主の復活のある豊かな人生

…もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
             コリント人への手紙第一15章12節~22節

今日4月1日は、イースターの聖日です。新しい週の始めであり、新しい月の始め、また、新年度の始めでもあります。素晴らしいタイミングで、甦りの主によって、力、元気、命を与えられ、新しい一年の日々に向けて歩み始めましょう。クリスマスは、毎年12月25日で日付が固定されていますが、イースターの日付は毎年変わります。聖書によると、イエスが甦られたのは、週の初め(日曜日)の早朝でしたから、日曜日を主の日、聖日として礼拝するようになりました。イエスの十字架と復活からすでに二千年の年月が流れましたが、罪の赦し、永遠の命の約束は全く変わりません。だから今でも世界中で福音が宣べ伝えられ、信じた者は救われ永遠の命の希望を与えられます。主の復活のある豊かな人生を歩むために大切な3つのことを確認しましょう。

1.神にある高くて大きいスケールの目標

幸せを手にする秘訣は、どんな世界でも、ゴールをどこに置くかによります。自分の理屈、感じ方、ひらめき、悟り、道徳心、宗教心のレベルではなく、よりスケールを大きく保つことにより、人生の豊かさは色あせません。私たちクリスチャンの人生のゴールは、永遠の命、神と共に住まう天国です。それを実現するのは、私たちの頑張りではなく、イエスの復活にあります。主の復活により、クリスチャンとしての信仰は、道徳や宗教観の枠の中で終わらず、神に受け入れられ、とこしえに神を賛美し喜ぶことができる希望、夢、目的があることを感謝しましょう。だからクリスチャンは、何歳になっても夢を失いません。死ぬ直前まで喜びがあり平安があります。

2.究極のハッピーエンドの約束

今の日本は、豊かで平和です。しかし、歴史を振り返ると、神を愛し、人を愛し、命を懸けて試練に挑戦したたくさんのクリスチャンがいました(ヘブル11章参照)。彼らは不幸だったのでしょうか。いいえ。神の愛が実現されるために、たとえこの世で望んだものが手に入らなくても、神から与えられるもっと大きな約束である永遠の命や祝福を信じて信仰の生涯を貫いたのでした。イエスの愛をいただくことによって、甦りの命をいただき、万が一この世では満たされなくても、神が共におられれば必ず祝福され、勝利し、大成功します。必ず幸せになります。この喜びを私たちの魂の深みにまで与えられていることを感謝しましょう。

3.甦りの命を実体験する

私たちは物心ついた頃から、教えられないのに嘘をつき、人に隠れて悪いことをするようになります。どんなに立派に見えても神の前に立つ時、罪がないと言える人は一人もいません。一人のお方が十字架上で私たちの罪を全部背負って死に、復活によって私たちに新しい命が与えられました。イエスに、私の心の中に宿ってください、と祈り求めて告白すれば、イエスの命と恵みをいただくことができるのです。それを今日、あなたも実体験すべきです。イエスの十字架からの復活は、私たちのためのものです。イエスが甦られたから、永遠の命へとつながるのです。どんなに厳しい事態でも、必ず力を与えられ、死を超える命が約束されています。喜びはなくならず、感謝は消えず、平安は揺るがされません。

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慰めよ。慰めよ。わたしの民を

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。
その労苦は終わり、その咎は償われた。
そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
                      イザヤ書 40章1~2節

主は「慰めよ」と語られます。この世界には、私たちには、神の慰めが必要なのです。慰めなんていらない、と強がってはいけません。神は慰めの神です(Ⅱコリント1:3)。イエス様は慰め主(助け主)であり、聖霊様は、もうひとりの慰め主(助け主)です。慰めはいらないと言うなら、神様なんていらない、ということになります。へりくだりましょう。私たちは、神様の慰めなしには生きられない者なのです。
そして、今日の聖書箇所、イザヤ書40章では、やがてユダの国が、神に逆らい、罪と不信仰を重ねて滅びに至り、全てを失って、奴隷として、遠い異国バビロンに奴隷として連れて行かれると預言され、さらに、そこから救い出される約束が語られています。
まさに慰めを必要としていた時代に、当時の人々を慰めた神の言葉は、時代を超えて、今も私たちの心に慰めを与え続ける、いのちの言葉です。

1.主がそばで名を呼び、語りかける慰め

「慰める」という言葉は、旧約聖書のヘブル語では、心や思いを変えるという意味があり、新約聖書のギリシヤ語では「そばで(名を)呼ぶ」という意味があります。全能なる愛の神様がすぐそばで私たちの名前を呼んで語りかけてくださるとき、どんなに痛み傷ついた心も慰められ、心も思いも変えられます。
自分の罪のための苦しみ、それがいつまで続くか分からない中でも、「あなたの労苦は終わった」という主の言葉を聞くなら、私たちの心は慰められます。全ての罪に引き替えて、二倍のものを受ける、どんなに罪の苦しみが大きくても、それをはるかに上回る二倍の喜びが待っているのです。主がすぐそばで、そう語られるのです。私たちの名前を呼んで、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださるのです(43:4)。自分なんか何の値打ちもないと落ち込んでいた心も慰めを受けます。私たちが年を取っても、白髪になっても、「わたしは背負う。…背負って、救い出そう」と主は語られるのです(46:4)。重荷を背負って疲れていた心も慰められます。主が私自身を、その重荷ごと背負って支えておられる、だから、今日も生かされていると気づくとき、慰めを受け、立ち上がることができます。たとえ母親が自分のお腹を痛めた子どもを見捨てることがあったとしても、「このわたしはあなたを忘れない」(49:15)と主は語られるのです。神にも見捨てられたと思い込んでい
た心の暗闇の中にも、慰めの光が射し込んできます。

2.十字架の慰め

さらに、主が私たちを慰めるために与えてくださったのは、イザヤ書53章、主の十字架の預言です。私たちの全ての罪も病もわずらいも、全て主が身代わりに十字架で背負い、取り去り、贖われる、主が苦しまれたのは、私たちがもう苦しまないためです。十字架から聞こえてくるのは「もう泣くことはない、苦しむことはない」という主の慰めの言葉です。主を十字架で殺した人々さえ見捨てることなく、そんな人々のために命をかけて赦しを祈られた主です。この方が私たちを見捨てるなんて、ありえません。それは私たちが主の民、神の子どもだからです。「主よ、あなたの十字架が、私の慰めです」。この慰めがあるから、私たちは立ち上がり、進み続けるのです。「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです(40:31)。

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神の恵みと希望の流れに生きる

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。              ローマ人への手紙5章3節~5節

まだ肌寒い日がありますが、桜が開花しました。春にふさわしい神からの勢いある恵みを頂こうという期待感を持ち、神に生かされている者として信仰を働かせましょう。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」(Ⅰコリント13:13)と聖霊は語っています。神を信じて「信仰」を持って歩むこと、神にあって常に「希望」を抱くこと、神にあって「愛」すること、これらは無くなることがありませんので、私たちはそれらを本当に大切にしていかなければならないと思います。人生は悲喜こもごも、色々な出来事が起こる人生の中でも「私の信じる神は恵みの神である」という信仰をしっかり確認しておきましょう。
今日の聖書箇所は、ローマ人の手紙の中でも特に有名な箇所と言っても過言ではありません。ここから3つのことを確認しましょう。

1.この希望は失望に終わることがない

いつまでも変わらない「希望」を与えて下さる神がおられることを感謝しましょう。聖書の神は常に私たちに「希望」を与えて下さるお方です。私たちの人生は、しばしば「川の流れ」に例えられます。人生の中での悲喜こもごも、激流もあれば、緩やかな流れもあります。そのどんな流れの一場面を切り取ったとしても、神はそれぞれの場所で必ず私たちに希望を与えて下さる神なのです。神は必ず私たちに良き物を与えて下さる、恵みを備えて下さるお方であることを感謝しましょう! 「この希望は失望に終わることがありません」(5節)。この御言葉を私たちの胸に刻みつけましょう。

2.忍耐が練られた品性を生み出す

「患難さえも喜んでいます」(3節)とありますが、「患難」とは人生で体験する「試練」のことです。ため息や涙でしか表現できないような厳しい状況の毎日のことです。人生の中には辛いと言わざるを得ないことが起こります。けれど「神の恵みの流れ」の中で必ず次に来るものに期待しましょう! 「患難」が「患難」のまま固定されることはありません。詩篇の作者が「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩篇119:71)と語っているように、実は「試練」「困難」「苦しい」と思われる状態こそ人として最高の心構え、人間として持つべき最高の資質を与えられるための準備の時なのです。「忍耐」を前向きに乗り越えた人しか身につけることのできない、その人らしい人生の味わい、深い人格、品性を生み出すのです。それは楽な体験からは、決して得られません。

3.保証は神の愛

この流れは、神の御手の中にあります。人生のこの流れが必ず次の恵みの流れへと導かれるのです。そしてその保証は、神の愛です。神の愛は、きれい事の概念ではなく、今も生きて働く聖霊によって神の恵みが愛という形で具体的に与えられていることを感謝しましょう。目に見えなくても、今この瞬間も働く神の聖霊によって神の愛が私たちの人生の中に豊かに注がれていることを受け止めましょう。
だから私たちは、どのように弱くてもつまずいてもあきらめません。神によって与えられる希望は失望に終わることがありません。聖霊によって神の愛があなたの心に注がれているのですから、「神の恵みの流れ」を更に体験してまいりましょう!

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神の力の現れ

…私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、…イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
               コリント人への手紙第一 2章1節~5節

今朝、皆さんとご一緒できることは私にとっても大きな祝福です。神の恵みによる偉大な出来事を期待すれば、私たちの信仰が引き上げられ、この日本にも素晴らしいことが起きます。神からの知らせ、神が語っておられることを聞きましょう。神に祈るとき、神の御心がどのようなことかを知りましょう。神は真実な方ですから、聖書で語られたことをひとつ違わず実現されます。

1.福音を伝える

パウロはこの箇所で、コリントの人々に対して、知識に富み、物事に分別があるかどうかが重要なのではなく、ただイエスとその十字架が持つ恵みを知ってほしいと語っています。人々は知識や情報を求めて生きていますし、賢く知的でありたいと願っています。イエスの十字架が愚かなことに思え、信仰を持てない人がたくさんいます。しかし、私たちは周りの人々にイエスを信じることの素晴らしさを伝えることを忘れてはいけません。イエス・キリストただお一人が、私たちの罪を清めることがおできになるのです。私たちの内に救い主が宿ってくださるとき、全能なる神が私たちの人生を内側から変えてくださいます。本物の救い主、私たちの命を本当に助けてくださる方が、日本の人々に必要なのです。

2.神の御力の現れを示そう

パウロは人々の前に立って語りました。「私は人間の知恵を語るためでも、完璧な生き様を示すためでも、また私の宗教性を証明しようとして来たのでもない。あなたがたより信仰熱心だと述べるつもりもない。私が皆さんの前に立っているのは、ただ神の力、御霊の現れによるのです」。これこそが、今日の教会に神が与えてくださった素晴らしい恵みです。あなたが人生でどこに行こうと、聖霊はいつもあなたがたと共にいます。神があなたの前を歩んでくださいます。イエスは、あなたの中にも偉大な御業を行ってくださいます。パウロがコリントに来たのは御霊、御力の現れをコリントの人々に見せるためでした。だからあなたも、どこででも人々にイエスの素晴らしさを語ってください。人々に笑われ拒否されるかも知れません。だからこそパウロは語ります。「私が語る言葉ではなく、神の現れを示しましょう」。神がイエスを死者の中から甦らせたことを、神が全能の神であることを、神の御力の現れを人々に伝えましょう。

3.私自身が信仰を持つこと

日本人の多くが教会に来ないのは、信じる心を持たないからです。しかし、すべての人がイエス・キリストを信じる必要があるのです。あなた自身が信仰を持ってください。神はあなたの信仰に応じて働かれます。イエスが病を癒されるとき、人々の信仰に応じて癒されました。信仰があれば、神のお言葉を受け止めることができます。信仰は人間の知識によるのでなく、神の力に基づくものです。この世には私たちに影響を与えるさまざまな力、権力があります。しかしそれらはあなたを天国に連れて行くことはできません。どんなに医学が進歩しても、すべての病気を治すことはできません。あなたの人生の中にも様々な力が働いているでしょう。しかし、この世で一番強い力、全能の神の力が働いていることを信じましょう。全能の神は、あなたの病を癒してくださいます。

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天から下った命のパンをいただこう

…イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。…わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。…わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」               ヨハネの福音書6章32節~40節

インド伝道のために、兄弟姉妹が昼夜を問わずお祈りしてくださったことを心から感謝します。皆様のお祈りによって、神は現地において素晴らしい御業を現してくださいました。現在インドでは、ヒンズー教至上主義の政権によって、外国人の説教者の入国や活動が大変制限され、危険と紙一重の難しい中でしたが、すべて守られて、現地の先生方やクリスチャン、偶像崇拝から悔い改めていやされた方々に喜ばれ、素晴らしい主の働きを思い切りさせていただくことができました。3日間の野外集会にも多くの人々が集まり、最終日には3000名ほどの集会となり、今回も多くの病のいやしや霊的解放の御業が現されました。政府からの厳しい迫害の中で、キリスト教会や孤児院が閉鎖に追い込まれる中、タンカチャン先生はティルベロール周辺で200の教会を守っています。そういう状況下で日本からの伝道が、現地のクリスチャンたちにとってカンフル剤になり大いに励まされていると先生方に感謝されました。
インドと日本で言葉は違っても、人間として命を与えられた者ならば必ず、救い主イエスの恵みがあることを感謝しましょう。聖餐式にあずかるにあたって、3つのことを確認しておきます。

1.イエスはいのちのパン

イエスは、2000年前の歴史の中の偉大な方で、単にキリスト教の教祖で話が素晴らしかったとか、いやしの御業をなさったというのではありません。イエスは「天から下って来たいのちのパン」であり、生きるすべての人に命を与えるお方です。現在、地球上には70億の人々がいて、その中には素晴らしい能力や才能を持った人がいたとしても、「救い主」と呼ばれるお方はただイエスお一人です。私たちはこの真理を知らなければなりません。聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲んで、私たちの内側にイエスをお迎えして、深いお交わりを手にしたいと思います。

2.決して渇くことのない魂の恵み

私たちを喜ばせるものは、世の中にもたくさんありますが、永遠に続くものはありません。しかし、イエスが与えてくださる救いは魂にまで及び、渇くことのない恵みで満たしてくださいます。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:14)。イエスによって魂が満たされ、私たちの存在の根本からの喜びが与えられるのです。

3.永遠の命をいただく

ヨハネの福音書はほかの福音書に比べて、救われることによって目に見えない霊の世界、永遠の世界へと道が開かれることが繰り返し語られています。今の世の中は、すべてのことにおいて刹那的で、今さえ良ければという、その場しのぎのことを追求します。しかし、聖餐式で、十字架上で裂かれたイエスの体と流された血をあらわすパンとぶどう酒をいただくことによって、たとえ地上の命は終わっても、神のもとで住まう永遠に続く命をいただいている恵みを感謝しましょう。単なる儀式としてではなく、この聖餐式でイエスに結びつく永遠の命をいただき、3月が生き生きとした春の日々となりますようにお祈りしましょう。

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主のみことばにとどまる恵み

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。   ヨハネの福音書15章7節~13節

讃美歌の「山路こえて」という曲の作者は、松山城南高校の初代校長となられた、西村清雄先生です。宇和島伝道の帰り、大洲までは、まだ5里(20㎞)もある峠で日が暮れ、心細くなり、讃美歌の1節1節の歌詞を作る中で、先生の心の中から心細さが消え、その旅路が神の恵みに満ちたものになったという話が残っています。後に松山名誉市民の称号も受け、キリストにある生涯の実を結ばれました。私たちの人生の旅路も、心細く辛い事があっても、神と結び付いていれば、豊かな恵みに満ちた、楽しい旅路に変えて頂けます。私たちも主にある人生の実を結んでいく者でありたいと思います。今日の箇所には「とどまる」「実を結ぶ」という2つのキーワードがあります。ここから3つの事を共に学びましょう。

1.福音の言葉にとどまろう

神の言葉にとどまるとは、福音の言葉にとどまるということです。ヨハネ福音書は唯一、福音を「ことば」と表現しています。福音とは、パウロが語っているように、キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださり、葬られ、3日目に甦り、使徒たちに現れ、私たちに永遠の生命を与えてくださったことです。パウロは、月足らずで生まれた私にも現れてくださったと語ります。そして、罪深く、醜くて弱い私たちにも現れてくださいました。これが福音です。福音は信じる者に、救いを得させる神の力です。だから、福音の言葉にとどまることを意識しましょう。

2.主の愛にとどまろう

9、11、13節にあるように、主の言葉は、福音の言葉と同様に愛の言葉です。預言者イザヤを通して「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と語り、エレミヤ31章でも「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と語ります。私はあなたを愛していると一番に語ってくださる神です。ヨハネ3章に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあるように、無限の愛の結晶として、御子キリストを遣わし、値打ちのない私たちのために、命まで捨てて、その愛を示してくださったのです。イエスは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい、と語ります。私たちもそうしたいと願いますが、口で言うほど、易しくはありません。だから、愛そうとする前に、大きな主の愛を、心にしっかりととどめたいと思います。イエスの愛の中にとどまると、互いに愛し合える者とされていきます。意識して、愛の言葉をしっかりと心の中にとどめましょう。

3.多くの実が結ばれる

コロサイ3章に「愛はすべてを結ぶ帯なのです」とあります。では、愛は何と何を結び付けるのでしょうか? それは、神の御国とこの地上です。愛が、天国を私たちのただ中にもたらすのです。神の御心は、罪人の私たちを赦すことです。私たちを縛っている、否定的な思いや感情、困難、不幸、苦しみから解放することです。病から癒やされることです。神の御心と愛の言葉、福音の言葉にとどまると、自分の努力ではなく、赦し、解放、癒しが現され始め、互いに愛し合うようになります。伝える業、仕える業に熱心な者にされていきます。愛の言葉、福音の言葉の中にとどまると、多くの実が結ばれていくのです。まず、イエスとの愛の関係から始めましょう。

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志を受けよう! 事を行なおう!

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。         ピリピ人への手紙2章13節

ハレルヤ、今日は、信仰歴の表彰式の日。20周年の方から、今年は初めて60周年を迎える姉妹のお祝いを共にできたことを心から感謝します。クリスチャンの信仰の素晴らしさは、天地宇宙を創られた命の与え主である神と一緒に歩むことができることです。罪人で何の価値もない私たちを神が選び、救いへと導くために、神のひとり子なる、イエス・キリストがこの世に現れてくださり、十字架の上でご自分の尊い命を捨て、私たちの身代りとなって死んでくださった。このイエスを信じ受け入れるならば、私たちの罪深い命が死んだのであり、イエスの命を頂き本当の自分が生き返るという奇跡を救いの出来事の中で与えられるのです。私たちは自分の力だけでがんばるのではなく、この聖書の信仰を通して神の愛を頂き神と交わり、神に聴き神に励まされて新しい命、人生の価値が与えられますから感謝します。
今日の聖書箇所には大きな祝福の証しがあります。クリスチャンとして聖書の教えを信じて生きる私たちには、神が働きかけ、繋がってくださるのです。神が働いてくださるので、神の偉大なみこころが私たちに伝えられ、自分のがんばりや悟りなど、私たちの小さな枠で終わる生き方ではなく、弱い私たちが神に喜ばれる素晴らしい御業を行なわせて頂ける者となるのです。神から与えられるものの大きな特徴が2つ、この聖書の箇所からわかります。

1.神が志を立ててくださる

神から与えられた志を持っていますか? 本来、私たちは自己中心で罪深く、自分の心の中にあるものばかりを祈り求め、自らの力で自分を超える大きな志を立てられるような存在ではありません。
けれど、神の恵みを頂き、その軸をぶらさずに長年歩んでいると神から働きかけてくださり、志が与えられるのです! イエスのために生きようとするなら、誰に対しても与えられるのです。神からの豊かなビジョン、計画、志を頂いて大きく人のためにも神のためにも用いられる人生を歩むことができる、この大きな恵みに感謝します。

2.神は事を行なわせてくださる

力の無い弱い私たちですが、クリスチャンとして、しっかり御言葉を土台として生きていくならば、自分の力ではとてもできないような素晴らしい働きを神によって成し遂げさせていただけるのです! これを感謝して受け止めたいと思います。萎縮し、小さくなろうとする私たちの心を今、信仰によってしっかりと押し広げようではありませんか! 20日からはインド伝道です。神から志を与えられ神が事を行なわせてくださったこの働きも35年を超えました。今年は、私が野外の大集会を始めてから20年目の節目の年です。その間に、おびただしい数の人々が福音を聞き、主イエスにより多くの人々が癒され、6千人近くの人が救われ、数十の教会ができたと伝えられ、驚くべき恵みに感謝しました。この海外伝道のビジョンも神の御心によって私たちの教会に与えられた志です。それを弱い私たちが行なおうとする時、神の力で行なわせて頂けることを忘れずに、ここまで歩んできました。皆で、神の御心のままに志を与えられ、神の力によって事を行なわせて頂ける、クリスチャンらしい力強い大きな人生を歩ませて頂きましょう。共に信仰の枠を拡大しようではありませんか!

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いやされる信仰への成長

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。        使徒の働き14章8節~10節

今日の物語は、パウロとバルナバが伝道旅行の途中、ルステラという町に行った時の話でした。パウロたちがその町で話をしていると、この教えを聞こうと集まっている人の中に足の不自由な人がいました。この人物が、イエス・キリストによる癒しの力をいただき、人々の目の前で癒されて、生まれて初めて歩くことができるようになったのです。イエス・キリストの御名による祈りがどれほどすごいものであるかを体験したのでした。この物語から、イエスが、私たちのためにも働いてくださること、本当のクリスチャンだからこそ、イエス・キリストの恵みをいただくことができること、これを実体験させていただきたいと思います。そのために3つのポイントを確認しましょう。

1.神の言葉に耳を傾ける

足が不自由なこの人が、集会の場所で何をしたのでしょうか。彼は、パウロの語る、主キリストの福音に耳を傾けていたのです。この事実は重要です。私たちは、自分が不幸で困難な状況にある時、周りのみんなを責める方向に流れがちです。でも信仰とは、自分と人との比較や関わり方の問題ではなく、神に目を向け、語られる神の言葉に耳を傾けることです。神は今日も病んでいる私たちに癒しを語られるでしょう。その言葉に耳を傾け、しっかりと自分のものとして受け止めたいと思います。彼は生まれてから一度も歩いたことがなかったにもかかわらず、ひねくれて落ち込んで誰かを裁くのではなく、語られる
主イエス・キリストの言葉に耳を傾けていたのです。

2.癒しを引き寄せる信仰を働かせる

彼に「いやされる信仰があるのを見て」と書かれていることに注目したいと思います。私たちはいつも、神に学び、教えられ、神の中にある恵みを求める姿勢を持とうではありませんか。その中に、癒されて当然だと言われる信仰を与えられたいのです。私たちの信仰もまだまだ成長できます。Brush Up!をテーマとするこの一年、癒しを引き寄せる信仰、癒されて当然だと言われるような、イエスに喜ばれる信仰の持ち主へと私たちは成長していきたいと思います。「どうか、イエスから、あなたには癒される信仰がありますと言ってもらえる者となりますように」と、祈っていこうではありませんか。

3.想像を超える奇跡の御業を体験しよう

パウロの言葉ですぐに飛び上がって歩き始めたこの男ですが、彼は生まれながら足が不自由だったのです。神から与えられる恵みは、私たちがかつて一度も体験したことのないようなことさえ起こすことを感謝して期待したいと思います。誰も体験したことがない、全く考えたことも想像することもできなかった、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい事柄を神は与えてくださる、というところまで、あなたの意識の中で癒しの御業の可能性を押し広げてください。癒しを求めて祈る時、この男が体験したように、生まれてから一度も歩いたことがない男が、まっすぐに躍り上がって立ち上がり、歩き始めるというような神の恵みを頂きたいと思いませんか? 神の御力にはどんなことでもできると、あなたの癒しの器を押し広げましょう。神をありきたりな小さな範囲に限定せず、本当に奇跡と呼べるような、私たち人間の説明をはるかに超える恵みを体験できるようにと今、祈りましょう。

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力ある祈りの回復

イエスは…言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」           マルコの福音書11章22節~25節

昨日は節分、今日は立春です。神社などでは節分の行事が行われて大賑わいです。不幸を遠ざけて幸せを招き入れたいという人々の気持ちはわかります。しかし「豆」ぐらいで退散する「鬼」であればいいのですが、この世には信仰によって立ち向かわなければならない悪の力が立ちはだかります。悪の力に勝利されたお方、十字架の贖い主イエス・キリストの命、聖霊の力がどんな悪の力よりも強いことを知り、信仰を持って神の力を働かせてまいりましょう。
今年のテーマ「Brush Up! 与えられた信仰を整え直し、働かせよう!」を信仰の7原則の視点から「礼拝」、「聖書の御言葉」とメッセージをしてきましたが、今日は「祈りの生活」について、力強い祈りとその恵みについて分かち合いたいと思います。

1.神を信じて祈る

弟子たちは、イエスがお言葉一つで人々を悪霊から解放し、病をいやし、荒れた海を鎮め、イチジクの木まで枯らしたのを見て、イエスの凄まじい力に戸惑い驚きました。それに対してイエスは、ご自分の御業を誇るのではなく、「神を信じなさい」(22節)、あなたの信仰に伴う神の力だと言われました。さらに23節では、信じる者の祈りは、山をも動かすと言われました。これは、単に人間的な励ましではなく、救い主イエスが、私たちにも力ある祈りが与えられていることを教えられたのです。祈ってはいても、弱弱しい祈りに陥り、たくさん祈れば、やっと一つか二つ答えられるという不確かな感覚になっていませんか。聖書の原則に戻って、神を信じて力ある祈りを取り戻しましょう。あなたが祈れば、人の目には不可能と思えることさえ起こるのです。

2.疑わず祈りの答えを先取りして祈る

21世紀の生活は、確実にしかもすぐに手に入る事柄が便利で良いとして、そこに目に見えて存在しないものは受け入れられないし、すぐに実現しないと疑います。夢や希望を描く心の力が弱くなっています。だから祈りが答えられないと、不安になり不信仰に陥ります。疑いに勝利する秘訣は、「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(24節)とある通り、祈った瞬間から祈りは実現していて、神の御業が行われ始めているのです。同時に、祈りの実現を信じ先取りし、感謝をささげることを忘れてはなりません。

3.祈る心の状態を整える

祈りがかなえられる心の状態が25節に語られています。それは、高ぶったり、自己中心でわがままな心ではなく、祈り合い、助け合い、励まし合い、素直でへりくだり、柔らかい心で愛し赦すことができる心の状態です。「義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:16)とある通りです。
短い2月ですが、恵みと価値あるものにするためにも、ほかの誰よりもあなた自身が祈る者となりましょう。朝晩の祈り、食事の前の祈り、事あるごとにあなたの手のわざを祝福してくださるように、最善のことがなされるように祈ってください。このような力強い祈りが私たちに与えられたのは、イエス・キリストが十字架で血を流し命まで与えてくださったからです。イエスの祈りが今は私たちの祈りです。さあ、信仰のスイッチを入れて祝福と恵みの日々を歩みましょう。

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いのちのことばをしっかり握って歩もう

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
                 ピリピ人への手紙2章15節~16節

与えられた信仰を整え直すには、信仰生活の7原則を見直す必要があります。先週は、まず礼拝を大切にしようとお話ししました。今日は2番目、聖書の御言葉に焦点を当てたいと思います。あなたの普段の生活の中に、聖書を読む習慣が根付いていますか? 自分の心に取り入れていますか? 聖書は置物やお守りではありません。生きたお言葉として、私たちの人生に働くことが大切です。その聖書、御言葉とは何か探ってまいりましょう。

1.いのちの言葉を語るイエス

ペテロはヨハネ6章で「あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます」と語っています。イエスは、弱く滅びゆく私たちを、十字架で贖い、救ってくださいました。そして、神の子として生きるよう、いのちの言葉を語ってくださいました。だから、信じる私たちは、イエスのいのちの言葉から学びたいのです。百人隊長は異邦人でしたが、信仰の肝所を掴んでいました。「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます」と告白し、その信仰を誉められました。イエスの中には、私たちを生かす、いのちの言葉がある、これを感謝し、「アーメン」と受け止めたいと思います。

2.使徒たちもいのちの言葉を語った

使徒5章にあるように、全世界に福音を宣べ伝えた使徒たちは、大きな迫害に遭い、牢屋に閉じ込められ、もはや命が終わるのではないかという時もありました。しかし、主は御使いを送り、さあ、町の真ん中、宮の真ん中に立ち、いのちの言葉を語りなさいと励ましたのです。初代教会、本来の教会は、いのちの言葉を語りました。彼らは、イエスの証し、十字架の甦り、聖霊の油注ぎを通して、いのちの言葉であるイエスを伝えることを使命としました。教会は今も、神の御言葉、いのちの言葉を語ります。礼拝の中で、いのちの言葉をいただきましょう。

3.イエスご自身がいのちの言葉

ヨハネ1章には、言葉は神と共にあり、言葉は人となって、私たちの間に住まわれたとあります。つまり、イエス御自身がいのちの言葉なのです。多くの宗教がありますが、聖書の神が決定的に違うのは、語りかける神だということです。だから、お言葉が重要なのです。神の言葉として、聖書を受け止め、聖書に親しんでください。そして、神は私に何を語っておられるか、神のみこころを知り、いのちの言葉を引き出してください。あなたが何かにチャレンジする時、病から癒されたい時、問題から脱出したいと願う時、聖書を読み、その中から鍵となる御言葉を見つけ、暗唱してください。そして、何度も告白し、必ず約束が実現すると祈ってください。
私自身、小学生の終わり頃から、神のお言葉が、私を支え、強めてくださいました。今は、「神によって、私たちは力ある働きをします」という詩篇60:12の御言葉に励まされています。神の御言葉をしっかりと学び、心の中に刻みつけていこうではありませんか。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩119:105)。この1年、神の御言葉との向き合い方をBrush Up! 神の御言葉に親しみ、暗唱聖句を大切にしてください。そすれば、どんな暗闇でも迷うことなく歩むことができます。

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