われる方も多いでしょう。確かにその通りですが、イエスは13章34節で、「新しい戒めを与えましょう」と言われ、それらを超える戒めとして「互いに愛し合いなさい」と言われたのです。イエスの愛は、愛する者を赦す愛ですから、私たちも互いに赦し合うべきであり、イエスが命を捨てて私たちに愛を示したように、私たちも命を捨てる覚悟で互いに愛し合うべきです。これが留まるべき第1の言葉です。

2.すべての人々に福音を宣べ伝えなさい

第2のイエスの言葉は、福音を宣べ伝えなさい。これは、牧師や伝道者という特別な立場の人だけではなく、クリスチャンすべてに与えられている使命でもあります。私たちは福音を伝えるために世に遣わされたキリストの証人です。私たちみんながインド伝道に出掛けることはできませんが、祈りをもって支えることはできる。みんなが牧師や伝道者になるわけではないけれども、教会での奉仕の中で伝道の働きは進められていく。私たちに与えられた、それぞれの歩み、それぞれの在り方で福音を伝えていく者でありたいと思います。

3.悔い改めて福音を信じなさい

私たちが留まらなければならない第3の言葉は、悔い改めて福音を信じなさいです。先の2つの言葉に留まりそれを実践することが、信仰生活の祝福に繋がります。しかし、実はそれ以前に最も切なことは、「悔い改めて福音を信じる」ことです。この前提がなければ、福音を宣べ伝えることはできませんし、互いに愛し合うことも単なる人間の愛に過ぎなくなってしまうのです。しかしこの悔い改めは、単に悪い行いを離れて良い行いをすること以上のもっと深い、存在そのものの方向転換、大変革を意味します。イエスは失われた人を探すために来られました。人間の行いではなく、神に見つけていただくのです。福音を信じ洗礼を受けた私たちは、すでに見つけられており、神と共に生きる者とされていると認めることです。この方向転換がなされると、神が共におられる恵みの中に生き、豊かな実を結ぶことができます。

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共に働くキリストの御業

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。…信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」…そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。              マルコの福音書16章15節~20節

世の中には色々な出来事が起こりますが、その流れに翻弄されずに私たちは主と共に歩んでいく信仰者として前進してまいりましょう。変化が激しい時代ですが、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」とあるように、何があっても変わらない神の恵みが私たちの人生の軸として存在していることを喜び合い、神の豊かな恵みが流れ続けていることを感謝しましょう! 春に向けての歩みが祝福されるよう前進してまいりましょう。
今週火曜からはインド伝道が始まり、23日夜からは、4夜連続の伝道集会が開催されます。これは神の戦いであると信じていますので、どうか神が力強く働き、聖霊の臨在があるようお祈り下さい。
今日の聖書箇所には神が共におられる約束、恵みが記されています。特に20節に注目すると、イエスの弟子たちが出て行く時、イエスも共に働いて下さると記されています。私たちにもこの祝福が成就されますから感謝します。主が共におられる神の祝福について3つの事を確認したいと思います。

1.主は、成すべき事柄を語って下さる

神は、私たちに対して常に働きかけ語りかけ成すべき事を「ご命令」下さるのです。20節は、「大宣教命令」と言われる箇所でもあります。命令というと、否定的に感じるかもしれませんが、聖書で語られる「ご命令」は幸いなのです。神は、「ご命令」によって臆病に落ち込んだ私たちの心を解放し、神を信じる者に相応しい大きな夢や可能性を語って下さるから感謝しましょう。神の「ご命令」はあなたがもっとあなたらしく生きていくために神が与えて下さる可能性やチャンスなのです。挫折し、地元から出たこともないような弟子たちに対して、全世界に出て行き、と「ご命令」されたように、神はあなたに対しても、もっと大きく伸びやかに生きるようにと語りかけて下さるのです。主が共におられると、神のスケールで私たちの人生が動き始めるから喜びましょう。

2.私たちを通し主の御業が現される

主は私たちを通しご自身が持っておられる恵みを流れ出させて下さいます。この恵みを頂きましょう。神が共におられると、恵みの約束がいつもあるのだという事を忘れないで下さい。あなたに与えられているイエスの御名を用いる権威、権利をちゃんと行使して下さい。あなたが祈る祈りを通してもイエスは素晴らしい御業を現して下さり、約束の恵み、祝福をいくつも現して下さるから感謝します。
イエスは真実なお方です。人の言葉は信じられなくてもイエスのお言葉は信じましょう! 私たちがどんなに弱くても、共におられるイエスによって、祈りさえすれば、素晴らしい恵みが与えられます。

3.共におられる主ご自身が働いて下さる

弟子たちに特別な能力があったのではありません。「彼らは出て行き福音を宣べ伝えた」(20)、そうすると共におられる主ご自身が働いて下さり約束された御言葉を実現して下さったのです。兄弟姉妹、私たちの力や能力でなく、神が力強く働いて下さる事を期待し共に体験しましょう! 共におられる主が偉大であれば、あなたは弱くても大丈夫です。インド伝道も主のご命令に従って出て行きます。主の御栄光が現されるよう共に祈り、恵みを体験しましょう。

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共におられる主によるいやし

…墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」…「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」…イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」      ヨハネの福音書11章38~44節

今、健康寿命ということがよく話題になりますが、この癒しの礼拝の中で、元気に喜び、溌剌(はつらつ)と神を信じる者としての輝きを放ちながら生かしていただけるよう求めていこうではありませんか。
この箇所の前を見ると、町々村々を伝道していたイエスのもとに、マルタとマリアの姉妹から、弟ラザロが病気にかかり危篤状態にあるという知らせが届きます。彼らはイエスを信じていましたから、すぐにベタニヤに来て癒してもらおうと思ったのです。しかしイエスは、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」と意味深なことを言われ、すぐに出発せず、さらに2日間そこに留まったのです。イエスがベタニヤに到着した時には、ラザロは死んで墓に入れられ、4日も経っていました。イエスを迎えたマルタとマリアは同様に「主よ、もしここにいて下さったなら、私の弟は死ななかったでしょうに」と若干の不満、後悔の言葉を言います。この箇所から3つの事を確認しておきましょう。

1.主イエスがここにおられるから

イエスが墓に行き、亡骸に向かって、大声で「ラザロよ、出て来なさい」と叫ぶと、ラザロが生きかえるというすさまじい奇跡が現されたのです。聖書の信仰は、自分の精神力や悟りという、私たちの側でどうこうできることではなく、時間と空間を超え、霊的な働きとしてキリストが共にいて下さることの醍醐味を学ぶものです。マルタとマリアの「もしあなたがここにいて下さったなら」はイエスがおられなかった事実を踏まえての、もしもでした。私たちはイエスがここにおられることを踏まえて「もしイエスがここにおられるなら」という信仰を持ち、期待したいと思います。主がここに共におられる。ここに奇跡や大きな恵みの鍵があることを知りたいと思います。

2.主が共にいると神の栄光が現される

「その石を取りのけなさい」と言うイエスに、マルタは、4日も経ってもう臭くなっておりますからと答えます。イエスは「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と言ったではありませんか」と言われます。神の栄光とは、神の秀でた様であり、神だからこその、ものすごい恵みが現れること。神が罪人である私たちを、御子イエスの命を捧げてまで救おうとされる、神の救いの御計画、神の深い愛が現れるということです。単に病気が治るだけでなく、この病を通して祈りは答えられた、主が共にいて下さり、2千年経った今も生きて働かれ、イエスこそが真の神であることがわかりましたと証しできるようになりましょう。

3.状況にかかわらず御業を現される

今、あなたの置かれている状況は、どうしようもないほど大変でしょうか。では、ラザロが置かれていた状況はどうだったでしょうか。彼は死後4日も経っており、可能性が全くない状況でした。でもイエスは、共にいて下さり、「墓から出て来なさい」と語り、甦らせて下さいました。今、あなたが置かれている状況がどうであれ、それはそれ。私たちの辛さや苦しさ、涙のある人生の現場に主は共に立ち、常識をはるかに超える御業、神の栄光を現して下さいます。これを信じて歩んでいこうではありませんか。この病を通して、あなたの栄光を現して下さい、私が証し人になれるようにと祈ってまいりましょう。

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主と共に歩むひと月を

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。…私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
                      詩篇23篇1章1節~6節

2月は日数が少ないですが、一日一日を大切に価値あるものとして、丁寧にしっかり歩んでまいりましょう。今年は、「Divine Connection!神と繋がる一年を!」をテーマに歩み始めました。もう一度、イザヤ書41章10節を確認しておきましょう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
私たちの人生は、良いことばかりではなく、お金や子育て、介護、家族や職場での人間関係、病など困難なことがやってきます。日本には、「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、命を与えて下さった真の神を土台とした信仰を心の軸にして、それに向き合う時、たとえ私たちは弱くても、強いお方が共にいて下さるから感謝しましょう。
詩篇の23篇は、今から3000年前に書かれましたが、人々によく知られている有名な箇所です。当時、卑しい職業であった羊飼いからイスラエルの王となったダビデの、神への純粋な感謝と讃美と祈りが溢れています。羊を守るために命をかけ、王となって勝ち目のない戦いや国家存亡の危機に何度遭遇しても、彼は神の恵みを忘れませんでした。今も私たちの心に響いてくるこの詩篇を味わいましょう。

1.神は日々の必要をすべて満たして下さる

ダビデは羊飼いでしたが、ここでは「主が私の羊飼い」と神を讃美します。私たちは、時に自分の意思や判断だけで自分の人生を生きようとしますが、「上り坂」、「下り坂」は越えられても、人間の弱さが現れる「まさか」が怖いので
す。しかし私たちは、羊飼いである神に導かれ、命を与えられ、生かされ、守られ、愛されているから、いつも大丈夫です。神が、人生の導き手として共にいて下さることを感謝しましょう。

2.神は困難なときに共にいて助けて下さる

羊飼いは、群れから迷い出た一匹の羊でさえ危険を冒して探しに行きます。羊飼いであったダビデは、自分を羊に、神を羊飼いにたとえました(4節)。迷い出た私たちが絶望の谷を歩くことがあっても、神は正しい道へ立ち戻らせるむちと、行くべき道を切り開く杖で導いて下さる。また、王となって四面楚歌の戦場で戦うときにも、祝宴をもうけ励まして下さった(5節)。私たちが、神への信仰の目を離さなければ、人生の試練や危機、死の影の谷でさえ歩き抜いて、そこから脱出することができるのです。

3.常に神が共にいて恵みに溢れている

私たちは、必ず地上での人生の最後の日が来ます。限りある人生だからこそ尊いのです。大切にしないとすぐに失われるものだから価値があるのです。神は、そんな私たちの人生に思い切り恵みを注いで下さいます。そして、私たちの日常生活の中で、神が共におられることを体験すれば、聖書が語るように、私たちは弱い時にこそ強いことが分かります。ダビデは、羊飼いのときも、王になってからも、何度も今日が最後だと思いつつ戦い続けました。しかし、最後には神を讃美するのです(6節)。
さあ、2月も神の力強い御業を体験して、平凡な日常においても、また、たとえピンチのときも、神と共に歩ませていただきましょう。

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私たちとの繋がりを自ら作り出される主

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。…夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。…たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。…ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」…             ヨハネの福音書13章1節~11節

新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネの福音書ではそれぞれイエスが十字架にかけられる前夜の話が記述されていますが、ヨハネの福音書だけに記録されている出来事があります。それは、弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐)が終わるころ、イエスが立ち上がり、たらいに水を張り、手ぬぐいをもって弟子たちの汚れた足を洗われたという出来事です。突然のことに弟子たちが戸惑っている中で、イエスは躊躇することなく彼らの足を洗われました。
イエスは、十字架による死を前に、自らの力だけでは救われ得ない私たちに対する、救い主としての愛をとことん行動をもって示されたことを喜びたいと思います。神の側からの繋がりを私たちは忘れてはいけません。今朝は3つのことを確認しましょう。

1.イエス自ら率先して私たちと関わる

私たちがイエスと繋がろうとする前に、イエスが自ら率先して私たちにはとてもできないような方法で関わりを生み出されたことを感謝したいと思います。最後の晩餐の後に、イエスが突然弟子たちの足を洗い始められたこの出来事を、物語として読み通すことはできます。しかし、実際にこんなことが起こったとしたらどうなるでしょう? 例えば、あなたが一番のゲストに招いた方が、食事が終わるころに洗面器を持ってきてあなたの前にひざまずいて足を洗い始めたら…。弟子たちにとってイエスのなされたことは特別なことでした。私たちがイエスのことを信じて一生懸命イエスと結びつこうとするから、そこに繋がりがあるというだけではなく、イエスが自ら立ち上がって私たちと関わりを持とうとして下さっているのです。

2.イエス自らが行動される

イエスは、単に弟子たちに声をかけて親しくされただけではなく、弟子たちの汚れた足を洗って下さったのです。イエスは卑しく思われる行動を自ら進んでして下さいました。シモン・ペテロの順番になったときに、弟子たちの中で年長者であった彼は思わず言いました。「あなたが私の足を洗われるとはどういうことですか? 先生なのだからそんなことをなさるべきではありません」と。しかし、イエスはペテロが予想もしていない返答をされました。「もしわたしが洗わなければ、あなたとわたしは何の関係もありません」。イエスは、十字架にかかって死ぬことと、そこに含まれる意味を教えるために、行動によるたとえとして弟子たちの足を洗われたのでした。私たちが自分で洗い清めることができない汚れをイエスの血で洗い清めて下さった、この恵みが実現していることを感謝しましょう。

3.私たちとの繋がりを完成する十字架

イエスの十字架の死により、神と私たちの間には何によっても切り離せない、本物の繋がりが生み出されたのです。不完全な私たちが神と繋がることができるのは、私たちの努力ではなく、神の側から繋がろうとして下さる恵みの御業だということを忘れてはいけません。第Iヨハネ4章10節には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために御子を遣わしたと書かれています。神と私たちとが繋がるためには、神が私たちを愛し、御子イエスが贖いの代価として死ぬ以外なく、そのイエス・キリストの十字架の愛をあなたも受け止めるべきだと聖書は語っています。

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